第二十八話:発芽する猜疑

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 二百年の歴史と優美さを誇るロクラン国境の強大な城壁は、そのあちこちが無惨に崩れ落ちてしまっていた。先日、歩哨に立っていたアートハルクの兵士や術者たちが市民に襲撃されるなどの暴動があったばかりであったが、武器も入手できない彼らにここまでの破壊活動を行うことは不可能である。その暴動が起きてすぐのこと、空から稲光にも似た光が差し込み、ロクランの城壁や周囲の土地を容赦なく掘削していったが、その爪あとであった。
 復興作業が進んでおり、城壁の周りは労働者たちの活気にあふれていたが、その様子を、ロクラン国軍の総司令官であるアーノルド・メリフィスが、ロクラン王宮内の廊下の窓から厳しい表情で見つめていた。
 高台にあるロクランからは、城下町の様子がよく見える。晴れた日のここからの見晴らしはたいへん素晴らしいもので、執務に疲れた高官たちの憩いの場のひとつでもあった。
「雇用統計の指数が上昇──ふん、皮肉にもほどがある」
 メリフィスの手には、新聞が握られていた。経済面の見出しにメリフィスは憤慨したようだった。この復興事業で失業率が改善しただのと、まるでアートハルクの支配下にあることも忘れてしまったような論調には呆れを通り越してしまう。忌々しげにメリフィスは四つ折りにした新聞を指で弾いた。政治面にはさらに腹立たしいことが書いてある。つい先日、ネフレテリに代わりロクランに駐屯することになったアートハルク帝国側の将軍のひとり、アルベルト・ハルタと呼ばれる男の主張であった。
 その暴動当日、確かにアートハルク側は大混乱に陥ったのだが、それに乗じてラファエラ・フォリスター・イ・ワルトハイム将軍率いる中央の軍隊がロクラン入りしたことは新聞でも大々的に報じられたばかりであった。その際、ワルトハイム将軍本人を含む多数の死傷者が出たことも報じられた。後日、中央はあくまでロクラン国内の暴動鎮圧が目的であったと発表したが、ロクランを支配下に治めているアートハルク側は、中央の行軍を暴動鎮圧に乗じた攻撃であると強く非難した。それがこの記事である。
 ハルタ将軍は、暴動はあくまで市民の手によるものでありアートハルク軍で鎮圧可能であったと主張し、鉄の淑女を行軍させた中央諸世界連合を厳しく批判したうえ、ロクランの城壁を掘削した謎の光については、中央の新しい兵器で、おそらく実験段階だったものを投入したために自軍まで被害を及ぼすことになったという仮説を披露した。とくにこの謎の兵器については、旧世界《ロイギル》の遺産を活用した殺戮兵器を厳しく規制する世界的な条約──グランディエ条約──を持ち出し、中央が未完成の大量殺戮兵器を投入したことを人道的な過ちとして厳しく追求したい考えであるとも述べているようだ。
「確かに、あれは我が軍のものでもアートハルクのものでもない。中央の兵器であるとするのが一般的だが」
 メリフィスはため息をついた。
 中央諸世界連合には、まだメリフィスどころか中央の高官ですら知らない兵器があることは周知のとおりである。だが、ワルトハイム将軍を行軍させておいて敵も味方もなぎ払うような兵器を投入するほど、愚かな真似をするかどうか。ワルトハイム将軍が一時期更迭されたのは周知のことでもあり、その後釜であるマクスウェルがワルトハイムと折り合いがよくないこともずいぶん知られている話であるが、しかし、ラファエラを亡き者にするためだけにマクスウェルが中央特務執行庁を飛び越え、グランディエ条約を無視してまでそのような大規模破壊兵器を動かせるかというと、愚問だ。
 加えて、先日の守護神廟での事件である。
 アートハルクは〈神の黙示録〉の探索に躍起になっており、先日まで統治者であった巫女姫ネフレテリに守護神廟の調査を進言したのはメリフィスであった。アートハルクの警備を守護神廟に引きつけておき、暴動の引き金を引くことは成功した。だが、守護神廟の中に何があるかはメリフィスを含め誰も知らなかったし、立ち会ったミハイル・チェレンコフ財務長官は何者かに謀られ、立方体を奪われた記憶を封じられていたことに加え、そもそも守護神廟の調査はメリフィス本人の発案ではなかった。
 結局暴動は失敗し、ネフレテリに代わって統治する者としてアルベルト・ハルタの登場を許してしまったのだ。ハルタが赴任してからすぐに行った暴動の後始末は、たいそうな手際のよさであった。
 メリフィスに最初に守護神廟のことを告げたラインハット寺院の僧侶という人物、それからチェレンコフの記憶を消した人物、おそらく同一人物だろうが、その男は実際にはラインハット寺院には存在しなかったことまでは分かっている。
 何者かが蠢いている気配。これはメリフィスの軍人としての勘であったが、ロクランでもアートハルクでもない第三勢力ともいうべき新たな敵が見え隠れすることに、メリフィスは不安を覚えていた。
