第二十話:天の書記官にて

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 サーシェスはしばらく顔を手で覆ったまま、沈黙を続けた。セテは彼女が泣いているのではないかと思った。泣き声はしないが、セテの手のひらを伝って重苦しくよどんだ悲しみの奔流が伝ってくるので、サーシェスの心が泣いているのだと思った。
 サーシェス。救世主《メシア》と呼ばれた少女。二百年前に大陸全土を焦土と化した汎大陸戦争で、炎の化身フレイムタイラントを聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》とともに倒し、一度は命を落とした伝説の女神。二百年の時を越えて復活を果たしたものの、その姿は幼く、いまは過去のすべてを憎むかのように嘆き、心の奥で泣いている。
 強靱な精神力と神をも恐れぬ戦闘力で、長きにわたる神々の使いとの戦いを経たというのに、救世主のなんと小さく見えることだろう。
 救世主だけではない。未来を知る巫女として大戦後を生きてきたグウェンフィヴァハは、たいへん奥ゆかしい占い師であるし、上座に座しているテオドラキスは、見かけどおりの年齢ではないと分かってはいるがまだ幼い少年の姿をしていて、おまけに気取るところもなく気さくで人なつこい性格を持つ。
 伝説は、なんと人を大きく見せてしまうことか。
 そしてその伝説を利用して、ガートルードは自らを新しい救世主と呼び、アートハルク帝国の残党を率いて中央に反旗を翻した。
 すべてが、二百年前の汎大陸戦争という伝説に踊らされているようだ。
「サーシェス」
 セテはおそるおそる、サーシェスに声をかけた。返事はない。セテはかまわず続けた。
「もしサーシェス……。君が……あの独房の中で言ったように、そしていまも言ったように、すべてを忘れてしまいたい、もう終わりにしたいと思っているなら……」
 サーシェスの肩がわずかに動いた。
「もう、終わりにしようよ。もし可能なら、俺たちの手で。君がそんなに苦しまなければならないことがこの世界にあるのなら、それを終わらせるために何が必要か、俺に教えてほしい。俺は……君の〈青き若獅子〉として、なにか君のためにできることをしたい」
 サーシェスが再び、わずかに体を動かした。
「……終わらない……終わらないのよ……どうやっても、何度やっても……! もう私ひとりの手には負えない……!」
 サーシェスの、泣き声のようなか細い声が、顔を覆った手の間から苦しそうに漏れる。
「違うよサーシェス!」
 セテはサーシェスの両肩に手を掛け、自分のほうに向き直らせながら声を強めた。
「何でもひとりでしょいこむのは君の悪い癖だ。俺も……よくそう言われるけど、自分でできないなら誰かに手伝ってもらえばいい。人間は自分ひとりじゃ生きていけないんだ。誰かに力を借りるのがそんなに悪いことなのかな? ひとりで生きていけないのは、なにも人間に限ったことじゃなくて、術法を使える偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》だって同じだろ!? だから君は、汎大陸戦争のときにひとりではなく、聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》たちを率いてフレイムタイラントに立ち向かったんだろ!? なら、今度はいま、俺たちが聖賢五大守護神の代わりになることだってできるはずだ。君がそう望むなら」
 レイザークが気色ばんでセテを制止しようとしたのだが、テオドラキスが仕草でレイザークを押しとどめた。
 サーシェスは、ゆっくり、ゆっくりと時間をかけて顔を覆っていた手をはずす。そして、いつものグリーンの瞳がまっすぐにセテを捕らえた。
「セテ……」
 サーシェスは弱々しい声で青き若獅子の名を呼ぶ。セテはまだ、しっかりと幼いサーシェスの肩を掴んで話さなかった。
「教えてくれ、サーシェス。君を苦しめるものはなんなのか。たとえその苦しみから君を解放することが俺たちにできないことでも、君がしょいこんでいるものを共有してくれるだけで、その苦しみはいくらか分散するはずだ」
 サーシェスは困ったように眉根を寄せ、顔を伏せた。セテのまっすぐな青い瞳から逃れたかったのかもしれない。ふとサーシェスはテオドラキスを見やるのだが、テオドラキスは静かに頷き返すと、
「サーシェス。セテの言うとおりです。ここまできて、自分ひとりで戦おうと意固地になる必要もないでしょう。ご覧なさい。あなたは二百年経ってようやく理想の〈青き若獅子〉に巡り会えた。運命の輪が、別軸へ動き出そうとしているのかもしれません。私たち聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》の役目は二百年前に終わりました。今度は彼に、そして彼らに、運命を託してみてはいかがでしょう」
 テオドラキスの言葉に、サーシェスはまだうつむいたままだ。テオドラキスは小さくため息をつくと、
「サーシェス、お忘れですか? 時間は……もうあまり残されていないのですよ」
 サーシェスの体がぴくりと反応した。セテの手のひらから、サーシェスの葛藤が流れ込んでくる。銀色の傷跡は、ますますサーシェスとの絆を深いものにしたようだった。
「……そう……そうだな……。時間はもう……ない」
 それからサーシェスは両肩に載せられたセテの手を取り、それを小さな手で包み込むようにして握った。わずかだが震えている。
「ありがとうセテ。とてもうれしい。決して拒絶しているわけじゃない。先ほどの幻影《ヴィジョン》以上の衝撃を、あなたに伝えなければならないことに、私は迷っているだけ」
