第二十六話:地下の女神

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 ふわふわと身体が宙を舞うような感覚。暖かくて優しくて、まるで母さんの腕に抱かれて夢を見ているような安心感が身体を包み込む。
 あたしはすっごく眠くて仕方がないのに、誰かがあたしの身体に触れて起こそうとしている。
「ピアージュ」
 お願いだから放っておいてよ。あたしはすごく眠たいの。
 誰かがあたしの頬に触れる。暖かい。
 誰だろう。……誰でもいいや。ずっとこうしていたいもん。
「いい子だ」
 あたしはその声に突然目を覚ます。目の前にはコルネリオ。あたしは悪態をつき、この男につかみかかろうとするが、水槽のようなものに横たえられたあたしの身体は、うまく動くことができなかった。
「催眠暗示はどうなっている」
 コルネリオは隣にいる誰かに尋ねる。催眠暗示だって? いったいなんの?
「イーシュ・ラミナ以上の好戦的な人格を植え付けておいた。完璧な狂戦士(ベルセルク)に仕立てて見せようぞ」
 黒いローブを着たあの薄汚い老婆がそう言った。がりがりにやせ細った手で、その瞳と同じくらい濁った水晶玉をなで回しながら。
「完璧なベルセルク……か……」
 コルネリオは悪魔のような笑みを浮かべ、あたしを見下ろした。いやだ、心までこいつの好きにさせてたまるか!
 あたしは水槽の中で動かない体を必死にむち打ち、そしてとうとう少しだけ身体をよじることに成功した。コルネリオの隣であたしを覗き込んでいた白いローブの男が驚いて悲鳴をあげたが、コルネリオはさして驚いたふうでもなく、あのいやな味のする薬の瓶をあたしの鼻先にちらつかせた。
「無駄な抵抗だ。所詮お前は私のもとから離れることなどかなわない」
 コルネリオはこういうときには本当に楽しそうに笑う。そして薬の瓶を開けてその中身を自分の口に含むと、あたしの顎を抑えつけ、無理やり唇を合わせて口をこじ開ける。抵抗もむなしく、あの苦い薬がコルネリオの舌に乗ってあたしの口いっぱいに広がった。
 息苦しさに負けてそれを飲み下してしまうと、すぐにまたあの恐ろしい幻覚にさいなまれることになる。あたしがいままで殺してきた人間たちが、地獄の底であたしが墜ちてくるのを待ちかまえている……!
「お前は私のためだけに存在する剣士となれ。ピアージュ」






「いやだ!!!」
 身を震わせながら叫び声をあげ、意識が戻る。水しぶきが大きく跳ね上がる音がして、ピアージュは我に返った。
 辺りは暗く、両脇は壁に阻まれていてとても狭い。そのかわり、水路のような水の道が後にも先にも続く。半分だけ水に浸かっている自分の姿を見て、ピアージュは小さくため息をついた。自分の身体から生まれた波紋が広がっていき、やがてそれが闇に飲み込まれていくのを見ながら、ようやくここが下水道のような場所であることに気がついたのだった。
 身体を起こし、自分の腰に剣帯と愛剣があるのを確かめてから辺りをうかがう。数メートル先には、同じように半分だけ水に浸かった状態で意識を失っている青年の姿があった。ピアージュはおそるおそる近づき、青年を抱え起こす。水に濡れた長い前髪が顔に張り付いているのでそれを手でよけ、青年の口元に耳を付ける。呼吸をしているのを確かめると、その頬をペチペチと叩いてやる。
 しばらく様子をうかがっても青年が目を覚ましそうにないので、ピアージュはいまいましげにため息を付き、下水道の脇の通路のはい上がって、そこから青年の服を引っ張って水から引き上げてやることにした。
 暗闇の中でなおいっそう黒く見える中央特使の戦闘服。自分たち傭兵にとっては商売敵、あるいは宿敵ともいえる存在であり、そして個人的にも恨みがある青年であった。だが。
「本気で殺してやろうと思ったのに……」
 ピアージュはそうつぶやくと、いまだ意識を失ったままの青年の顔を見つめた。






