第四話:集結

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 生き物のようにうごめき身をよじる大気の渦は、意志を持った悪意の固まりそのものだった。薄膜のようにぐにゃりと引き延ばされた結界は、この世には存在し得ない別次元の空間が膨れあがるのをかろうじて抑制しようとしているが、薄皮一枚をへだてた虚数空間の向こうから表れるこの世のものならざるものたちの悪意に、いますぐにでも溶かされつつある。
 虚数空間には、空気も光も、この世を構成するあらゆる要素をなにひとつ孕まない、生命体が活動できる世界とはまったく次元の違う虚無の世界が広がっているといわれている。遙か古代の数学者たちによる定義づけだと言われているが、難解な定義はさておき、すなわち現存する生物が活動することのできない、人間の常識では想像することすら困難な別次元の世界である。この世界と表裏一体に存在すると言われていたのだが、もちろん人間の誰一人としてその次元に働きかけられるはずなどなかった。数値を読むことにたけた偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》だからこそ、かの次元に接触を図ることができたし、そしてそこへ汎大陸戦争時代のモンスターを追い込み、結界をもって封印することができたのだ。
 まさにいまその結界の裂け目から、虚数空間に追い込まれたモンスターの一部が三次元の世界に実体化しようとしているのだった。虚数空間で弱体化され、おそらくはその形をとどめていることすら困難だったはずが、結界の裂け目を見つけて徐々に力を得、こちらの世界で完全に実体を取り戻した後は強大な攻撃力で人々を脅かすのだ。
 フライスは御者を馬車の中に押し込めたあと、念入りに圧縮していない長い呪文を詠唱し、馬車全体を物理障壁で覆い、さらにその外側に術法避けの魔法障壁を張り巡らせた。そして自らも馬車に乗り込み、不安そうに体を震わせる御者をよそに、眠ったままのサーシェスを抱き寄せた。
 火焔帝ガートルードが、ロクラン占領以前に解きはなったと言われる炎の結界。しかも、世界を破滅に追い込んだ最悪の厄災フレイムタイラントと同じ属性を持つ暗黒の炎の結界解放の影響で、おそらくは術法攻撃を得意とする炎属性の凶悪なモンスターが飛び出してくる可能性が高い。
 こんなところで……!
 フライスは密かに舌打ちをした。しかも、意識の戻らないサーシェスと一般人を、自分ひとりで守りきる自信はといえば、そうそうあるものでもない。この広大な空間の歪みからすれば実体化するモンスターの数も、ロクランなどでたまに発生したモンスター騒ぎとは比べるべくもなかろう。
 静かな地鳴りとともに、極限まで引き延ばされた結界が、空気の薄膜とともに次第に薄れていく。その薄くなったところから、力を取り戻したしたモンスターの頭らしきものが徐々に実体化するのが、フライスの心の目にははっきりと見えた。
 第一撃を自分の結界だけでしのげるか。フライスはサーシェスを抱く腕に力を込めた。
 ふと、サーシェスの体がぴくりと震えた。震えるまぶたから、視点の定まらないおぼろげなグリーンの瞳がゆっくりと姿を現す。
「サーシェス?」
 小さな声でフライスは少女の名を呼ぶ。だが、いまだ夢見心地のような表情のまま、少女は答えない。いっそ彼女の意識が戻らないまま、ここでふたり果てるのもいいかとフライスが思ったそのときだった。
「危ない……」
 ぼんやりと中空を見つめたまま、サーシェスがつぶやく。モンスターの実体化を知っていたような口ぶりではあったが、その視線はいまだ定まらず、フライスの顔を見るわけでもない。
「サーシェ……!?」
「だめ。逃げて……」