「迷う必要なんかない。俺は、君の〈青き若獅子〉だ」
 セテの力強い言葉に、サーシェスは久しぶりに、ほんのわずかではあるが微笑んだ。そして、すべてを納得したかのように頷くとテオドラキスを振り返り、
「テオドラキス、まだ〈メタトロン〉の端末は生きているか?」
「ええ、一応私の元で管理はしていますが……あんな古いものをどうするおつもりで?」
 テオドラキスは驚いたような表情でサーシェスを見つめる。
「セテに……〈青き若獅子〉にはすべて話しておきたい。連れて行ってもらえないか。封印は私が解く」
「……分かりました。ではすぐ、みなさんも出立の準備を」
「それにはおよばない」
 サーシェスはテオドラキスの申し出を厳しい表情で制した。
「ここからは……私とセテだけで話をしたい。私のわがままに全員を付き合わせるつもりはない。最後のわがままと思って聞いてほしい」
 唖然とする一同。すかさずテオドラキスが入った。
「あなたがたふたりでは危険です。あなたは先ほどの幻影《ヴィジョン》で力を使ったばかりだし、解除するにも力がいる。〈メタトロン〉と直結するつもりならなおさら、補助術法が必要になるでしょう。それに……いや、いいでしょう。私も同行します」
 テオドラキスが辛抱強くそう言ったので、サーシェスは少し考えたようだったが首を縦に振った。
「待て!」
 割って入ったのはレイザークだった。
「セテの補助は俺がする」
「パラディン・レイザーク、貴公は……」
「〈青き若獅子〉だかなんだか知らんが、半人前のそいつだけじゃお嬢ちゃんも不安だろうよ。それに、俺はそいつの保護者でもあるし、俺にはそいつを監視しなきゃならん理由があるんでな」
 サーシェスが拒絶しようと口を開きかける間もなく、レイザークはそう言ってのけた。一瞬セテの体がこわばったが、サーシェスは再び少し考えてからセテに向かって頷いてみせた。セテはなにか言いたそうに肩をすくめることしかできなかった。





 夕闇の海原に舟影が見えたことで、港がいっせいに動き出した。エルメネス大陸からの定期便であるその船は、途中に大きなシケに遭遇することもなく予定どおりの到着時刻で航行してきたようだった。
 港に待機していた男たちは接岸する船に渡す橋を運んだり、積み荷を降ろすための滑車や台車を動かしたりと大忙しだ。海の男たちの力強い声が港に響き渡る。
 水面を滑るように近づいてくる船がゆっくりと船首を回し、接岸の準備に入る。男たちの掛け声とともにロープが港に渡され、波止場の屈強な男たちがロープの先端を係船柱《けいせんちゅう》にくくりつける。いよいよ船は港に船体を近づけると、係船柱にロープがかかったのを見届け、波の自然な力に任せてその巨体を静かに波止場に寄せた。
 ゆらゆらと体を揺らす船に橋が渡され、船員たちが賑やかに降りてくる。大きな荷物を抱えた商人たちが積み荷を降ろす台車の周りに群がりながら、ホクホク顔で降りてきた。中央での商談はうまくいったのだろう。
 定期便は中央との商談を済ませた商人たちでごったがえしている。いつものことだった。たまに酔狂な金持ちが中央から辺境への観光にこうした定期便を利用することもあるが、だいたいの者はその乗り心地の悪さや荒くれ者の船員たちの態度に辟易して、帰りには上等の旅客船を使うのだった。
 そしてそんな乗客たちに混ざって、ひときわ目を引く若者が降りてくる。赤茶けた長い髪を後ろで束ね、Gパンと襟付きの白いシャツをはおった長身の若者だった。端正で彫りの深い顔立ちに、ブルーグレイの瞳。表情はかたくなで険しく、その瞳は見る者を萎縮させるほどの鋭い光をたたえている。夜の帳が降りきった港では物騒な物腰ではあるが、しかし周りの人間は彼に特に気を払う様子もなく、通り越していくだけだ。
 いつもの戦闘服を脱ぎ、私服に身をやつしたアトラス・ド・グレナダであった。
 橋を渡る間、アトラスは松明に照らされた辺境の港の様子や、その向こうに広がる広大な緑地に物珍しげな視線を投げかけていた。
 彼自身、辺境に降り立つのは初めてのことであった。グレナダ公国は大戦後、エルメネス大陸の主立った国家が設立されたずっと後に作られた新興国ではあったが、もともとハイ・ファミリーの分家のひとつであったし、辺境の民と接する機会などアトラスに与えられることはなかった。
 ただひとり、〈彼女〉を除いては。
 彼女は辺境の民のひとりであった。彼女から聞いた辺境の暮らしは、貧しいが、とても心に豊かな感情を与えてくれるのだそうだ。
 彼女は占い師であった。彼女はかつて言った。中央のあちこちでいろいろな人を占ってきたが、その相談ごとは常に物欲的なことや自分の名声、富を手に入れたいと願うものばかり。それに比べて、辺境の人たちは悩みごとなどなく、あっても夫の酒癖の悪さや子どもたちの育て方についての、ほんの少しの愚痴と世間話が常だったのだという。
 中央の人たちの心は、とても凝り固まっていて精神的な余裕がないのだと彼女は言った。アトラスはそのとき、もっともなことだと思ったものだった。
 アトラスは、グレナダ公国、アルハーン大公の次男として生まれた。長男はプロメテウスといった。父であるアルハーン・ド・グレナダによれば、兄プロメテウスの名もアトラスの名も、旧世界《ロイギル》よりずっと以前から伝わる神話の世界に登場する神の名からとったのだという。
 先見の明を持つ神とされたプロメテウスの名と同様に、兄プロメテウスは学問に明るくとても聡明だったが、体が弱かった。対して弟であるアトラスは、その名を持つアトラス神が天空を背負う運命を持っていたように、力強い肉体を持って生まれた。父がアトラスの才能を早くに見抜いたのか、先にアトラスがその才能を開花させたのかは定かではないが、アトラスは物心ついたときから剣の稽古に励み、いつも腰に剣を下げて公邸内を歩いていた。
