第十九話:心の友

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 赤い豊かな巻き毛を風に揺らして、小さな女の子が草原の中で笑っている。あたしはどこかで見たことのあるこの風景を、遠くから眺めているような気分で見つめていた。
 泣き虫で臆病で、いつも近所の男の子にいじめられて帰ってきた小さなアルディス。とても同じ親から生まれたとは思えないほど内気で、恥ずかしがり屋のあの子。あたしは昔から気が強くて、父さんにまで手に負えないとあきれられるくらいなのに、あたしと同じ髪の色だけが、唯一血のつながりを示すものだった。でも、父さんも母さんも、本当はあの子がとても強情なのを知っていた。あたしがすぐ飽きてやめてしまうようなことも、あの子は最後までやり遂げてみせたし、一度言い出したら引き下がらないなんてこともしばしばあった。
 大きくなってもずっと一緒にいたのに、夢の中での彼女はいつも無邪気に笑う女の子の姿をしている。草原の中で笑うアルディスは、いつも決まって小さな少女のまま。そうだ、これは夢なんだ。
 アルディスはあたしの方を向いて、腕一杯に抱えた花束を自慢げに見せてくれた。でもそのとき強い風が吹いて、彼女の腕の中の花束は無情にも吹き飛ばされていく。アルディスはそれを悲しそうな表情で見送ると、やがて大きな目に涙をいっぱいにためてうつむいてしまった。
 それから彼女は、あたしにくるりと背を向けて草原の向こうに歩き始めた。

 だめ! そっちに行っちゃだめ!

 なぜだか分からないけど、草原の向こうには何か得体の知れない危険が待っているような気がして、あたしは声の限りに叫んで彼女を引き留めようとした。
 でも、あたしの声は彼女には届かない。彼女はどんどん小さくなって、やがて見えなくなってしまった。

 戻ってきて! アルディス! アルディス!

