第九話:後悔

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 サーシェスの帰りがあまりにも遅いので、フライスはイライラしながらラインハット寺院の正門の前で彼女の帰りを待っていた。極度のいらつきから、足のつま先をぱたぱたやって、その次には正門の壁を拳でたたきつける。
 しばらくすると馬車がゆっくりと走ってきて、ラインハット寺院の正門前で止まった。中から中央騎士大学の青年と、彼に支えられるようにして身を起こしているサーシェスが降りてきたのを見て、フライスは腹立たしげに鼻を鳴らす。
 セテは目の前に立っているラインハット寺院の僧侶の姿を見て驚いたようだ。セテは軽く会釈をしながら、無言のまま彼女を抱えるようにしてフライスに預ける。が、そのサーシェスの姿を見て、フライスは愕然とする。顔は腫れ上がり、切れた口の端にはかさぶたがこびりついている。グリーンのワンピースはボロボロで、かろうじて青年の制服の上着が、彼女の尊厳を保っているようだ。瞬時に、フライスは彼女の身に何が起きたのかを悟り、次の瞬間には中央騎士大学の青年の横面をはり倒していた。
「君は……! こんな遅くまで彼女を連れ回して、あげくに彼女を危険な目に遭わせたのか!」
 セテは何も言わずに張られた頬を押さえ、切れた口の中に血の味が広がるのを感じた。
「やめて! セテは悪くないわ! 私を助けてくれたのよ!!」
 サーシェスがふたりの間に割って入り、フライスの怒りを静めようと声を張り上げる。だが、そんなことでフライスの怒りが抑えられるとは、セテはとうてい思っていなかった。フライスは制服の上着をセテに返し、代わりに自分の裾の長い上掛けをサーシェスに掛けてやった。
「当たり前だ! 剣士がそれくらいのことできなくてどうする!」
 普段冷静なだけに、キレたフライスは手が着けられないくらい恐ろしかった。サーシェスはそんなフライスの様相に少々驚いていたが、
「もういいじゃない! 私はなんともないし、こうして無事だったんだから!」
「そういう問題じゃない! セテ、君はいったいどういうつもりなんだ! 剣士がそばにいるから安全だろうと思って彼女を自由にさせているのに、君は彼女が危険な目にあうのを指をくわえて見ていたのか!!」
「もうやめてよ!!」
 サーシェスがいつになくヒステリックな口調で叫んだ。
「肝心なときにそばにいないくせに、こんなときだけ保護者ヅラしないでよ!!」
 サーシェスはそのまま正門に駆け込み、寺院の中へ走り去っていった。フライスはサーシェスの言葉を噛み締めるように心の中でつぶやき、その意味するところを理解しようとつとめるのに精一杯だった。急に熱が冷めたように我に返る。

 ──肝心なときにそばにいないくせに──

 冷静沈着だと思っていたラインハット寺院の次期大僧正候補が、彼女のことでこんなに激するのを見て、セテはひどく心が痛んだ。自分があのとき彼女のそばを離れなければ、こんなことにはならなかったのだ。
「……俺のせいです。俺が彼女のそばを離れなければ……」
 セテがそう言うのを聞いて、フライスはため息をつく。
「殴ったりしてすまなかった。確かに、君が助けに入らなければ彼女は無事ではすまされなかったな。すまん、私としたことが……」
 自虐的にそう言いながら、フライスは冷静さを取り戻そうとするかのように頭を振り、前髪を掻き上げた。そんな仕草がかつてのレオンハルトを思わせて、また過去の幻影を追っているだけだということに気づいて自分を戒める。
「……彼女はとりあえず休ませるから、君ももう帰りなさい」
 フライスはセテに背を向けると、正門の方へ歩き始めた。その後ろ姿がつらそうで、セテはかまわず思ったことを口に出してみる。
「……あんた……本当に彼女のことを大切に思ってるんだな……。俺なんかより……」
 フライスは足を止めた。セテの台詞に驚いているようだ。
「セテ、サーシェスをよろしく頼む。私の役割はもう終わりだ。これからは……」
「あんた、バカじゃねぇのか!?」
 セテはフライスに詰め寄り、乱暴に腕をつかんで自分に向き直らせた。フライスはセテの言動に驚いて目を見張る。
「それはこっちの台詞だよ、フライスさん! あんた、何もわかっちゃいないんだな! 彼女はな、助けを呼ぶときにあんたの名前を呼んだんだぞ? 『フライス』ってな! 助けに入ったのは俺なのに、俺の名前じゃなく、あんたの名前だ! それがどういうことか分かってんのか!? それにさっきの彼女の言葉、よーく頭を冷やして考えてみろよ! 彼女が本当に助けてほしかったときに、あんたはそばにいなかったんだ! 彼女はあんたに助けてもらいたかったんだよ! そんなこともわかんないほど、あんた血の巡りが悪いのか!?」
 この青年の激しい口調にも、フライスは腹が立たなかった。そんなことより、彼の言っている言葉の意味を捉えるのに必死だ。彼の言葉が、頭の中でパニック状態になっている。