 アルハーン・ド・グレナダはこの息子たちを年を取ってから授かったため、アトラスが成長して物事の判断ができるようになるころには、老衰によって病の床に伏せることがしばしばであった。官僚たちや廷臣たちの間ではアルハーンはもう長くないと言われており、その後継者に関する話題は常にのぼっていた。
 アトラスは、国を背負うことについてまったく興味はなかった。政治《まつりごと》は兄のような聡明な人間がふさわしいと思っていたし、もし叶うのなら、自分は剣の道で食べていきたいと思っていた。そのための努力は惜しまなかったし、中央特務執行庁の試験を受けて特使になるか、特使を通じてどこかの騎士団に入ることができればよいと思っていた。もし兄が必要とするなら、自分は兄の護り刀としてグレナダ公国を影から支えるだけでいい、とも。
 だが実際には、病弱なプロメテウスを後継者にふさわしくないと考える派閥から、アトラスは熱烈に後押しを受ける毎日が続いた。もちろん、兄プロメテウスには彼を後押しする勢力がついていた。仲の良かった兄弟をこんなことで引き裂こうとする周囲の駆け引きに、アトラスは心底うんざりしていた。
 だから思うのだ。中央の人間の心は澱んでいる。たかが公国の頂点に立つ人間の動向に一喜一憂し、自分の保身を考え利益を守ろうとする醜い争い。物理的な欲に目がくらみ、人を思いやる心など欠片も持ち得ない、人の形をしたただの肉塊。そんな肉の塊に囲まれた生活は、アトラスにとって心底憎むべき、唾棄すべきものでしかなかった。
 そんな折りに彼女と出会ったのは、本当に偶然であった。
 彼女は、剣の稽古をしていたアトラスの目の前に突如として現れた。術者の転移によるものであったが、彼女はひどい火傷を負っていた。いったいどこから現れたのか、なぜそんなけがを負ったのか。
 彼女の赤い髪は少年のように短く刈り上げられていたので、最初、アトラスは彼女を女だと認識することはまったくなかった。だが手当をしようとしたその矢先に、アトラスはまったく不本意な形ではあったが、彼女が女であることを知った。
 女は嫌いだった。
 母親はアトラスの幼いころに亡くなっていたが、心を病んでいた。父であり、彼女の夫であったアルハーンが自分を省みてくれないというただそれだけで自分の殻に閉じこもり、子どもであった自分や兄の目の前で父の悪口をさんざん吹き込み、挙げ句に泣き出して錯乱しては側近の者たちを困らせていた。父への憎悪が募り、寂しさを紛らわすために母は、公邸内の側近の男のひとりと恋に落ち、やがてその報われない許されない恋におぼれ、酔い、自分の気持ちをひとりで勝手に昂ぶらせたあげくに自害して果てたのだった。
 だから、女は嫌いだった。彼女が女であることが知れたその瞬間にアトラスは彼女をたたき出すこともできた。いつもならそうしたはずだった。
 だが、アトラスはそうしなかった。母親とは違う、聡明な顔、大きなアーモンド型の瞳のせいだけではなかった。彼女の奥にある、自分と似た「ある物質」がそうさせたのかも知れないし、あるいは彼女の知恵ある言葉がアトラスの気を変えたのかも知れない。それはアトラス自身にもいまだ分からぬことではあったが、だがアトラスは間違いなく、彼女に急速に惹かれていったのだった。
 彼女はそのまま、短く刈り上げた赤毛という風貌のまま、男と性別を偽ってアトラスの側仕えとしての職に就いた。彼女は側で影のようにアトラスを支えることを望んだ。アトラスも、彼女にずっと側にいてほしいと望んだ。
 初夏のあのグレナダ公国崩壊の日までは。
 彼女が後継者争いに巻き込まれ、唾棄すべき霊子力砲の生け贄となるまでは、ずっと、彼女と同じ時間を共有できるのだと信じていた。
 彼女の名はアルディス──アルディス・ランカスター。いにしえの従属一族〈土の一族〉の出であり、炎を吹き上げる魔剣レーヴァテインをアトラスに預けた、兄以外にこの世でただひとり、心を許した娘であった。
 そのアルディスの故郷である辺境に、アトラスはいま降り立った。ガートルードから命じられた〈土の一族〉──アルディスの一族でもある──の探索を遂行すべく、アトラスは先を急いだ。





 セテとサーシェスはレイザークとテオドラキスを伴って、集落の裏手から続く林の中の、奇妙な通路を歩いていた。木々に覆われてはいるが、ほのかに道が発光しているように見えた。おまけに砂利や土の感触ではない、つるつるとした表面がブーツの底を捕らえる。アジェンタスの地下通路で体験した通路とよく似ている。淡い緑色の光を放つ通路は幸いにも、日のどっぷり暮れた夜にあって四人の視界を照らすが、周囲の木々の葉を不気味に浮かび上がらせる。セテはその不思議な通路を恐ろしいとは思わなかったが、この先で待ち構える何かの気配を感じ、先ほどから少し落ち着かない気持ちであった。
「あの……この先にはなにが……?」
 無言で進むテオドラキスの背に、セテは声を掛けた。なんだかあまりいい予感がしない。
「この先には、汎大陸戦争以前に使われていた端末があります。先ほどサーシェスが言った〈メタトロン〉と呼ばれるシロモノです」
 テオドラキスが少し振り返ってセテの様子を確認したあと、そう言った。セテは頭をかきながら申し訳なさそうに、
「あ……その……端末ってどういう意味だか分からないんだけど……?」
「端末というのは、旧世界《ロイギル》の言葉でいうと〈ターミナル〉、〈コンピューター〉の入出力用機械を差します」
「……た、ターミ……なぅ? コンピューター?」
 セテはたどたどしく、テオドラキスの言葉をおうむ返しにつぶやいた。テオドラキスがくすりとわずかに笑った。