 ──小さなアルディス。あたしのたったひとりの大切な妹。あたしの──

 少女は自分の頬が涙に濡れていることに気がついて、急いでシーツで顔を拭った。それからあたりの様子をうかがうように盗み見をし、誰にも見られていないことを確認してベッドから身を起こした。
「涙なんてここ最近流したこともなかったのに」
 少女は自嘲するように鼻を鳴らし、それから洗面所に向かって乱暴なくらいの仕草で顔を洗った。まだ寝癖の残る短い赤毛の巻き毛を水で整え、それから自分の背中の傷を鏡に映してみる。
「あのトスキとかいう男、派手に斬りつけやがって」
 ガラハド暗殺失敗の際に負った傷だった。だが、傷はほとんど治っており、わずかに肉がひきつれたような醜い傷跡を残すだけとなっていた。旧世界《ロイギル》の魔法に手間取らされなければ、あたしともあろう人間が背中から斬られるなんて無様なマネはしなかったのに。
「くそっ」
 少女はベッドの足をいまいましげに蹴り、それから服に着替えて部屋を出た。
 粗末な作りの木の廊下を歩いて、つきあたりにある食堂を目指した。廊下の窓からは鮮やかな緑がまぶしい。小太りの性格の良さそうな婦人が彼女の姿を見つけ、にこやかに挨拶をしてきた。
「おはよう、ピアージュ」
「おはよう」
 少女も婦人に挨拶を返した。食堂では長いテーブルに十五人くらいの子どもたちがすでに座っており、ピアージュが入ってくるやいなや全員が満面の笑みを浮かべた。
「おねーちゃん、おはよう!」
 まるで合唱団さながらの朝のあいさつだ。
「ああ、おはよう」
 ピアージュは子どもたちひとりひとりの顔を見ながらそう言った。自然とピアージュの顔に笑顔があふれる。
 アジェンタス騎士団の牢から命からがら逃げ出した彼女は、意識を失う前にどこか遠くへ転移したつもりだった。背中の傷から流れる出血と、瞬発的に発動した力の反動で狙いが定まらなかったのだろう。彼女は、アジェンタス辺境の森のそばにひっそりとたたずむ孤児院の近くで力尽き、倒れた。もちろん、愛刀をしっかりと握りしめたまま。
 気がついたときは、この孤児院のベッドで寝かされていた。背中の傷も初歩的な治癒術法で応急処置がされており、恰幅のいい婦人──彼女はこの孤児院の院長だった──がベッドの傍らでにこやかに笑っていたのだった。
 院長はピアージュに何も尋ねなかった。辺境では傷を負った剣士なんてめずらしくもなかったからかもしれないが、あれこれ詮索することのない院長の気遣いに、ピアージュの心は安まった。
 ガラハド暗殺に失敗した自分を、雇い主が探しに、あるいは始末しに来るのではないかと思ったが、傷が完治するまでいつまででもここにいてよいという院長の言葉に、彼女はついつい甘えてしまった。それは自分と同じように不遇な境遇から両親を亡くした子どもたちが、この孤児院で共同生活をしていたからかもしれない。彼女は子どもが大好きだったし、子どもたちもピアージュによくなついてしまっていた。
 実際、ピアージュの子どもたちを扱う手際の良さはたいしたものだった。さっきまで泣いていた子どもがピアージュの手に掛かると、その五分後にはきゃっきゃと笑い声を上げてしまう。また、年長の子どもたちは彼女を剣士と知るやいなや、棒きれを剣に見立てて、ピアージュに剣の稽古をせがんだ。ピアージュは最初は渋々だったものの、子どもたちの熱意に根負けして午後は剣の稽古をつけてやることにした。院長はそんなピアージュに絶大な信頼をよせていた。
 自分が剣の仕事を請け負って人を殺す傭兵であることを忘れてしまうくらい安らかな毎日。剣をはかずに過ごす時間があるなんて、信じられないくらいだ。だが、いつまでもここにいるわけにはいかない。いずれはここを出ていかなければ。それは早ければ早いほどいい。情に流されてここを離れられなくなってしまう前に。
「院長、話があるんだけど」
 子どもたちは食事が終わるとそれぞれ年齢に応じたクラスでの学習時間になる。子どもたちのいなくなった食堂で食事の後かたづけをしながら、ピアージュは院長に切り出した。ピアージュが言わんとしていることを察知したのか、院長は皿を集める手を休め、彼女をじっと見つめた。ピアージュは胃のあたりがきゅっと締まるような感覚を覚えた。
「……今夜のうちにここを出ていきたいんだ。子どもたちに気づかれないように」
 院長は皿に視線を落とし、小さくため息をついて再び皿を集め始めた。短い沈黙。やがて院長は思いだしたかのように口を開いた。
「あなたがここへ来てから、本当に助かっていたのですよ。子どもたちも毎日が楽しそうだし、私も年だからひとりではできないこともたくさんあったけど、あなたのおかげでとても楽をさせてもらったわ」
 ピアージュはテーブルを拭きながら黙って院長の言葉に耳を傾けていた。
「……傭兵さん……なんでしょ?」
 院長が言った。ピアージュは何も言わずにテーブルを拭き続けた。
「剣の教え方でわかりましたよ。あなたの立ち居振る舞いとかね、死んだ夫によく似ているんですよ。夫も傭兵をしていて、辺境で命を落としましたから」
 ピアージュは手を休め、院長に近寄った。困惑したような表情で年老いた院長を見つめる。ピアージュは院長の手を取り、その手に何かを握らせた。院長は声を上げそうになるのをやっとのことで抑えなければならなかった。十万セルテス金貨。中央でも滅多に見られない高額貨幣だ。
「これくらいのことしかできないけど……子どもたちのためになるようなものを買ってあげて」
 院長はピアージュの言葉にとまどいながら彼女を顔を見つめ返した。ふと、院長がピアージュの肩ごしの風景に息を飲む。ピアージュが振り返ると、そこには真っ黒い装束を着た男が音もなく立っていた。
「ピアージュ・ランカスターだな」
 男は低い声でそう言った。ピアージュは院長を背中にかばうように立ち、男を睨み付けた。
 追っ手か! ピアージュは今自分の手元に剣がないことを呪った。この男は雇い主の放った刺客に違いない。だが、ここで戦いたくない。子どもたちに、人を殺す自分を見せたくない。
「案ずるな。お前を殺しに来たわけではない。我が主がビジネスの件でお前をお呼びだ」
「ビジネスね……」
 ピアージュは鼻を鳴らした。それからちらりと院長の顔を見ると、彼女は青白い顔をしてピアージュと男をかわるがわる見ていることしかできないようだった。
「ガラハドの件が失敗したのは残念だ。だが、我が主はそのことも含めて新しいビジネスの話がしたいとおっしゃっている。報酬は前の三倍」
 三倍。ピアージュは心の中で口笛を吹いた。前金はもらっていなかったが、ガラハドの暗殺が果たされた暁には百万セルテスが手に入るはずだった。それだけでも辺境で一年は遊んで暮らしていける額だが、その三倍となれば受けないことはない。
「……あたしの身の保障は?」
 ピアージュは抜け目なく尋ねた。この男についていって背中からぶすりとやられないという保障はどこにもない。
「お前を殺すつもりならはなから殺している。こうやって迎えに来るわけがなかろう」
 男は鼻で笑うような仕草をしてそう言った。
 ピアージュは子どもたちに見つからないように部屋に戻り、身支度を整えた。愛刀の柄に口づけをし、しっかりと腰の剣帯に結びつける。その様子を、院長はおろおろしながら見守ることしかできなかった。
「心配しないで。いままでホントにありがとう。あなたたちのことは一生忘れない。子どもたちには適当に話を作っておいてくれればいい。仕事が終わったら、また遊びにくるよ」
 ピアージュは院長の手をしっかりと握り、そう約束した。次の仕事で生きて帰ってこられればの話だが。
 男は用意された馬車にピアージュを招き入れた。孤児院の窓から院長が心配そうな顔をして見守っている。ピアージュは大丈夫だというように笑顔を見せてやると、馬車はそれを待っていたかのようにいきなり走り出した。