 そう言うのが早いか、サーシェスの体が緑色の光を帯びる。サーシェスの体全体を包み込むように広がり徐々に輝きを増す緑色の光は、サーシェスのまぶたが揺れるのと呼応するようにゆらめく。やがてサーシェスのグリーンの瞳がゆっくりと、だがしっかり力強く開く。一瞬だけ遠慮がちに輝きを失った緑色の光は、彼女の覚醒と同時にいっきに膨れあがり、馬車とその周辺の空間を容赦なく掘削していた。





 ベゼルとアスターシャの背後に発生した空間のひずみに煽られ、荒野の土塊が大気とともにボコボコと音を立ててはぜる。目に見えないどう猛な生物が暴れているかのように躍る土塊は、しだいに彼女たちの足下を浸食していく。ベゼルが悲鳴をあげるのよりも早く、セテは馬車を転げ落ちるように飛び降り、剣を握りしめて走り出していた。
「ベゼル! 走れ!」
 セテは叫び、剣を抜いた。後方ではレイザークが、大剣デュランダルに攻撃術法を乗せ即座に放つことができる体勢で、一時的な物理障壁を構築する呪文の詠唱に入る。ベゼルもアスターシャも、未知の恐怖に足がすくんで動けなかったようだが、セテの叫び声で我に返ったのか、おぼつかない足取りのまま地面を蹴る。
 少女たちが走り出したと同時に、ゆらめき黒くねじれた空間から、空気の固まりのような〈なにか〉がゆっくりと頭を出した。透明だったそれは結界の裂け目をくぐってこちらの世界に入り込んだとたん、ゆるゆると元の色彩を取り戻し始める。すなわち、炎の属性を持つ紅く禍々しい色だ。火焔帝が解きはなったという暗黒の炎の結界の影響に違いない。
「心正しき者の盾となり賜え!!」
 レイザークの呪文の詠唱が完結し、転げるように走っていたベゼルたちふたりの背後を覆う。その衝撃波でベゼルがはじき飛ばされ、アスターシャも同様に体勢を崩して倒れ込んだ。
「あちゃ〜。味方をはじいてどうすんだよ」
「うるせえ! 防御は苦手なんだ!」
 ジョーイの突っ込みに、レイザークはいまいましげに反論した。追ってレイザークも御者席を飛び降り、幅広のデュランダルを担いでセテの後を走り出す。
「ベゼル!」
 足の速いのが幸い、セテは転んだベゼルに滑り込むように近づき、その小柄な体を小脇に抱えたあと、あたふたと尻餅をついたアスターシャに手をさしのべた。アスターシャがいい機会だとばかりに体をぴったり寄せるのも、当のセテにはさっぱり効き目はなかったが。
 炎に包まれたこの世ならざる魔物の体は、徐々に結界をくぐり抜け実体化していき、いまやその巨体をセテたちの前に揚々とさらし、立ちはだかっていた。ゆうに五メートルは超すであろうサソリにも似た不格好な真紅の体が、霊子力から構成される炎をまとってギラギラと好戦的な姿を輝かせた。結界の隙間から元の姿を取り戻した魔物の、鋭いかぎ爪がゆっくりと頭上に振りかざされるのを見て、セテは即座に飛影を構えた。超硬質の刃はモンスターのかぎ爪をしっかりと捉えていたが、その圧力のすさまじさたるや、後ろでかばわれていたアスターシャとベゼルの体もろとも、セテの体をはじき飛ばしていた。
「おっさん! もう一発援護頼む!」
「七秒待て!」
 セテはレイザークの返事に舌打ちするが、次のかぎ爪がセテを襲おうとするその瞬間に、七秒もかからずレイザークの物理障壁が発動してセテの体を覆った。第二撃はかろうじて守られたが、もちろん間近で発動した障壁の反動で、セテの体は大きく後ずさる。ドスドスと巨体を揺らしてレイザークがこちらに向かってきていたところで、セテの体はレイザークの体に引っかかり、なんとか踏みとどまることができた。その後ろで、またもやアスターシャとベゼルが転げるように倒れ込んでいたのだが、巨木のようなレイザークの体につかまってなんとか立ち上げることができたようだった。
「レイザーク! なんかないのか!? ひと言でやっつけられるすげー術法は!?」
「そんな便利なモンあったら騎士団員なんざお役ご免だろうが! とにかくひけ! いまは逃げるが勝ちだ!」