「待て! トスキ!!」
 攻撃もせず、ただひたすら逃げるように走る青年を追いかけ、ピアージュは血塗れの剣を手にしたまま屋根を飛び越えた。あの金髪の忌々しい青年を斬り殺さなければならなかった。だが、なぜそうしなければいけないのか、彼女には理解できなかった。
 彼女の目の前にはほかにも黒い戦闘服に身を包んだ特使が現れたが、ピアージュは彼らに目もくれず、まっすぐにセテの後を追いかけはじめた。青年は一瞬驚いたような顔をして振り向いたが、全速力で走り出し、命がけの追いかけっこが始まったのだった。
 ピアージュは焦っていた。先ほどから憎き青年目がけて術法を放つも、寸前ではじき返されていた。仕方なく肉体の力だけで、それも全力で後を追う。
 やがて青年はある路地に入り、そして袋小路に突き当たったことに舌打ちしたように見えた。彼女はほくそ笑み、そして血にまみれた黒い剣を握り直して青年にゆっくりと近づいた。
「観念したようだね」
 ピアージュはつぶやくようにそう言った。だが、目の前の青年は怯えるどころか余裕の構えで彼女を見つめ返していた。
「トスキ、お前の言葉がどれだけあたしを侮辱したかなんてわからないだろう?」
 ピアージュは剣を構え直し、ゆっくりと黒い光を放つその切っ先を青年に向ける。
 そう、この男はあたしを侮辱した。だから殺す。殺す? でもなぜ? 剣でこいつをねじふせられればそれでいいのではないのか?
 青年は驚いたような顔つきをした。しかし、本当に驚かされたのは彼女のほうだった。彼は剣を抜くどころか、彼女に頭を下げたのだ。
「ごめん」青年は確かにそう言った。
「俺の言ったひとことが原因ならまじで謝るよ。ホント、ごめん」
 あの憎き青年が神妙に頭を下げたのを見て、ピアージュは放心したように彼の顔を見つめる。信じられなかった。
「でもさ、お前が復讐したいのは俺だろ? なんで関係ない人間を殺しまくってんだよ」
 青年がわずかに後ずさりをしながら彼女に問いかけた。
 なんで? そんなこと考えたこともない。あたしはお前に復讐したいだけ。お前があたしを侮辱したから殺してやりたいだけ。
 でも……本当になぜ?
「俺をぶった斬りたいのはわかるけど、だったら……」
「うるさい! 黙れ! 殺してやる!」
 ピアージュは剣をひと振りした。彼女の愛刀・一撃必殺のアサシンブレードが唸り、壁際の青年目がけて衝撃波が襲う。だが、それはまったくの的はずれの一撃で、標的の頭上をかすめて壁に激突した。くすぶり、煙幕をあげる中、青年は驚きもうろたえもせずにじっと彼女を見つめ返していた。彼の青い瞳が、無言で彼女自身を叱責しているように思えて、ピアージュは剣を握る手が心なしか震えているのを感じた。
 呼吸が荒れる。コルネリオにあのいやな臭いのする薬を飲まされ、老婆の紡ぐ呪文が生み出す悪夢にさいなまれるときと同じように心臓が高鳴り、目の前の風景が醜く歪みはじめる。
 なぜ殺す? なぜ血を求める? わからない。
 自分がこれまでしてきた殺人行為は、まるで遠く離れた場所で舞台を見ているような感覚でしか感じることができなかった。猛烈な血への渇望、殺人への衝動が抑えられない自分。気がつけば全身返り血を浴びて笑い声を上げる。いやだ、あたしは心まであいつのいいなりになりたくなんかない。それでも、目に入ったものはすべて剣で斬りつけたくなる欲望が抑えられない。
 額からと言わず、全身から冷たい汗が吹き出る。そのうち、ピアージュの身体に震えが回り、彼女はがっくりと膝をつく。
「いや……だ……! もう……!」
 ピアージュは自分の右手で妖しい光を放つ剣を投げ捨て、激しく震える身体を抱きしめるようにうずくまる。黒光りする剣は壁に当たると、乾いた音をたてて地面に転がった。とても何十人もの人間の血を吸ったとは思えないほど、あっけないくらいに惨めに横たわる殺人者の剣。
