フリートーク月次バックナンバー
家族の絆
電車の中などの人前で化粧したり、デかい鏡を取り出して調子に乗って髪をいじくったりしてる女は、私が見たところで100%不細工です。人前で化粧なんかするのは「売女」のすることだと教わらなかったのか、本物の売女かもしれんです。ま、ゆとり教育乙です。
長時間電車に乗るようになってからよく目にする光景だったので、ちょっと言ってみたくなっただけw
母がなくなってから月日のたつのは早いもので、二週間。実家と会社、あるいは実家と自宅を往復しながらいつもどおりに業務をこなす毎日です(実家から1時間強で会社に通える距離だけど、やっぱり遠いや……)。
ご弔慰のメールをいただいた方々、本当にありがとうございました。おかげさまで告別式、初七日法要は万事滞りなく行うことができました。個別にお返事差し上げるのは少しお時間いただきたいのですが、この場をお借りして無礼をお詫びし、厚く御礼申し上げます。
喪主である父の補佐といわず喪主代理を立派に務めあげた長男wと評判です(嘘)。
精神的にもだいぶ落ち着いてまいりました。あとは細々した手続きを徐々に済ますのと、来月の四十九日が当面の課題です。
そういやあ何度か母ちゃんが夢に出てきましてねぇ。笑って私の道を照らすようなことを言ってましたよ。これが四十九日過ぎると、夢に出てきても何もしゃべらなくなるんですねぇ、これまでの経験からして。ただ夢に出てくる死んだ人というのは共通して笑ってるんですねぇ。不思議なものです。母の笑顔を裏切らないよう自分の本分をしっかり成就できるよう精進してまいります。
4月から新しいボスがやってきまして、ミーティングを行い、今後の新規事業の方向性も見えてきました。おそれていたことにw もとより「樋渡を子会社へ出向させろ」というのが、出資金の問題で滞っていたところへ、正式に決まったようであります。メリットもデメリットも同じだけあるのですが、これは攻めの新規事業への第一歩としてがんばることこそ、母の供養になるというもんでしょう。
母の死があったことで学べたことは多かったです。変な話ではありますが、自分の死に方というんでしょうかね。残された人間への配慮でしょうか。そういったものも考えておきたいなと。
母ちゃん。意地をはるのもいいが、娘に心配かけたくないからと内緒でなにかするのは、返って子どもたちが自分たちのふがいなさを嘆くことになるんだからあかんよ。
子ばなれ親ばなれは、人それぞれ自分からしておかないといけないけれど、し過ぎもいかん。ただ、離れていても音沙汰なくとも親は親。そこには血の繋がりがなせる深い絆があることに変わりはない。そして夫婦も、元は赤の他人で、恥ずかしながら拙宅はあまり裕福でもなく家庭不和な部類の家庭だったけれど、父の言葉や涙で、この両親の子どもとして生まれてよかったと、心の底から思います。
こんな状況でしか家族のあり方を考え、親への感謝を感じないとは、子とは永遠に親不孝な生き物なのでしょう。
大学まで出してくれた母ちゃんに感謝。そして母ちゃんと父ちゃんにそっくりの、頑固で意固地でカッコつけで見栄っ張りの私を産んでくれてありがとう。
格好つけて建前ばかりだけど、いまは無性に母ちゃんに会いたいし、母ちゃんの作ったメシが食いたい。
今日は葬儀の支払いと、遠方より母の友人が線香をあげに来るということで、選挙に行ったあと実家に戻りました。
飾っていた花でしおれたものを片付けたりしていたんですが、百合の花粉でTシャツもワークパンツもシャツも真っ黄色にやられました。百合の花粉っておそろしいほど取れないもんですね。
その後、親父と貴重なものを発見しました。いや、母ちゃんの入っていた保険やら年金手帳やら銀行通帳を探していたときに、なぜか父方の親父(つまり私の祖父)が父宛によこした絵はがきがあったんです。


祖父は国鉄の技術者で、戦争が始まって軍属となり、ビルマ(現ミャンマー)の鉄道開発で現地に行ってたんですね。そこから、長男である父とその妹である長女に向けたはがきで、それが最後のはがきだったのだそうです。祖父は現地で熱病により死亡したとか。
