第三十三話:運命の輪

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 腰に剣をはき、黒い戦闘服に身を包んだ三人の剣士が、戸口から飛び出そうとしていたサーシェスを押しとどめ、冷たく彼女を見下ろす。サーシェスはその制服を見て小さく息を飲んだ。確か中央特務執行庁直属の特使と呼ばれる騎士で、その呼び名とは裏腹に隠密行動的な役割を担う影の使節だったはず。
「ごめんなさい、ちょっと通して」
 サーシェスはいつまでも戸口を塞いでいる三人に声をかけ、脇をすり抜けようとするが、そのうちのひとりに腕を掴まれて小さく悲鳴をあげた。
「なんのマネじゃ!? 彼女は……!」
 大僧正が驚いて顔を上げたが、その黒い制服を目に留めて即座に息を飲むのが聞こえた。それに満足でもしたのか、特使のひとりが大僧正に冷たい声で言い放つ。
「メリフィス長官の命令です。彼女の身柄を拘束させていただきますよ、大僧正殿」
 言われて、サーシェスが驚いて身をよじる。
「なんじゃと。何のために!? それに、いつからメリフィスは中央特使を自由に動かせる身分になったのじゃ!?」
「非常事態ですからね。フォリスター・イ・ワルトハイム将軍はアジェンタスでの任務で不在ですから。それにこれはルパート・ロクラン王の命でもある」
 その言葉を免罪符にでもしたつもりか、特使の影からアンドレ・ルパート・ロクラン王が姿を現した。大僧正は抗議をするように彼を睨み付けたが、王はそれを軽く流し、サーシェスと大僧正の顔を交互に見やった。
「大僧正殿。私もあなたにいくつかうかがいたいことがある」
「……『神の黙示録』のことですな。ずいぶん前にも申し上げたように、わしは何も存じ上げぬ。それよりも、王は火焔帝の言うままに世界を再び破滅へ導くおつもりか」
 大僧正はアンドレ王の問いかけにきつい口調で反駁するが、王は小さくため息をつくと、
「この娘、どうやらガートルードとは面識があるようだが? あなたはそれを知っていたのではあるまいか」
「馬鹿なことを! サーシェスはラインハットに運ばれてくるまでのすべての記憶を失っておるのですぞ!」
「だからこそうかがいたいのだ。失われた記憶の中の火焔帝とのつながりについてな。火焔帝は先ほど城へ戻ったと聞く。彼女のいぬ間にこちらに有利な情報はどんな小さなものでも抑えておきたい。彼女が何者なのか、彼女自身に問うよりはその記憶を解放したほうがはやい」
「まさか……『開封の儀』を!?」
 大僧正が呻いた。術法にかけ、サーシェスの失われた記憶を引きずり出すつもりか。成功率はきわめて高いが、失敗した場合には、対象者の精神崩壊を引き起こすこともありえないわけではない。いや、それよりも恐ろしいのは……!
「いやよ! 勝手にそんなこと決めないでほしいわ!!」
 サーシェスが激しく身をよじって特使の手を振り払おうとする。しかし、男の力にかなうわけもなく、彼女は簡単にねじ伏せられてしまう。
「よさぬか! ご婦人に手荒なまねは!」
 大僧正が声を荒げたそのとき、窓の外で激しい爆発音とともに炎があがるのが見えた。ロクラン城東の国境付近からだ。大僧正もロクラン王も一瞬窓の外に目をやる。ロクラン城に近い国境のぐるりは、アートハルク帝国の術者の軍団が結界を張り、包囲していたはず。まさか。
「フライスか!?」
 飛び出していったフライスが、アートハルクの術者と一戦を交えたのではなかろうか。
「バカなマネを……! フライスを止めてくれ! 頼む!!」
 大僧正が叫ぶが、特使も王もそれに動じることはなかった。そのままいやがるサーシェスを抱え、黒い戦闘服の特使たちが大僧正の部屋を後にする。
「待て! 貴様ら特使の頭は飾りものか! よく考えてみよ! フライスがアートハルクの術者に抵抗したとあっては、ロクラン全体がさらなる危険にさらされることになりかねないのじゃぞ!! 『開封の儀』よりももっと重要なことがあるではないか!」
 そう叫びながら阻止しようと飛び出した大僧正だが、別の特使に身柄を拘束され、部屋から出ることもかなわない。そんな大僧正を冷ややかに振り返り、アンドレが言う。