「なんだよ! なに逃げ腰になってんだ! 俺はやる気マンマンだっての!」
 セテはレイザークのやる気のなさに憤るのだったが、
「こんなところで息巻いたって仕方ないだろうが! おミソふたり抱えてんのを忘れるな!」
「おミソォ!? ふざけんなクソオヤジ!!」
 お荷物扱いされたことでベゼルが大いに気色ばむ。
「生意気言ってる暇があったら走れ! とにかく馬車で逃げ切る!」
 レイザークはアスターシャとベゼルのふたりをかばうように立ちはだかったかと思うと、ベゼルの尻を思い切りたたき上げた。景気のいい音とともにベゼルが怒りの声を上げたが、怒り狂う妹をなだめる姉のようにアスターシャはベゼルの手を引き、その華奢な両足に力を込めて地面を蹴った。
 ジョーイは暴れる馬をなんとか手なづけ終わり、馬車を反転させることに成功したようだった。ムチを軽く振って全速力で走る仲間たちの元へ馬車を進める。足場が悪い荒野の地面で激しく馬車が揺れ、二日酔いの頭に相当響いているようでもあったが、そこで手綱を強く引き、馬車を横向きに急停車させる。
「早く乗れ! すぐ出るぞ!」
 ジョーイはそう叫んだ後、走る仲間たちを招き入れるかのように両手を振った。直後、彼らのすぐ後ろに紅く禍々しい光を放つ魔物の巨体があったので、ジョーイは「うへぇ」と顔をしかめた。レイザークとセテにかばわれて走る少女たちの足は、鍛えた剣士たちの速度には到底かなうものではないようだった。
「早く! すぐ後ろまで来てるぞ!」
「レイザーク! 王女を頼む!」
 セテはレイザークに王女を託すと、少し遅れていたベゼルに手を差し出し、その小さな腕を引っ張った。
「待って! そんなに早く走れな……」
 ベゼルの泣き言のような言葉が言い終わらないうちに、彼女の体は大きく傾ぎ、もつれた足が地面に膝を叩きつけた。そのすぐ後ろに、長い体の脇に映えた触手でクネクネと不気味に前進してきたモンスターがかぎ爪を振り上げていた。かぎ爪が鋭く地面をえぐっていたが、間一髪、すばしこいベゼルは素早く体を起こしていたため、切っ先はその体をかすめるばかりであった。
「ひい〜! た、助かっ……! わああっ!!」
 悔しげに先端を地面から引き抜き、再び魔物が中空に自分のかぎ爪を振り上げようとしたそのとき、ベゼルの体も一緒に中空に引き上げられていた。かぎ爪の表面をびっしりと覆う細かい突起が、ベゼルの服の裾を引っかけていたのだ。振り上げたかぎ爪の先端で、小さなベゼルの体は宙づりにされてしまっていた。
「ベゼル!」
 魔物は爪の突起にまで神経があるのか、自慢の突起にひっかかった物体=ベゼルが気に入らないらしく、邪魔者を振り落とそうとかぎ爪をブンブンと振り回した。
「わあああ! バカ! 脱げちゃう! 脱げちゃうってば!!」
 裾がめくれあがって、今にもベゼルの服は脱げてしまいそうになる。ベゼルは必死になって両手で服の裾を抑えようとするのだが、
「ベゼル! 手を放せ! そのまま服を脱いで飛び降りろ!」
「バカー!!! レディになんてこと言うんだスケベーーーッ!!!」
「ス、スケベとかそんなこと言ってる場合か馬鹿野郎!!」
 ベゼルの真下で困惑したセテが叫ぶが、別のかぎ爪が体をかすめたので、セテはいったんそれをかわし、少し距離をおけるところまで退却しながらサソリの姿をしたモンスターの体を睨みつけた。
 魔物のかぎ爪は全部で六本、体を支えるために地面を踏みしめる二本と、頭上に振り上げ威嚇する二本、そして腹の両脇にあり、おそらく頭上に振り上げた二本を補佐する役割を持つ若干小さめの二本。胴体からしっぽまでは無数の触手のような小さな足があり、これが巨体の速度やなんなく方向転換できる敏捷さを強化しているのだろう。
 魔物の注意は、爪の先端に引っかかっているベゼルに集中しているはずだ。なんとかしてベゼルを落下させ、抱き留めることができればいいのだが、注意が戻ったあと縦横無尽に振り回される他のかぎ爪を避けて逃げ切れるか。他に注意をそらすきっかけがあれば──。