「いまの私たちでは発音は難しいかもしれませんが、中央標準語の元となった言語に存在する単語のひとつですよ。かつては〈英語〉と呼ばれ、惑星入植当時には実に多くの人がこの言語を話し、ほぼ標準語とされました。いまの私たちが話す言語よりも文節が多くて長ったらしいでしょうが、言語学的に見ればさほど違いはないはずです。長い時代を経て言葉が変遷することはよくあります。その〈英語〉をどんどん短縮化し、別の形で新しい言葉や用法が生まれた。主語述語の文章構成も変わりませんし、いまの時代にも残る単語は多いから、すぐに覚えることはできるでしょう」
「……って、つまりそれを覚えないといけないってこと?」
 セテがうんざりした表情で尋ねるので、テオドラキスは再び笑った。
「まぁ覚えてもらうと話は早いでしょうが、いまは私とサーシェスが翻訳し、解説しますからご心配なく」
 セテは小さくため息をついた。
「その、〈メタトロン〉っていうのは?」
「惑星入植当時に持ち込まれ、母星との星間通信やさまざまな基幹業務を引き受けた巨大な汎用コンピューター、ああ、電子式汎用計算機のことですが……その〈ターミナル〉の総称です」
「……機械の名前……か……。しかし不思議な名前だな」
「〈メタトロン〉とは、母星に伝わる宗教の教典に登場する天使の名前です。『神の代理人』や『天の書記官』などのほか七十六もの名前を持つとされました。〈メタトロン〉はその天使の名と機能にあやかってつけられたもので、本体である〈メインサーバー〉の〈セフィロト〉が処理した結果を、星間ネットワーク通信網〈セフィラ〉を通じて〈メタトロン〉から呼び出すことが可能です。実に七十六をゆうに越えるさまざまな業務を、遠隔地にいながらにして処理する、それが〈メタトロン〉の役目。いまから〈セフィロト〉に蓄積されている〈データベース〉から、〈メタトロン〉を通じて情報を引き出します」
「……ごめん……せっかく説明してくれたのに……分かんないや……その辺はまぁ、追々ってことで」
 セテは困ったように頭をかき、そしてサーシェスがそのやりとりを聞いてくすくすと笑った。
「〈メタトロン〉はとても便利ではあるのですが、いろいろと問題がありますので先に断っておきましょう」
 テオドラキスは厳しい表情に戻ると、セテとレイザークのふたりを振り返った。
「問題って?」
 セテが問いかける間もなく、テオドラキスは前方に見え始めた扉のようなものを指さした。木々に覆われてはいるが、小さな小屋のような建物とその入り口であろう巨大な扉が闇に浮かんでいる。
「まずは大きな問題から。〈メタトロン〉は我々聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》によって、大戦後に固く封印されています。セレンゲティ大陸に存在したあれは、いまは私の手元で管理はしていますが、まずは封印を解かなければなりません」
「それは私が解く。問題ない」
 サーシェスがそう言うと、テオドラキスは頷く。
「救世主《メシア》がフレイムタイラントに施した要石の封印よりは小さなものですが、解呪には十数分を要するでしょう」
「なんだ。数日かかるとか言い出すのかと思ったら」
 セテが肩をすくめたが、
「問題はもうひとつ。もしかしたらこちらのほうが厄介かも知れませんが……」
 セテとレイザークはふたりで顔を見合わせる。
「ご存じかどうか分かりませんが、こうした重要な施設には必ず、そこを守護する〈ガーディアン〉が置かれます。〈ガーディアン〉は侵入者を拒むための装置であり、侵入する意志を持つ者を攻撃してきます。解呪までの十数分の間、〈ガーディアン〉の攻撃に持ちこたえなければなりません。最終的に〈ガーディアン〉を破壊してもらってもかまいません」
 セテとレイザークは再び顔を見合わせ、そしてそれぞれの武器に手を掛けた。近づくごとに鮮明になってくる視界の両脇、建物の入り口を守るように立っていた石像のようなものが、ゆるゆると闇に紛れて蠢き始めるのが見えた。
「まさかと思うけど……もしかしてアレ……のことかな?」
 セテが飛影《とびかげ》を抜いて構えた。同時にレイザークも背中のデュランダルを抜き、構える。
「私はサーシェスの解呪を補佐します。あなたがたおふたりで、あれの撃破をお願いします」
 見れば、サーシェスは手で中空に大きな円を描き、呪文の詠唱に入っている。セテは剣の束を握る手のひらに魔除けに唾を吐くと、サーシェスの前に躍り出て剣を構え直した。同じくレイザークも、サーシェスとテオドラキスの前にのしのしと巨体を揺らしながら出てくる。
「とんだ腕試しってとこだな。食後のいい運動だ」
 セテははやる気持ちを抑えきれずにそう言った。石像は悪魔のようなかぎ爪のついた翼を広げ、二体同時に宙を舞うところだった。
「ああ。だがまぁ、悪くはない」
 レイザークもそう言い、ふたりはそろって剣を振り上げた。





「悪くない。食後のいい運動だ」
 アトラスがそう言い放った視線の先には、顔を腫れ上がらせて床にだらしなくのびている、顔面血だらけの男。その男の周りにも、同様に顔を腫れ上がらせているか、白目をむいて気絶した男たちの体が累々と横たわっていた。
 アトラスは軽く手をパンパンと払い、次いで服についた埃を払い落とす。つい先ほどまで、派手な立ち回りを演じていた証でもある。男たちのケガが目も当てられない状態なのに比べ、アトラスは涼しい表情である。ケガらしいケガも見あたらず、一方的にアトラス優勢の状態で終わったのは明らかであった。
「さて。俺の勝ちだ。約束どおり吐いてもらおうか」
 アトラスは不敵な笑みを男たちに投げかけた。男たちは悔しげに歯の間からうなり声をあげる。
 ふいに胸ぐらを掴まれ、ひとりの男が引き上げられた。アトラスの腕が男の胸ぐらを掴み、自分の目の前に足下のおぼつかない男を立たせる。