「フライス殿には悪いが、スケープゴートになっていただく。強力な術者である彼はアートハルク帝国にとって最大の脅威。あのガートルードと同格の力を持っているさまを見せつけられたとあってはなおさらだ。もしいまの騒ぎが本当にフライス殿がしでかしたものであったとしても、我々としてはフライス殿単独でやった不始末ということで片を付けたい。おわかりであろう? リムトダール殿」
 言い終わると、王は特使たちに目で合図をする。いやがるサーシェスを引きずるようにして彼らはラインハット寺院を後にした。
 書斎に取り残された大僧正は再び膝を突き、悔しさからか拳で床を叩きつける。
「なんと愚かな……! 無理に彼女の記憶をこじ開ければ……我々に待っているのは破滅じゃ!」
 そう小声でつぶやくと、大僧正は書斎の入り口を塞いで仁王立ちしている特使の顔色を、こっそりと上目遣いに盗み見た。






 ラインハット寺院の広大な敷地内には、強力な術法の訓練のための古い建物がいくつも存在する。巨大な魔法陣を描き、その上で術を発動できるように天井も高く作られており、万が一術が暴発した場合に備えての対術法用魔法障壁が建物の内側に張り巡らせてある。内側で術を発動する分にはまったく外に影響が出ないため、若い修行僧たちが思う存分に強力な術法を発動してストレスを発散できるというわけだ。
 サーシェスはこの術法専用施設に連れてこられた。王をはじめとする政府の高官たちが顔を並べているのを見て、サーシェスは恐ろしくて身を震わせた。
 建物の内部には、すでに巨大な魔法陣が描かれている。サーシェスも見たことのない魔法陣であった。そのまわりを五人の術者が小さく呪文を詠唱しながら囲んでいる。香の匂いと間断なく詠唱される呪文の音が入り交じり、暗い施設内に重く禍々しい雰囲気を充満させている。
 外側には、アートハルク帝国の兵士と術者たちが取り囲んでいた。軟禁状態の王や高官が外に出るためにおそらく、『開封の儀』のことは伏せたままラインハット寺院の伝統儀式だとでも言ったに違いない。だが、アートハルクの術者たちはなにか不審な動きがあった場合には即座に対応できるようにしているのだろう。
「中央へ」
 アンドレ王に促され、サーシェスはおそるおそる魔法陣の中央に足を踏み入れる。すでに術法が準備できているということなのか、魔法陣の上を歩くたびに空気中の電子がピシピシと肌を刺す。
「フライスに……フライスに会わせてください」
 魔法陣の中央でサーシェスが言った。アンドレ王は困ったような顔をしてため息をつくと、
「先ほど報告を受け取ったが……爆発のあったあたりでは数人のアートハルクの術者が倒れているだけで、フライス殿の姿は見受けられなかったそうだ。確かにフライス殿ならばアートハルクの包囲などものともしないだろうが……」
「じゃあフライスは生きているんですね」
「確証はないがおそらく。だが、包囲網を突破して何をするつもりなのか。いずれにしろ、ロクランを見捨てたことには変わりはあるまい」
「ウソ……!」
 フライスがロクランを、自分を見捨てて出ていったなんて信じられない。サーシェスは全身から力が抜けていくのを感じながら胸に手を当てる。どうして? なぜフライスは自分を守ってくれないのか。そんな思いだけが頭を駆けめぐる。涙があふれそうになったので、サーシェスは固く目を閉じた。
「それでは『開封の儀』を行う。恐れることはない、サーシェス。君も自分の過去を取り戻せるのだ。ロクランのためと思ってくれ」
 ルパート・ロクランの声に、サーシェスは小さく頷いた。それを合図に、周りにいた術者が本格的な呪文を詠唱しはじめた。床に描かれた魔法陣がほのかに光り始め、それが白く輝き出すと、空中に見事な立体型積層魔法陣が描き出されていた。
 魔法陣の光に乗って、歌うような呪文の詠唱がうねるようにサーシェスを包み込む。催眠術にでもかかったように、サーシェスの意識がだんだんと遠くなっていく。それでも彼女の心の中では、フライスに対する思いだけが渦巻いていた。

 フライス──どうして私を見捨てて行ってしまったの。
 どうしてそんなに哀しそうな顔をしていたの。
 どうして私に何も言ってくれなかったの──?