ビルマでは現地の方々と仲良くやっていたようです(当時、日本は親日政権を作らせて、ビルマをイギリスから独立させたわけですが、戦争の傷跡についてはさておき、現在でもミャンマーとしては親日国家であります)。現地で開催された「水祭り」では、村の人たちは水鉄砲でお互いをねらい打ちして水浸しにさせるのだそうですが、祖父たちも子どもたちに水鉄砲でさんざんずぶ濡れにされたという内容のものでした。祖母宛でなく、自分たち子ども宛に送ってきた絵はがきということもあり、父としても感慨深いものがあるのでしょう。白黒ではありますが、裏には線画で描かれた美しいビルマの寺院と、達筆なコメントが添えられてもいました。
こういうのを見るにつけ、脈々とつがれていく家族の絆というのはいいものだなぁと思います。
写真は、自宅近くの教会の庭に咲く花々。投票などで行く図書館のすぐ近くにあり、ああ、春だなぁと思う瞬間です。母の祭壇にも、いまはまだ色とりどりの花たちが添えられています。花や観葉植物が大好きだった母にとっては、平穏のときでありましょう。

桜の散った夜
桜の散るのは本当に早いものです。つい先日は満開だと思っていたのに、気づいた頃にはすっかり葉桜になっていました。陽気も暖かくなり、いよいよ春爛漫といったところです。
先日、母が亡くなりました。行年67歳でした。
病名は、悪性関節リウマチから発症した特発性間質性肺炎。
病気の話などつらいことを日記に書くものではないと思うのですが、自分の気持ちの整理ということもあり、しばしおつきあいいただければ幸いです。
3月27日、体調が芳しくなくずいぶんと息苦しいと思った母は、自分で歩いて病院に行ったところ、急を要するということで市内の専門の病院に救急車で搬送され、そのまま入院となりました。
間質性肺炎は予後が悪いこと、原因が分からない=治療法がないことで知られる難病のひとつです。とくに風邪やインフルエンザ、その他の体調不良により急激に増悪する特発性間質性肺炎は、そのまま命を失う可能性の非常に高い、おそろしい病気です。→詳しくはこちらのページにあかるいのでご覧ください。
ひとことで言えば、肺の組織が線維化してしまうことで肺がまったく機能しなくなり、酸素を取り入れることができないため、やがて呼吸不全やそれからくる心不全などで命を落とす病気です。現代医学でもまったく解明されていない、ガンより恐ろしい病気ともいわれています。
母が関節リウマチを発症したのが2〜3年前ですが、そのころは痛みが先行していたために肺の方まであまり気がまわらなかったんですね。それが、おととしあたりに間質性肺炎の疑いが見つかり、その後、昨年の検査入院でリウマチはステロイドの投与でよくなったものの、間質性肺炎が進行しているのがわかりました。また、昨年末から今年2月にかけて風邪をこじらせてしまい入院した際には、ステロイドの大量投与(ステロイドパルス)と免疫剤でなんとかしのげたものの、再び悪化し、先日の緊急入院後、治療の甲斐なく亡くなったというしだいです。
入院直後、3日間にわたって日に1,000mgという大量のステロイドを投与するステロイドパルスを行いましたが、まったく功を奏せず、見る間に血中の酸素濃度は90%を割り、70〜80%台に落ちていきます。酸素マスクをつけた状態でもです。我々がふつうに長距離マラソンを走ったとしても、酸素濃度が90%を割ることはほとんど(まったく)ありえないという状態ですから、いかに肺が機能していなかったのかがわかります。
入院当初、父と私と妹は担当医に呼び出され、「このままでは1週間持たないでしょう」という死の宣告を受けました。1週間!? そんな馬鹿な。本人は息苦しいだけで食欲もあるし、見舞いにきた私たちに楽しそうにうれしそうにおしゃべりをしているではないか。何かの間違いだと思いたかったのですが、実は私はずいぶん以前から間質性肺炎について調べていたので、先生から告げられたときにはほぼ覚悟を決めた状態ではありました。もちろん、頭のどこかで奇跡が起こることを信じてやまない状態でもあります。