「答えろ。さんざん遊んでやっただろう」
「あいにくあんたの強烈な拳で顎がくだけちまってな……」
 男はにやりと笑った。見事なたんこぶを顔面にいくつもこしらえ、半開きの口元からは欠けた前歯が何本か覗いている。アトラスはいらついた様子で男の胸ぐらをさらに締め上げる。
「こちらは穏便に済ませるつもりだったのだが。勝手に殴りかかってきたそちらの自己責任だろう。もっとも、顎以外にアバラで支払うつもりならそれでもかまわんが?」
「うああ! よせ、よせ! 分かった! 分かったから離してくれ!」
 男は情けない悲鳴をあげ、許しを請うように両手を頭の上に掲げた。
 アトラスは心底呆れたような表情でため息を吐くと、男の胸ぐらから手を離した。男は二、三歩よろけながら後ずさる形になって、それから自分の体を支えきれなかったために床に尻餅をつくはめになった。
「〈土の一族〉の末裔、その集落の場所だ。隠すほどのものでもあるまい」
 アトラスは男を見下ろしながら威圧するように腕を組み、そう言った。観念した男はようやく口元の血糊を手でぬぐうと、
「けっ。まあそのとおりだがな。昔はよく勘違いした青二才が分不相応にも自分に合った剣を作ってもらおうと、横柄な態度でよく訪れたんでな。俺も含めたこの辺の連中は〈土の一族〉の居場所を尋ねる輩に辟易してたんだよ。からかってやるつもりだったんだが、ちったあ腕に覚えがあるようだし、実際あんたは剣の腕もそこそこに強そうだからいい。案内してやる」
「遠いのか?」
「馬車で少し行ったくらいだ。心配すんな。あんたら中央の人間は辺境を秘境と勘違いしてるようだがな、中央にだってド田舎の町くらいあるだろう、それと同じだ」
「結構。道案内はいらん。道筋だけ教えてくれれば自力で行く。馬を一頭借りたい」
「ふん、分かったよ」
 男は肩をすくめてぼやくように言った。アトラスは男に手を差し出してやる。男は一瞬驚いたが、アトラスから差し出された手を握り返し、彼が腕を引き上げると同時に難儀そうに立ち上がった。
「この先の商店街を少し行ったところに、早駆け獣の畜舎がある。そこの主人に言えば速い馬を貸してくれるだろうが、中央から来た間だってことで足下を見られるかもしれん。多少の高値は許してやってやれ。〈土の一族〉のことはこの辺の人間なら誰でも知ってる。なんせ長のテオドラキス様にはずいぶん世話になってるしな」
「ふん……聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》のテオドラキス……か」
 アトラスが不敵な笑みを浮かべた。
「あんた、よく知ってるな。何者なんだ?」
 男はアトラスの笑みに少々不穏なものを感じて尋ねた。アトラスはおどけたように肩をすくめると、
「ただの旅行者さ。俺の剣を作ってくれた刀鍛冶師に礼を言おうと思ってね」
 そう言って、アトラスは腰に下げた剣を軽く指で弾いた。鞘に収まってはいるが、その剣が発する邪悪な気配は隠せないようで、男は警戒した表情で腰の剣とアトラスの顔を交互に見つめた。





 旧世界の遺産を守護する門番たちは、石像にも似た固いウロコで覆われた体表と、背中に生えた不気味なコウモリのような羽根、そしてその先端についたかぎ爪を武器にしてセテとレイザークに襲いかかってきた。近づいてみればたいそうな巨体である。
 モンスター討伐なら騎士団の通常任務のひとつでもあり、視界を覆うような大群に囲まれてうんざりするような肉屋の仕事をしてきたセテにとっては、たった二体の化け物相手というのはたいへん楽な仕事に思えた。
 実際、セテにとっては楽勝であった。ただ厄介なのは、この二体の守護者たちがたいへんすばしっこいので、剣をなぎ払う直前に交わされてしまうことだ。
「ちょこまかと動きやがって」
 レイザークが舌打ちする。幅広のデュランダルはレイザークの術を載せやすくしつらえたもので、剣の中央から左右に角度をつけて両刃が広がっている。重量も相当なもので、これを自在に振り回すレイザークの腕力はセテなど足下にも及ばない。現にセテはレイザークとロクランの居酒屋でやり合ったときにも剣圧だけで吹き飛ばされているし、殴られたら顎まで痛めることもしばしば。しかし、そんな豪腕の彼の最大の弱点といえば、その体格のよさからくる反射速度のわずかな遅れである。
「運動不足だろ、おっさん」
 セテがそう軽口を叩いたので、レイザークはまた舌打ちをしていらついた様子をあらわにする。
 セテは、レイザークとの剣の稽古で何度もやりこめられてはいたが、レイザークの弱点を知っている。もともとすばしっこさでは群を抜いていたのだが、レイザークの力任せの剣につかまらないようにするために、剣を振り回させて何度かゆさぶりをかけたことがある。あと一歩のところで、セテは必ずレイザークに術法を使われ、その隙をつかれて動きを封じられてしまうのだが、それさえなければ速度的にはレイザークに優っていると自負していた。
 石像の守護者はその巨体に似合わず中空でひらりと身をかわし、器用に体を反転して急降下してくる。セテはそれを自慢の動体視力でぎりぎりのところまで待ち構え、剣で防御することなく回避した。何度か繰り返していると、まともな脳など持ち合わせていないくせに、化け物は悔しそうに甲高いさえずりをあげた。
 直前でかわすのは、アジェンタス騎士団に出向中、スナイプスに散々たたき込まれた教えでもある。いちいちすべての攻撃を剣でまともに受ける必要はないというものだ。余計な体力を使うし、刃こぼれを早めさせる。
 実際に、セテの飛影《とびかげ》は一度、あのアトラス・ド・グレナダとの戦いで折れている。それ以来、セテは極力相手の攻撃を直前でかわし、必要なときだけ剣で応酬するように心がけた。
