第二十三話:鋼鉄の援軍

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 降り注ぐ雨のように屋根を伝い流れ落ちてくる赤いもの。先ほどまで体内を駆けめぐり、血管を脈打たせていたはずの人間の血液であった。赤黒く変色し、粘り気を増しながらしたたり落ちると、やがて乾いた地面にしみこんでいく。
 屋根の上の人影は手に持った剣をひと振りし、刃に付着した血糊を払った。そしてそれと同時に、斬られてその足下にひれ伏していた人間の身体を足で押してやる。屋根を滑り、セテとスナイプスの前に音を立てて落ちてきたそれは、アジェンタス騎士団のえんじ色の制服を着た若い騎士であった。腹を切り裂かれているだけでなく、左肩からすっぱりと切り落とされている。さきほど落ちてきた腕の持ち主に違いなかった。
「トスキ!」
 スナイプスがセテを肘でつつき、周りを見るように促した。セテは剣を構えながら周囲を見渡すと、同じようにアジェンタス騎士団の制服を着た何人もの騎士が、斬り殺されて累々と横たわっているのが目に入った。
「まさか……あいつひとりで一個中隊を殺ったのか!?」
 屋根の上で人影が笑うような仕草をし、それから剣の切っ先でセテとスナイプスのまわりをぐるりと指し示した。
 アジェンタス騎士団だけでなく、特使の黒い制服を着た死体が目に入る。そして術者のローブをはおった死体も。騎士団と特使を派遣し、それに術者を同行させた街なら、ここはおそらくアインバイン。とすれば、こいつは間違いなくコルネリオの配下だ。
 人影はひらりと屋根から身を躍らせ、セテとスナイプスの目の前に音もなく舞い降りる。屋根の上の殺人鬼の小柄な体つきに違和感を覚えていたセテは、ここへきてはじめて身体が震えるのを感じた。
 赤毛の少女剣士。ガラハド暗殺に失敗して囚われたものの、見張りの騎士たちを殺して逃げおおせた年若い暗殺者であった。
 なぜ彼女がここに!?
 その姿にセテはまぎれもない恐怖を覚えた。斬り殺した騎士たちの返り血を頭から浴び、その赤毛はまるで炎のように揺らめく。血塗れの顔の中で、獣のようにむき出した歯だけが異様に白く輝いて見えた。まさに悪鬼の表情であった。うれしそうに目を細めて笑うその瞳はエメラルドグリーン。確かあの少女の瞳は茶色だったはずだ。瞬時にセテは、アルダスで剣を交えたときのレトを思い出す。あのときと同じ悪夢が、目の前に立ちはだかっているのだった。
「おい、こりゃあ……」
 スナイプスが唸る。彼もこの暗殺者の姿を見知ってはいたが、その不吉な姿におそれを感じているに違いなかった。セテは生唾を飲み込んで、もう一度飛影を握り直した。
 ふと、これまでまったく焦点の合わなかった少女の目がセテを見つめる。すると、その瞳はいまはじめて目の前にいるふたりの剣士に気づいたかのように大きく見開かれ、驚いたような表情を作った。しかし、すぐに満足そうにその目が細められ、あの黒光りする剣をぴたりとセテのほうへ向けた。
「やっと見つけたぞ! トスキ!」
 そう叫ぶと少女はいきなり高らかに笑いだし、そして一撃必殺の剣を振りかぶって突進してきた。
 セテは少女の最初の攻撃をかわし、ふた振り目に下からなぎ払われたのをすんでのところでジャンプしてよけた。スナイプスが横から斬りかかったが、それを少女は軽く流すかのように払い、返した刃でスナイプスの剣を捕らえた。
「うおっ!」
 スナイプスが叫び、斬り結んだ剣を引いて後ろに下がる。足下がふらついている。あの剣に接触すると力が奪い取られるかのような脱力感を覚えたのを思い出したセテは、統括隊長に叫ぶ。
「隊長! その剣に接触しちゃダメだ!」
 スナイプスは舌打ちをし、すばやく身を翻して少女の黒い刃をかわす。セテはアパートの壁に並んでいた空樽に走り寄り、剣を振り上げる少女目がけてそれを蹴飛ばした。少女が体勢を崩して倒れるのを見届けると、セテは剣を鞘に収め、いまだ足元のふらつくスナイプスの腕を引いて後退した。
「くそ! なんなんだ、あの剣は」
 スナイプスが毒づき、頭を振る。セテにも答えようがない。だが、あの剣に触れた部分から生気が吸い取られるのだけは確かだ。とにかくいまは退却したほうがいい。
 しかし、突然ふたりを攻撃術法が襲う。地面を走る稲妻がふたりの足を捕らえ、骨までひびくほどの電撃が体中を走った。ふたりは派手にゴミ集積所に突っ込む。転がる樽の向こうで、少女が法印を結んだ腕を差しのべていた。セテは彼女が魔法剣士であったことを失念していたのを呪う。レトでさえ術法が使えるようになったのだ。超人になった暗殺者の最大限に増幅された攻撃力は計り知れない。
 ふたりはゴミの山の中から急いで身を起こし、退却を続ける。退却しながら、セテはなんとか切り抜けられないかとしきりに頭を巡らす。少女はふたりの背中に歪んだ笑みを浮かべながら、その両足に力を込めた。
 瞬時に少女の姿が消えた。しかし次の瞬間にはセテたちの上空に姿を現し、落下にまかせて頭上に剣を振り下ろしてきた。とっさにセテは飛影を抜いてそれを防ぐ。しびれるような感覚が剣から腕を伝い、頭の芯を麻痺させるのを、セテは歯を食いしばって耐えた。食いしばった歯の間から呻き、気を失った瞬間に斬り殺される自分の姿を想像する。
 両手が塞がっているなら足!