 再び激しい痙攣が彼女を襲う。ある一定の期間を過ぎると必ず襲ってくる震えと吐き気、そして恐ろしいくらいに彼女をさいなむ幻覚。それがここ最近、間隔が短くなってきていた。これが始まると、自分の身体はあの薬を欲するようになり、気が狂うくらいの嫌悪感にまみれながらもあの男の言うことに従わざるを得ないのだった。
 気がつけばあの青年がすぐそばにうずくまり、そして彼女の顔を心配そうに見つめている。金色の長い前髪の間からのぞく青い瞳は、彼女がこれまで出会ってきた人間の中でも最も強い光を感じさせた。
 大きな手が彼女の肩を支えている。青年の手はとても温かかった。ピアージュはがくがくと激しく震える身体を彼に預け、そしてその手に自分の手を重ねた。震える唇から、やっとの思いで言葉を紡ぎ出す。
「お願い……! あたしを……!」
 言い終わらないうちに、突然の閃光がふたりを襲う。青年の身体は衝撃波ではじき飛ばされ、壁に打ち付けられていた。見ると、コルネリオの配下の術者たちが彼らを取り囲んでいた。そして空間が揺らめくと、白い術者のローブに身を包んだカート・コルネリオが愉快そうに顔をゆがめながら姿を現した。
「とんだシーンだな、ピアージュ」
「コルネリオ!」
 壁に叩きつけられた青年は、そう叫ぶとすばやく身を起こした。コルネリオは青年の姿を愉快そうに眺め、
「わざわざ自分から捕まりにくるとは、君たち剣士は少し頭が足りないのかね?」
 そしてコルネリオは配下の術者たちに合図をする。高速言語が紡ぎ出され、青年の身体を光の輪が包む。おそらく戒めの術法に違いなかった。
「もうお前の言いなりになるのはごめんだ!!」
 そう叫んだピアージュは、震える身体に鞭打ち、転がった愛刀をやっとのことで握りしめると、呪文を詠唱している術者に斬りかかった。複数の悲鳴が上がり、即座に赤く染まったローブが一斉にその場に倒れ込む。
「この役立たずが……!」
 言葉の割にさして苦々しそうな感じでもない言い方であった。もしかしたら、この男は自分の行動さえも予測していたのか。
 コルネリオが小さく印を結び、その手を差し出すと、ピアージュの身体は衝撃波とともに後ろの壁に叩きつけられた。コルネリオはそれを見届けると青年に向き直り、そして再び戒めの呪文を詠唱し始めた。だがその時。
「聖なる御方の御名において命ずる! 裁きの光よ! 悪しき者どもを殲滅せよ!」
 どこからともなく力強い呪文の詠唱が響き渡った。女の声だった。
 最後にイーシュ・ラミナの言葉と思われる短い音が続くと、青年のいたあたりの地面から緑色の光が吹き出す。それはカーテンを広げるかのように大きく伸びると周りの風景を飲み込んでいき、コルネリオの配下の術者たちの足下にまでさしかかった。
 やがて、術者のひとりが悲鳴をあげた。緑色の光に触れた途端、その身体はまるで熱湯を浴びせられたかのように皮膚から溶けはじめ、長い悲鳴をあげて身もだえる当人の意志も尊重せずに、生きたままどろどろに溶けていくのだった。術者たちは悲鳴をあげて逃れようとするが間に合わず、迫り来る光にさらされながら溶けていく。
「ガラハドめ! まさか霊子力炉を使ったのか!?」
 コルネリオがヒステリックに叫んだ。だが、目前に光が迫っているのに気付き、あわてて身を翻す。
 そこを狙ったのか青年が剣を握り直し、思い切りコルネリオめがけて剣を振り下ろした。短い悲鳴とともにコルネリオの右腕は吹き飛び、肩から大量の鮮血が吹き出した。青年は満足げに笑い、もう一度コルネリオの首を目がけて剣を振り下ろそうとした。
 だがそのとき、コルネリオの口から転移術法の高速言語が吐き出されたのだった──。
──それからあとのことはあまり覚えていない。そして今。






 自分がいま正気でいられることに、ピアージュは感謝の祈りを捧げた。実際には、彼女は神々に祈りを捧げるなんてことは、もう十年以上したことがなかった。
