第三十話:前夜祭

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 小高い丘にあるラインハット寺院からは、ロクラン城がよく見える。華々しくライトアップされたロクラン城が、夕闇の降りた空によく映えていた。突然ロクラン城から光の矢が発せられたかと思うと、それは中空で大きく花開き、色とりどりの美しい花火となって人々の目を楽しませるのだった。
 汎大陸戦争終結二百年を祝う二百年祭の前夜祭が開催されるこの日。大戦終結だけでなく、ロクラン建国二百年を意味する祭典の前夜でもある今夜は、王宮では華やかな宴が催される。各国の大使や要人が訪れ、見事に着飾ったハイ・ファミリーたちが馬車に乗ってロクラン王宮に続々と到着していた。街の子どもたちは豪勢な馬車に乗ったハイ・ファミリーの同年代の子どもたちを、羨望のまなざしで見送っていた。また、少しでも器量に自信のある若い街の娘は、ハイ・ファミリーの青年に見初められようと、いつもの倍以上もの時間をかけて念入りに化粧を施すのだった。
「サーシェス、まだ準備はできぬのか。いい加減待ちくたびれたわい」
 サーシェスの部屋の扉の前で、ラインハット寺院の紋章入りの装束をまとった大僧正がため息をつきながらそう言った。部屋の中からおざなりなサーシェスの返事が返ってくるが、バタバタと騒がしく歩き回っている様子が聞こえてくるところを見ると、まだまだ出てきそうにない。
「まったく……女性の着替えというのはいつの時代も変わらぬものよ」
 大僧正が小さく肩をすくめた。
「大僧正様。そろそろお時間が」
 廊下の先でフライスが大僧正に声をかけた。フライスも、今日はラインハット寺院の紋章の入った正装の出で立ちだ。
 大僧正リムトダールとその一番弟子のフライス、そしてアスターシャの唯一の友人であるサーシェスは、ロクラン王宮からの前夜祭に招待されていた。翌朝の式典では、大僧正は水の巫女へ祝福を与えるという大役を王から仰せつかっていたし、フライスもその助手のような形でかり出されることになっていたので、今夜の前夜祭のような騒々しい宴は辞退したかった。特にフライスは出席をかたくなに拒否したのであったが、王の招待とあってはそうもいかないので、渋々といった感じだ。
 ところがサーシェスはというと、こういった華やかな席に出るのは初めてだったので、かなりの気合いの入れようである。二時間も前から部屋にこもって、おそらくは服を脱いだり着たりを繰り返しているに違いなかった。仕方なく大僧正はドアの前でしばし待つ決心をする。
「お待たせしました!」
 浮かれたような調子でサーシェスの声がして扉が勢いよく開いたので、その前にいた大僧正は大いにあわてた。不躾な、と小言を言おうと振り向いた大僧正は、目の前に立つサーシェスの姿を見て言葉を失うのだった。
 グリーンの瞳にあわせた淡いグリーンの裾の短いドレスをまとい、髪を結い上げたサーシェス。銀の髪には小花をあしらった小さなピンがよく映える。彼女がしゃべらなければ、まさに絶世の美少女として宮廷で話題を振りまくに違いない。寺院に来たときに見た、火傷を負ってもなお美しかった彼女の顔を思い出して、大僧正は目を細める。
「ほ……ほう……馬子にも衣装とはまさにこのことじゃな」
 さすがの大僧正もそう言うのが精一杯だった。チュニック姿で男勝りに剣を振り回していた、つい数週間前までのサーシェスに慣れてしまっていたので、免疫が薄れていたとでも言うべきか。
「ずいぶんな言いようじゃありませんか」
 サーシェスが口をとがらせて抗議をした。そして、廊下の先で待っているフライスの姿を見て眉をひそめる。大僧正がその表情を見逃すわけはなかった。
「なんじゃ。フライスと喧嘩でもしおったのか」
「そんなんじゃありません。お時間が迫っているのでしょう? 早く」