 セテははおっていたシャツを脱いで右手に広げて持ち替えた。タンクトップ姿になったので一回間抜けなくしゃみをした後、すでに馬車にたどり着いていたレイザークを振り返った。戦士の勘とでもいうべきか、レイザークはセテの考えていることが即座に分かったようだった。
「汚れなき水の力をもちて、澱《よど》みし不浄の魂を殲滅せよ!!」
 簡略化された水属性の呪文を詠唱したレイザークが、間髪入れずに化け物に向かって攻撃術法を放った。だが、術法は魔物に直撃するかと思いきや、正面右側をかすめただけですぐに四散していた。
「旦那! 呪文しくってるって!」
「うるさい! 少し黙っとけジョーイ!」
 レイザークはもとより魔物に直接攻撃をしかけるつもりなどなかったのだ。見事に化け物の注意は自身の右側にそれ、その隙を狙ってセテが体を躍らせた。再びベゼルの真下へ駆けつけると、飛影をブーメランのように構え、頭上のベゼルに狙いを付ける。軽くかけ声をかけて飛影を真上に向かって放り投げると、細身のその剣はクルクルと回転しながら見事な弧を描き、突起に引っかかっていたベゼルの服の裾を切り裂いていた。
「ひえええっ!!!」
 背中から服が裂け、下着姿になったベゼルは情けない悲鳴を上げたが、その瞬間に彼女の体は飛影とともに落下を始める。だが次の瞬間には、真下のセテがその小さな体をうまく抱き留めることに成功していた。
 レイザークの物理障壁が即座にふたりの体を防御する合間に、セテはベゼルに自分のシャツを羽織らせてやると、自慢げに微笑んだ。ベゼルが泣き顔のような表情でセテにすがりつくのを、セテは兄貴のような仕草でなだめてやる。少女と青年というよりは、いじめられて帰ってきた弟が、兄に泣きじゃくりながらことの顛末を報告しているようにしか見えないのだったが。
「もうだいじょうぶだ。百メートル三秒で走れるな」
 セテが地面に突き刺さっていた飛影を引き抜き、そう言った瞬間のことだった。なにやら悲鳴のような声が馬車から聞こえてきたのに気づいたセテは、直感的にベゼルの背中を突き飛ばしていた。そして。
「セテ!!!」
 もう一度悲鳴のような声が聞こえたときに、セテの体はがくんと大きく揺れた。がら空きになっていた右側から、別の魔物が結界の裂け目をくぐって実体化していたことに気づかなかったのは、セテの大きな誤算であった。あろうことか、炎の大サソリのかぎ爪は物理障壁さえも突き抜け、セテの背中から腹までを容赦なく刺し貫いていたのだった。
「セテ! セテーーーッ!」
 泣き叫ぶベゼルの声が耳鳴りのようにくぐもって聞こえる。腹の先に突き出ている紅い爪の先から、自分の血がわずかにしたたっているのを確認したセテの手から、飛影が無造作に放り出される。ひゅうと喉が鳴ったあとに激しい苦痛が襲ってきたので、セテは激しく咳き込むのだったが、酸素を求めてあえぐ口元から出てくるのは粘着度を増した血液の固まりだけだった。
 突如としてかぎ爪が引き抜かれたことでセテの体は大きく前に傾ぎ、両膝はがっくりと地面に打ち付けられた。腹に空いた傷を無意識に押さえるのだったが、押さえた指の間から血液が膨れあがるようにしみ出し、地面にしたたり落ちてくる。顔を上げれば、レイザークがなにやら攻撃術法の呪文を高速言語で詠唱しながら剣を振りあげ、走ってくるのが見えたが、それもやがて見えにくくなってくる。痛みも音も視界もなにもかも、すべての感覚が麻痺していくのだけが感じられた。ただひとつ、地面についた右手の平の傷の痛みを除いては。
 えぐられた肉が傷みを発することはなかった。ただ、ジンジンとうずくように脈打っていた右手のひらの傷跡が、鋭く刺すような痛みを発していた。ここ最近は感じることのできなかった、懐かしい感覚であった。
 ──だめ! 立ち上がって──!