 セテは押し戻される刃に耐えながら、少女の柔らかそうな腹に渾身の蹴りをお見舞いした。見事に蹴りが決まり、少女はうめき声を漏らしながら腹を押さえてその場にうずくまった。解放されたセテもスナイプスの肩に倒れ込む。しばらくは身体がしびれて動きそうにない。スナイプスはセテを引きずるようにして再び走り始めた。
 少女は吼えるような声をあげ、腰のベルトに手をかける。細長い針のようなものが飛び出し、そのグリップ部分の小さなボタンを押すと、中に仕込まれていた小さな棘のような突起が無数に針の表面に顔を出した。少女はそれを握り、力任せに投げつけた。針は彼女の術法に乗って加速度を増し、いくらか正気を取り戻し、自力で走り始めていたセテの太股に見事に突き刺さっていた。
「ぐあっ!!」
 セテは太股を押さえて倒れた。命中した後に飛び出た棘が肉をつかまえ、さらに引き裂く。
「このクソバカが! ケガをせずに戦えんのか!!」
 スナイプスが相変わらずの口調でそう叫び、倒れたセテに駆け寄る。深々と突き刺さった針に手をやるが、棘が逆さに出ているのか、ちょっとやそっとのことでは抜けそうにない。
「いいか、叫ぶか歯を食いしばるか決めておけ!」
 スナイプスはおざなりにそう言うと、セテの太股に突き刺さった針を力任せに引き抜いた。セテは歯を食いしばっていたが、我慢できずに叫び声をあげる。針が抜けた後も太股の傷口からはどくどくと血が流れ出す。止血する術がないことに舌打ちしたスナイプスが、すぐ背後に赤い死に神が立ちはだかっているのを見て毒づいた。
 少女は愉快そうに口の端に笑みを乗せ、そして小動物をいたぶる猫さながらの余裕で剣を振り下ろした。スナイプスはとっさにセテをかばうように覆い被さり、そして鋭い剣の切っ先がその背中を深々と切り裂いていた。
「隊長!」
 セテが弱々しく叫ぶ。吹き出した血が傷の深さを物語っている。スナイプスは歯を食いしばって痛みに耐えながら、暗殺者の持つ黒光りするその刃を睨み付けた。少女は感心したように目を細め、もう一度剣を振りかざした。
「そこまでだ!」
 少女の剣がスナイプスの身体数センチ手前ではじき返された。ふたりの身体の周りには、物理障壁用の結界が張り巡らされていた。
 標的以外の男の声に一瞬ひるんだのか、少女は辺りを見回す。セテもその声の主を捜そうと頭を巡らせたが、そこに人影はなく、かわりにセテたちがアルダスで見た巨大な一つ目の化け物が宙に浮かんでいた。
「そこまでだ。殺せとは言っていない。そいつらを捕らえるのがお前の使命のはずだ」
 一つ目の化け物は男の声でそう言い放つ。コルネリオの声に違いなかった。
「じゃまをするな! コルネリオ!」
 少女は派手に毒づくと、一つ目の化け物目がけて剣を振り上げた。だがその剣は化け物に触れる直前にまたもやはじき返され、途端に少女は自分を抱きすくめるように両腕を身体に回した。
 セテはスナイプスを抱え起こしながら自らの身体を起こし、少女の様子を見守る。彼女の額からは玉のような汗が噴き出し、身体は小刻みに震え始めていた。手からはやがて剣がぽろりと落ち、少女はがっくりと膝をついて苦しそうにあえいだ。
「くそ! こんなに早く……!」
 少女は誰に言うでもなしに叫ぶ。歯がガチガチと鳴り出し、上気していた血塗れの顔から見る間に血の気が引いていくのがわかる。
「……具合が悪いのか……?」
 セテはおそるおそる少女に声をかけた。セテの言葉に反応した少女はわずかに顔を上げ、睨み付ける。
「う……うう……あ……!」
 少女の食いしばった歯の間からうめき声が漏れる。その震えかたは尋常ではない。
「……おい!」
「う……うあ……あああああ!!!」
 少女は突然叫び、そして自分の剣を拾い上げて後ろに飛びすさる。
「うおおあああああああ!!!!」
 少女は獣のような声をあげてアパートの壁に自らの拳を叩きつけた。煉瓦造りの壁がまるでガラス細工のように砕けたが、しかし少女の拳は皮膚が裂け、肉がえぐれてひどく出血していた。それでも痛みを感じないのか、狂ったように少女は壁に何度も何度も拳を叩きつける。震える肩で激しく息をしながら、少女はがっくりと膝をついた。
 セテが足を引きずりながら近づくと、少女は気配を察知して顔を上げた。瞳の色は茶色に戻り、さきほどまでの悪鬼のようなすさまじい形相は消えていた。かわりに、年相応のはかなげな少女の素顔がそこにあった。その大きくつり上がったアーモンド型の目からは、いまにも涙がこぼれ落ちそうだった。セテは魅入られたかのようにその瞳を見つめる。やがて、少女の唇が声なき言葉を紡ぎだしたのを、セテは驚愕の思いで受け止めた。
 少女は突然首を振り、何かを振り払うかのように勢いよく立ち上がった。その次の瞬間、少女の姿は揺らめき、虹彩色に輝いたかと思うと消えてしまった。セテが間髪入れずに頭上を振り返ると、様子をうかがっていた一つ目の化け物も、少女が消えたのを確かめそれに満足したかのように即座に姿を消した。
 セテは流れ落ちる血と痛みも忘れて、さきほどまで少女がうずくまっていた場所を見つめ、立ちつくしていた。あの少女の唇は、自分になんと言おうとしていたか。見間違いではない。確かに彼女の唇が言葉をつむいだのを見た。「助けて」と。






 粗末な造りの廊下を、金切り声を上げて転がっていく車輪の音。白いシーツをかぶせられたベッドがあわただしく慈善病院の廊下を走り去っていく。
 それを傍目で見送っていた看護人の長エルディラ・コルマンは、世間話をしていた看護人には聞こえないように小さくため息をついた。
 またか──
 今月に入って慈善病院の患者の死亡率は異様に高まっていた。そのほとんどが衰弱死。最近の慈善病院の口さがないうわさ話にも、彼女は心を痛めていた。「あそこに入ったら二度とまともな身体で退院はできない」。
 言いたくはないが、例え社会的には地位の低い人間であっても、彼女にとっては命を救うべき患者に違いない。ところが、最近は身よりのない患者や末期的な患者、発狂した患者などを中心に、三日に一度は死亡報告がなされている。患者の扱いも、自分が当番でない日にはそれはひどいものだという。自分のあずかり知らぬところで何かが起きているのではないか。彼女はここ一月の間ずっと思い悩んでいた。