 サーシェスは大僧正の前をすり抜け、そしてフライスの横を過ぎるときには大袈裟に身を翻して、正面玄関で待っている王宮からの馬車へと小走りに走り出した。その様子を見ていた大僧正は大袈裟にため息をつき、相変わらず仏頂面をして立っているフライスの顔を見つめた。
「なんじゃ、その顔は。痴話喧嘩なぞみっともない」
「私と誰が痴話喧嘩ですって?」
「もうよい。そう当てつけがましくわしを見るな」
 大僧正は再びため息をつき、そしてフライスを促して自分も馬車に向かって歩き始めた。






 馬車は沿道にまで出てきてはしゃぐ人々の間をすり抜け、色とりどりの明かりで照らされたロクラン城を目指してゆっくりと走る。闇に浮かび上がるロクラン城の荘厳な姿に、サーシェスは窓から身を乗り出して見とれていた。夏の終わりを予感させる涼しい風が吹き込んでくるので、大僧正は小さく身を震わせた。
 サーシェスたちを乗せた馬車はゆっくりとロクラン王宮の正門をくぐり抜け、そして正装した賓客をもてなすための長い絨毯を敷いた入り口の手前で止まった。恭しく王の近衛兵が近づいてきて馬車の扉を開けた。大僧正が馬車を降りると、近衛兵は深々と頭を下げ、次官へと引き継ぐ。次にフライスが降りると、集まっていた賓客の、特にハイ・ファミリーの女性が一斉に振り向いた。相変わらず黒髪の文書館長はたいへんな人気であるが、本人はまったく意に介さない様子で馬車に残っているサーシェスに手を差しのべた。サーシェスは驚いたが、渋々その手を取り、馬車を降りる。その姿を見て、今度はハイ・ファミリーの青年たちが振り向き、あの美しい少女はいったい何者だとささやきかわしていたことなど、サーシェスは知る由もない。
 大僧正とフライス、サーシェスはすでに始まっている宴の間へと案内された。途中、大僧正は何人ものハイ・ファミリーの高官に声をかけられ、愛想良く返事を返していた。フライスの周りでは身分の高い婦人が自然と集まっていたが、フライスはにこりともせずに彼女たちの間をすり抜け、もみくちゃにされて困っているサーシェスを見てはその腕を引っ張ってやる。フライスがかいがいしく世話をやいてやる少女の姿を見て、ご婦人方は穏やかではない。しかし、少女の美しさに密かに敗北を認めたのか、お互いの顔を見合わせているハイ・ファミリーの婦人たちを見た大僧正は、内心愉快でたまらなかったに違いない。
「おお、リムトダール殿!」
 政府の高官と談笑していたロクラン王アンドレ・ルパートが、大僧正の姿に気付き、軽く手を振った。そのまま大僧正は王と高官たちの元へと行ってしまったので、サーシェスはフライスとふたりきり。サーシェスはフライスの顔を見るなり、顔をしかめてみせた。
「この間からおかしいぞ、サーシェス。なにを怒っているんだ。私になにか言いたいことがあるなら」
「別になんでもないわよ」
 素っ気ない返事にフライスは小さくため息をついた。そこへ、フライスを狙っているハイ・ファミリーの女性陣が押し掛けてくる。
「ご機嫌麗しゅう、フライス様。こちら、わたくしの妹ですの」
 グループの中でも最も年長と思える婦人が、自分の妹だという女性を伴って現れた。それを皮切りに、婦人方は次々に自己紹介をはじめる。
 着飾った彼女たちの猫なで声と香水の匂いに、サーシェスはまた顔をしかめた。彼女たちにしてみれば、次期大僧正候補と目されているこの美しい修行僧と、一夜でも過ごすことができれば箔が付くというものだ。そういったむきだしの欲望がひしひしと感じられて、サーシェスはいたたまれなくなる。そのまま人の輪を避けるように静かにその場を離れていくサーシェスを見て、フライスは、
「失礼、私は明日の準備がありますので」
 仏頂面で一言そう言うと、女性たちの間をすり抜けていこうとした。しかし、
「フライス様!」