 沈んでいく意識の中で、黒髪の文書館長は背を向けて歩き出していく。意識のないサーシェスの目から、涙がこぼれ落ちた。
 呪文の詠唱がクライマックスに達したとき、突然すさまじい雷がサーシェスの身体を包み込んだ。サーシェスの身体がのけぞり、苦しげに表情が歪む。その光景を見ながら、さすがのロクラン王も目を背ける。
「はじめて儀式を間近で見たが……まるで拷問だな」
 膝を突き、苦しみに耐えるサーシェスの姿。いたいけな少女を術法で痛めつけているような、そんな罪悪感が王の心を支配する。だが、それもほんのわずかなことだ。術法が開始されて五分も経過すれば、彼女の記憶は戻るはずだ。しかし。
 彼女の身体を包み込んでいる白い稲光はいっこうに収まる気配がなく、かえって明るさと勢いを増したかのように見えた。しばらくして術者のひとりが悲鳴をあげたので、ロクラン王は驚いて顔を上げた。
「どうしたんだ。すぐに終わるのではないのか」
「いえ、術法が……術法がひきずられて……!」
「なに!?」
 一瞬サーシェスを包んでいた稲光が強く輝き、それと同時に彼女を取り囲んでいた術者全員がはじき飛ばされ、壁に激突した。術者の身体からあふれていた光は消え失せていたが、サーシェスの身体の周りに蛇のようにからみついていた白い稲光が、明滅しながらやがて大きく膨らんでいくのが見えた。
「なんだ。なにが起こったんだ!?」
「お下がりください! 王! 危険です! 術が……暴発します!!」
 術者のひとりに促され、王と高官たちは即座に身を翻し、建物の外に駆けだした。その瞬間、建物全体が白く輝いたかと思うと、耳をつんざくような爆音が彼らを襲う。閃光の中で建物はまるで蒸発するかのように消え失せ、魔法陣の中央に立つサーシェスの姿だけが白く輝いていた。
 アートハルクの術者たちも異常事態に気が付き、攻撃術法に移れるようにすぐに体制を整えている。まわりで見ていた術者たちは、次の瞬間に小さく息を飲んだ。意識を失っていたはずのサーシェスのまぶたがゆっくりと開いたのだった。
 グリーンの瞳がいっそう輝いて見えたが、だがその表情は、すべてを憎悪するかのごとく凶悪なものへと変わっていく。
「…………!」
 サーシェスの口からなにか言葉が発せられた。中央標準語でないことはわかったが、何を言っているのかまでは聞き取れない。そしてそれが偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》の好んで使う呪文であったことに気づいた術者たちは、即座に結集して王や高官たちのまわりに絶対魔法障壁を築き上げる。
「……愚かなサルの分際で私を解放しようとは……! 身の程を知るがいい!」
 サーシェスの口から出た言葉は信じがたいものであった。王の記憶の中にある、娘の友人であった優しい少女のものとはとうてい思えない。
 サーシェスの姿をした少女はゆっくりと手を差しのべると、
「バカどもが! その程度の障壁で防げるとでも思っているのか」
 大きく手を振った軌跡が白く輝き、神聖文字となって空に舞う。その瞬間、ロクラン王目がけて強烈な暗黒の炎が襲いかかっていた。






 ラインハット寺院を揺るがすすさまじい爆発。寺院の内側で縮こまっていた少年たちが、驚いて顔を上げる。窓の外では、術法訓練用の施設のあった場所から、天まで届くかのような白い光の柱が伸びているのが見えた。そして光の柱の中、中空に浮かんだまま冷ややかに地上を見下ろしている少女の影がひとつ。
「サーシェス!!」
 特使と格闘し、部屋を出ることがかなった大僧正は、白く禍々しい光の中にたたずむ少女を見上げて叫んだ。そしてその足下に近づくべく、せいいっぱい駆け出す。
 名を呼ばれて、サーシェスは足下の大僧正に目をやる。だが、その表情は大僧正のよく知る少女のものではない。憎しみに彩られたまま、なお美しいその顔は、まさしく彼が子どものころに見た戦神の一族のものだった。
 サーシェスはもう一度空中で大きく円を描いた。描いた軌跡は即座に輝く神聖文字となり、それを見届けた彼女の掌から白い光があふれ出していた。そのまま手を差しのべると、再び王を目がけて攻撃術法を発動する。
 大僧正は絶対魔法障壁を作り出す呪文を高速言語で詠唱する。間一髪のところで王の目の前でサーシェスの放った術法が四散したが、それを見てサーシェスは愉快そうに笑い声をあげた。
「おもしろい! 人間の分際で私の術を跳ね返す自身があるとはな!!」
 乱暴な口調でサーシェスはそう言う。心底から戦を楽しむその悪鬼のような表情を、大僧正はかつてひとりだけ見たことがある。偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》の血を受け継ぐ、伝説の聖騎士。彼もまた、イーシュ・ラミナの呪われた血ゆえに、戦の際に狂戦士《ベルセルク》と化すのだった。サーシェスの内側に眠るイーシュ・ラミナの本性が、『開封の儀』によって呼び起こされたのか。