 懐かしい痛みには、懐かしい感覚がつきものなのだろうか。
 苦痛が極限に達すると、脳はそれを緩和するためにさまざまな働きをするとは聞いていたが、サーシェスの声が聞こえるような気がしたのでセテは苦笑する。やばい、俺、まだあの娘のこと気にしてたのかな。そんな場違いな考えが頭をよぎったのが滑稽で、セテは声を上げて笑った。笑ったつもりだった。
 ──だってそうだろ? 俺、ここで死んじゃうのにさ──。
 だが実際には。
 レイザークは攻撃術法を自慢の愛剣デュランダルに載せ、解き放つ体勢に入っていたところだった。だが、がっくりと膝をついた青年の体が青白く光り、それがやがて緑色の光に包まれていく様に驚いて、詠唱は中途半端なところで中断してしまう。苦痛に歪んでいたはずの青年の顔が徐々に笑みを浮かべ始めるのを見て、一瞬恐怖にかられたといっても過言ではなかった。一時的に苦痛から解放する脳の働きにしては、あまりにもその表情は邪悪な様相を呈していたのだ。
 青年はなにやらブツブツとつぶやいているようだった。それが聞いたことのない高速言語であるとレイザークが気づくのに、ものの数秒も必要はなかった。レイザークは足を止めたが、その場に縛り付けられたかのように動くことができなかった。金縛りとはまた違う、戦士の直感とてもいうべき不思議な前触れを感じたに違いない。
 セテの右手は砂を掴みながら素早く地面を擦り、力なくうなだれていた体がはじかれるように起きあがった。歌を歌うのにも似た不思議な言語による詠唱らしきつぶやきはその間もずっと続いていたが、少しの間の直後、銀色の傷跡がくっきりと浮かび上がった右手が正面の魔物にぴたりと突きつけられていた。
「××××××××××!!!!」
 歌うような不思議な音階に載せて、呪文の詠唱が完結する。セテの右手から突如としてはじき出された光が大きく膨れあがり、緑色の神聖語の文字列の奔流となって回転したかと思うと、さらにいっそう輝きを増し、太陽の爆発かと思うようなほどの光を持って周囲の光景を溶かしていく。
 そのすぐあと、光の奔流に遅れて爆音が周囲を剥ぎ払う。耳をつんざくような音の奔流に飲まれたサソリの体は紅い攻撃的な色を失い、炎よりも強靱な光に晒されながら苦悶の悲鳴をあげていた。その悲鳴がとぎれるころには、その禍々しい体は微塵に砕け散って光の奔流の一部となっていた。
「な……なんだ、ありゃあ……!」
 術法など使えない。そう自虐的に笑った青年の姿はそこにはなく、手練れの術者のような鬼気迫る表情の青年がいる。腹の傷など眼中にもない様子で立ち、強力な術法を放つ青年の姿に、レイザークの皮膚は本能的な恐怖を感じ、粟立っていた。
 ひるんだもう一匹の魔物が後ずさりするが、その背後に大きく口をあけた結界から、彼らの仲間たちが次々に頭を覗かせている。セテは彼らに対し容赦なく右手を差し出し、再び呪文の詠唱に入るのだったが、そこで体力のほうが保たなかったのか、再びセテの体はがっくりと膝をついていた。
「ちくしょう! おい! セテ!!」
 今度こそレイザークは攻撃術法を剣に載せ、高速言語で呪文を完結する。
 セテは腹を押さえてうずくまっている。先ほど謎の呪文を詠唱した際にもずっと腹から出血していたのだ、いくら強力な術者といえども、あれほどの攻撃力を誇る二発目の術法発動に肉体が耐えられるわけなどない。
「くそっ! 間に合うか!!」
 レイザークはデュランダルを大きく振りかぶり、セテに迫りくるモンスターの一群目がけて狙いを定めた。術法がセテの頭をかすめ通り過ぎたところで、レイザークは舌打ちをした。本体に直撃したとしても、すでにセテの頭に狙いを付けていたかぎ爪をはじくことは不可能に近いことだ。レイザークは先に物理障壁を構築しなかった己のあさはかさに舌打ちをする。いくら防御が苦手でもっぱら攻撃専門とはいえ、聖騎士である自分の築いた物理障壁をいとも簡単に突き破り攻撃できる化け物がいたことに、自信喪失していたのかもしれない。本体を貫いた瞬間、魔物のかぎ爪がセテの頭を貫き押しつぶすのは目に見えたことだった。立て続けに物理障壁を構築しようと、レイザークが決死の詠唱を試みたそのときであった。
 まばゆい光の奔流が、再び周囲を巻き込んでいた。今度はセテの体を包んでいたものよりもずっと強く輝きを放つ緑色の光だ。禍々しい気を含んではいたが、反対に汚れなき浄化の気までも内包し、聖属性と暗黒属性の両方を併せ持つ、どの属性とも定義づけることのできないものであった。元来、四大元素を形作る属性には、暗黒と聖のふたつの属性がそれぞれ内包されているが、聖と暗黒が結びつけられる属性は存在しないと言われている。しいていえば無属性。無とついていながらすべての属性を内包する、究極の属性とでもいうべきか。理論上は存在しないと言われてはいたが、かつて歴史上、その属性を無尽に使いこなす強力な術者がひとりだけいたと言う。もちろん、二百年前の大戦で命を落とした、いまでは伝説となりえた人物のみだ。