「ちょっとあんた、大丈夫かい?」
 女は道ばたにうずくまる人影に声をかけた。だが返事はない。
 しとつく雨が頭からかぶったベールを伝い、その冷たさに女は身を震わせた。アルダスの裏道の悪臭を、今日の雨が少しは緩和してくれている。女はめんどうくさそうにため息をはき、うずくまる男の側から離れようとも思ったが、それでもどこか後ろめたい気がしてその場を去ることができなかった。
 うずくまる男は何時間も前から道ばたで雨にうたれているらしく、全身ずぶ濡れで体を震わせている。剣を携えているところから剣士であることは分かった。だが、どこをケガしている風でもないのに、この男は雨の中ずっとうずくまったまま苦しそうな息を吐いているだけだ。男は頭を抱えながら、やがて小さくうめき声をあげた。
「ちょっと……あんた、どこか具合が悪いのかい?」
 女はもう一度辛抱強く声をかけた。
「……うるさい……! 俺にかまうな……!」
 男が絞り出すような声でそう言った。
「そんなこと言ったって、あんたずっと苦しげにうめいているじゃないか。うちにおいでよ。お医者に診てもらった方がいいよ」
「俺に近寄るな……! 頼むからどこかへ行ってくれ!」
 にべもない男の言葉に、女はいまいましげにため息を吐くと、薄汚い自分のアパートに戻ろうと歩き出した。そのとき、
「……待て……!」
 と声がして、女はしかたなく振り返った。その声には先ほどまでの苦しげな様子は感じられない。
 男は焦点が定まらない瞳で女を見つめていた。その口元にはゆがんだ笑みが浮かぶ。男は立ち上がると、見せつけるかのようにゆっくりと腰の剣を抜いた。
「……ひ……っ!」
 鞘鳴りの音に女は恐怖に顔をひきつらせ、小さく悲鳴をあげた。男の顔はまるで肉食動物が獲物を見つけたかのようだ。満足そうな笑みを浮かべてゆがみ、その瞳はグリーンの虹彩を放つ。エメラルドグリーン。偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》の血を引く人間だけが持つ色。レト・ソレンセンの人なつこい茶色い瞳は、今は残虐な喜びに震える濁ったエメラルドグリーンに彩られていた。
 女は全力でこの場を離れようと駆けだした。レトは満足そうに自分の剣の先を眺め、それからゆっくり左手をかざすと、走る女の足下に爆炎があがった。爆風で壁に体を叩きつけられ倒れた女は煙にむせながら、近づいてくる人影から逃れようと必死でその場を這いずり回った。だが、剣を持った影はすぐ後ろに迫っていた。
「あたしを殺すつもりかい? ねぇ、お願いだよ、あたしを殺さないでおくれよ」
 女は泣きながら懇願した。レトは哀れな女を冷徹に見下ろしたまま動かない。
「助けてくれたらなんでも言うこと聞くよ、ねぇ、後生だから……!」
 レトは無言のまま剣を振りかぶり、それをなぎ払った。骨を断つ鈍い音とともに首が飛び、鮮血が吹き出してレトの全身に跳ね返る。血塗れのレトは満足そうに笑い、自分の剣からしたたる血を眺めた。その血は雨と混ざり合い、渦を巻きながら下水口に吸い込まれていく。
「なんだ? 今の爆発は?」
 さきほどの爆発でアパートの住人が何人か飛び出してきた。そして、血塗れで立ちつくす男と、その足下に転がる首のない女の死体に目を留めると、彼らはとたんに悲鳴をあげて後ずさりをした。
 レトは狂ったように鬨の声をあげ、住人目がけて剣を振り下ろした。レトは赤く染まる視界のなかで、人を殺すことを純粋に楽しむ狂戦士《ベルセルク》さながらの自分の笑い声を聞いていた。