 ──肝心なときだからこそ、そばにいてほしかったのに──

 セテはおもしろくなさそうにフライスの腕を振り離し、ため息をつく。敵に塩を送るとはまさにこういうことをいうんだろうと思いながら。
「本当に、彼女が弱点なんだな、あんたって」
 セテは肩をすくめながらそう言い、まだ呆然としているフライスを後目に歩き始めた。腫れた頬に手をやり、イテッと小声で悪態をつく。と、後ろから癒しの呪文が聞こえ、急に腫れがひいた。振り向くとフライスが、複雑な表情をしてこちらを見ていた。
「悪かったな。とりあえずの謝罪の気持ちだ」
 サーシェスから聞いてはいたが、本当に素直じゃない男だなとセテは悪態をつく。セテはフライスに向かって親指を立てて見せ、
「フン、本当に無愛想な男なんだな、あんたって。サーシェスがよくあんたの話をしてくれてたよ。でもま、あんたは俺の尊敬している人に外見だけはよく似てるから許してやるよ。恋敵としちゃサイテーな類の性格だけどな」
 そういって挑発的な笑みを返してやる。フライスも、セテの反応を楽しんでいるようだった。






「本当に、困ったことをしてくれましたね」
 ラファエラ・フォリスター・イ・ワルトハイム将軍は、今日は珍しく私服のスーツを(しかもスカートを)身にまとっていた。深紅のジャケットにスカートが、いちだんと彼女を若く、背を高く見せていた。
 セテは中央特務執行庁ロクラン庁舎の臨時執務室で、直接ラファエラと相まみえることになったのだった。
「いえね、あなたの行動が悪かったわけじゃありませんよ、セテ・トスキ。ファリオンは、あ、私の甥なんですが、そりゃもう出来の悪い甥っ子で、ほとほと手を焼いているところだったのです。地方に行っては女の子を手込めにしてまわってるようなものだから、いつか大けがをするんじゃないかと思っていましたからね。あの程度ですんだなら軽いものです」
 セテは沈んだ表情でワルトハイム将軍の話を聞いていた。昨日過って斬りつけたのがハイファミリーの息子、それもよりによって自分の上司の甥であったとは、なんたる不覚。
「あなたの行動は称賛に値します。私だったら思い切ってぶった切ってやるところですがね。あの子は事実上破門にして、地方の工業地域の監督業務に任じました。ただね、ハイファミリーの人間がうるさいのですよ。つまり、これは罰ではなく、あなたをハイファミリーの攻撃から守るための措置だと思って聞いてください」
 鉄の淑女はデスクに腰掛け、形ばかりの書類を読み上げるフリをする。
「向こう一年間、あなたにアジェンタス騎士団への出向を命じます。出向ですから中央特務執行庁の人間として派遣されますが、通常のアジェンタス騎士団の任務に従ってください」
 セテは顔を上げ、目を見張ってラファエラを見つめる。その失意の瞳に、さすがの鉄の淑女もやりきれなくなってくる。
「本当はあなたを私の手元に置いておきたかったのですよ。しかし、こんな事件が起こったというからには、他のハイファミリーの風当たりが強くなる。困ったことというのはそういうことですよ」
 セテはこぶしを強く握りしめてうつむいていた。その肩が震えているのにラファエラは気づいていたが、ここは心を鬼にして見て見ぬフリをした。
「ほとぼりがさめるまでは、あなたも自分の故郷で実務経験を積む方がいいでしょう。それにあなたにはいずれ、アジェンタス騎士団領での特別任務を遂行してもらいます。そのときまで、しっかり経験を積んでおいてください。いいですね、セテ・トスキ」