「サーシェス! 目を覚ますのじゃ!! 力を鎮めい!!」
「うるさい! 私に指図するな!!」
 今度は大僧正目がけて術を放つ。大僧正はそれをすんでのところで防ぐが、サーシェスの放った強力な暗黒の炎に、法衣の裾がちりちりと焦げていた。それを見ながら、再びサーシェスが高らかに笑う。
「どうした、老いぼれ! その程度でイーシュ・ラミナの力を防げるとでも思っているのか!」
 腕を組み、冷ややかにサーシェスが足下を見下ろす。すると、周りを取り囲んでいたアートハルク帝国の術者たちが次々に黒こげになる。それを目の当たりにした高官たちの間から悲鳴が漏れた。
「いまいましい虫けらどもが! 灰にしてくれるわ!」
 サーシェスははるかに見えるロクラン王宮を振り返り、ひときわ大きな円を描いた。城ごと破壊するつもりでいるのか。
 大僧正は小さく呪文を詠唱した。その身体は宙に浮き、サーシェスと同じ高さまで舞い上がる。呪文の詠唱に入ったサーシェスの隙をつき、大僧正の高速言語で紡ぎ出された攻撃呪文が襲いかかった。だがそれも、サーシェスにとっては軽くなぎ払う程度の仕草でいともたやすくかき消されてしまう。
 宙に浮いたまま、ふたりの術者は対峙する形となった。いまいましげに舌打ちしたサーシェスに、大僧正が叫ぶ。
「サーシェス! 頼む! 力を抑えるのじゃ! 自分が何者かを思い出せ!」
「私は私だ! 邪魔をするな!!」
 執拗に叫び続ける大僧正にサーシェスは再び舌打ちをし、そして大僧正目がけて法印を結んでいた手を差し出した。大僧正も渾身の力を込めて絶対魔法障壁を作り出す。
 暗黒の炎がヤリのような形に束ねられ、それは黒く尾を引きながら大僧正目がけて突進していく。空気中のすべての分子を圧縮して作り出す、イーシュ・ラミナの術のなかでも強力な攻撃術法であった。大僧正の作り出す分厚い魔法障壁は、近づいてくる暗黒の炎のヤリの余波に悲鳴をあげる。大僧正は息を止め、渾身の力を術に込めた。
 一瞬の閃光。そして大爆発。空気中で相反する術者の力が接触したときのすさまじい反動が辺りを襲った。巨大な暗黒のヤリは大僧正の魔法障壁を捕らえ、それを食い破らんとものすごい勢いで浸食しようとする。そしてついに、ヤリの切っ先が障壁を破り、大僧正の身体は衝撃とともに吹き飛ばされていた。
「サーシェス!!」
 大僧正の呼びかけが長く尾を引いた。はじき飛ばされ、暗黒の炎に焦がされながら落下していく大僧正の身体。それを冷ややかに見下ろすサーシェスの瞳に、記憶の片鱗が頭をもたげようとしていた。
(そうだ。前にも同じようなことがあった……! あのときは……!)
 サーシェスは頭を抱え、襲い来る激しい頭痛に身をよじった。記憶が錯綜する。周りの情景があたかも走馬燈のように駆けめぐり、それはやがて逆回転して彼女の記憶をさかのぼっていく。
──力を抑えろ! 思い出すんだ! サーシェス──!!
 前にも同じことを経験しているはずだ。あのとき叫んだのは誰だったか。
 サーシェスはゆっくりと降下していく大僧正を追って即座に身を翻した。しかし、彼女の目に映り、目の前で落下していくのは、青い法衣に身を包んだ老人ではない。見事な金色の髪をした、黒い甲冑の……!
「大僧正様!!!」
 我に返ったサーシェスが叫んだ。時間が元通りに流れるようになったのか、大僧正の身体は猛スピードで落ちていく。サーシェスは手を伸ばして気を失っているであろう大僧正の腕を掴み、そしてその身体を抱きしめた。
 その瞬間。彼女の目の前に広がったのは、彼女が忘れていた記憶の片鱗なのか。見事な黄金の巻き毛を腰まで伸ばした、黒い甲冑の騎士が姿を現したのだった。
「フライス……!? 違う、あなたは誰……!」
 フライスではない。自分は彼をよく知っている。そうだ。彼こそがかの伝説の聖騎士!
「レオン……ハルト……!!」
 そのとき、サーシェスの目から不意に涙があふれ、頬を伝った。大僧正の腕から彼女の心の中に流れ込んでくる、親友レオンハルトへの切ないまでの思慕。その痛みが心に深く突き刺さる。言い様のない悲しみと懐かしさが、彼女の全身を支配していた。
 目の前の黄金の聖騎士は幼い自分を抱き寄せ、膝に抱えている。そのエメラルドグリーンの瞳からは、涙が流れ落ちていた。最強の聖騎士が涙を流すなんて。いや、夢で見たあの光景と同じく、彼は私を見つけ、私を守ると再び誓ってくれたのだ。
 そしてその傍らで優しく微笑むのは、同じく見事な金色の髪をした──火焔帝ガートルード──!