 遠征から帰ってきたセテは、同僚からレトが行方不明になった事実を聞かされた。先日幼なじみのオラリーが除隊処分になったことだけでも十分にショックだったが、遠征の疲れも重なって、セテはひどく落ち込んだ様子だった。
 レトの部屋はいつものままだった。勝手に隊を抜ける者も年に何人かいるが、レトはこれまでそんな様子もなかったし、休暇で街へ出かけてから戻ってこなかったというから、何か事件に巻き込まれた可能性も高い。
(どこ行っちまったんだよ、レト……)
 セテはレトの部屋のベッドに腰掛けて髪をかきむしった。
(まだお前に話したいことが山ほどあったのに……)
「ここにいたのか」
 スナイプスがレトの部屋の戸口に立っていた。戦闘用のショルダーパッドを装備している。
「ついさっき、中央から派遣されてきた術者がものすごい邪気を感じたらしい。アルダスの方でサイコな野郎が人を斬り殺しているという報告も受け取った。遠征帰りで悪いが、すぐ出動だ」
 セテはため息をつき、立ち上がった。
「今度は化け物相手じゃなくて生身の人間だ。だいじょうぶだな、トスキ?」
 セテはスナイプスの心配を鼻で笑うと、
「野暮な質問ですよ」
 と肩をすくめて見せ、スナイプスの横をすり抜けていった。だが。
 アルダスの街に入った瞬間から、セテは吐き気を催すほどの嫌悪感にさいなまれていた。右手の平の銀色の傷跡がうずいて、何かを知らせようとしている。
 サーシェスと自分を結びつけている不思議な絆。救世主がつけた銀色の証。これまで痛くもなんともなかったのに、ここへきて急にうずきだし、不安な気持ちにさせる。何かは分からないが、とてつもなく嫌な感じがする。引き返した方がいい。
 殺人現場に到着すると、スナイプス以外の騎士は思わず口元を押さえ、吐き気をこらえた。雨に濡れて横たわる、かつて人間の一部であったもの。赤い海の中に白々とそれらは浮かんでいた。
「ひでぇな、どこのどいつが……」
 スナイプスが言い終わらないうちに、数ブロック先で布を引き裂くような悲鳴が聞こえた。一同は大袈裟なくらいに振り向き、剣を構え直した。
 セテの中の何かが彼をせき立てる。
 行ってはいけない! 早く行け! 相反する気持ちが彼の心を乱していた。セテは弾かれたように走り出し、他の騎士もそれに続いた。
 通りを横切るとまさに惨劇が行われた後だった。血に濡れた剣を手にした黒い人影。その足下には、たった今斬り殺されたばかりの死体が湯気をあげながら横たわっていた。
「動くな! アジェンタス騎士団だ! その場を……」
 スナイプスが怒鳴ると、男はゆっくりとこちらを振り向いた。まさか。誰もが息を飲んでその男の顔を見つめた。セテの無二の親友、レト・ソレンセンの姿がそこにあった。
 全身に返り血を浴びた親友の姿に、セテは意識を失うかと思うほどの衝撃を受けた。右手の銀色の傷が急に鋭い痛みを告げた。全身の血液がそこに凝縮するかのような激しい痛みが右手に走ったが、セテは剣を握る左手から急速に力が引いていくのを感じていた。
 俺は信じない。これは悪夢の続きに違いない。
 レトはセテの姿を見つけると、今斬り殺した男の死体に見せつけるかのように剣を突き立て、その腹を切り裂いてみせた。まるで子供が罠にかかった小動物を自慢げに見せつけるように。レトはくぐもった笑い声をあげながら死体の腹から剣を引き抜くと、その血塗れの剣の切っ先をぴたりとセテに向けた。
「来たな、セテ」
 レトは遠目にも分かるほど楽しそうな笑みを浮かべ、それからゆっくりとセテに向かって歩き出した。騎士たちは剣を構えたが、セテはそれをやめさせ、剣を収めてレトに用心深く近寄った。
「レト……本当にお前なのか……?」
 声が震えてしまう。あの優しいレトが無差別に人を殺すなんて信じられない。目の奥が熱い。セテは涙が流れそうになるのを必死で我慢した。
「セテ、お前がくるのを待っていたんだ」
 レトはいつもの笑顔を浮かべてセテを見つめている。ゆっくりとこちらに近づきながら。
「どうして……どうしてこんなマネを……」
 足が震えてこれ以上前に進めない。全身に返り血を浴びた恐ろしい容貌とは裏腹の優しい微笑みに、奇妙なアンバランスさを感じながら、セテはこれが茶番であってほしいと願う。
「どうしてって? それはお前に話したいことが山ほどあるからだよ」