 気を失っていた金髪の青年が小さくうめき声を上げた。それから、ゆっくりとまぶたが開き、焦点の合わない青い瞳が自分の目とかち合った。青年は少し眉をひそめてよく見えない瞳孔を調整しているようだったが、ピアージュの姿を認めると即座に跳ね起きた。それも、情けない悲鳴をあげて。
 青年はとっさに腰の剣を抜き、そして構えて見せた。ピアージュはあきれたように肩をすくめ、大きくため息をついた。
「……それが恩人に対する礼かい。なんにもしやしないよ」
「は?」
 セテは間抜けな声を発すると、ピアージュの全身に何度も何度も目を走らせた。
「なんにもしないよ」
 ……そう、少しの間だけでも正気でいられるいまなら。
 少し怒ったような口調の少女に対し、セテは悪かったというような表情でおそるおそる剣を収めた。それから恥ずかしそうに頭を乱暴にかいてみせると、
「……あんまし覚えてないんだけど……その……どうやら助けてもらったみたいだな……」
「……女に助けてもらったなんて屈辱、とでも思ってるのかい?」
 とげのある少女の言葉に、セテはため息をつく。
「……まだ俺のこと殺してやるとか言ってんのかよ。悪かったよ。そんなつもりで言ったわけじゃないんだ、あれは」
「だったらどういうつもりだったんだよ。女が剣を持つなんて言語道断だと思ってるんだろ。お前たち男の特権ってヤツがなくなっちゃうもんね」
 そう言って少女は腰の剣帯にささっている、もう一本の細身の剣を取り出して構えてみせた。
「勝負しな! 女だからってあたしを軽んじた罪の深さを思い知らせてやる!」
 セテはやれやれと小さく肩をすくめた。少女はそんな彼の態度に腹を立てたのか、いきなり斬りかかってきた。セテはそれをひょいとかわし、そして返した次の刃も即座にかわしてみせた。剣を抜きもしないセテの態度に少女はますますいきり立つ。剣を振り回し、セテを追いつめようとするが、セテはここに来てやっと腰の剣帯に手をかけた。そして硬い金属がぶつかり合う音。二本の細身の剣は暗闇の中で小さな火花をあげた。
「少しはおとなしくしろよ!」
 セテは怒ったような声でそう言い、力任せに少女の剣をなぎ払った。衝撃で手がしびれたために少女の手から剣が吹き飛んでいた。ぴたりと喉元に切っ先を当て、息を荒げることもなく、セテは少女の顔を睨み付けた。少女は青年のその素早い攻撃に目を見開き、彫像のように固まったままその場で動けなくなっていた。
「……いいからそこに座れよ」
 セテは少女の喉元から剣を引くと、いつものしぐさで剣を手のひらの中でくるりと回転させてから鞘に収めた。少女はへたりこむようにその場に座り込み、セテをおとなしく見上げた。セテはそれを見届けると、自分も少女の前に座り込んだ。
「悪かったよ。本当に謝る。俺への復讐心のせいであいつにつけこまれちまったようなもんだからな」
 セテの言葉に、ピアージュは目を見開いた。違う、そうじゃない。この男に復讐したかったわけじゃない。ただあたしは……
「その……俺も自慢じゃないけど顔のこと言われてすぐキレるんだよな。誰にでも傷つく言葉があるっての、すっかり忘れてたし、お前が女扱いされてそんなふうに怒るなんて思ってもみなかったし……」
 この男は何を言っているんだろう。なぜあたしに謝る? あたしはこの男に謝ってほしかったのか? それとも……
 そうだ。謝ってほしかったわけじゃない。それなのにどうしてこの男のことをあんな風に憎んでいたんだろう。コルネリオになすがままにされても、この男のことだけは絶対に忘れなかった。人を殺している自分が何をしているのか分からなくても、こいつのことだけはしっかりと思い出せた。こいつに次に会ったらどうしてやるか、それを考えているときだけが自分でいられるような気がした。
「……違う……あたしは……!」
 言いかけて、ピアージュは再びあの感覚が舞い戻ってくる気配を感じた。身体の奥底からわき上がる憎悪、殺せとわめく声、声、声。手足が震え、麻痺していき、そしてやがては……!