 黒煙を上げて燃えさかる炎。
 荒々しく蹴破られる扉。扉の向こうから、何人もの武装した男たちが駆け込んでくる。
「野郎! どこいきやがった!」
 リーダー格らしい男が憎々しげに部屋の中のクローゼットの扉を蹴破り、中を引っかき回す。
「あの魔女め、どこに隠れてやがる!」
 私は恐ろしくて、震えながらベッドの下に隠れてその様子を見守っていた。男たちがベッドの横を通り過ぎていくことを願いながら。
 ふと男の足がベッドの脇で止まり、男は腰をかがめてベッドの下を覗き込んだ。男と目が合い、私は恐ろしさのあまり泣き出しそうになる。
「見つけたぞ! あの女の連れていたガキだ!!」
 武装した男たちは歓声を上げてベッドをひっくり返し、私は安全だと思っていた隠れ場所から無理矢理引きずり出された。男たちに囲まれ、首筋には冷たい刃が当てられた。
「このクソガキ! あの女はどこに行きやがった! 言わねえとぶっ殺すぞ!」
 私は首を振ってせいいっぱい知らないことをアピールするが、声が出ない。怖くて恐ろしくて、涙が後から後から頬を伝ってくる。
「お前もあの魔女と同じ穴のムジナなんだろう? 年も取らない化け物のくせに!」
 ひとりの男が何発も私の顔を殴り、私は口を切って血を吐いた。リーダー格らしい男がそれを制して私を向き直らせる。
「お嬢ちゃん、あの女が何者なのか、お前は知っているんだろう?」
 私は声も出さずに首を降り続けるが、男たちはそれだけでは満足しなかったらしい。
「ふん、化け物のくせに強情な! こいつは人質だ。俺は他の部屋をあたるからそいつを逃がすなよ!」
 リーダーの男は何人かを連れて他の部屋を探索にあたる。私は五、六人の男に囲まれ、両腕を縛り上げられた。そして、首には術法封じの護符をかけられた。
「こいつも化け物の仲間だからな、術法でやられちゃかなわん!」
 ひとりの男が私を見つめている。背筋が寒くなるようないやな視線。男は私の顔を上げさせ、ねぶるように私の恐怖で引きつる顔を堪能している。
「そういえばお前、見かけどおりの年じゃないんだよな」
 男が愉快そうに笑うと、まわりにいた男たちも男の考えを察知したのか、下卑た笑いをうかべながら私を見つめている。
「そうだな。イーシュ・ラミナと寝るなんてそうそうないもんな」
 私は声をあげて抵抗しようとするが男たちに押さえつけられ、その声すら封じられてしまう。男は荒い息で自分のズボンのベルトをはずす。カチャカチャと金属音がして、私は恐怖でこわばった体を動かすこともできずに、目を見張ってその様子を見ていることしかできなかった。
「やめて!! 助けてガートルード! レオンハルト!!」