 セテはレトの瞳の色がエメラルドグリーンなのに気がつき、背筋が寒くなるのを感じた。あの茶色いレトの瞳はどこへ行ったのか。エメラルドグリーン。サーシェスやレオンハルトと同じ瞳の色なのに、なぜか皮膚が泡立つ。それは狂気を宿す呪いの色。
「待て。それ以上俺に近づくな」
 セテは我に返って厳しい口調でそう言った。だが、レトはセテの制止を気にすることもなく、そのまま近寄ってきた。目と鼻の先ほど近くまで来ると、そこで彼は立ち止まった。
「……そう、お前には話したいことが山ほどあったんだ」
 レトはそう言うといきなり剣を振り上げ、セテの頭上に振り下ろした。セテは愛刀を抜き、それをすんでのところで防いだ。ものすごい力で押し戻されそうになるのを、セテは歯を食いしばって両手でこらえなければならなかった。レトは片手で剣をつかんでいるだけだというのに。
 後ろでスナイプスたちが剣を構え直すのを見て、セテは叫んだ。
「頼む! ここは俺にまかせてくれ!」
 それを聞いて、レトは鼻を鳴らす。
「たいした自信だな。自分ひとりでなんとかできると思っているのか」
 突然、レトは空いている左手でセテの首に手をかけた。その手に力がこもり、セテは苦しさに顔をゆがませる。両手でレトの剣を受けているので、それにあらがう術はない。
「そうだ。おきれいで自信たっぷりのセテ・トスキ。オラリーや俺がどんな思いでお前を見ていたかも知らないくせに」
 なに? 何を言っている?
 次の瞬間、セテは壁に投げ飛ばされていた。背中から叩きつけられてせき込むセテに、レトは容赦なく斬りかかった。セテはまたもやそれを受け太刀で防ぎ、それから体勢を立て直してレトの攻撃をかわす。
 ものすごい攻撃だった。すばやさと力が二倍にも増したようだ。レトは決して弱くはなかったが、セテが防戦いっぽうになるほどではなかった。剣を斬り結ぶたびに火花が散り、ふたりの剣士は雨の中ずぶ濡れのまま熾烈な戦いを繰り広げていた。
「防戦だけとはな、お前の飛影が泣くぞ」
 セテは渾身の力で剣を振り払った。だがそれはレトの胸をかすっただけで、すぐさまレトの剣がセテを襲う。
 次の一撃でセテは利き腕を切り裂かれ、傷口から血が噴き出した。その様子を、レトは本当にうれしそうに笑いながら見つめていた。凶悪な表情。あれは正常な人間の目ではない。狂戦士、まさしく戦いに狂うベルセルクの瞳だ。
「レト! 頼む、もし誰かに操られているなら目を覚ましてくれ! お前を斬りたくないんだ!」
 セテは攻撃をかわしながら叫んだ。それに対し、レトは鼻で笑い、
「操られている? 俺が? これほどの力を手に入れた俺が?」
 次の瞬間、セテは見えない力で立ち並ぶアパートの壁に叩きつけられていた。壁が衝撃でへこみ、無数のひびが走る。セテは血を吐き、うめき声をあげた。たぶん今の衝撃であばらの何本かが折れたに違いないと確信する。だが、今のは? レトが術法を使えるわけがない。それに、術法を発動する呪文はいつ唱えていたのか?
「トスキ!」
 スナイプスが叫び、レトに斬りかかった。
「うるさい! 雑魚はおとなしく寝ていろ!」
 レトは左手をスナイプスたちに向けて差し出した。爆炎が彼らを包み込み、特治隊の面々は爆風で吹き飛ばされて、おのおの壁に叩きつけられた。
 セテはあばらを抑えながらやっとのことで起きあがると、口の中にたまった血を吐き出し、剣を構え直した。
「俺を斬る、だと? お前に俺が斬れるのか? そのざまで?」
 レトの嘲笑にも耳を貸さず、セテはまっすぐ彼を睨み付けていた。傷を負った左腕からは絶えず血が流れ落ち、痛みのために手が震える。立っているのもやっとのほどの激痛なはずだ。
「お前に俺が斬れるわけがない。そういう男だ、お前は」
 レトは軽く剣を振り、セテの剣をなぎ払う。飛影はセテの手からいとも簡単に離れ、足下の水たまりに落ちていった。それを拾い上げるいとまもなく、すぐに首筋に冷たい切っ先の感触を覚える。レトはセテの首筋に剣を当てたまま、セテの顔を見つめていた。だが、彼の顔がひどく悲しそうに見えたのは、痛みからくる幻覚だろうかとセテは思った。
「……お前は強すぎる。そしてお前は弱すぎる。その強さと弱さが、俺をどれくらい苦しめたかお前は気づいているのか」
 セテは目を見開いた。何を言っているのか理解できなかったからではない。親友の口から出た言葉は、彼にとっては思いもかけぬものだったからだ。