 呼び止められてフライスが振り返ると、アスターシャ王女が人混みの中から姿を現した。それを見て、フライスを取り囲んでいた婦人たちはいっせいに身を引くが、サーシェスにとっては一難去ってまた一難とでもいったところか。
「ご機嫌麗しゅう。フライス様、ようこそお越しくださいました」
 アスターシャ王女は悪びれたふうもなく、フライスの前で小さくお辞儀をしてみせた。
 サーシェスはちらと後ろを振り返ったが、アスターシャがフライスの前に立っているのに気づいて一瞬立ち止まる。フライスの顔とアスターシャを交互に見やるが、当然フライスの表情にいつもと変わったところなどあるわけがなく、それに対してアスターシャは、好きな人を前に胸をときめかせているのがありありと分かった。
 胸がむかつく。鼓動がどんどん早くなっていくのが分かった。胃の辺りがきゅっと痛んで、目の奥が熱くなってくる。サーシェスはそのまま足早にテラスへと歩いていった。早くこの場から逃げ出したかった。
「お話させていただけませんか?」
 アスターシャはフライスに笑いかけ、給仕の盆からグラスをふたつ取り寄せ、ひとつを自分に、もうひとつをフライスに差し出した。
「いえ、私は酒は口にしませんから」
 フライスはできうる限り丁寧にアスターシャの杯を断った。
「本当にお堅いんですね、フライス様は」
 アスターシャはくすくすと笑いながらそう言ったが、フライスがテラスの方に逃げるようにして歩いていったサーシェスの後ろ姿を探しているのに気づいて、顔を曇らせる。心ここにあらずといった感じのフライスを見るのは初めてだった。
「……そんなにサーシェスのことがご心配?」
 アスターシャの皮肉混じりの一言に我に返ったフライスは、あわてたように振り返る。アスターシャ王女が深刻な顔をして見つめていた。






 人々の間を縫ってテラスまでたどり着くには相当困難であることに気づいて、サーシェスはきょろきょろと辺りを見回す。そのとき、誰かがサーシェスの肩にぶつかってきた。
「おっと失敬!」
 転びそうになったところを支えられ、サーシェスはすんでのところで踏みとどまることができた。声の主を見上げると、白い近衛兵の制服を着た青年だった。肩章がついているところを見ると、近衛のなかでも位は高いのだろう。
「ああ、失礼しました。どうにもこういう場所は苦手でして」
 青年が申し訳なさそうに頭を下げるので、サーシェスも恐縮してしまう。しかし、青年の横にいた少女を見て、サーシェスは目を見開いた。
「あ! あなた!!」
 サーシェスとその少女は同時に互いを指さし、声をあげる。忘れもしない。確かアスターシャ王女とファリオン・ワルトハイムの従姉妹だったセレン・ワルトハイム・イ・メリデーラ嬢。アスターシャ王女と共謀してサーシェスを閉じこめた、あの性格の悪いハイ・ファミリーの娘。
 サーシェスが険しい顔をしているのに気づいたセレン嬢は、
「ちょっと、あなた、もしかして私を恨んでるわけ? ちょっとした冗談よ、冗談! 悪かったわ」
 悪びれた様子もなく、セレンはサーシェスの腕を掴んで横に連れていく。隣にいた近衛の青年はぽかんとしてふたりの様子を眺めている。
「いつまでも人を恨むなんて人生楽しくないわよ。あの人私の恋人なんだから、人の恋路のじゃましないでくれる?」
「はぁ?」
「ま、そういうわけでもう昔のことなんか忘れたわよね、ね?」
「あの……全然恨んでなんか……」
「そう? 恩に着るわー。そうそう、人生楽しまなくちゃよ、じゃ!」
 セレン嬢はそう一気にまくしたてると、再び白い近衛の制服を着た青年の腕をとり、さっさとふたりだけの世界に入っていってしまった。
 サーシェスは深いため息をつき、その後ろ姿を見つめる。恋は盲目とはよくいったもんで、人間恋をするとあそこまで変わるものかと思ってしまう。恋をすると……。自分はどうだろう。自分はフライスに恋をしているのだろうか。自分はそれで変わったのだろうか。