「大僧正様! しっかり!」
 サーシェスは大僧正を抱えたままふわりと着地し、その焦げた法衣をはぎ取って身体を揺すった。大僧正はうっすらと目を開け、目の前のサーシェスを見やると、
「……サーシェス……か……我に返ったようじゃな……よかった……間に合うた、間に合うたのじゃな……」
 しっかりとサーシェスの手を握り、何度も何度もそう言う大僧正の目からは、涙がとめどなくあふれていた。サーシェスの目からも涙があふれ、そのうちにサーシェスは大僧正の身体にしがみついて大声で泣きだしていた。
 あとかたもなく吹き飛んだ術法施設の傍らを、秋風が吹き抜けていった。瓦礫が崩れて小さく音をたてたが、アートハルク帝国の兵士たちが駆け寄ってくる喧噪の中では、ほとんど聞き取ることができなかった。






 大僧正の部屋の中は重苦しい闇が支配していた。すでに夜のとばりも降りている時間であったが、大僧正のケガにさわるため、最小限の明かりだけが灯されていたのだった。
 ベッドに横になった大僧正の傍らで、ラインハット寺院の医療担当の術者が付き添っていたが、その隣にはサーシェスも張り付いていた。サーシェスは泣きながら大僧正の手を握りしめていた。不自由な手で大僧正はサーシェスの頭をなで、その髪をすいてやる。
「少し……席をはずしてくれぬか?」
 大僧正は術医に小声でそう言うと、彼はすぐに頷き、静かに部屋を出ていった。大僧正が小さく安堵のため息をついた。
「……私のせいで……大僧正様……私が……」
 サーシェスはそう言うが、泣きっぱなしだったためきちんと言葉にすることもできない。大僧正は優しくサーシェスの頭をなでながら、
「そなたのせいではない。それに、そなたの魂を奪われるくらいなら、これくらいのことはたやすいものじゃよ。どうじゃ、そなたが強力な術者の素質を持つことが立証されて、わしは大満足じゃよ」
 大僧正は小さく微笑んで見せた。だが、その笑みはたいへん弱々しいものであった。
「以前、講義の中で教わったことがあるだろう。偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》はたいへん美しく、強大な術法をたやすく扱えるすばらしい英知に長けていた。だが、彼らの本性はまぎれもない戦神。戦うことでしか、彼らは生きながらえる術を持たぬのだ。戦いへの渇望にそなたの魂を奪われたら、我々にはもう残された希望すらなくなってしまう」
 大僧正はそこでいったん言葉を区切り、サーシェスの手を握りしめた。
「そなたこそが我々の最後の希望なのじゃよ。サーシェス。力と叡知を身につけた娘よ」
「最後の希望……?」
「わしはずっと考えておった。そなたが一体何者なのか、とな」
 愚かじゃった、と、大僧正は自虐的に笑って見せた。
「『神の黙示録』を知っているかね」
 大僧正の問いかけに、サーシェスは小さく首を振った。
「知らぬのも当然じゃ。我々聖職者と中央に組する一部の者にしか知られておらぬ。『神の黙示録』がいったいどういう働きを持つのか、いまとなっては知ることもできぬが、なにゆえか三つに分かたれ、人々の目から遠ざけられている。その三つすべてをあわせることによって、神への道が開けるのだという愚か者もおるが……。五年前、アートハルク帝国の若き皇帝、銀嶺王ダフニスは、『神の黙示録』第三章を発見し、その解読に成功した。だがその直後からアートハルクは侵略戦争を始め、あとは歴史に語られるとおりだ。『神の黙示録』は失われた世界のすべての叡知を記した禁断の書物。あれを決して愚かな独裁者に渡してはならぬ。ガートルードだけではない、中央諸世界連合とて信用してはならぬ。だからこそ、わしは知らないフリをして通したのじゃ」
「まさか……『神の黙示録』のひとつをお持ちなのですか!?」
 サーシェスの問いかけに、大僧正は再び自虐的に笑って見せた。そのほほえみはどこか哀しそうにも見えたのだが。
「思えばなんと愚かであったことよ。そなたが倒れていた守護神廟は、ふつうの術者程度では入ることさえかなわぬというのに。いかにも、『神の黙示録』はここロクランに存在する。誰も入れぬ守護神廟の奥深くにな。そなたが救世主の魂をまつる予定だった守護神廟のなかにいたのは、『神の黙示録』に引き寄せられてきたのだということに、今になって気が付くとは」
 大僧正は自虐的に笑ったが、苦しげに咳き込んで会話が中断された。サーシェスは大僧正の背を起こしてさすってやる。もういい、と大僧正が小さく手を振ったので、サーシェスは再び椅子に腰掛けて次の言葉を待った。
「サーシェス。そなたはもう何か重要なことを思い出したはずじゃ。そなたこそが、汎大陸戦争後ずっと、伝説の聖騎士レオンハルトが探し求めていた娘。まさか本当に、こんな近くにいるとは思いもせなんだ」
「おっしゃっている意味がよくわかりません。私は記憶を取り戻したわけではありませんもの。夢の中で私を守ってくれたのがレオンハルトだったということに気が付いただけ。金色の髪をしたガートルードのことも、そのほかのことも、何も思い出せないんです。私は……何者なのですか」
 サーシェスが問うと、大僧正はじっと彼女のグリーンの瞳を覗き込んだ。いつもは白いまゆげに隠れていた大僧正の瞳が、サーシェスの心の中を走査しているようにも感じられた。