 また、レイザークとの稽古での成果でもある。レイザークの豪腕で振り下ろされる剣をまともに受ければ、剣の強度では飛影はデュランダルに叶わない。必然的に剣に掴まらないよう、相手の攻撃をかわすしかない。そしてそれは結果的に、相手に剣を振り回させて体力を奪ういい戦術になった。術法を使う頭があるので厄介ではあるが、腕力の差が大きな相手と対峙するときの心構えができたことは、大柄な聖騎士との稽古がもたらした大きな収穫である。
 セテは迫り来る門番の翼に狙いを定め、飛影を握り直す。ちょうど門番がセテの周りをチョロチョロと飛び回り、体勢を変えて飛びかかってくる瞬間に狙いをつけたのだ。コウモリの羽根のような皮膜の上部は、固い骨格があって刃を受け付けない。だが、空中を飛ぶ際に空気を捕らえるため、翼の下は弾力のある皮膜があらわになった状態だ。セテはよく動き回る守護者の片翼目がけ、飛影を地面からすり上げるようになぎ払った。
 甲高い悲鳴とともに守護者の片翼がばっさりと切り落とされる。翼で均衡を保っていた体が傾ぎ落下しそうになるところへ、セテはすかさず二の太刀を見舞う。かぎ爪が肩をかする感覚と切り裂くような痛みが一瞬走るが、セテはかまわず飛影を化け物の胴体目がけて振り払った。
 化け物の体は中空で見事に両断され、地面に落下する。代償としていやな匂いのする返り血を浴びたが、セテは化け物が落下するのを見計らったかのように剣を払い、血糊を振り落とした。落下した直後に化け物の体は灰の塊のように崩れ、地面に溶けていった。
 時を同じくして、ちょうどレイザークがもう一体の化け物をその豪腕とデュランダルの分厚い刃でもって二分していたところだった。斬るというよりは叩き潰す、ねじ斬るといった表現のふさわしい様であり、セテはもしレイザークと敵同士だったとしても、近接戦であの剣にだけは斬られたくない(かつて幻影の中で一撃を受けたことはあるが)と思うのだった。
「まぁ、こんなものか」
 レイザークはデュランダルについた血糊をひと振りして払い、灰の塊となった守護者を踏みつけて何度か足の裏ですりつぶしてやる。
「これしきの能力でたった二体なら、わざわざ俺もくる必要はなかったかもな。まぁ一般人にとっては十分驚異だろうが」
 レイザークは鼻で笑うようにそう言った。セテもひと息ついて剣をぬぐいながら、後方のサーシェスとテオドラキスに目をやった。
 サーシェスの描いた円は緑色の光を放ち、その周りに、神聖語とおぼしき文字や数学の数式にも似た複雑な書式が浮かび上がっては消えていく。瞳を閉じて両手を差し出し、小声で呪文詠唱するサーシェスに見とれていたが、ふと、サーシェスの隣で同様に呪文を詠唱していたテオドラキスと目があった。途端に、テオドラキスは目でセテに後ろを振り返るような仕草をした。呪文詠唱中なので言葉を発することが叶わないのだろうがが、妙に焦っているような表情だったので、セテはなにごとかと再び視線を前方に移した。
「うへ……」
 セテは口をへの字に曲げて嫌悪感をあらわにした。目の前の鉄の扉がゆるりと蠢いたかと思うと、その中心部が液体金属のような鈍重な動きでゆっくりと盛り上がってくるところだった。
 奇妙なふくらみはそのままどんどん前方にせり出してくる。やがてそのふくらみが人間の首のような長さに到達すると、突然全面に張り出ていた部分に顔が浮かび上がってきた。瞳のない目とのっぺりした鼻、両脇いっぱいに開いた口が姿を現し、その口元が侵入者たちを見つけた直後にニタリと歪んだ。歪んだ口の中には、鋭角に研ぎ澄まされた刃のような歯がびっしりと並んでいた。
「うわあああああ、き、気色悪いぃーーーーーっ!!!」
 たまらずセテは叫び、全身に立った鳥肌を腕でさするはめとなった。再びレイザークが剣を構え、セテも同様に飛影を抜いた。
 まさか最初の二体が前座で、本物は入り口であるはずの扉であったなど想像つくはずもなかった。最悪の守護者である。例え二体の守護者を倒したとしても扉を開けようとした矢先に、この本命の守護者に食い殺されるのだろう。
 扉から首を伸ばす化け物はセテとレイザークを空洞だけの目で見据えた。裂けた大きな口が呪文詠唱にも似た甲高いさえずりをあげる。
 突如としてセテとレイザークの身体が空気の圧力で後方に押しやられた。続いて切り裂くような空気の矢が、かまいたちのようにふたりの周囲をかすめた。間一髪ではあったが、レイザークの構築した物理障壁がふたりを守り、真空の刃を左右にそらしたのであった。
「野郎! 生意気に術法を使いやがる!」
 セテがかろうじて飛影を支えにして踏みとどまり、衝撃波に耐えながら唾を吐いた。
「ふん、まあ面倒だが、こちらも術法で攻撃でもしてみるか」
 レイザークは呑気な返事を返すと、右腕に握るデュランダルの刃に左手をかざした。短い圧縮呪文の詠唱があり、デュランダルの刀身が黄金に輝いた。レイザークはそれを両手で振りかぶり、掛け声とともに振り下ろした。デュランダルに載せられた術法は力強い腕に振り下ろされると同時にまっすぐに化け物目がけて進む。光の矢さながらの術法が稲光を発しながら直撃すると思われた。だが、それは化け物の眼前ではじき返され、ふたりの頭上をかすめるように四散した。地面から砂埃が吹き上げられ、セテとレイザークは再び自分の体を衝撃波から守るために、己の得物を地面に突き刺して体を支えなければならなかった。
「絶対魔法防御だと!? ふざけた野郎だぜ!」
 レイザークがいまいましげに唾を吐いた。
「どうするレイザーク、こっちも向こうも障壁の中じゃ、いつまで経ってもらちがあかない」
「ふん、降参して許してもらうか?」
「バカ言ってんじゃねぇよ」
 間髪入れずに扉の守護者が術法攻撃をしかけてくる。セテとレイザークは踊るようにそれをかわし、体勢を立て直して再び剣を構えた。