「おお、サーシェス、探したぞい、こんなところに埋まっておるとは」
 人をかき分けるようにして、大僧正が小走りに近寄ってきた。その顔には安堵の表情がありありと見て取れた。
「置き去りにしてしまってすまぬな。ちょっと王との話に花が咲いてしまったわい」
 アスターシャはきっとフライスに勝負をかけるつもりなんだ。どうしてあのとき、「フライスを好きなのか」とアスターシャに問われて正直に言えなかったのだろう。
「ところでフライスはどうした。おらぬのか。まったく薄情な男よの」
 素直にフライスに愛情表現をできるアスターシャがうらやましい。私にはできない。できない……。
「どうしたね、サーシェス?」
 胸が痛い。フライスのことを考えただけでいても立ってもいられなくなる。ああ、そうか、私は嫉妬しているんだ。いやな自分。素直に言えないくせに、こんなふうに考えている自分が許せない。なんてずるいんだろう。
「サーシェス、顔色が悪いぞ。無理もない、こういうところははじめてじゃったな」
 大僧正に腕を取られて、サーシェスは我に返った。窓ガラスに映る自分の顔が、想像以上に青ざめているのに苦笑する。
「ちょっと外の空気にあたって休んでいなさい。すまぬな、わしはまたこれから王と話があるのでな。フライスも呼ばれておるので、ちょっとの間辛抱してくれんか」
 大僧正の気遣いに申し訳なく思いながら、サーシェスはバルコニーの近くまで連れていってもらい、そして給仕の用意してくれたイスに腰掛けた。大僧正は安心した表情でサーシェスが座って息を付くのを見ると、すまなそうに王の元へと戻っていった。その先には、ロクラン王と何人かの高官がおり、ほどなくしてフライスもその輪に加わっていくのが見えた。フライスの姿を見て、サーシェスは少しだけ安心した。
 秋風のような涼しい風がうなじをくすぐる。セテがロクランを離れ、アジェンタスに行ったのは真夏だったが、もうずっと昔のような感じがする。遠くロクランを離れたアジェンタスのふたりの友人を無性に懐かしく思いながら、サーシェスは深いため息をついた。
 こういうとき、セテだったらなんて言うだろうか。「俺、レンアイとかってあんましよくわかんないんだけどさ」とか、遠慮しながら頭をかいて言うに違いない。最後まで自分に遠慮しがちだったあの金髪の青年は元気にやっているだろうか。それから、レトだったらなんて言うだろう。「そんなのいちいち気にしてたら仕方ないよ。よくあることじゃない?」とか言いながら、飲みに連れていってくれたに違いない。その横でいつもセテが困ったような顔をしていたけど、きっと三人で楽しくできる方法を考えてくれただろう。
 あのふたりは元気だろうか。親友だと思っていたアスターシャを疎ましく思っている自分を、軽蔑しないだろうか。
 ふとサーシェスは、バルコニーの下に見える庭園の隅で、なにかが動いたような気配を感じた。宮廷が明るいので、すっかり日が暮れた庭園内はとても暗く感じる。なにか、いや、誰かが歩いているような気がする。こんな時間にあんな暗いところで何をしているんだろうと視線をはずすと、目の前にはアスターシャ王女が困ったような顔をして立っていた。
「アスターシャ……」
 さきほどのフライスとのやりとりを思い出して、サーシェスは弱々しく彼女の名を呼ぶ。アスターシャはいつものように勝ち気なしぐさで髪を掻き上げ、
「酔っぱらっちゃった」
 と、サーシェスの横に腰を下ろした。
 ふたりの間で沈黙が流れる。気まずい雰囲気。サーシェスは胃の辺りがきゅっとなって声を出すこともできない。たぶんアスターシャもサーシェスに何か言おうとして来たであろう、しかし言い出す機会をうかがっているような感じだ。宴の喧噪がはるか遠くで聞こえてくるようなバルコニーの静けさの中、ふたりにとって永遠にも近い時間が流れる。
「……振られちゃった」