「……いやだ……!」
 少女は絞るような小さな声でそう叫んだ。再び自分の身体に手を回し、震えを少しでも和らげようと力を込めるが、いつもそれがままならないことはわかっていた。セテは驚いて少女を抱え起こすが、救いの手を差しのべるも、拒絶されるかのように少女自身に激しく払いのけられてしまった。
「だめだ……! あたしに近寄るな……! ここから……!」
 少女は這うようにしてできるだけ離れようとするが、セテはお構いなしに少女に駆け寄り、再びその震える身体を抱え起こした。
「おい! しっかりしろよ! あの薬のせいなのか!」
 セテは少女の苦悶に歪む顔を覗き込むが、その表情が見る間に変わっていく。苦悶に歪みながら悪鬼のような邪悪な表情に変わっていく様は、心底恐ろしいと感じた。
 少女は震える手でセテの肩を掴み、歯を食いしばりながらうめき声をあげる。大きなアーモンド型の目の端に、うっすらと涙が浮かんできたのが見えた。見る間に少女の目から大粒の涙が流れ落ちる。
「お願い……! あたしがあたしでなくなってしまう前に……あたしを救って……! あたしを殺して……!」
 少女はありったけの正気をそのひとことに託した。そして腰の剣を抜き、自分の胸に突き立てるべくねらいを定めた。
「ふざけんな!!」セテは少女の剣をはじき飛ばし、そう叫んだ。
「死んで楽になることなんかねぇんだよ!!」
 あのとき、レトは自分で死を選んだ。自分のためではなく、俺を傷つけることを避けるために。自分を失いたくないのなら、なぜ俺を殺さなかった。なぜ死を選んだのか。俺は死だけが救いであるとは思いたくない。そんなのは、死んでいく人間の、生き残った人間に対する欺瞞だ!
 セテは震える少女の身体を肩に担ぎ上げた。
「掴まってろよ! 俺がなんとかしてやる!」
 そうだ。これがイーシュ・ラミナの禁呪ではなく、シュトロハイムの薬によるものなら、その処方箋くらいは残されているはずだ。慈善病院に戻れば、エルディラ・コルマン新院長に頼んでその解毒剤のようなものを見つけてもらえるかも知れない。それまでこの少女の正気が保てばの話だが。
 突然、下水道のはるか奥のほうで緑色の光が炸裂するのが見えた。コルネリオの配下の術者を溶かしたあの光と同じものに違いない。なぜこんなところでと不思議に思っていると、別の下水路のはるか遠くで、なにか爆音のような音が聞こえはじめた。足下の下水が、振動を感じ取ってちゃぷちゃぷと小さな音をたてて波立ちはじめていた。
 それがなんなのか、数秒後にセテは知ることとなる。それは爆音ではなく、狭い下水道の中を増水して暴れ狂う大量の水が押し寄せてくる音であった。
 セテは少女を担ぎ上げたまま、とりあえず全速力で走り出す。この狭い下水道であんなのに巻き込まれたら、確実に死ぬ。いやそれよりも、なぜこんな下水道であれほど増水するのか。
 恐ろしい叫び声をあげながら、生き物のように迫り来る水。足には自身があったが、少女を抱えていてはいつものように動けるわけがない。やがてすぐ背後に水の壁が迫り来た気配を感じ取ったセテは、観念して少女を肩から下ろすと、その小さな身体を力強く抱きすくめて大きく息を吸い込む。次の瞬間、ふたりの身体は非情な下水の津波に飲み込まれていった。






 アジェンタス騎士団領総督府、ガラハド公邸の一部に設置された緊急の作戦司令室では、ガラハド提督、ラファエラ、スナイプス、そしてハートマン臨時顧問官が、前方に掲げられた大きな地図を睨んでいた。
「総督府アジェンタシミルのすべての下水道を封鎖しました。ブロックごとに封鎖したので、もし何者かが潜んでいたとしても数時間は身動きがとれないでしょう」