 自分の悲鳴で目が覚めた。全身が汗でびっしょり濡れているのが分かる。ラインハット寺院の自分の部屋だということが分かるまで、サーシェスは荒い息を吐きながら肩をふるわせていた。頬を伝う涙を拭いながら、サーシェスは頭を振る。
「……なに……今の夢……!」
 無理矢理カーテンを引き剥がすように開け、ラインハット寺院の中庭を見通せる窓を開け放つ。夏の朝の涼しい風が部屋に吹き込んできて、新鮮な空気が満ちわたっていく。
 昨日のできごとを思い返して、サーシェスは身震いした。あんな下品な男にもう少しで犯されてしまうところだったことを考えて、サーシェスは髪をかきむしりながらため息をつく。
 大丈夫、結局私は何もされていない。セテが助けてくれなかったら危ないところだったけど……。もう忘れよう。だからあんないやな夢を見てしまうんだ。
 サーシェスは寝間着を脱ぎ捨てて服を着替えると、洗面所で顔を洗い、身だしなみを整えた。ふと、廊下で話をしている下男とフライスの声が聞こえたので耳を傾けた。
「あのハイファミリーのぼんくらぼっちゃんは命には別状なかったようですよ。地方の工業地域の監督業務につかされることになったそうで。まぁいってみりゃ勘当みたいなもんでさぁ」
 下男は愉快そうにそう言った。昨日の事件のことだと瞬時に悟ったサーシェスは、壁際で隠れるようにして聞き耳を立てた。
「なにしろ、ファリオン・ワルトハイムの評判の悪さときたら。地方に行くと必ずと言っていいほど土地の少女に悪さをして、その結果、多額の金で娘の処女証明をさせられていたほどですからなぁ。遅かれ早かれ、こんなことになるんじゃないかと思ってましたがね」
 サーシェスはとりあえずほっと一息つく。ところが、
「それで……あの青年の処分は?」
 フライスが下男に尋ねた。
「ああ……中央騎士大学に通ってる甥っ子から聞きましたがね、なんでもあの兄ちゃんは中央特務執行庁に勤務することが決まっていたそうですな。かわいそうに、アジェンタス騎士団に出向させられることになったそうですよ」
 サーシェスは息を飲み、手にしていた洗顔セットを取り落とした。カップが甲高い音をたてて廊下に落ちたので、下男もフライスも驚いて振り返った。サーシェスがそこにいたことに気づかなかったとは、なんとあさはかなことだったかとフライスは後悔した。
 フライスが声をかけるいとまもなく、サーシェスは蒼白な顔でそのまま自分の部屋に駆け戻って行ってしまった。
 心臓が血液を逆流させているかのようなひどい動悸がする。サーシェスは自分の胸に手を当て、大きく息を吸い込んだ。
 セテがアジェンタスに出向? それはていのいい左遷と同じことではないか? 自分を助けるためにハイファミリーの息子を斬りつけてしまったから? つまり、自分のせいで!
 セテに謝らなければ……! だが、いったいどの面下げて? せっかくの彼の輝かしい未来を、自分の不注意でめちゃくちゃにしてしまったではないか。きっと自分のことを恨んでいるはずだ。顔も見たくないと思っているだろう。なんといわれても、私には弁解する余地はない。
 私にもっと力があったら、あんなことにはならなかったのに
 サーシェスはイスに腰掛けて頭を抱える。ふと、なぜかレイザークの言葉が思い出された。
「体も柔らかく、動きも敏捷な若いうちはまだいい。しかし、後何年もすれば腕力では男にかなわなくなる。それがどういうことかは分かっているだろうな。つまり負けた女戦士はたいがいやられちまうってわけだ」
 腕力では男にかなわなくなる。それがどういうことか、今になってやっと分かるとは。剣だけで自分の身を守れると思っていたのはなんとあさはかだったことだろう。
 サーシェスは長いため息をつき、自虐的に鼻を鳴らすと、両腕の中に頭をうずめて肩を震わせた。






「今日のサーシェス、元気がないんだよ。フライス様はなんでか知ってる?」
 マール少年は講義の後、廊下でフライスをつかまえて尋ねた。マールは分厚い術法書を両手で抱えて、心配そうにフライスの顔を覗き込んでいた。
「いや、私にも心当たりはない」
 フライスはそう言った。子どもに話すべき内容ではない。子どもたちはサーシェスが痣を作ってきたのを、また誰かを相手に大立ち回りをしてきたからであると思っているのだから。マールはフライスに頭を下げると、落胆したように廊下を歩いていった。彼もサーシェスのことを大切に思っているので、意外なところにライバルが潜んでいるとフライスは苦笑した。
 セテがロクランを離れてアジェンタスへ。あの勝ち気な青年がいなくなるならせいせいしてもいいはずだが、フライスはそれを喜ぶどころか残念に思っていたし、また後味が悪くも感じていた。
 サーシェスは自分のせいだと苦しんでいるはずだ。あれが不可抗力だったとはいえ、やはり剣でハイファミリーを切ったとあっては、たとえフォリスター・イ・ワルトハイム将軍の力を持ってしても彼をロクランから遠ざけておくのがせいいっぱいだったであろう。
「まったく、厄介なことに……」
 フライスはため息をつきながら、誰に言うとなしにつぶやいた。