 先に口を開いたのはアスターシャだった。おどけたような口振りでそう言い、また髪を掻き上げる。
「ごめん、サーシェス。私ね、知ってたんだ」
 サーシェスは驚いて親友の顔を見つめた。
「フライス様、すっごく素敵でしょ? ロクランのハイ・ファミリーで彼に恋をしない女性はいないってくらいじゃない。私もね、好きだったんだよね、フライス様のこと。でも……フライス様って全然興味ないんだよね」
 アスターシャは金色の髪の一房を指で弄びながら、まるで人ごとのように言葉を続ける。
「女性に興味がないわけじゃないんだよね。知ってるんだ。フライス様がいつも誰を見てたか、なんてさ。話をしても興味がない素振りをしてるのに、そのくせ目だけはその人のことばかり追ってて。その人を見ているときだけは、いつも閉じてる瞳をしっかり開いて見つめているんだもん。だから言っちゃった。『そんなにサーシェスのことがご心配?』って」
 再びサーシェスが驚いて顔を上げた。アスターシャを見返すと、彼女はサーシェスと目があった瞬間に自虐的に笑って見せた。
「知ってたんだ。サーシェスがフライス様のこと好きなんだろうなってのは見ればわかったもん。フライス様だって多分あなたのこと好きなんじゃないかなって思った。でもふたりともちっともそんな素振り見せないし、あなたは馬鹿みたいに大袈裟に否定するし。フライス様に聞いても『出来の悪い弟子です』としか言わないし」
 そこでアスターシャは小さく息を吸って、次の言葉を言うための勇気を振り絞っているように見えた。
「だから言ってやったの。『サーシェスみたいな娘のどこがいいんですか? 術法の覚えは悪いし、言葉遣いも悪いし、おまけに記憶喪失だし』……」
 それからアスターシャはいったん言葉を区切り、大きくため息を付きながら髪を掻き上げた。自分の言動にひどく嫌悪しているに違いない。サーシェスは王女の手を取り、軽く握り返してやった。その手はとても冷たく、かすかに震えているようだった。
「フライス様は言ったわよ。『少なくともサーシェスは、あなたのように他人をそんなふうに言うことはしない』ってね。ふふ、当たり前よね。でも……ごめん、サーシェス。私、すごく悔しかった」
 それからアスターシャは、自分の手を握るサーシェスの手に、空いている手を乗せて固く握りしめた。
「だってフライス様、あんたばっかり見てるんだもん。フライス様に振り向いてほしかったんだもん。それなのに、割り込む隙なんてどこにもないんだもん」
 驚きの連続だった。悔しくて、情けなくて、嫉妬していたのは自分ではなく、アスターシャのほうだったなんて。アスターシャ。勝ち気で自分勝手なわがまま放題の王女が、こんなふうに打ちひしがれて懺悔をする姿など、想像することもできなかった。肩を震わせて、必死に涙をこらえている彼女が、とてもいじらしく思えた。
「アスターシャ、聞いて、聞いてよ。あたしだって……!」
 たくさん言いたいことがあったの。フライス目当てでラインハット寺院に来るあなたがすごく憎らしかった。フライスの前で少女のように振る舞うあなたがとても妬ましかった。私だってそんなふうに嫉妬して、あなたとフライスが一緒にいるところを見るだけで涙がでるほど悔しかった。あなたみたいに素直になりたくて、自分に正直なあなたがとてもうらやましかった。
「いいよ、サーシェス、分かってるもん」
 アスターシャは小さく微笑み、サーシェスの手を強く握りしめた。
「言いたいこと言ったらなんだかすっきりしちゃった。ふふ、ヘンなの。だからもうこれでおしまい。あとはあなたがもっと正直になってくれれば、私はもう思い残すことないもん。フライス様のこと、頼りにしなさいよね」
 同じことをセテにも言われたような気がする。もっとフライスに頼れと。ああ、そうか、私はそんなに素直じゃないんだ。