 部下の報告に、ガラハドは無言で頷く。それから、机の上に乗った四角い薄っぺらな金属の板を見つめた。スナイプスはその不思議な光を放つ金属板をじっと見つめるが、それがいったいなんなのか、どういう仕組みになっているのかは、彼の頭ではとうてい理解できそうにもなかった。
 厚さはおよそ二センチもないであろう。十五センチ四方程度の大きさで、不思議なグリーンの光をほのかに放つ金属でできているようだが、少なくともそういった金属は中央諸世界連合のどこからも採取されていなかった。いくつかのツマミとボタンが取り付けられているところからも、おそらくはイーシュ・ラミナの遺産かなにかに違いない。
「これがその……霊子力炉の管制装置ですね?」
 フォリスター・イ・ワルトハイム将軍は、ガラハドの傍らで金属板を不思議そうに眺めながら尋ねた。ガラハドは頷き、
「コルネリオたちを殲滅するのに利用してから二時間、すべてのパワーを注力することはできないが、コルネリオの持つ霊子力炉の最初の一撃くらいは防ぐことが可能だろう」
「ではやはり、コルネリオが人々の魂を狩っていたのは、こちらに対抗できうるだけの霊子力を集めることですか」ハートマンが興味深そうにそう言った。
「げに恐るべきは、イーシュ・ラミナのもたらした旧世界の魔法……というわけですね」
 スナイプスはハートマンの台詞のすぐあとに忌々しげに舌打ちをしたが、本人はお構いなしのようだ。
「向こうの霊子力炉がフルで使えるようになるまであと一時間。だが果たして総督府全体を防御することができるかどうか」
 ガラハドは金属板を眺めながら小さくため息をついた。






 巨大な羽虫が羽をうち振るわせるようなうねりが耳障りで、セテはすぐに目を覚ました。気を失っていたらしい。即座に飛び起きるが、周りの風景を見て彼は愕然とする。
 自分たちは地下の下水道で汚水の津波に飲み込まれたのではなかったか。だがここは、緑色の光を淡く放つ壁に囲まれ、いくつものチューブが不気味な液体を運ぶ室内であった。そしてセテが驚いたことには、彼は数時間前には、スナイプスとここに訪れたのではなかったか。
 中央に配置された台座に固定された上半身裸の女性が、うつろなエメラルドグリーンの瞳でセテと、その傍らに倒れている少女のふたりを静かに見下ろしていた。数時間前と同じように、台座に固定されたままの女性の銀の髪は緑色に発光する室内の明かりに揺らめき、体中に刺さったチューブが、コポコポと彼女の体内に液体を流し込んでいく。だがあのときは下半身がなかったが、いま目の前の彼女には左腕がなかった。
 セテは嫌悪感と恐怖で体中がすくんでいくのを感じた。何者をも見ていないあのエメラルドグリーンの瞳で見下ろされているのが、とても恐ろしかった。
 気力を振り絞って後ずさりをすると、かたわらの少女が小さく呻いた。彼女も気がついたらしい。すぐに駆け寄り、その小さな身体を抱え起こすが、少女は激しく痙攣を起こしており、額には玉の汗が浮かび上がっていた。
「くそ! こんなところで油を売っているヒマはないのに!」
 セテは忌々しげに舌打ちをする。あの薬のせいで、少女は目を覚ませばおそらく再び狂戦士《ベルセルク》と化すに違いない。一刻も早くここを出なければいけないのに。
 少女がうっすらと目を開けた。その瞳がエメラルドグリーンに染まっているのを見て、セテは覚悟を決める。また暴れられたときには、確実に自分の死が待っているに違いなかった。
「うおおあああああああっ!!!」
 突然腕の中の少女が獣のような叫び声をあげ、セテを突き飛ばした。セテは勢いよくグリーンの壁に叩きつけられた。少女は激しく身体を震わせながら低い声で唸り続け、そしてゆっくりと体を起こす。腰の剣帯に手をやり、抜き身のままの黒い剣をなでるようにはずす。そしてその切っ先を満足そうに眺めると、いきなりセテ目がけて斬りかかってきた。