「わしは万能ではない。だから、答えはそなた自身が探すしかないのじゃよ」
 サーシェスは小さく肩を落とした。それを受けて大僧正が言葉を継ぐ。
「よいかね。神々はすでにこの世を見捨ててお隠れになったままじゃ。汎大陸戦争が終わり、世界を守った救世主《メシア》も聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》ももういない。あとはわしら人間たちが……人間の力だけで世界を動かして行かねばならんのじゃよ。張りぼての像や、お仕着せの救世主など必要ない。人間自身が答えを見つけることこそが大切なのじゃ。サーシェス、そなたはそろそろラインハットを出て、自分に必要なものを探さねばならない。わしの役目もそろそろ終わりじゃ。もうわしも尽きたのでな」
「そんな……!」サーシェスは大僧正の手を力強く握り、声を荒げた。
「そんなことおっしゃらないで! 私はいつまでも大僧正様のおそばにおります! アートハルクの支配下におかれた人々のために祈るのが私の役割のはずです!」
「それは違う。すでにもう悟っているであろう。そなたの運命の輪が、大きく回り始めていることに」
 大僧正は大きく深呼吸をし、目を閉じた。しばしの間、懺悔をしているかのようにも見えた。
「フライス……わしの愛弟子でもあった。本当の息子のようにも思っていた。心の底から愛していた。だが、あやつの心には届かなかったようじゃ。あれの運命を思うと、心が張り裂けそうになる……」
 大僧正は言葉を区切り、飛び出していったフライスに思いを馳せる。大僧正はフライスと自分のみに起こるこれからのことを、すでに知っているのではなかろうかとサーシェスは思った。
「フライスを探すのじゃ。そしてその目で世界のありのままの姿を見るのじゃ。そなたはこれから、いやでも世界を見つめることになるであろうがな……」
 再び大僧正が激しく咳き込んだ。サーシェスはその背をさすってやるが、今度はずいぶん長く咳き込んでいる。そのうちに、大僧正の口元から喀血が飛び散った。サーシェスは驚き、部屋の外で待機しているであろう術医を呼び寄せる。術医が飛び込んできて、ベッドの傍らで医療用の呪文を詠唱しはじめた。
 大僧正はサーシェスの手を強く握り返し、そして苦しい息でサーシェスをじっと見つめた。事態を覚悟したのか、サーシェスの目から再び大粒の涙がこぼれはじめていた。
「サーシェス、我が最愛の養い子よ。力と叡知が、いつでもそなたとともにあらんことを。すべては『神々の黄昏』の中にあり……!」
 言い終わると、大僧正の手はぱたりとベッドの上に落ちた。サーシェスはその手を握り返し、何度も何度も大僧正の名を呼んだ。だが答えはなく。ただ、ちろちろと小さく灯る調度の明かりが、眠るように息を引き取った大僧正の顔に刻まれた深いしわを、ほのかに浮かび上がらせるだけであった。






 セテは、アジェンタス騎士団の制服も中央特使の戦闘服も脱いで、私服でアジェンタス騎士団領総督府を訪れた。今日から一週間の休暇をもらい、旅に出る前にどうしてもやっておきたかったいくつかのことを処理するために。
 ガラハド公邸の真下とコルネリオの本拠地にあった、地下の巨大な霊小力炉は、ラファエラとハートマンほか中央諸世界連合の調査チームに引き渡され、そのほとんどが解体されていた。その現場に到着すると、あのこまっしゃくれたハートマン臨時顧問官が、霊子力や霊子力炉のしくみについて長々とうんちくを述べていたが、セテにはもうどうでもいいことであった。そのハートマンも、現場にはさほどとどまらず、すぐに中央に引き返したようだったので、事後処理に忙しくしているガラハドがほっとしたような顔をしているのが印象的だった。ラファエラはというと、先日の送迎会の翌日、即座に中央諸世界連合の本拠地である、光都オレリア・ルアーノへ向かった。旅立つ前セテに、休暇が終わったらもっとハードな任務をこなしてもらうからと念を押して。さすが「鉄の淑女」だと舌を巻いたのであったが。
 そのあと、セテはレトの実家を尋ね、両親に挨拶をした。レトの両親は何も言わずにセテを抱きしめてくれた。たぶん、もしレトが生きていたとしたら、いまの自分に同じことをしてくれたに違いないと思うと、思わず涙が出そうになった。
 それからセテは、総督府にある対術者用障壁を張り巡らせた拘置所に足を運んだ。入り口はさほど警備も厳しくなく、中央特務執行庁からもらった中央特使の身分を証明する殺人許可証を見せただけで、すんなりと通してもらうことができた。ここには、ピアージュが拘束されていたのだった。
 階段を下り、薄暗い通路を歩いていくと、奥のほうで赤い髪が揺れた。セテの姿に気づいたピアージュが、拘置所の中で立ち上がってうれしそうにこちらを見ていた。
「来てくれたんだね、セテ」
 ピアージュは笑った。ああ、とセテは頷き、そして拘置所の中を見渡した。ピアージュ以外に誰もいないのがせめてもの情けといったところだろうか。
「ちょっと……話ができないかなと思って」
 セテが照れくさそうに言うと、ピアージュが笑った。
「なんか……前にこんなやりとり、あったよね」