 ラインハット寺院の裏庭には、馬や牛など、少数の動物たちを飼育する家畜小屋があった。大僧正リムトダールが動物好きであるというのも理由のひとつだが、子どもたちの情操教育の一環として、動物の飼育を取り入れているのであった。
 マールは動物が大好きで、進んで動物たちの世話をすることが多かった。サーシェスをつれてよくここへやってきては動物たちの世話をするのであったが、今日はサーシェスが部屋から出てこないのでひとりで世話をすることになったのだった。
 風の強く吹く夕方であった。マールはカンテラを掲げながら家畜小屋に入り、入り口付近の柱の釘にカンテラを引っかけて飼い葉桶を運んだ。馬や牛たちにマールはそれぞれに名前を付けていた。名前を呼びかけながら頭をなでてやったり、体をブラッシングしてやると、動物たちはうれしそうに鼻面をこすりつけてくる。大切にしてくれる人間のことを分かっているようだ。
 ふと、奥のほうで牛がうめいているのに気がつく。この牛はおなかに赤ちゃんがおり、もうすぐ生まれるところで気をつけていたのだが、どうやら出産が始まるようだった。さすがのマールも驚き、サーシェスを呼びに小屋を駆け出た。
 扉を開け放っていたために突風が吹き込み、柱に掛けていたカンテラを激しく揺さぶった。風にあおられたカンテラは強く揺さぶられ、やがて山積みの飼い葉に落ちていった。
 マールはサーシェスの部屋の扉を激しくたたき、無理矢理サーシェスを引きずり出した。子どものいる牛が産気づいたということで、サーシェスは否応なしに家畜小屋へ行くハメになったのだった。だが、ふたりは家畜小屋の前に来て愕然とする。赤々と燃える炎が、家畜小屋の中を蹂躙して回っていたのだ。
「おいらのカンテラだ! おいら、カンテラをおきっぱなしにしちゃったんだよ!」
 マールは泣き出しそうな顔で叫んだ。間髪入れずにマールは家畜小屋に飛び込もうとする。
「待ちなさいマール! みんなを呼んでくるからここで待っているのよ!」
「だめだ! はやく逃がさないとみんな死んじゃうよ!」
 マールはサーシェスの腕を振り払って小屋に飛び込んでいった。
「マール! だめよ!!」
 マールの袖の切れ端がサーシェスの手のひらに残っている。少年の姿はすぐに火の中にかき消えた。サーシェスもマールを追って、ためらわずに家畜小屋の中に身を躍らせていた。
 火事の騒ぎに寺院の下男たちが駆けつけ、大僧正やフライスももうもうと煙を上げる家畜小屋の前に駆けつけてきた。下男たちは火の勢いのすごさに手を焼きながら、ポンプで水をくんで消火作業に取りかかっていた。
「大僧正様! マールとサーシェスがまだあの小屋の中に!」
 狼狽した下男のひとりが大僧正とフライスにそう叫んだ。フライスと大僧正は顔を見合わせ、息を飲む。フライスはあわてる下男たちを後目に、水の守護結界を張り、水の法印を結び始めていた。






「マール! そこにいるの! 返事して!!」
 家畜小屋の真ん中付近で、サーシェスは立ち往生していた。火の勢いが強すぎてこれ以上中には進めそうにない。動物たちのいななきが小屋の中全体を震わせていた。小さく爆音がして柱が吹き飛び、サーシェスは飼い葉の中に倒れ込む。やっとの思いで立ち上がり、サーシェスは動物たちを閉じこめているつっかえ棒をはずし、せき込みながら手近の動物たちの尻をたたいていく。
「ごめんね、もうだいじょうぶだから早くお逃げ!」
 自由になった動物たちは入り口めがけて走り出した。煙のために目が開けられないが、この小屋の奥にマールがいることは分かっている。サーシェスは這って進むような姿勢で奥を目指し、マールの名を呼び続ける。煙の切れ目から、奥にマールが倒れているのが見えた。サーシェスは急いで駆け出すが、そのとき崩れ落ちた柱がサーシェスの頭上をかすめ、サーシェスは頭を抱えて再び飼い葉の中に倒れ込んだ。






 おかしい。水の結界を張っているというのに、いっこうに火の勢いが弱まる気配が感じられない。
 炎に包まれて轟音を立てる小屋の前で、フライスは水属性の最強術法で結界を築き上げているところだった。この火の勢いでは、通常の消火作業が追いつくとも思われなかったからなのだが、紅い舌を出して猛威を振るう炎の前で、フライスは焦り始めていた。
「フライス」
 大僧正が心配そうな表情でフライスを見やる。フライスは安心させるために大僧正の手を握り、
「ご心配なく。すぐに戻ります」
 そう言うのが早いか、彼の姿は霞のようにかき消えていた。






 ──サーシェス──!