 メリフィスは懐中時計を出し、時刻を確かめた。まもなく国王アンドレ・ルパート・ロクランと、実質的支配者であるアートハルク帝国将軍アルベルト・ハルタとの会談が予定されている。メリフィスは折りたたんだ新聞をそばにあったくずかごに放り投げ、足早に会談の間への道を歩き出した。
 長らく心労で臥せっていたアンドレ・ルパート・ロクラン王であったが、最近は執務をこなせるまでに回復していた。メリフィスは何度か遠目で彼を見たのだったが、ずいぶんとやつれた印象であった。己の無能さに打ちひしがれ、ひとり娘が地下の門《ゲート》から逃げおおせたとはいえ安否が定かでないとあれば、その心労はいかばかりか。メリフィスにも娘がおり、王の気持ちは痛いほどよくわかっていた。
 だが国の有事にそのようなことは差し置いてもらいたいとメリフィスは思う。メリフィスは王を尊敬はしていたが、彼が生来、自分に甘いところがあるのが気に入らなかった。王族として、人柄も知識の豊富さもふるまいも問題ないが、二百年続く平和のせいで有事に対する感覚だけは先代から受け継がれなかったようだ。平和だったのだから必要ないと人が擁護しても、王の判断のゆるさ、詰めの甘さについては、軍人の家に生まれついたメリフィスには許容しがたいものがある。政治的駆け引きや相手の動きを読み、その裏を探る泥臭いことは、ルパート・ロクランのような実直な男には無理なのだと、メリフィスは思っていた。そして、相手があのアルベルト・ハルタである以上、うまく丸め込まれるに違いなかった。
 アルベルト・ハルタは、いまでこそアートハルク帝国の将軍のひとりとしての地位を確立しているが、もとは中央側の人間である。現在アートハルクと同盟を結んでいる辺境の小国デリフィウス出身で、デリフィウスの中央正規軍を統括していた。彼の名前はこれまでの戦役の記録を紐解けば何度も見られ、その輝かしい戦歴はデリフィウスのみならず、中央での多国籍軍における暴動鎮圧やテロリスト壊滅作戦などでもたいへんな功績をあげていた。しかし、ある作戦を機に彼の名前は表舞台から消えることとなった。引退したとも、作戦で瀕死の重傷を負ったとも言われているが定かではなく、しかしガートルードがロクランを制圧してから彼の姿がアートハルク帝国内に見られたときには、メリフィスをはじめ現役時代の彼を知る者たちの間では動揺が走ったものだ。
 なぜ彼がガートルードに与したかは分からないが、彼の元部下たち、とくにデリフィウス時代に彼を慕っていた者たちは彼についてアートハルクに属するようになったようである。人柄は評価に値するというべきか。人心を操作するのに長けているというべきか。
 一度、メリフィスはロクランに表敬訪問で訪れたハルタと接したことがあるが、不思議な男だと思ったものだった。外見こそ髭まみれで野趣あふれる、言葉を悪くすればたいへん粗野な風貌なのに、少年のような目が印象的であった。実際、中央の人間の中にはハルタをその戦歴から、辺境出身の腕力だけがとりえの頭の足りない男と見下していた者も多かった──中央の人間は、どうしても辺境出身者を馬鹿にする傾向がある──が、恐ろしく頭の回転が早い。流暢な中央標準語を操り──中央正規軍に属していれば当たり前ではあるが、まず中央の人間は彼の発音の美しさに驚いたという──機知にも富み、古典文学からいくつもの表現を引用してみせるなど、たいそうな知識人ぶりを発揮していた。また、軍人でありながらも暴力を激しく憎むような一面を見せることもあり、彼の中で確固たる美学があり、その理想のもとに行動しているようなところがあるとメリフィスは思ったのだ。
 その理想というのがメリフィスは青臭くて好きになれないのだが、平和への強い願いであった。アートハルク帝国でならその理想が実現できると思い込んでいるのだろうか。侵略行為を理想とするそうした矛盾は腹立たしいが、だがその矛盾がかの人物を少年のような目を持つ不思議な男として認識させているのかもしれないとメリフィスは思った。
 現役で戦地に立つことはなくなったメリフィスであったが、同じ軍人肌の人間として、確かにハルタは魅力的なのかもしれない。今回、王との会談で同席できハルタ本人と再び相見えられることを、楽しみにしているのかもしれない。そう思うことを、メリフィスはほんの少しだけ自分に許すことにした。



 もうまもなく開催されるアートハルク帝国アルベルト・ハルタ将軍との会談を控え、ロクラン国王アンドレ・ルパート・ロクランは正装に着替えた。正装といっても、執務中に着ていたシャツの上に、豊かなロクランを象徴する月桂樹の紋章が入った上着を着用するだけではあったが、ロクランを背負う上着を羽織ることは、支配下であっても国家元首として重要なことであると彼は考えている。