 看護人に押されて進むベッドが急カーブを曲がろうとしたとき、そのシーツがずるりと落ちかけた。コルマンはその下に隠された患者の死体を見て息を飲んだ。
 ひからびている。まるで長時間日陰干しにした野菜のようだった。
 恰幅のよい彼女の身体も、さすがにそれを見たときには身震いを隠せなかった。
 何かがおかしい。いったいこの病院で何が起きているのか。






「いてぇーーーーーっ!!!」
 あまりに似つかわしくない元気な悲鳴が病棟に響き渡る。無気力な患者たちも、さすがにその声を聞いて頭を巡らし、声の主を睨み付けた。
「なんですか、情けない! これくらいの傷、かすり傷みたいなもんでしょうが!」
 手厳しい女性看護人の叱責を受け、セテは歯を食いしばって悲鳴を飲み込む。ベッドにうつぶせに寝かされ、下半身だけ服を脱がされて横たわるその様は、お世辞にも格好いいとは言えない。さすがに太股に受けた傷以外はシーツで隠されていたが、こんな格好をサーシェスに見られたらだとか、あの忌々しい聖騎士レイザークに見られたらだとか、セテは実に想像力たくましくさまざまな余計なことを考えていた。
「はい、縫合終わり!」
 女性看護人が傷の縫合を終え、仕上げにセテの尻をぱちんと叩いた。再びセテの悲鳴が病棟内を駆けめぐる。
「大袈裟な! 麻酔だってかけてるんだし! あんたの連れのほうがよっぽどたいへんなんだからこれくらいの傷、我慢なさい!」
「へいへい」
 でっぷりと太った女性看護人に言われて、セテは渋々頷く。アインバインの住民の協力で、最も早い馬車に乗せてもらいアジェンタシミルにある慈善病院にたどり着いた後、スナイプスはすぐに手術室に入った。その後、セテもこの治療室に引きずり込まれ、太股の傷を治療してもらうことになったのだった。
「ところで、あんたさっき術医に透視してもらったみたいだけど、あんたも絶対安静よ! 肋骨のひびがまだ完全に治ってないじゃないの。そんな状態で暴れるなんて、中央特務執行庁はそんなに人手不足なのかい?」
「不景気なもんでね、俺たちゃ人の三倍も働かされてるってわけで」
 セテはおどけて右手をひらひらさせた。その右手のひらの傷を見て、看護人が顔をしかめる。
「あら、あんた、その手の傷、それも治療してあげるから貸してみな」
「あ、こ、これはいいよ!」
 セテはあわてて手を引っ込める。サーシェスとの絆を、こんなオバサンに消されるなんてたまったもんじゃない。
「まぁいいわ。とりあえず、そこの書類にサインして。あんたも即入院してもらうわ」
「入院!? 俺が!?」
「つべこべ言わないの! 終わったらそこの鎮痛剤を飲んでしばらく横になってなさい。もうすぐあんたの連れの手術も終わるから」
 女性看護人はすごい剣幕でそうまくしたてると、大儀そうに身体を揺すり、大股で治療室を出ていった。セテはその後ろ姿を見ながら、世の女性はみなどうしてああも強いのかと首をひねった。
 とりあえず身体を起こし、制服のパンツを急いで引き上げる。それから、机の上の書類とその下のカルテらしいものに目を通す。カルテには自分の肋骨の傷と太股の傷が絵で記してある。セテはペンを握り、それぞれに「治療済み」と書き加えると、入院手続き用の書類を丸めてゴミ箱の中に放り込んだ。代わりの女性看護人が治療室に入ってきたので、セテはそのカルテを何食わぬ顔で手渡した。
 セテは飛影を剣帯に結びつけ、太股の痛みに顔をしかめながら治療室を出た。麻酔はほとんどきいちゃいない。大酒飲みには麻酔がかかりにくいという噂を身をもって体験するとは思わなかった。とりあえず不自由な足ながら、スナイプスの手術室を目指す。
 手術中のスナイプスのことを考えるといても立ってもいられない。彼が自分をかばってくれなければ。自分がヘマしなければ……。セテは目にかかるほどの前髪をうざったげに掻き上げ、一言悪態をついた。






 アンジェラ・フォールスは病室内で悪態をついた。二日前を最後に、部下からの連絡が途絶えている。これまでも少し連絡が遅れたことがあったが、最初の接触から連絡を二日とおいたことはなかったはずだ。何かあったのだろうか。いや、しかしここは病院だ。もし何かあったとしてもたかが知れている。
 それでも不安な気持ちが渦巻く。では自力でやるしかないのか。なんとかしてうまく看護人の目をごまかして。できれば指示を送るだけにとどめたかったのだが、これは緊急事態の部類に入る。フォールスは白髪頭を掻き上げ、それから太股に仕込んだものの手応えを確かめると、側にある車椅子に腰掛けた。
 病室のドアをゆっくりと開ける。落ち着いてきたことを理由に、彼女は昨日から鉄格子のないふつうの個室病棟に移されていた。彼女はテーブルの上の薬の包みを忌々しげに見つめ、それから薬だけを抜き取ると、便器のふたをあけて勢いよく流した。アルコール中毒を治療するための薬は、これまでもすべて便器に流してある。どこも悪くはないのにあんな毒薬のようなものを飲まされたのでは、さすがの彼女の免疫力もたまったものではない。だが、表向きはアルコール中毒患者のフリをしていなければならないので、この任務も実はたいへんな重労働である。
 彼女はゆっくりと難儀そうに車椅子をこぎ出し、薄汚い廊下を移動した。途中すれ違う看護人も、彼女の行く先になんの疑問も持っていないようだった。






 セテは中庭が見渡せる長い渡り廊下を歩きながら、さきほど再び相まみえた赤毛の少女を思う。見るたびに変わっていく彼女の様子が気がかりでならなかった。
 初めてロクランで出会ったときには、子ども好きの優しい雰囲気が見え隠れしていたはずなのに、あの血にまみれた悪鬼のような形相はどうしたというのか。アジェンタス精鋭の一個中隊を全滅させ、全身赤に染まりながらうれしそうに笑うなんて正気の沙汰ではない。彼女も同じくコルネリオの配下だったのか。いや、レトと同じようなエメラルドグリーンの瞳は、イーシュ・ラミナとほぼ同等の能力を授かるという古代の禁呪に違いない。でも彼女がどうして?