 あのときは、ピアージュは拘束服を着せられており、女扱いした自分を憎々しげに罵倒していた。それがついこの間のことだったと思うと、なんだか不思議な気分だ。
「制服……着てないのもなんか新鮮だね」
 ピアージュがセテの私服を指さすと、セテは、
「ああ、これから旅に出ようかと思って」
「旅?」
 ピアージュの表情が曇った。
「ああ、休暇をもらったんだけど……あと一時間くらい後の馬車でアジェンタスを出るよ。人を探しに行きたくてね」
「そう……」
 ピアージュが寂しそうにうつむいた。あと一時間後には、彼女は『調整の儀』にかけられることになっている。これまでの忌まわしい記憶を捨て、新しい人生を歩むために。
「……セテ……あたしのこと、忘れないで」
 ピアージュが小さくつぶやくように言った。セテが彼女を見返すと、彼女は目に涙をためていた。意外だった。彼女が自分にこんなことを言うとは。
「あたしはあともう少ししたら全部忘れちゃうけど……。もう思い残すことはなにもないけど……。忘れたくないよ。セテのこと、絶対忘れたくない……!」
 そう言って、ピアージュはうつむいたまま、声を出さずに泣いた。鉄格子を掴む手が震えている。セテは彼女の手にそっと自分の手を重ね、軽く握り返してやった。ピアージュは鼻をすすると顔を上げ、
「ははっ 虫がよすぎるよね。さんざん人を殺しておいてさ。でも……でもね。忘れないで。あたしのこと。あたしにとってセテは……! この世でただひとりの……!」
「忘れないよ、ピアージュ」
 ピアージュの言葉を制してセテが優しく言い返したので、ピアージュは安心したように頷いた。もしかしたらセテにとってはとても迷惑な言葉かもしれないその先を言わずにすんだことに、安堵していたのかもしれない。
「ありがとう。さようなら」
 ピアージュはそう言うと、くるりと背を向けて拘置所の中のベッドに横たわった。セテはそれを別れの合図と受け取って、無言のまま拘置所を後にした。
 拘置所を出た入り口で、スナイプス統括隊長がセテを待っていた。スナイプスも非番なのか、今日は私服だった。彼はセテを見ると複雑な表情で笑いかけた。おそらく先ほどのピアージュとのやりとりと聞かれてしまったのかも知れない。
「これから出発だってな。お袋さんに聞いたよ」
「ええ。よくここがわかりましたね」
「貴様のすることなんざお見通しだ」
 スナイプスがいたずらっぽく笑ったので、セテもつられて笑った。
「あのお嬢ちゃん……な」
「はい?」
「……いや、なんでもない」
 スナイプスが言いよどんだのはどういう意味があったのか。だがセテは、ピアージュを待っている『調整の儀』を思うと胃の辺りがぐっと痛くなるのでそれどころではなかった。
「お袋さんには何て言ったんだ。心配してただろう」
「まあいつものことですから。一週間したら戻ってくるわけですし」
「でも休暇のあとはすぐにロクランだろう?」
「ええ」
 ロクランに帰れると聞いても、セテの顔はあまりうれしそうでないのでスナイプスが眉をひそめた。
「とにかく、元気でな。気を付けて行けよ。世の中物騒なやつばかりだ。貴様みたいな細っこい女顔がひとり旅なんて危なっかしくていけねぇ」
 からかうようにスナイプスが言うと、セテは怒ったような素振りをして拳を振り上げて見せた。






 乗合馬車の待合所で荷物を抱えていると、母親が見送りに出てきた。さほど心配そうな顔はしていなかったが、寂しそうに見えるのは否めなかった。
「気を付けて行ってらっしゃい」
 母親はセテを優しく抱きしめ、背伸びをして自分よりもずっと背の高い息子に別れのキスをした。
「あなたが帰ってきたら……お父さんのことを話してあげるわ」
 母親はとまどいながらそう言った。スナイプスから自分の父親は聖騎士だったことは聞いたが、どういう任務でなぜ死んだのかまでは聞かされていない。なぜ今になって話す気になったのか分からないが、これまで謎だった父親のことが聞けると思うと、セテの心は心なしかはやる。
「だから身体に気を付けて。元気で帰ってきてちょうだいね」
 優しく微笑む顔。本当に自分にそっくりで、まるで鏡を見ているようだ。セテはそんな母親の顔を見ながら頷くが、ふと、このまま母親の姿が消えてなくなってしまうのではないかという妄想に取り憑かれてしまった。それを払いのけるように、セテは前髪を掻き上げ、到着した馬車に乗り込んだ。
 出発とともに、母親の姿はどんどん小さくなっていく。手を振る母親の姿が見えなくなったところで、セテはようやく小さなため息をつき、座り心地の悪い背もたれに身体を預けた。
 郊外にさしかかり、平原が見え始めたころ、セテは名前を呼ばれたような気がして振り向いた。窓の外には広大な平原が広がるだけで、人影は見あたらない。気のせいかと思って窓を閉めようとすると、今度はもっと力強く名前を呼ばれたのでセテは目を見張る。
 前方の小高い丘の上で風に揺られる赤い髪。幻覚などではなかった。
「すみません! 止めてください!!」
 セテは御者に声をかけ、馬車を止めて外に飛び出した。それに気づいたのか、小高い丘の上から赤毛がひらりと舞い降り、大きく手を振りながらセテのほうに走り寄ってきた。
 ピアージュだった。いまごろは『調整の儀』が執行されているはずなのに、なぜいまこんなところに!?