父と妹は、このことについて母に告知するのを担当医にやめてくれるよう懇願しました。そのかわり、病室に見舞いに行っても涙ばかりが出てしまうため、何度となく、たとえばゴミを捨てたり何かを買ってきてあげるふりをして、病院のロビーで何度も大泣きをしたものです。
なにが泣けたってね、そんな状態でも母は自分が退院できると思っているんです。息苦しいだけで体は元気なわけですから。病院の外にある立派な桜の木が満開な写真を見せたら、「ああ、今年は桜を見に行けなかったなぁ」とか「今度は退院が少し長くなるみたいだけれども、夏ごろにはみんなで旅行に行きたいなぁ」とか家で飼ってる猫のえさのことを心配してみせたり、「お父さんの仕事が少し落ち着いたら、お母さん、東京のあんたたちの家の近くに住みたいなぁ」なんてことを言うわけですよ。
もう涙がとまらなくてね。妹は泣き虫だから別段いつものことだと思っていたでしょうが、滅多に家族に泣き顔を見せたことのなかった私が、目を真っ赤に腫らしていたり、病室で涙をこぼしたりして、おかしいと思わないほうが不思議でしょう。でもね、告知しなかったんですよ、最後まで。父が、「頭も体も元気なのに、そんなこと聞いたらきっとお母さんはだめになっちゃう。治るものも治らなくなっちゃうかもしれない。かわいそうじゃないか」だって。笑っちゃうよねぇ、もう余命いくばくもないのにさ。
担当医から、「このままだと酸素の吸入量がどんどん落ちて、脳や臓器にも影響が出る。人工呼吸器をつけるならいまです」と宣告されたのが入院した週の土曜日でした。
ですがみなさん、人工呼吸器がどういうものかご存じですか? ドラマなどで見られる酸素マスクのようなものでは決してないんです。気管や肺に直接管をさして(挿菅といいます)、機械に接続された状態で、適切な濃度の酸素を肺に送り込むことをいうんですよ。のどに指をつっこんだり、誤飲したりしたときに相当むせますよね、声帯を抑え気管を通しておくってことがどれだけ体に負担がかかるか、おわかりいただけるでしょうか。そして挿管する場合には、患者が苦しくないよう、静脈から睡眠薬を投与して眠らせてしまうんです。あるいは、さらに肺の機能が落ちた場合には、気管切開をして口から肺までの距離を稼ぐことも視野に入れなければいけません。
つまり、母に挿管することに同意したそのときから、母はずっと意識がない状態で過ごし、そして容態がよくなるか亡くなるまで、その管ははずすことができないんです。食べることも話すこともできない、人間の尊厳の問題ですよ。担当医からもはっきり、これは治療ではなく、少しでも薬が効いて容態がよくなってくるまでの時間稼ぎ、すなわち生きながらえるための延命治療であると、宣言されたんです。
即断なんてできやしません。父も妹も、叔母や叔父連中にも相談しましたが、「かわいそうだから」ということでいったんは挿管しないということで話をつけましたが、入院してちょうど1週間後、早朝から担当医によばれて病院に向かいました。残念なことに個人事業主である父はどうしてもはずせない仕事のため、私と妹夫婦が病院にかけつけました。
担当医いわく、今朝から酸素吸入量が極端に落ちており、相当難しい状況になっている。だから、今日の昼までに挿管するかしないかを決めてほしいとのこと。
父と妹からは、私に全権委任されていました。決められるわけないじゃないですか。挿管したとしても薬が効かなければ管をはずすことができず、そのまま亡くなってしまう可能性のほうが高い、ただ、挿管しさえすれば酸素濃度の問題はある程度は解決し、その間にまだ試していない治療法を全力で行うことができる、対して挿管しなかった場合、もって1週間、そして、患者が苦しがるから、どちらにせよ眠らせてしまうなんて話を聞いて。
その日の朝、前日に母が食べたいと言っていた神戸屋のおいしいパンを何個か買っていってやりました。どのパンがおいしいのか、母と私と妹と義弟の4人で分け合って食べながら、これが最後の会話かと思いながら席を立ち、泣きながらロビーでずっと考えました。
そしてついに、妹と義弟の強い要望で、挿管を決意しました。わずかでも、ほんの数パーセントであっても、あきらめず治療を続けることを医師に託したわけです。それが、先週の月曜日のことでした。