 一同はそのまばゆさに目を覆ったが、その光が薄れたころ、セテの頭上わずかのところにレイザークの物理障壁よりもなお濃い光の断層ができており、そしてその上に、光を背に立つ影がひとつ。
 それは人影のようにも見えた。緑色の光の中に浮かぶ、神々しいばかりの。
 術法の反動と苦痛で精神力の糸が切れたセテは、その中空に浮かぶ不思議な人影をぼんやりと見上げていた。光の中で激しく躍る銀の色をした髪が、セテの意識をいやでも覚醒させる。
「私を呼んだか?」
 人影は、少女の声で静かにセテに問いかける。忘れようとしても忘れられない、忘れたことなどない、記憶の底に眠る神々しい姿が、いまこの瞬間に復活したようにも思えた。
「サーシェ……?」
 血まみれの唇で、セテはそうつぶやいたつもりだった。銀色の人影はそれを優しく制するように微笑むと、
「久しぶりだな。〈青き若獅子〉。また会えた」
「青き……若獅子……?」
 セテの問いかけに、見知った少女の姿をした人影は意味ありげに微笑むと、自分の左手のひらを広げてみせた。セテと同じ銀色の傷跡が、緑色の光に煽られてくっきりと輝いていた。
 それから少女はくるりと背を向け、魔物たちに立ち向かうような姿勢で背筋を伸ばした。突然現れた緑色の光に包まれた少女の姿に、汎大陸戦争時代に殺戮の限りを尽くしてきたモンスターたちがひるんでいるかのように見えた。光に包まれた少女の姿に吸い込まれるように中腰で立ち上がったセテの手を取ると、少女は自分の左手にセテの右手、手のひらに傷跡を持つ双方の手を互いに沿わせ、魔物に向かってまっすぐに差し出した。
「私の波長に合わせるだけでいい。あとは私が導く」
 少女はそう言って微笑んだ。そのおだやかな表情に、セテは先ほどまで怒りに囚われ、我を失っていた自分の心が氷解していくのを覚えた。懐かしさと愛しさをこんなにも狂おしく感じていることに、セテの心は切なく震えていた。
「悪しき者どもを殲滅せよ!!!」
 少女の力強い詠唱が響き渡る。聖属性最上級攻撃術法の発動であった。
 再びあたりを閃光がなぎ払い、断末魔の悲鳴をあげることすら許されずに、魔物たちの体は粉みじんに吹き飛んでいた。実体化してきたばかりのモンスターたちも巻き込み、すさまじい土砂を吹き上げる。魔物たちの息吹に呼応するかのように躍動していた結界の裂け目も、一瞬にして補完され、虚数空間の出口を密閉していく。それを合図に、さきほどまで生き物のように蠢き禍々しい空気を孕んでいた空は、次第にいつもの青く澄んだ色を取り戻し始めていた。
 ことの顛末を見守っていた一同に、言葉を発する余裕はなかった。ただ、緑色の光の中で互いの手を取り合い、見つめ合う青年と少女の姿に魅入られてしまったかのように立ちつくすだけであった。
 少女の手のひらから、苦痛を取り除き体力を回復させる力の奔流を感じながら、セテも光の中にたたずむ懐かしい少女の姿を、夢見心地のままで見つめることしかできなかった。まぶたが重い。体が、休息を求めて激しくあえぐようだった。
「君は……? サーシェス……? それとも……メ……」
 そう言うなり、セテは少女の腕の中に倒れ込み、そのまま意識を失った。その姿は、母に許しを請う不肖の息子のようにも見えた。少女はなにも言わずに、意識のないセテの体を抱きしめるだけだった。
「……うそ……サーシェ……!?」
 馬車の外で、ジョーイにしがみついていたアスターシャがおそるおそる声を発した。ジョーイも、もちろんレイザークも、ロクランで見覚えのある少女の姿に驚きを隠せないようだった。
「サーシェス!!」
 突然中空を切り裂き、現れた黒髪の青年が叫んだ。転移の術で駆けつけたであろうフライスのその呼び声に振り向くことなく、銀髪の少女の体は力を失い、セテと同様に地面にくずおれた。セテをかばうようにその上に覆い被さり、その手は、セテの右手をしっかりと握りしめて。
 呪縛が解けたようにレイザークが走り、その後をアスターシャが追う。フライスは意識を失った少女の体を抱き起こし、同様にレイザークがセテの体を抱え起こした。
「いったい、ここでなにがあったんだ」
 フライスは少し怒気を含んだような表情で、目の前の大柄な聖騎士を睨みつけた。そのぶしつけな物言いに対し、レイザークも負けじと強面で応酬する。
「それはこちらの台詞だ。ラインハット寺院次期大僧正候補フライス様よ」

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