──親友だと思った。俺が支えてやらなければいけないと思った。だからお前の側にいることを望んだのに──

 レトは左手で再びセテの首をつかみ、剣を振り上げた。セテはレトの指を引き剥がそうともがいたが、きりきりと食い込む指は彼の意識を次第に奪い去っていく。
「選ばれた者、すべてを持てる者のお前には分からないだろ。お前をそばで見ているのがどれだけ残酷なことか。だから俺はお前を殺す。もう二度と、お前の幻影に惑わされないように」

──お前が俺の側から離れていってしまう前に。殺してしまえば、もうお前はどこにも行けない。お前は永遠に俺の──

 ああ、そうだったのか。

 そうだよな。俺は何も知らずにお前に甘えてばかりで、何ひとつお前の力になるようなことをしたことがなかったもんな。
 自分勝手で虚栄心が強くて、気まぐれで、わがままで──

 セテが抵抗をやめた。両手を下げ、黙ってレトの行為を受け入れるべく目を閉じた。そのまぶたから涙がこぼれ落ちるのを、レトは見逃さなかった。
「お前がそう思うならそうすればいい。俺を見くびるな。俺のせいでお前が苦しむことがそれでなくなるなら、こんな命喜んでくれてやる!」
 セテは目を見開いて親友のエメラルドグリーンの瞳をまっすぐに捕らえた。いつでもまっすぐに人を見つめていた青い瞳からは、涙が膨れあがっているのが見えた。
「お前がそう思ってくれなくてもいい。それでもレト、お前は俺にとってはただひとりの、最高の友だったんだ」
 レトは目を見開き、頭上に剣を振り上げたまま身動きひとつせずに親友を見つめた。

──お前を苦しませるくらいなら、その前に俺を──!