 そんなことを考えながら歩いていると、前方から車椅子に乗った白髪頭の婦人がやってくるのが目に入った。
 なにげに見つめていると、彼女は驚いたような顔をして自分を見ている。まるでなぜここに? とでも言いたげな顔だった。婦人は即座に車椅子を早め、無言で逃げるようにセテの脇をすり抜けていった。セテはその婦人の顔をどこかで見たような覚えにとらわれながら、その後ろ姿を見送った。「アンジェラ・フォールス」。見送った車椅子には、まるでゼッケンのように大きな名札が下がっていた。






 フォールスは中庭にほど近いところで車椅子をいったん止め、周りの様子を用心深くうかがった。この先にある事務棟は本来患者が入ることは禁止されている。だが、病院に見張りが立つわけでもないので、入ろうと思えば誰でも簡単に入ることが可能だ。患者は無気力に支配されているので、実際には入ってこられないはずだからだ。フォールスは用心に用心を重ね、ここで車椅子を降りる。アルコール中毒患者のおぼつかない足取りであるはずもなく、背筋を伸ばし、きびきびと足音を立てずに歩くさまはまるで特使のようだ。
 まさかこの年になって現役特使のようなことをするとは思ってもみなかったとなかば苦笑しながら、フォールスは患者のカルテを保管してあるだろう事務室を目指す。途中事務員が部屋から出たり入ったりするのをうまくかわしつつ、いくつかの部屋を覗いては入り、入っては出るのを繰り返した。
 やがて、フォールスは書棚の並ぶ部屋にたどり着いた。書棚の引き出しの大きさからして、カルテが保管してあるに違いない。この膨大な量の中から目的のものを探し出すには時間がかかりすぎると舌打ちしそうになったが、幸い引き出しにはご丁寧に年月日を記したラベルが貼ってある。ここの管理者はいい仕事をしているとフォールスはほくそ笑んだ。
 六年前の日付ラベルを貼った引き出しに素早く近づき、音を立てないように静かに引き出す。中はアルファベット順に並んでいるので、またまたラクをさせてもらったと神に感謝する。ずさんな患者の扱いをする病院の、これだけは評価できる点だ。
 フォールスは「P」の項目を探し、カルテ一枚一枚を指で慎重にめくる。あった。「ポルナレフ/アンドレイ」。アンドレイ・ポルナレフのカルテだ。「神々の黄昏」思想にかぶれ、狂信的なあの宗教集団を造り、布教活動をしていたポルナレフの過去に、こんなに簡単に一歩近づけるなんて。
 ポルナレフはおよそ八年前、この慈善病院に運び込まれた。街で乞食同様の生活をしており、発狂して死にかけていたところを保護されたが、この病院に入院させられた当初はその夢想癖に手が着けられなかったという。そして二年後の神世代一九五年、ちょうど今から六年前に退院している。その時の身元引受人はカート・コルネリオ。
 フォールスは思わず「ビンゴ」と小声でつぶやく。間違いない。これまでの調査結果をまとめるとすれば、コルネリオとポルナレフは……!
 突然、書棚の奥からがたんとなにかが倒れる音がして、フォールスは息を飲む。この部屋には誰もいなかったはず。静かにファイルを引き出しに戻し、用心深く部屋の奥をうかがう。だが、掃除用具入れのようなロッカーが奥にあるだけで、ほかはファイルを入れる引き出ししか見あたらない。
 フォールスは生唾を飲み込み、ロッカーに近づくとその取っ手に手をかけ、静かに引いた。
「ひっ!!」
 思わずフォールスは悲鳴をあげる。ロッカーの扉が開いた途端、大柄な男がフォールスに覆い被さってきた。男の体重に押され、フォールスは尻餅を付く。だが、それはすでに冷たい蝋人形のようだった。ひどい拷問を受けたかのような無惨な傷跡。まだ生々しい出血の跡から、殺されてまだ間もないことが分かった。その顔を見て、フォールスは再び息を飲む。死体は彼女と何度も接触してきた連絡員であった。まさか、ばれたのか!?