 術者同士の戦闘が長引くのは、互いの術法や障壁の威力が互角であったときである。互いに同じような強度の障壁を保っている状態では、確かにらちがあかない。防御されているものを攻撃するためには、盾となる障壁を解呪するのが第一歩となる。解呪されるほうはその解呪が追いつかないよう、さらに強力な障壁を作り出さなければならない。その障壁を再構築する速度を解呪の進行が上回るときに解呪は成立、相手の障壁を無効にした状態で攻撃が可能になるわけだ。
 セテにとって、絶対魔法障壁をまとうモンスターと対峙するのは初めてのことであった。
「まあ見てな。たまには俺の格好いいところに惚れ直すのも悪くないもんだぜ?」
 レイザークはにやりと笑った。レイザークは再び高速で圧縮呪文を詠唱し、デュランダルに攻撃術法を載せる。それからまたその太く力強い腕でデュランダルを振り上げ、載せた術法を解き放つ。さきほどと同じように術法は化け物に到達する前にはじかれてしまうが、レイザークはそこで再びにやりと笑うのだった。
「ふん、やっぱりな」
「え?」
 そこでふたりを守護者の術法が襲う。ふたりは器用に体を反転させ、その攻撃をかわした。
「前に言ったことがあるな。聖騎士のような魔法剣士と対峙した際は、とにかく相手に術法を発動させる余裕を与えないようにするってな」
「うん、まあ」
「会敵したのが魔法剣士か術者かの違いだけで、基本は同じだ。相手に余裕を与えなければいい」
 セテは困惑したようにレイザークを見つめるが、レイザークは少しイライラした様子で、
「お前、本当に鈍いな。たいがいの魔法剣士が会敵したときに術法を使わない理由、前に教えただろが」
「……術法を発動する前後に隙ができるから……?」
「そのとおりだ。どんな手練れであっても、術法を発動させる瞬間にそちらに意識がとられ、能力の差はあれど隙ができる。つまり、発動するには集中力が必要だ。だから魔法剣士と対峙するときは、滅茶苦茶に打ち込んで術法に集中させないようにする。それと同じで、こいつが魔法障壁で術をはじき返すときは攻撃はできない。単細胞だから、身を守りながら同時に攻撃することができないんだよ」
 そう言ってレイザークは即座に剣を構え、術法を載せる。すぐにそれを化け物目がけて解き放ち、魔法障壁が術法を跳ね返すときには、レイザークはもう次の攻撃術法を剣に載せ、解き放つところだった。
 続けざまに繰り出される攻撃術法に、扉の守護者は障壁に集中せざるを得ない状況に陥ったようだ。レイザークの読みは確かに当たっていた。
「セテ、俺が術法攻撃をした瞬間を狙って、やつを攻撃しろ。同時だ。一寸たりとも遅れるな」
 そう言ってレイザークは、今度は違う圧縮呪文を高速詠唱し、セテの飛影に何かの術法をかけた。
「俺がよく使う手だ。お前の剣に魔法障壁と物理障壁の術法をかけた。そいつで身を守れ」
「剣に?」
「中央騎士大学なんかじゃ教えてくれない、剣士の実戦の知恵ってやつだ。剣を盾代わりにすりゃ身軽になれるし、同時に剣の刃こぼれも最小限に食い止められる」
 セテはここへきて、レイザークが手練れの聖騎士であることをようやく思い出したのだった。
 レイザークは次々と呪文を詠唱しながら剣に術法を載せ、その豪腕でデュランダルを振り払う。さながら野球のバッティング練習だ。剣の威力で増幅した術法は幾重にも分かれ、四方から化け物を取り囲むようにして進む。セテはそれを見計らって剣を振り上げた。
「いけぇーーッ!」
 セテはレイザークの術法が魔法障壁に衝突する瞬間を狙い、叫び声をあげた。障壁にぶつかって術法が四散するのとほぼ同時に、セテの飛影は化け物の首を捕らえていた。
 即座に化け物はセテの攻撃に対し、反撃のための術法を展開するのだが、セテは飛影の束と剣先を両手で支えて防御の姿勢を取る。レイザークのかけた防御術法が反応し、刀身が白く輝く。飛影に到達する前に守護者の術法は見事にはじかれ、セテはその隙を狙って再び剣を振り上げた。
 つんざくような悲鳴が化け物の鋭い歯の間から漏れる。セテの飛影の切っ先は、扉の守護者の左目を切り裂いていた。続いて、セテは返した刃で右目を切り裂く。魔法障壁は攻撃術法を絶対的に防御できるが、生身の人間を阻むことはできない。化け物の弱点をついた攻撃である。
「目が見えなきゃ、いくら魔法障壁を築こうが丸裸同然だ! 食らいやがれ!!」
 レイザークは渾身の力を込めてデュランダルを振りかぶった。同時に、セテも化け物の長い首を目がけて剣を振りかぶる。扉の守護者は滅茶苦茶な方向に幾重もの魔法障壁を構築するが、そのどれもふたりの攻撃を阻むものではなかった。
「これで終わりだ! 化け物野郎が!」
 レイザークとセテが同時に吠えた。セテの剣は化け物の首を、そしてレイザークの術法を載せた大剣は化け物の頭部を、ほぼ同時に切り裂いていた。
 長い悲鳴が響き渡る。液体金属のような扉の守護者の体表が、見る間に輝きを失っていく。最後にひとつだけ咆吼すると、その体はゆらめきながら萎縮してゆき、やがて灰のように崩れながら闇に紛れていった。消える間際にふたりの間を鋭い風が吹き抜けていくので、剣士たちは一瞬両足を踏みしめて身体を支えることに専念しなければならなかった。そしてその突風が止むと、先ほどまで生き物のように蠢いていた守護者の代わりに、なんの変哲もない建物の鉄の入り口を守る扉が静かに一行を待ち構えていた。
「お見事!」
 テオドラキスの声がする。セテとレイザークはそろって剣を振り払い、それぞれ鞘に剣を収めながらテオドラキスを振り返る。
「さすがです。まさかこんな簡単に〈ガーディアン〉を撃破するとは思いませんでした。もう間もなく封印が解呪されます」