「くっそぉ! こんなところで終わってたまるかよ!!」
 セテは最初の一撃をすんでのところでかわし、そして台座の女性のほうに転がる。やはり彼女のまわりにはまだ見えない物理障壁があるのか、ぶつかりそうになったところで思い切りはじき飛ばされた。少女は突進してくると、思い切り剣を振り上げた。しかし、
「悪しき剣より守る盾となり給え!」
 鈴の音のような声がして、少女の剣はセテの身体数センチ手前ではじき返された。当然斬り殺されると覚悟していたセテも、獲物に狙いを定めていた少女も、大きく目を見開いてその声の主を見つめる。
 台座につながれた半裸の女性の口から出た絶対物理障壁の呪文であった。そうだ。確かコルネリオの術者たちを殲滅したあの光が現れる前、確かに女性の声で呪文の詠唱を聞いた。あれはこの女性のものだったのか。
 少女は再び獣のような声でうなり、今度は台座の女性目がけて剣を振り下ろす。しかし、再び絶対物理障壁呪文が詠唱され、少女の身体は派手に壁に叩きつけられた。
「……青年よ、その少女の身柄を拘束してもかまいませんか?」
 三度鈴の音のような声がして、セテは声の主を見上げる。台座につながれた女性が、セテを見下ろしていた。さきほどまでの焦点の合わない瞳ではなく、知的で、慈悲に満ちあふれた光がたたえられていた。そして緑色に輝く銀の髪、白い肌は、まるで女神のように神々しかった。
「……あんた……正気なのか?」
 セテの不躾な質問に、台座の女性は静かに頷いた。
「あの少女は旧世界の悪しき魔法に侵されている。おそらく私の記憶バンクに尋ねれば彼女を元に戻す方法が見つかるはずです。それまでの間、あの少女の身体を戒めておくことを許してください」
 女性はそう言うと静かに目を閉じた。先ほど壁にたたきつけられ、一瞬だけ気を失っていた少女が身体を起こそうとしたが、その瞬間に彼女の身体には見えない鎖がからみついたのか、動けなくなったようだ。床にはりつけにされる形で戒められた少女は、獣のような声を上げながら激しく身をよじる。しかし、その暴れようは尋常ではない。玉の汗を浮かべながら、わけのわからない言葉を口走り、吼え声を上げながら全身を襲う痙攣に耐えているようだった。
 しばらくして女性は目を開いた。
「残念ながら、彼女を侵している魔法と同じ処方のものは見つかりません。彼女はいま薬の禁断症状と闘っている最中です。それを乗り越えれることができればあるいは……」
「キンダンショウジョウ?」
「そうです。『麻薬』というものをご存じですか?」
 尋ねられ、セテは首をひねる。
「旧世界の悪しき魔法のひとつです。知らないのなら知る必要はありません。薬が一時的に脳細胞を活性化させるために彼女は超人的な力を発しますが、その薬は常用性を伴います。つまり、一定時間を過ぎると薬の効力が切れ、そしてまた薬を欲する。そうしているうちに、薬がなければ生きていけない体質になってしまうのです。薬が切れると恐ろしいほどの苦痛を伴いますが、それを乗り越えればほぼ間違いなく復帰できることが確認されています」
「酒……みたいなもんだな。二日酔いになっても飲みたくなるし」
「酒……アルコールのことですね?」
 自分のつぶやきに反応されたセテはばつが悪くなり、頭をかく。
「じゃあ、その禁断症状ってやつを克服すればいいんだな。どれくらいかかるんだ」
「……およそ一時間程度です。彼女を支えることができますか。薬の強さによっては、彼女は狂い死にするかも知れませんが?」
 セテは戒められて呻いている少女を見つめる。やるしかないだろう。
「俺は何をすればいいんだ?」
 セテは前髪を掻き上げ、いつもの尊大な態度で台座の女性を睨み付けた。

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