「こんなところまで入ってきてはだめですよ、フォールスさん」
 背後からの声にフォールスはぎょっとする。二メートルもありそうな巨漢が、彼女のすぐ後ろに立っていた。これだけの巨体からみじんも気配を感じさせないなんて。彼女はその男に見覚えがあった。この慈善病院の院長の護衛をしていた男だ。即座に彼女の脳は打開策を見つけるべくフル回転する。
「道に迷ったのなら私がお連れしましょう。ただし」さらに男は慇懃な物腰でフォールスに話しかけた。
「元の病室とは限りませんがね」
 その瞬間、男が突きつけた金属の棒のようなものから電撃がほとばしり、フォールスは即座に気を失って男の足下にひれ伏した。






 意識が戻ったのはつい先ほどのことだったが、用心深く薄目を開け、周りを探る。アンジェラ・フォールスは静かにこの部屋の中の様子をうかがっていた。自分は病室用のベッドに寝かされているらしい。ふと見ると、隣にも同じような病室のベッドが並べてあり、そこに熊のような図体の男が寝かされているのを見た。
──スナイプス! アジェンタスの統括隊長がなぜこんなところに!?──
 フォールスは驚き、身体を起こそうとしたが、それが思うようにいかないのに気づいて悪態をついた。両手がベッドに固定されていた。足だけが自由になるのがせめてもの救い、いや、彼女にとって足さえ自由になれば十分だった。
 突然重い扉が開く音がして、何者かが入ってきた。フォールスはその顔をはっきりと見、自分たちの探していた答えが正しかったことに対し、神々に感謝の祈りを捧げた。アジェンタシミル慈善病院院長、アルベルト・シュトロハイムの姿がそこにあった。
「……ちょっと、あたしをこんなところに連れてきていったいなんだっていうんだい? もっといい個室をくれるっていってたじゃないか!」
 フォールスはシュトロハイムに対し、とげとげしい口調でまくしたてた。院長は愉快そうに笑うと、
「もうそんなお芝居は必要ありませんよ。フォールスさん。あなたが何者かは調べさせてもらいました」
 フォールスは舌打ちする。やはりバレていたのか。しかしこの男は自分をどうするつもりだろう。それに、隣に寝ているスナイプスが気に掛かる。
 シュトロハイムは白衣のポケットからなにやら注射器を取り出すと、すぐさまフォールスの腕に押しつけた。
「な、なにを……!」
 とっさにフォールスは腕を振り払うが、すでに体内になにかがそそぎ込まれたのを感じていた。
「新薬の研究ですよ。あなたにも役に立ってもらいましょう。隣の男ともどもね」
 院長は再び愉快そうに笑うと、隣に寝ているスナイプスの容態を見、そしてその太股くらいはある頑丈な腕に注射器を押し当てた。
 フォールスは自分の中に注がれた液体によって即座に意識が遠のくのを感じる。意識ははっきりしないが、そのかわりに感覚だけは鋭くなっていくようだ。そのうちに、部屋の中の無機質な情景が歪みはじめ、それらは小悪魔のように叫び声をあげはじめる。この感じ、麻薬の類でもない。だとすればなんだ。






 手術室に到着したが、すでにスナイプスの手術は終了したようで、次の患者が運び込まれている最中だった。セテは通りがかった看護人にスナイプスのことを尋ねたが、看護人は無愛想な顔つきでセテを睨み付け、そういうことは病室係に尋ねろといわんばかりに皮肉たっぷりな返事を返してくれた。
 セテは彼らが手術室に引っ込んだ後派手に毒づき、それから病室のほうへ向かう。退屈そうにしている看護人たちが控えている看護人室のドアをたたき、スナイプスの病室を尋ねる。
「スナイプスですって? そんな名前の患者は聞いてないわよ」
「派手に背中を斬りつけられて熊みたいに唸ってた図体のデカい男だぜ?さっき手術が終わったみたいで、病室はこっちで聞けって言われたんだけど」
 セテは看護人のけだるそうな態度に内心腹を立てながら、辛抱強く食い下がった。看護人は調べる気もなさそうで、帳簿のページの端を指で弄びながら彼をじろじろ見つめる。
「とにかく、そんな名前の患者が入院するなんて聞いてないわよ。手術っていってたけど、ホントにここの病院なの? 勘違いってことは?」
「俺はその手術室につい一時間ほど前まで付き添ってたんだ!」
 セテはいらつきを抑えきれずに怒鳴り返す。看護人は少し驚いたようだが、
「大きな声出さないで。患者たちが興奮するわ」
 セテはあてつけるように大きなため息をつき、それからくるりと背を向けて病室の廊下を歩きだした。その背に看護人が叫ぶ。
「ちょっと! 剣なんか持ち歩かないでよ! ここは病院なんですからね!」
 薄汚れた廊下をセテは不自由な足で歩き回り、病室を一室ずつ見て回る。しかし、信じたくないことだがどこにもスナイプスの姿は見あたらなかった。心霊麻酔を施され、手術したばかりの患者がひとりで歩くわけもない。二時間ほど前病院に到着してから、彼があの手術室に入るのを見届け、それからしばらく付き添っていた自分が間違えるわけもない。手術室の前で待っていたときにけがをしているのを見られて治療室に引きずり込まれたが、それだって一時間程度だ。だとすれば……。
 不意にセテの脳裏に不安がよぎる。だとすれば何者かに連れ去られたか? そんなばかなことが病院で起こるわけがないと思ってはいるものの、なぜだか胸騒ぎがする。
 もしかしたらスナイプスの身に危険が迫っているかも知れない。そう考えるとしだいに歩みが速くなっていき、そしてセテは最初にスナイプスが運び込まれた手術室めざして走っていた。
 途中、中庭の木の陰に無人の車椅子が放置されているのを見留めたセテは、何気なくそれに近寄ってみた。車椅子の背には大きな名札がぶらさげられていた。「アンジェラ・フォールス」。その大袈裟な名札のおかげで、先ほど渡り廊下ですれ違った白髪混じりの女性患者を思い出すことができた。
 セテはこの先にある建物を睨む。すれ違った看護人から、あそこは確か事務棟だと聞いた。車椅子から事務棟まではおよそ二十メートルほどの距離だが、車椅子に座っていないと移動もできない患者が、こんなところに自分の足をほっぽりだして歩いて行くはずがない。しかも、患者の立ち入りは原則として禁じられているという。漠然とした胸騒ぎはいつしか確信できる不安に変わっていた。