 テオドラキスの言葉と同時に、サーシェスが再び中空にひときわ大きな魔法陣を描いた。周りに浮かぶ数式ごと立体的に張り出し、それが限界まで広がると、サーシェスは両手を差し延べ、瞳を開いた。グリーンの瞳が、立体魔法陣の明滅と同期する。
「封印よ! 退け!!」
 サーシェスの力強い詠唱が響き渡った。その声と同時に、数式が光の奔流に姿を変える。それは幾重もの光の矢となって、目前の扉を守っているであろう目に見えない封印に向かって突進していった。
 音のない爆発が一行を襲う。空気そのものの爆発、光の暴走。すさまじい光の炸裂に、セテは腕で顔や目をかばわなければならなかった。実際の爆発ではないのに、瞬間的に強烈な熱量と光が吹き出すようであった。
 やがて光が止むと、急激に周囲は音を失う。暗闇の中で緑色に輝く小さな光の粒が、まるで雪のように降り注ぎ、その奥には物言わぬ鉄の扉だけであったはずの入り口が、大きな円状の文様を刻まれた奇妙な建築様式の扉へと姿を変えて一行を待ち受けているばかりとなった。
「解呪完了。お疲れさまです、サーシェス。それからセテ、レイザーク、お疲れさまでした」
 テオドラキスが屈託のない笑顔で一行をねぎらった。ようやくセテとレイザークは、そろってため息をつくのだった。
 それからサーシェスは扉の前まで進み出ると、円状の文様の前に手をかざした。すると、円状の文様の上下の一点に緑色の小さな光が灯った。それはそれぞれ左回り、右回りに回転しながら円周を光で縁取っていく。円周がすべて緑色の光によってなぞられると、中央にM字とV字があわさった文様がにじみ出すように浮かび上がり、緑色の光を放った。
 セテが口を開けてその様子を見ている間に、円の中心から左右に扉が開き始めていた。わずかなきしみも立てず、なめらかな動きで扉が完全に開くと、サーシェスは先に立ってその扉の中に足を踏み入れた。
「さあ、行こう。この奥にお待ちかねの〈メタトロン〉がある」
 サーシェスに促され、一行はその後に続いた。
 小屋程度の小さな建物と思っていたが、その実、中に入ればけっこうな奥行きがある。そして、通路は途中から下降し始めたので、この建物が外から小さく見えるように作られ、重要な部分は通路を下った地下に作られているのが分かる。
 建物の通路は、これまで歩いてきた通路と同様に、煉瓦や金属でもないなめらかな不思議な物質で作られており、やはり同様に暗闇の中でもわずかに発光して歩く者たちの安全を確保している。
 数十メートルほど歩いたところで、再び一行の目の前に扉が現れた。そこでサーシェスは先ほどと同じように扉に手をかざし、それに反応して光の輪が扉に走る。扉が開くと、セテとレイザークは感嘆のうめき声をあげた。
 一面白い壁に覆われた部屋の中央に、鉄製の板のようなものが中空に浮いている。四角い、人の指が一本分くらい当てられるのにちょうどいいくらいのボタンがその板には無数にしつらえられており、サーシェスはそれに五本の指を載せ、まるで楽器の鍵盤を弾くかのような慣れた手つきで複数のボタンを押してみせた。
 羽虫が大量に羽根を振るわせるような低音がかすかに響いた。そして突然、一行の目の前に巨大な長方形の光の枠が姿を現したのだった。
「あれが〈メタトロン〉?」
 セテは中空に現れた光の枠を指さして尋ねた。テオドラキスは小さく首を振ると、
「いえ、あれは〈スクリーン〉といって、端末からの出力結果を投影するものです」
「じゃあ、あの小さな板? もっとどでかいものを想像してたんだけどなぁ」
 セテの言葉にテオドラキスはくすくす笑うと、
「あの板は〈キーボード〉と言われるもので、〈メタトロン〉の入力用端末です。ホンモノはおっしゃるとおりたいへん大きなもので、この部屋の地下に設置されています」
「はぁ。その〈キーボード〉ってヤツだけで大丈夫なのかな」
「キーボードは入力装置のひとつで、〈メタトロン〉からの情報を引き出す端末は他にもいろいろあります。その端末を呼び出すにもキーボードが必要ですが、最初の一歩だけ操作できれば問題ありません」
「……なんだかややこしいんだな……」
 セテは頭をかいた。
 サーシェスは何度か〈キーボード〉に向かって指をたたきつけてから後ろにいる一行を振り返った。
「では、始めよう。テオドラキス、バックアップを頼めるだろうか」
「分かりました」
 テオドラキスが頷くと、サーシェスは中空に手を伸ばし、中央標準語ではない言葉で何かをつぶやいた。サーシェスの差し出した手のあたりに光が走り、中央標準語ではない何かの文字列が赤く点滅する。再度サーシェスが何かをつぶやくと、赤く明滅していた文字列が緑色の文字になり、部屋の明かりがいっせいに落とされた。その代わり、一行の目の前にある〈スクリーン〉と呼ばれた光の枠の中に明かりが灯り、薄暗い部屋と一行の顔をかすかに照らし始めた。
「いまから、〈メタトロン〉を使って本体のサーバーに蓄積されている隠された真実を説明しよう。中央諸世界連合がひた隠しにしている事実であり、本来、この星にいまを生きる人々が知る必要のないものでもある。だが、セテ、そしてレイザーク、あなた方には知っておいてもらう必要がある」
 サーシェスは厳しい表情で、セテとレイザークのふたりを見据えた。セテは背筋を伸ばし、拳を握りしめた。
「それは、今後のアートハルク帝国の動きにも関係してくるのかね?」
 レイザークが腕組みをしながら横柄な態度で尋ねた。サーシェスはゆっくりと頷くと、
「ある。この世界の始まりは、この戦いの始まりとも言える。レイザーク、あなたが結成した〈黄昏の戦士〉にとって重要な意味を持つだろう」
「結構」
 レイザークは納得したのかしていないのか分からない笑みを浮かべた。

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