 炎の中から誰かが自分の名前を呼んでいる。サーシェスはあたりを見回すが誰もいない。煙にむせて苦しい咳を吐き出す。弱々しくマールの名を呼ぶが、マールからの返事はない。
「お願い……マール、返事をして!」
 このままではふたりとも炎に巻かれて一巻の終わりだ。

 ──サーシェス──!

 今度は幻聴ではない。誰かが炎の中から自分を呼んでいる声がはっきりと聞こえた。
「誰? 誰かいるの?」
 サーシェスは炎に向かって呼びかける。渦巻く炎の壁の中に、人影らしきものが見えた。

 ──サーシェス、お前を信じていたのに──

「誰なの、あなた。私を知っているの?」

 ──私にはもう、お前しかいない。そしてお前には私しかいないはず。信じていたのに……。お前だけが私を理解してくれると──

「誰なの……私はあなたなんか知らないわ」
 憎しみのこもった深紅の瞳だけが、炎の中からサーシェスを見つめていた。激しい怒りと身を切るような悲しみのこもった紅。人間にはありえない、炎の色を持つその瞳。

 ──裏切り者め──! 裏切り者には死を──!

 次の瞬間、怒り狂った焔の牙が襲いかかる!!
「サーシェス!!」
 フライスがサーシェスの腕をつかみ、その体を揺さぶっていた。だがサーシェスはフライスを見ようともせず、誰もいない炎に向かって何かをつぶやいている。
「……やめて……お願い……! あっちへ行って……!」
「サーシェス! 何を言っている」
 フライスはサーシェスの肩を揺さぶりながら、炎の向こうにマールが倒れているのを見つけた。途端にサーシェスが体をこわばらせ、目をつぶる。
「いやああああっ やめてぇーっ ガートルード!!」
 つんざくような悲鳴をあげ、サーシェスはぷっつりと意識を失ってフライスの腕の中に倒れ込んだ。フライスはサーシェスを抱き上げながら、炎の向こうにただならぬ気配を感じて身をこわばらせた。炎が薄れていくと、炎をまとった一つ目の丸い化け物が立ちはだかってこちらを睨み付けているのが見えた。
「こいつか……! 火の勢いが衰えなかったのは……!」
 フライスはサーシェスをかばいながらすばやく水の法印を結び、化け物めがけて氷の攻撃術法を発動する。幾層もの氷の刃が化け物を貫くかと思った瞬間、手前数センチで術は無効化され、その反動で炎の柱がフライスを攻撃した。フライスは水の結界を張ってそれを防いだが、ダメージは相当大きかったようだ。服の裾が焦げてちりちりと肌を焦がした。
「ちっ 絶対魔法防御か……! こざかしいマネを!」
 フライスは腰につるしてあった護身用の短剣を引き抜き、その剣に向かって念をこめる。
 炎が活性化し、甲高いさえずりのような音が、人間のものではない言葉を早口にまくし立てるのが聞こえた。一つ目の炎の化け物が次の呪文を発動する準備を始めているのが分かった。次はおそらく本格的な攻撃がくるはずだ。
 フライスはいつもより長い強力な攻撃呪文を詠唱し、精神力を高める。短剣の周りに氷の結晶が集まってきて、剣は即座に氷の剣と化す。化け物が呪文を詠唱し終わるのが早いか、フライスは炎のサイクロプスめがけて剣を投げつけた。氷の剣は化け物の絶対魔法防御を突き破り、見事脳天につきささった。サイクロプスのきちがいじみた断末魔が響き渡り、やがてその姿は炎の中に溶けて見えなくなっていった。
 フライスはほっとため息をつくのもつかの間、サーシェスとその奥に倒れているマールを脇に抱え、外に向かって転移した。その次の瞬間、小屋は轟音をたてて崩れ落ちていった。
 フライスがふたりの救出に成功して戻ってきたので、大僧正は安心したように頷いた。さすがフライス様と口々に褒め称える下男の声を面倒くさそうに避けながら、フライスはマールを抱え起こす。だが、
「神よ……!」
 フライスは苦しげな声でうめき、少年の胸に頬を強く押し当てた。

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