 レトはもう一度剣を振りかぶり、それをまっすぐに振り下ろした。セテは歯を食いしばる。サーシェスとの誓いが果たされなかったことを悔やみながら。

──お前は永遠に俺の親友なのだから──

 肉と骨を貫く鈍い音とともにその剣が貫いていたのは、レト自らの心臓であった。
「レト!!」
 深々と刺さったその剣を自分の目で確かめると、レトはゆっくりと剣を引き抜き、セテに微笑んだ。レトの手から剣が離れ、水たまりの中に小さな音をたてて落ちていった。倒れるレトを、セテは血にまみれながらしっかりと抱き留めた。
「セテ……?」
 レトがセテの耳元でつぶやいた。セテがレトの顔を覗き込むと、その瞳はエメラルドグリーンから茶色に戻り、凶悪な表情はもう消え去っていた。
 レトを静かに横たえるが、その際自分の肋骨のけがが響いて、セテは小さくうめいた。
「いま術医を呼ぶ! 待って……!」
 術者を呼びに走り出そうとしたセテの腕を、レトが力強く引いて引き留めた。
「もういい。どうせ間に合わない。それよりお前に話したいことがあるんだ」
 セテはレトを抱え直し、自分の上着を丸めてレトの頭の下に入れてやる。
「俺は……本当はお前がうらやましかった。ねたましかったんだよ……。お前はどんどん強くなっていくのに、俺はおいていかれてしまう……」
 セテは黙ってレトの言葉に耳を傾けていた。両の目から涙が次々とあふれてくるのを拭いもせずに。
 セテ、頼むからそんな目で俺を見ないでくれ。俺の中の浅ましい心が、隠しておきたい気持ちが怒濤のごとくあふれてきて、お前の前でさらけ出してしまいそうになる……!
「オラリーも、お前を見ているのがつらかったんだと思う。俺も、お前を見守ってやればそれでいいと思った……だけど……いつでも自信たっぷりのお前が憎かった。お前が失敗してくれればいいのにと思ったことだってある」
「もういい、レト、分かったからもうしゃべるな」
「最後まで聞いてくれ。俺はお前にあこがれていたんだ。純粋に強くて、自分の道を信じて疑わないお前を……。俺だけじゃなく、オラリーや他の騎士見習いの人間みんなそうだ。だけど、俺の心の中の醜い部分が、それを認めたがらなかった。俺は自分の弱さにつけこまれたんだよ」
 レトはせき込み、血を吐いた。それから苦しげに息を吐き出すと、
「オラリーがおかしくなった原因を探っていたときだった。イーシュ・ラミナのように強くしてやると言われて、俺は術にかけられた。だがそれは人間を強くするのではなく、凶悪な殺人鬼に変貌させる秘術だった。結果は見てのとおりだ。力とスピードは本来の能力の数倍もアップする。呪文の詠唱もなく瞬時に術を発動できるようになる。だが……常に人を殺したくなる衝動が抑えきれなくなるんだ。黒幕は……お前も見たことがあるはずだ。その昔ガラハド提督と次期提督の座を奪い合った男だ」
「まさか……!」
「頼む。これ以上の犠牲者が出ないうちにくい止めてくれ。やつはアジェンタスを大混乱に陥れ、アジェンタス騎士団に復讐するつもりなんだ……!」
 再びレトがせき込む。ごぼごぼと音がして、唇から血があふれてきた。意識の戻ったスナイプスらが呼んだらしく、騒然とした中を術医が走ってきた。
「レト! もういい、しゃべるな! いま術医が到着した! 手当をするから黙って!」
 ふと、セテの頬にレトの手が触れた。血に汚れた頬を、レトの手が優しく拭っていた。
「……そんな顔すんな……。もうお前は俺なんかいなくてもひとりでやっていけるだろ? お前はいつだって自信たっぷりだった。これからだってずっとそうしてほしいんだ……。そんなお前が俺は好きだったんだから。本当はずっとお前の側にいて見守ってやりたかったけど……それももうできないな……」
「レト……! レト、頼むから……!」
 セテはレトの手を握り返した。涙があふれてきて、まともにしゃべることもできない。彼の手から血の気が引いて、どんどん冷たくなっていくのが分かる。術医がレトの横に座り、呪文を唱えながら手をかざしていた。
「セテ……俺の永遠の友……お前を本当に愛していた……心から……」
 レトの手がぱしゃりと音をたてて水たまりに落ちた。セテはレトの体を抱え起こして彼を揺さぶる。術医は呪文を唱えるのをやめ、静かに立ち上がってその場を去っていった。
 雨がいっそう激しくなり、セテの髪から頬を伝う。幾筋も頬を流れ落ちるのは、セテの涙なのか雨のしずくなのか、もう分からなくなっていた。






「どうした? サーシェス?」
 書き取りの手がはたと止まったのをみて、フライスはサーシェスに声をかけた。ふとその顔を見ると、サーシェスの両目からは涙がこぼれ落ちていた。
「あ……なんでも、なんでもないの。なんだか急に悲しくなって……ヘンなの」
 サーシェスは自分の左手の平に残る銀の傷跡を見ながら涙を拭った。
(なんだか……セテが泣いているような気がしたから……)

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