 セテは事務棟のドアを開け、中に入り込む。立入禁止のわりには警備も手薄で物騒だ、などと騎士団の人間が考えそうなことだと苦笑しながら。
 面会に来た人間が入り込んだと思った事務棟の職員が、足早にセテに近づいてきて彼に小言を言おうと口を開いたが、中央特使のバッジのついた黒い戦闘服を見たその瞬間にすぐに口をつぐんだ。萎縮しきった事務の男をセテは横目で睨み付け、そのまま奥へと進む。途中、書類棚の並んだ部屋をのぞき見ながら歩いていくと、地下へ降りる階段と上に昇る階段にさしかかった。ふたつの階段を見比べる。地下へと続く階段は重い扉に閉ざされており、彼の直感が何かを告げた。
「ふん、こんないかにもあやしい扉、見え見えだっつーの」
 セテは扉に手をかけ、鍵がかかっていないかどうかを確かめる。意外なことにドアのノブは簡単に回り、セテはあまりの容易さに拍子抜けしてしまう。
 ドアをくぐると、きつい薬品の臭いが鼻をつく。五メートルほどの長さの狭い物置のような通路が続き、その先には入り口と同じ鉄の扉が待ちかまえていた。セテは袖口で鼻をこすってから一歩踏み出すが、その直後、背後に気配を感じて振り向いた。天を突くかのような巨体が自分を見下ろしているのを、セテはため息をついて出迎えることとなった。
「悪いがここから先は通すわけにいかんのでな」
 巨漢は身体にふさわしからぬ紳士的な声でそう言った。軽く二メートル半は越すであろう男の前では、長身のセテも小さく見えてしまう。凶悪な面構えに、服の上からでも見て分かるボディビルダーのような筋肉で覆われた肉体。おそらく用心棒か何かに違いない。それに対し、セテは肩をすくめ、やれやれと言わんばかりに再び大袈裟なため息をついてみせた。
「……お前、頭悪いんじゃねーのか。お前みたいな人相悪いやつが出てくるだけで、『ここは怪しくてござい』ってな看板ぶらさげとくみたいなもんだぜ?」
 大男はセテの言葉に反応もせず、黙って後ろ手で入り口のドアを閉ざす。それからもったいぶったそぶりで上着を脱ぎ、見せつけるように筋肉を盛り上げてみせた。
「天井も低いし、この狭さでは十分な間合いも取れまい。自慢の剣は使えんだろう?」
 男は指をポキポキと鳴らし、愉快そうにセテをねめつける。セテはそれを見て鼻を鳴らすと、
「おいおい、なめてもらっちゃ困る。剣がなくちゃなにもできないと思ってるなら大間違いだぜ」
 セテは腰の剣帯をはずし、わざと男に見せつけるかのように床に放り投げた。それから、立てた中指をチョイチョイと曲げてみせるお得意の挑発ポーズで相手を刺激する。
「かかってきな、デブ」
 その一言が合図になったのか、男はものすごい勢いで拳を繰り出してきた。セテはそれをかわしたが、拳が空気を裂く音が耳をかすった。一発でも食らえば脳震盪でも起こしそうな威力。だが、身体が大きいということはそれだけスピードに劣るということだ。次々と繰り出される拳をよけながら、セテは相手の隙をうかがう。
「このクソガキが! ちょこまかと!」
 大男は息を切らせながら拳を振り回し、いとも簡単によけるセテにいらだつ。セテは繰り出される拳の間を縫い、まず一発目の反撃に出た。利き腕のパンチが相手の顔面にヒットし、男がよろけたのに対してすかさず、二発、三発と拳を叩きつける。大男が頭を振り振りよろめいたのを逃がさず、今度はその肩をつかんで腹に何度か蹴りを入れてやり、最後に顔の側面に肘をたたき込んでやった。男は小さくうめき、その巨体を轟音をたてながら床に伏せるに至った。
「……現役の騎士をナメんなよ」
 セテは呼吸を荒げることもなく、床にひれ伏す男を見下ろしてそう吐き捨てた。その先で待っている扉に向かおうと歩を進めた瞬間、巨体が再びセテの背後を捕らえていた。
 大男はセテの横顔を殴りつけ、彼の身体は壁に激突する。そのまま男はセテを壁際に追いつめ、肩を掴んで動きを封じた。セテは何度か正面から男の顔に拳を叩きつけたが、大男は血塗れの顔をひきつらせて笑うだけで微動だにしない。
 突然男がセテの太股に蹴りを入れる。セテは激痛に耐えきれずに叫び、さきほど縫合したばかりの傷口からは、ガーゼでは抑えきれなかったのか血がにじみ出していた。傷を押さえてかがみ込んだセテの腹に、男の強烈な蹴りが決まる。セテは腹を押さえながらうめいて膝をついたが、大男の膝が顎にヒットして派手に吹き飛び、床に仰向けに倒れ込んだ。
 男はセテに馬乗りになると、彼の髪をひっつかんで二度、三度と横面に拳を叩きつけた。派手に口の中を切ったらしく、セテが血を吐き出した。
「どうした、騎士殿。それで終わりか」
 セテは男の強烈なパンチで意識が薄れているのか動けない。男はそれを見て再び愉快そうに口の端をゆがめると、片手でセテの両腕をひねり上げてさらに動きを封じる。
「俺は貴様のようなガキをいたぶるのが趣味でな。どうせ殺してしまうんだからその前に楽しませてもらうってのもいいだろう」
 男は空いた手でセテの顎を掴み、自分のほうに向かせる。
「……ふざけんな! この変態ホモ野郎……! 離しやがれ!」
 動けないながらも目だけは男を睨み付け、セテが弱々しく悪態をつく。だが実際には恐怖と嫌悪感で体中が萎縮していくのを感じ、その顔からは見る見る血の気が引いていくのが見て取れた。
「そういう表情も悪くない。そそるぞ」
 男はくつくつとのどを鳴らしながら笑い、掴んだ青年の顎に自分の顔を近づける。セテはその瞬間に首を振りかぶり、男の鼻っ柱に頭突きをお見舞いした。男は小さく呻くと、鼻骨が折れたために血がしたたり落ちるのを感じて逆上し、力任せにセテの横面を殴りつけた。再びセテが血を吐き出す。意識を失ったのか獲物の身体から力が抜け、ぐったりとなったのを見届けると、男はセテの腕を封じていた手を離し、彼の戦闘服の下にその手をすべりこませた。セテが小さく息を飲む気配を感じて、男は満足そうな笑いを浮かべる。
「どうした、小僧。泣いてみろよ」