 アスターシャはポンポンとサーシェスの手のひらをたたき、そして腰を上げた。金色のやわらかい髪が月明かりに照らされて透き通って見えるさまが、まるで女神のような神々しさを放っていたので、サーシェスは思わず息を飲んだ。そしてアスターシャはいたずらっぽく笑いながら、バルコニーを去っていった。去り際、意味ありげなほほえみをサーシェスに投げかけて。
「フライス様ね、はっきり言ったのよ。『私はサーシェスを心から愛しています』ってね」






 深夜にラインハット寺院に戻ってきたフライスは、堅苦しい装束と愛想でひどく疲れたような顔をしていた。王やそのほかの高官たちとの明日の式典の打ち合わせやらなんやらで、結局宴に参加しなくてもこの時間になってしまった。大僧正とサーシェスは一足先に戻っていたので、馬車の中で静かに瞑想する時間ができて好都合ではあったが。
 あれからサーシェスが自分と話をしようともしないし、目を向けてもそらしてしまうので、フライス自身少し困り果ててはいた。怒っているのは分かるのだが、何に対して怒っているのか分からないのが問題だ。自分は彼女の気に障るようなことをしたのだろうか。
 なんとなく心苦しいのが勘に障り、ふとフライスはサーシェスの部屋へを足を運んでみることにした。深夜、多分彼女はもう床に就いているだろうと思ったが、それならそれでいい、また明日に彼女自身の口から聞き出すまでだ。
 廊下を歩きながら凝った肩をほぐし、重い装束の上着を脱ぎながらサーシェスの部屋の前に立つ。ノックをしようと手を挙げたが、ふとその手を止め、ため息をついた。
「……馬鹿なことを。こんな時間に」
 我ながらばかばかしい行動をとったものだと自嘲気味に鼻を鳴らし、フライスは扉の前から身体を翻した。そのとき。
 扉が小さく開き、サーシェスの顔が覗いた。サーシェスはフライスの姿を認めると、一瞬驚いたような顔をし、そしてまたいつものように怒りを含んだ表情に戻った。
「あ、いや、すまない、ちゃんと戻ったかどうかを確かめに来ただけだ」
 驚いたのはフライスも同じであったが、また意味もなくどやしつけられたのではたまったものではない。いや、こんな時間だ、深夜に女性の部屋に入ってくるなんて最低! とでも怒鳴られかねない。
「起こしてしまったのなら……」
「起きていたわ」
「話があるんだが……」
「こんな夜中に? しかも女性の部屋で?」
「いや、そういうわけじゃないんだが……」
 相変わらずサーシェスはお冠らしい。フライスは小さくため息をついたが、そのとき、サーシェスが扉を大きく開けてフライスを部屋に招き入れる仕草をした。フライスは静かに部屋の中に足を踏み入れた。
 サーシェスはまだ前夜祭のときのドレスを身につけたままだった。ふつうならぐっすり休んでいるころなのに、まだ起きていたなんてなにかあったのだろうか。それとももしかして、自分が話をしに来るのを待っていたのだろうか。フライスはそう思うことを少しだけ自分に許した。
 サーシェスは何も言わずにフライスの顔を見つめていた。窓から顔を出している月明かりが彼女の銀髪を照らしてはいたが、逆光であるためにサーシェスの表情はフライスからは見ることができなかった。もちろん、彼にとっては肉体の目で見る風景などなんの意味もなさないものであったが。
「話って……?」
「ああ……その……」
 柄にもなく、フライスは言いよどむ。自分でもおかしくて吹き出しそうになったのだが、サーシェスの表情が見えなくても、盲いた目で彼女の姿を見ることができなくても、彼女のその顔はとても美しいのだということを知っているからなのだろうか。
「最近、なんだか怒っているみたいだったので気になっただけだ。聞いても君は何も答えちゃくれないし」
 ああ、自分はなんて子どもっぽいことを口にしているんだろうと思いながら、フライスは心のうちをさらけ出す。
「私に対して怒っているのならはっきりそう言ってくれ。聞いても君は何も言わないし、そんなふうにつんつんされるのは気分が悪い」