 セテの困惑を察したのか、ピアージュが笑いながら言った。
「二、三人、殴り飛ばして抜け出してきちゃった!」
「はぁ!?」
「うんとね、『もう思い残すことは何もない』なんて言っちゃったけど、ホントはあるの。だからセテ、私も一緒に連れてって!」
「連れてって……って……」
「あの、なんていったかな、スナイプスとかいうあのおじさんがよくしてくれたんだよ。いまならあいつを追いかけていけるぞって」
 なんということだ。さっきスナイプスが言いよどんだのはこういうことだったのか。頭が痛い。最上級犯罪だ。セテは額に手を当ててめまいを抑える。
「お客さん! どうするの! 乗らないなら行っちゃうよ!」
 御者が業を煮やして問いかける。
「はーい! 今乗ります!」
 ピアージュは元気に返事をすると、セテの手を引いて馬車に乗り込んだ。セテの頭痛などおかまいましといった様子で。
「セテも共犯者よ。とにかく、いますぐにアジェンタスを出ないとね!」
 ピアージュがいたずらっぽく笑った。それを合図に御者は勢いよく馬にムチをあて、馬車は再び走り出す。アジェンタスの街を後に、どこまでも続く平原の中を、すべるように馬車は進んでいった。






「それで、私にどうしろと」
 アジェンタス騎士団領総督府、公邸の執務室で、ガラハドが静かに尋ねる。尋ねられた青年は小さく鼻を鳴らし、そして自らの赤く長い髪をめんどうくさそうに掻き上げた。
「おわかりのはずだろう。ガラハド提督」
「私は辞任を表明している。提督と呼ばれるのは不本意だが」
「しかし、後任が決まるまでの間は、あなたはアジェンタスの最高権力者だ」
 端正な整った顔立ち。だがどこか冷たく、人を見下したような表情が伺えるこの青年。長い燃えるような赤毛が、黒い戦闘服によく映えている。青年の腰には立派な剣がつり下げられているが、さやに収まっていてもなお、それは禍々しい気を放っているようだ。
「貴公の名前を聞いておこうか」
 ガラハドはいたって冷静な表情を崩さぬまま、青年を見つめてそう言った。
「……アトラス・ド・グレナダ。もっとも、グレナダ公国はとうに壊滅状態だ。真紅の竜騎兵《クリムゾン・ドラグーン》とでも呼んでもらおうか」
 その名を聞いて、ガラハドの眉がぴくりと動いた。
「アトラス・ド・グレナダ……。グレナダ公国、アルハーン大公のご子息か。それがなぜアートハルク帝国の手先になどなり果てている?」
「手先とは心外だ。俺はこれでも火焔帝ガートルードの片腕なのだが。いや、能書きはいい。答えはイエスかノーかどちらかだ」
 青年は腕を組み、椅子に座ったまま冷静に自分を見据える提督を見つめ返した。しばし沈黙が流れる。やがてガラハドはその沈黙を破り、不敵に微笑んで見せた。
「……アジェンタスを見くびってもらっては困る。アジェンタス騎士団は、決してアートハルクのいいなりにはならぬ!」
 ガラハドの答えを聞くと、青年が小さくため息をついた。そして、その腰に下げられた剣に手をかけ、ゆっくりと抜きはらう。鞘から抜いた瞬間、その剣は暗黒の炎を吹き上げ、さきほどから放っていた禍々しい気がよりいっそう強くなった。
「……残念だな。あなたのような優秀な指揮官を失うとは」






 夕闇が広がり、太陽が西の空に沈んでいく様を、ガートルードはロクラン城の見晴らし台から眺めていた。真紅の甲冑が最後の西日に照らされ、よりいっそう赤々と燃え上がって見えた。秋を知らせる風が彼女の漆黒の髪をすくっていくので、ガートルードはそれを抑えながら眼下に広がる美しいロクランの城下町を見下ろしていた。
「何を笑っておいでなのです?」
 ガートルードの背後から声がした。
「ネフレテリか」
 火焔帝は振り向きもせずに尋ねた。十二、三歳くらいの巫女の姿をした少女がゆらりと現れた。
「楽しげですね。こんなにも早くロクランを制圧できたことに満足していらっしゃるので?」
 ネフレテリと呼ばれた少女はそう言って微笑んで見せた。少女の姿をしてはいるが、とがった耳とエメラルドグリーンの瞳をしているところから、偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》、しかも見かけどおりの年ではないのだろう。
「そんなところだ」
 ガートルードはまた小さく微笑む。そしてくるりと背を向けると、
「私は紫禁城《しきんじょう》に帰る。あとは頼んでもよいか」
「光都オレリア・ルアーノはお任せを。ですが……このあとの動きをご覧にならないのですか?」
「これから起こることなど、すでに知っている」
 ガートルードは意味ありげに微笑んだ。それを見て少女も小さく微笑み返す。
「では……あとは真紅の竜騎兵《クリムゾン・ドラグーン》がアジェンタスへ到着するのを見守るばかりというわけで」
 少女の言葉にガートルードは満足そうに頷き、そして独り言のようにつぶやいた。
「すべては……『神々の黄昏』にあり」






──人、英知の光失い、時代《とき》、漆黒の夜に包まれり
人の子ら、暗闇の雲、翼広げるを知らむ
恐怖と絶望の復活
されど、何憶もの光を超へ、眼れる救世主、再び目覚めん──

 運命の輪は大きく回り始める。
 しかしふたりの主人公は、まだ大切なことをなにも知らない。

【第一章:黒き悪夢の呪縛《のろい》 完】

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