 男はセテの首筋にヒルのように吸い付きながら、あざ笑うようにささやいた。が、突然男はその巨体をねじって悲鳴をあげた。特使の戦闘服の袖に仕込んであった針が、男の脇腹に深々と突き刺さっていた。
 男が身体を起こしたので、すかさずセテは男の股間に強烈な膝蹴りを繰り出す。
「うぎゃあっ!!」
 情けない悲鳴をあげ、男は自分の股間を押さえながらもんどり打って倒れた。セテは弾かれたように立ち上がり、男の首をひっつかんでその頭を壁に激突させる。鈍い音とともに男の額は壁にのめり込んだ。男はふらふらと二、三歩千鳥足で歩いたかと思うと、そのまま焦点の合わない目をむいたまま床に倒れて動かなくなった。
 セテは口元と首筋を袖口で拭い、口の中にたまった血を吐き出した。
「……悪いな。こっちもプロだぜ、ブタ野郎」
 床に転がった飛影《とびかげ》と剣帯を拾い、再び腰に結びつけると、相当まいったのかふらふらした足取りで扉を開け、次を目指した。






「そろそろだな」
 シュトロハイム院長は懐中時計をポケットから出し、フォールスのベッドに近づく。硬く閉じられたそのまぶたを押し上げて瞳孔を確認し、それから隣のスナイプスのベッドに近づく。ふと、自分の首筋に冷たい金属片の感触を感じた院長は即座に動きを止め、それが刃渡り二十センチほどのナイフであることにようやく気付き、小さく息を飲み込んだ。
 重度のアルコール中毒患者であったはずのフォールスが、シュトロハイムの首筋にナイフを押し当て、ベッドから半身を起こして睨み付けていた。
「ま、まさか……!」
「……私に薬物は効きません。動けば頸動脈が確実に切断されますよ」
 フォールスは猫背のだらしない中年女ではなく、背筋をしゃんと伸ばし、まるでハイ・ファミリーのように毅然とした態度でそう言った。下劣な口調はどこにもなく、その声は気品にあふれ、そして威厳あふれるものであることに院長は気がついた。
「薬は私の体内に蓄積されている。裁判のための証拠を残しておいてくださって感謝しています。あと少しでも早かったら危ないところでしたがね。答えなさい。いま私とこの男に注射した薬はなんですか?」
 院長は答えない。フォールスは少しナイフを持つ手に力を込め、院長の首筋の皮一枚にその刃を食い込ませた。ぷつりといやな音がして、血がにじみ出してきた。
 突然ドアが開き、駆け込んできた青年の姿にふたりは驚く。黒い中央特使の戦闘服に身を包み、腰に飛影を携えたセテであった。
「てめえら、そこで何やってやがる!」
 派手に殴られた顔を上気させたセテはフォールスと院長ふたりに怒鳴りつけたが、手前のベッドにスナイプスが横たわっているのを確認すると、途端に炎のような瞳で目の前の男女を睨み付ける。
「貴様ら、何しやがった!?」
 セテは逆上して飛影を鞘から引き抜き、ふたりを脅しつけた。
「ハンク! ハンク!?」
 首筋にナイフを押しつけられたままの院長が叫ぶ。どうやら用心棒を呼んでいるらしいが、頼りのボディガードもくるはずはなかった。
「あの脳味噌まで筋肉でできてるブタのことか? やつならそこの部屋でおねんねしてるぜ」
 セテが肩をすくめてからかうようにそう言った。それから特使に与えられる殺人許可証を見せつけながら、
「俺は中央特務執行庁から特命を受けた特使、セテ・トスキだ。下手に動くなよ、おっさん。おい、おばさん、あんたこそこんなところで何やってるんだよ」
 セテは乱暴な口調でフォールスに尋ねる。フォールスは愉快そうに声を出して笑い、セテと院長のふたりを交互に見ながらベッドから降りた。
「中央特務執行庁長官、ラファエラ・フォリスター・イ・ワルトハイム将軍です。ご苦労でした、トスキ。あなたの働きに感謝します」
 セテはその声に驚き、あわてて剣を鞘に収める。こんなところで自分の直属の上司とかち合うなど思っても見なかった。しかも、現役特使のように、まさか本当にいまだに現場で活躍しているとは。
「中央特務執行庁! そんな馬鹿な!」
 シュトロハイムはふたりの中央特使に囲まれ、その顔から見る見る血の気を失っていった。彼が身よりのないアル中患者の女をここへ連れてきたのは、彼女がアジェンタス騎士団に関係したスパイであると思ったからに違いないが、まさか中央特務執行庁の人間であるとは夢にも思わなかったはずだ。こざかしいスパイと、体よくケガをして運び込まれてきたスナイプス統括隊長をまとめて始末できるという彼の予測は大幅に誤算であったわけだ。
「この病院の看護人の長、エルディラ・コルマンの協力であなた方の隠している秘密とやらを探りに来ました。どうやらそれ以上のものが発掘できたようですね、シュトロハイム院長。ここでの患者の扱いのひどさも、とくと拝見させていただきました」
 鉄の淑女は氷のような冷たい声でそう言い放ち、萎縮したシュトロハイムを見下ろす。実際に、長身の彼女は背筋を伸ばすと院長より遙かに目線が上であった。
「いまの薬物はいったいなんです。場合によっては裁判で弁護する機会があるかもしれませんよ。おとなしく従うのが賢明です」
「……超人を作り出す秘薬だ」
「なに!?」
 意外にすんなりと白状する院長の言葉に、セテは耳を疑った。
「詳しくお聞かせなさい」
 フォールス、いやラファエラの冷たい声に促され、院長は諦めたように口を開く。
「旧世界《ロイギル》の遺跡から発見された処方箋から調合したものだ。瞬時にただの人間を偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》のような超人に仕立て上げる幻の薬。私は生涯をかけてその研究に没頭するつもりだった。だが、それを実験できる機会はほとんどない。そこで身よりのない患者を治療と称して実験台に見立てていたというわけで……」
 ラファエラは大袈裟にため息をつき、セテを見やる。
「では、いま私とスナイプスに注射したのもそれですね」
 院長は力無く頷く。
「私には薬物は効かない。ですがスナイプスは違います。解毒剤のようなものはあるのですか」
 女将軍は罪人に対しても丁寧な口調を崩さない。院長は再び力無く頷くと、ポケットから別の注射器を取り出し、素直にスナイプスの腕に押し当てた。