それでも私たちは告知はしませんでした。母は、担当医から「肺に管を入れればだいぶ楽になるから」なんて言われてうれしそうでした。そして、私がロビーにいて泣いている間、妹には「痛いのかしら。人工呼吸器ってどんなものかしら。持って歩くようなものだとお母さん恥ずかしくて外にも出られないし、旅行にも行けないわねぇ」なんて呑気なことを言ってました。妹は「麻酔をするんだよ」としか答えられず、それに対し「そんなたいへんなことなの?」と驚いていたということです。
告知をすべきかどうか、あとで読んだ本ではしておけばよかったなと、いまでも後悔しています。なぜなら、最後に母と会話した内容が、もうまったく思い出せないからです。ICUに入ったあとも無理をいって入れてもらい、母の枕元で「がんばってはやくよくなってね」なんてことしか言わなかったと思います。告知の重要性については、この日記の最後のほうで少し語らせていただこうかと思っています。
処置がすんだあとのICUではもうすでに意識がなく、人工呼吸器につながれている母の姿がありました。心電図や血圧、血中酸素濃度を表示する大きなモニターと、いまどのようなモードでどのくらいの濃度の酸素を送出しているかを表示する人工呼吸器のコントロールモニターが、機械的な音をたてているだけです。この期に及んで、私は告知することの大切さを身にしみて感じました。
先週一週間、私はほとんど夕方から出社することにして、自宅と実家近くの病院とを往復しました。容態は変わらずということですが、まれに意識が浮上してくるのか、妹がいったときにはうっすら目をあけ、呼びかけに答えて眉を動かしたり涙を流したそうです。
看護士の方に頼んで、私と妹は枕元に手紙を毎日置いてきました。意識が浮上してきているときに、看護士さんが音読してくださったそうです。
容態はよくも悪くもという状態が続き、免疫抑制剤がそろそろ効いてきてよくなるかなぁという矢先、夜中に病院から連絡があったのが日曜日の深夜、正確には月曜日の朝です。
相方にもついてきてもらい泣きながらタクシーを走らせ、ICUに入ると、心拍数が140を超え、最高血圧が150以上、苦しそうに呼吸をしている母の姿がありました。もちろん意識はありません。
一般的な大人の心拍数が60〜90程度といわれてますが、その倍の数、心臓が鼓動している状態です。また不整脈も多く、心拍数に限らず血圧も上がったり下がったりとまったく安定しない状態で、さらに悪いことには、これまで40〜50%程度の濃度の酸素を送り出していたのが、いまでは100%濃度の酸素を送り出しているのに、血中の酸素濃度が50〜60%という状態です。
家族がそろったところで担当医が、あと数時間と宣告しました。ちょうど私たちが到着したのが午前1時を回ったあたりでした。朝まで持たないのは明白です。
担当医が、もう打つ手はないが、患者が苦しそうで見るに堪えないということであれば、もうひとつ薬を増やしますのでおっしゃってくださいと言ったのですが、いま思えば鎮静剤の類だったのでしょう。でも、私たちは本当にそばにいることしかできませんでした。
何度か処置の時間を挟んで待合室で仮眠をとったりしている間、奇跡が起こるのを何度も願いましたが、午前6時半くらい、うとうとしたところへ看護士がすっとんできてICUへ。激しかった心拍数と血圧が急激におち、心拍数は40前後、最高血圧と最低血圧の差がほとんどない20〜30前後、血中の酸素濃度は、測定不可能になっていました。
緩慢な死の儀式です。
みるみる顔色が変わっていき、体温がさがっていくのがわかります。モニターではもうほとんど鼓動がなく、自力で呼吸することもなく、機械で送出される酸素のために激しく胸板だけが上下しているだけでした。
そうして午前6時56分、心拍数と呼吸と瞳孔を確認し、医師が死亡宣告を行いました。7時間もの間、意識はなくとも体は十分苦しみ抜いた後、さまざまな苦痛から解放された瞬間でした。
その後は、葬儀の段取りや親戚友人への連絡などでほとんど寝られず、一昨日の告別式でやっと落ち着いた状況ではあります。
ですが、やはりいまでも、最後に告知をすべきだったのでは、そんな思いで胸が苦しい。