「気分が悪いのはこっちのほうよ」
 サーシェスはフライスの一言が勘に障ったのか、いきなり冷たい口調で吐き捨てるようにそう言った。フライスは驚いて彼女の顔を見やるが、やはりサーシェスの表情からは怒りしか読みとることができない。
「何も言わないのはあなたのほうでしょ!? 散々人をヤキモキさせて、散々人をほっぽらかして、それで自分が悪くないとでも思ってるの!?」
「サーシェス、君の言っていることはちっとも理解できない。何をそんなに怒っているんだ」
「怒ってなんかないわよ! ただちゃんと自分の中での確固たる自信がほしかったの! 私は……!」
 そう言いかけて、サーシェスは口をつぐむ。なんで自分はこんなに怒鳴りつけているんだろう。どうしてアスターシャやセテの言うように、もっと素直になれないんだろう。
「私は……あなたの妹なの? それともただの出来の悪い弟子? 本当にそれだけ? わかんないんだもん、フライスが私のことをどう思っているかなんて……」
 サーシェスはうつむき、そしてなぜかあふれてくる涙をこっそりと拭った。逆光とはいえ、おそらくフライスの心の目ではそんな仕草もお見通しだとわかってはいたが。
 突然抱きすくめられて、サーシェスは息を飲んだ。黒髪と法衣についた香の匂いが鼻をくすぐる。
「……そんなことで怒っていたのか」
「そんなこと、じゃないわよ。私にとっては重大なことよ」
「言わなくてもわかってくれてると思ってた」
 抱きすくめられた肩越しに、フライスの自虐的なため息が感じられた。サーシェスはもう一度鼻をすすり、決心をする。
「言ってよ。でなきゃ私、一生恨んでやる」
 サーシェスの子どもじみた一言に、フライスが小さく笑った。それから、長い長いため息をつきながらサーシェスの髪をなで上げた。たぶん、フライスなりに覚悟を決めているのだろう。
「二度とは言わない。だから心して聞いてくれ。愛してる、サーシェス」
 サーシェスは顔を上げ、フライスを見つめた。その整った顔立ちに浮かんだ穏やかな表情に、両足の力が抜けていきそうなほどの安心感を覚えながら。
「何があっても、私が君を守り抜く。……これでいいか?」
「最後の一言はよけいよ」
 サーシェスはフライスの胸をたたき、それから背中に回した両腕でしっかりと彼の身体を抱き返す。フライスもまたサーシェスの身体を力強く抱きしめた。自分の鼓動が破鐘のように響いているのがフライスに伝わってしまうのではないかと、サーシェスは恥ずかしげに身体をずらそうとしたが、強く抱きしめられて動くこともかなわない。
 そして、フライスの大きな手が優しく自分の首筋を這う感触がした。唐突に唇を塞がれる。軽く触れるだけの子供だましではない、舌をからめ取られる激しい口づけ。サーシェスが息苦しさに小さく抗議の声をあげると、フライスはやっと唇を解放した。
「サーシェス?」
 耳の側で問われ、サーシェスは小さく頷いた。それが何を意味しているかは分かっていた。フライスは再び乱暴なまでに彼女の唇をふさぎ、空いている手が彼女の身体のラインをなぞる。ぞくぞくと身体のうちからわき出てくる感覚にサーシェスは小さく吐息を吐き出し、そしてフライスの手が彼女の胸に到達したとき、ふたりはベッドに倒れ込んだ。
 サーシェスの銀の髪とフライスの黒髪が混ざり合い、まるでカーテンのように広がった。フライスはサーシェスの柔らかい髪をなでながら、優しく覆い被さるようにして彼女の身体を抱きしめた。サーシェスは両の目からこぼれ落ちる涙を拭うこともせず、フライスの身体に回した両腕に力を込める。さきほど彼自身から聞き出した言葉が逃げていかないように。
 窓の外に見えるロクラン城では、汎大陸戦争終結二百年を祝う前夜祭がまだ続いていた。

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