「ちょっと待てよ! 超人に仕立てるって……! それは古代の禁呪じゃないのか!? そんな、薬で人間の体質が変わっちまうなんて」
「バカが! そんな便利な術法などこの世にあるものか。すべては失われた古代の魔法、科学によるものだ。現にいまあの方の……」
 セテの問いかけにいらだたしげに答えた院長は、そこまで言いかけて口をつぐむ。そして何かの気配に身を震わせ、怯えた視線で中空を見回す。
「おい、なんだよ、最後まで言わねえと……」
 セテはしびれを切らして飛影を抜き、院長の首筋に押し当てた。が、すぐに部屋の中に異様な気配を感じ、身をこわばらせた。一瞬、院長が低い悲鳴を漏らす。その腹が突然膨れたかと思うと、ふたりの目の前で破裂し、セテが駆け寄ったときにはシュトロハイムはすでにこときれていた。
 再びいやな悪寒が背筋をかけめぐる。狭い地下室に黒い影が揺らめき、そしてあの巨大な一つ目が、ラファエラ、そしてセテを順に睨み付けていた。
「ちっ! コルネリオか!」
 セテは飛影を構え直し、ラファエラとその向こう側のベッドに横たわるスナイプスをかばうように立ちはだかった。
「とうとうここまでかぎつけたか、セテ・トスキ、ワルトハイム将軍」
 目玉の化け物はコルネリオの声でそう言い、言い終わった後には愉快そうにのどを鳴らす声が聞こえてきた。
「おもしろい。さすが私が見込んだだけのことはある。次に会うときは、アジェンタス騎士団領総督府アジェンタシミルが崩壊するときだ。せいぜい中央特務執行庁の軍隊でも待機させておくがいい。なんなら聖騎士団にでも協力を要請してもかまわんぞ」
 パキッとなにかがはじめる音がして、巨大な一つ目は即座に姿を消した。セテは「くそっ」と悪態をつき、床に飛影を突き立てた。






「まさか将軍直々においでくださるなんて……。それにこんな危険な目に遭わせてしまったことをなんとお詫びしてよいのか……」
 看護人の長、エルディラ・コルマンは、中央特務執行庁の制服に着替え、毅然とした態度で立つラファエラ・フォリスター・イ・ワルトハイム将軍の前で頭を下げた。白髪頭の変装をとき、短く刈りあげた黒髪に戻った彼女は、フォールスとは比べものにならないほど若々しく、体力にみなぎって見えた。そんな彼女は、小太りの看護人の長を見つめながら、静かに頷いていた。
「私がもっと早くに気づいていれば……」
 コルマンはうつむき、それ以上言葉を続けることができなかった。
「あなたのせいではありません、コルマン。あなたが知らせてくれなければ解決するどころか、事態はもっと悪化していたはずです。自分を責めるのはおよしなさい。あなたのすべきことは、これからどのように慈善病院を建て直していくか、ということです」
 将軍はまるで自分の部下に説教をするようなきつい口調でそう言ったが、そこには深い思いやりが隠されていることに気づかない者はいなかった。
 コルマンは副院長と協力して院長を告発するために、ずいぶん前から準備をしていたようだった。しかし、ここ一月の間に身よりのない患者の死亡率が増え、しかもその死に様が尋常でなかったことに不安を抱いた彼女は、密かに中央特務執行庁に調査を依頼したのだった。
 最初は自分の部下を配置させていたが、そのうちにいまアジェンタスで起きている事件と関わりがあるのではないかと判断したラファエラは、自ら変装し、アルコール中毒患者のアンジェラ・フォールスとして見事潜入に成功したのだった。もちろん、フォールスがラファエラ本人であるとは知らなかったものの、コルマンはベッドの下にラファエラの得意武器であるナイフを用意するなど、最善を尽くしてくれた。そしてここで得た情報は、とてつもなくアジェンタス側に有利なものばかりであった。
 「神々の黄昏」思想にかぶれた狂信者集団の教祖アンドレイ・ポルナレフは、カート・コルネリオの実の父親であった。だが、幼い頃に別れて以来、ここ最近、少なくとも六年前までは、ふたりは再会を果たすことはなかった。ポルナレフがなぜに精神に異常をきたしてこの病院に入院させられたのかは定かではないが、コルネリオが父を自分の計画の一部として使えると睨んだに違いなかった。
 同時にこの病院には、くだんの宗教集団から多額の献金がなされており、コルネリオに依頼された院長のシュトロハイムは、その金で超人を作り出すというロイギル《旧世界》の薬の復刻に力を注いでいたのであった。
「見事な働きでした、トスキ。私のほうでは少し筋書きが変わってしまいましたが、何にせよ、アジェンタスに有利な情報が得られたことがいちばん重要なことです」
 鉄の淑女はセテを見つめ、その労にねぎらいの言葉を惜しげもなくかけてくれた。スナイプスは意識が戻り、彼女の手配で一足先に総督府の騎士団病院に護送されていた。
「まぁ貞操の危機はありましたがね」
 おどけて肩をすくめてみせるセテ。ワルトハイム将軍はなんのことだかわからず、セテの一言に目を丸くしている。だが、セテはなにか腑に落ちないような顔をして考え込んでいた。
 イーシュ・ラミナのような超人を作り出すのは、禁呪でもなんでもなかった。レトだってもっと早く気づいていれば、あるいは救うことができたかもしれないのに……。セテは親友の死が無駄死にだったかも知れないことを思い、拳を握りしめた。
 しかし、凶暴な殺人鬼を生み出すために人の魂を狩り集めていたのではないとすれば、やつの最終目的はなんだろうか。
「中央特務執行庁から再び援軍を呼び寄せました。もうまもなく到着するはずです。それに、我々はアジェンタス騎士団総督府に戻って、ガラハドに尋ねる必要があるでしょう。もしかしたら、まだ私たちは問題の核心に一歩近づいただけかもしれません」
 女将軍はそう言い、セテを促す。ラファエラとセテは馬車に乗り込み、ガラハドの待つ総督府へと向かった。
──次に会うときは総督府アジェンタシミルが崩壊するときだ──
 コルネリオは準備万端にその時を待ちかまえているはずだ。時間は、もうない。

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