告知をしていたら、最後にどんな会話をしただろうか。
これまで散々親不孝をしてきて、最後の瞬間、どれだけの懺悔ができただろうか。
そう思うと無念でなりません。
葬儀が終わって落ち着いたつもりでもあったのですが、洗い物をしているとき、洗濯しているとき、街でなにかを見たとき、目に入るものや行動すべてが母に結びつけられてしまい、ことあるごとに泣いてしまいます。長女なんだからしっかりしなくてはと思うも、泣きたいときには泣くほうがいいのだとも思います。
この数日間は、妹夫婦と私と相方と父で、賑やかに実家で食事をしていたのですが、私たちが帰ったあとの父が心配です。滅多に自分のことやグチを言わなかった人ですが、「なんだか気が抜けちゃったよ。こんなにあっけなくてさ」といいながら、涙をぬぐっていました。ただでさえいろんなことを思い出して泣いてしまいがちなところ、母の残したものや思い出ばかりがつまったあの家で、父がひとり、猫と過ごす毎日を考えただけでも涙が出てきます。
「いつまでもあると思うな親と金」という川柳があったかと思いますが、まさに人生ってそういうものだなと。
母が亡くなった夜、みんなで飲んでいたとき、私はいろいろ激昂してどれだけ自分が親不孝をしてきたことを呪い、わめいていたんですが、父が言ったひとことが忘れられません。
「お父さんだって30代40代のときには親孝行とかそんなこと考えもしなかった。自分の生活で手一杯で。みんなそうなんだ。お前がお父さんの知らないところでお母さんを助けてやってくれてたんならそれでいいじゃないか」
そうだったのかな。それでも最後に話をする機会をもらえる、告知をしたほうがよかったんじゃないのかな。そう、自分を責めても詮無いことではありますが。
告別式が終わり、昨日から自宅へ戻ってきました。ひとつは、母が残した「お母さん、自分の体も心配だけどあんたの体も心配だから病院に行きなさい」ということを実行するために、あとはもろもろの手続きをこちらでやるために。
病院に行ったら、自律神経失調症、まぁ軽くうつの一歩手前の疑いがあるということで薬をもらってきました。安定剤なんだけれどもやっぱり動悸にはききませんけれどもね。まいったな。
病院の帰りに寄った書店で、『死学〜安らかな終末を、緩和医療のすすめ』という本を見つけました。タイトルはショッキングではありますが、内科を経験してホスピス医になった医師が書いた本で、現在の延命治療に対する誤った考え方と、それに対する緩和治療、ホスピスに関する考え方などを、実際の患者の最後を例にしてつづったものです。
母が死んだっていうのに、どれだけ自分は納得していないんだろうとも思いますが。
末期ガンなど、余命幾ばくもない患者に対して行う延命治療が、どれだけ患者や家族にみじめな死をもたらすものか、そうして、人は最期まで人としてあるために、医師はどのような治療をすべきか。非常にわかりやすく書かれたいい本だと思います。
考え方は人それぞれですが、私は、やはり余命が少ない場合にはきちんと告知をしてほしいし、そして延命治療ではなく、緩和治療をしたいし、そして自分の知っている人間についても、同様に緩和治療で人間らしい最後を迎えさせてあげたいなと思います。告知をするということは、最後にやり残したことを整理するいいチャンスでもあるということ。たとえば末期ガンの患者でも、ホスピスに入って緩和治療をうけながら、家族と最後の旅行に出かけることのできる人もいるんです。
告知をするということは、思い出を最後に作れるということでもあるのです。
最後に、これを読んでいるお若い方へ。
親孝行は親が生きている間にしかできないものです。仕事や勉強その他の理由で、いませいいっぱい生きることしか考えていないと思います。私もそのときがくるまで意識しなかったことです。
でも、親といられる時間なんてものは、私たちが思っている以上に短いものです。ぜひとも、親御さんを大切に、ご家族みなさんですこやかにお過ごしください。
■Walkingtour
http://www.geocities.co.jp/Hollywood/1387/walkingtour.html