 しばらく心労で寝たり起きたりを繰り返していたために執務が疎かになってしまっていたのは、彼にとってはたいへん不本意なことであった。身を粉にして働くとまでは言わないが、国の有事に国王が倒れてしまうのは国民の不安を増大させるし、こういうときだからこそ気丈に振る舞い、侵略行為に屈しない姿勢を見せておくべきだった。
 二百年も続いた平和で、平和ボケしてしまっていると陰口を叩かれているのは承知している。己の不甲斐なさを痛感しているし、だからといっていたずらに抵抗を示したりアートハルクを煽ることで、国を危険な状態にするようなことは避けたかった。人の数だけ正義はあるのだ。私は国を守ることのみを考えればよいのだ。アンドレ・ルパートは焦燥を隠し、できるだけいつもと変わらぬよう振る舞うことを意識していた。
 だがしかし、ひとり娘のアスターシャのことだけが気がかりだ。心労のほとんどがそれである。己も人の子であったということだ。
 新たにアートハルク帝国皇帝に即位した火焔帝ガートルードがロクランを無血で包囲した数日後、アスターシャが地下の大迷宮にあった門《ゲート》から脱出したことは、ネフレテリから聞いていた。あのときの悔しそうな巫女姫の表情には溜飲を下げたものだ。あの魔女ですらアスターシャに手を下すことはできなかった。我が娘のおてんばぶりを、このときばかりは神々に感謝したのだった。
 しかし、それからアスターシャの消息はまったくつかめていない。もともと、あの古代の研究室にあった門《ゲート》は地下から地上へ出るためだけに使われていた程度の簡易的なものであったという。アスターシャがすぐ地上で捕らえられた話は聞かないのだから、もっと遠くへ転移できたのだろう。しかし、その簡易的な仕組みでどこまで行けるのか。果たして行けたのか。
 ゲートは空間をねじ曲げ現在の場所と別の場所とを結びつけるものだという。専門家ではないので詳しい仕組みについてアンドレ・ルパートに理解することは困難だったが、出力が不安定だった場合、わずかな狂いが生じて事故が発生することもないわけではないそうだ。つまり、別の場所に転移するその直前、空間のはざまに落ち込み、そのはざまから出られなくなってこの世界から消滅してしまうわけだ。
 亡き妻の忘れ形見である娘が無事でいるかどうか。いまのアンドレ・ルパートには知るすべがない。何度も夢の中でアスターシャと再会したが、朝、目覚めてひとりであることを認識したとき、男泣きに泣いたものだった。これほどまでに自分の娘を愛しいと思ったことはなかった。
 あの二百年祭の夜が幻のようだ。あの夜は久しぶりに、アスターシャとワルツを踊り、夢のように幸せな時間を過ごせたものだ。美しく成長した娘は本当に妻の生き写しのようで、おそらくもう少しすれば妻よりも美しくなるだろう。いつかあの娘が恋をして結ばれ、子どもが生まれて、そうしてやがて私の代わりにこの国を治める女王となる。そんなことを考えるたびに、アンドレ・ルパートの目頭が熱くなる。
 どうか無事で生きていてほしい。生きてさえいれば、いつか。
 扉をノックする音が聞こえたのでアンドレ・ルパートは我に返り、気付かれないように涙を拭った。そして努めて平静を装い、ノックの主に入ってくるよう伝えた。
 入ってきたのは、アートハルク帝国の高官であった。
「会談の前に、アルベルト・ハルタ将軍からのご報告を」
 議場への案内かと思ったのだが、そんなことを言われてアンドレ・ルパートは拍子抜けした。直前になって報告とはいったい何事か。議題のひとつにでもすればいいものを。
「我が軍の調査報告です。一刻も早く陛下にお知らせするようにと、ハルタ将軍より言付かってまいりました」
「ふむ。だがあと十五分ほどで会談が始まる。手短にしていただきたい」
「お手間は取らせませぬゆえ」
 高官が指をパチリと鳴らした。王と高官の間の中空に、小さな〈スクリーン〉が表示された。王は驚き、だがうめき声を発することすらできなかった。なぜなら、そこには青い瞳に柔らかい金の髪をした少女の姿が映し出されていたからだ。
「アスター……シャ……!」
 簡素なチュニックにブーツを履き、剣士のような活動的な格好をしているが、間違いなく愛娘である。そばには、見慣れぬ銀髪の小柄な少年や少女がいる。〈スクリーン〉は次々に切り替わり、大勢の剣士らしき人物の間でなにやら深刻そうな顔をしている姿や、また別の小柄な少年と会話をしているらしき姿、大柄な色黒の男に食ってかかる勢いでまくしたてている姿などが映し出される。
「アスターシャは生きているのか。いったい、彼女はいまどこに!?」
 アンドレ・ルパートの声がわずかに震えている。
「辺境の陸地で、つい先日、我が軍とご息女が行動を共にする一行とが衝突した際、撮られた映像です」
「辺境!? 衝突だと!? 娘は無事なのか!?」
「ご安心を。双方ともに死傷者はないとのことです。このあと、王女と一行はまた別の地に移動したという報告があがっています」
「娘は……アスターシャは誰と一緒にいるというのだ。なぜ彼女が戦闘に巻き込まれるようなことに」
「聖騎士、中央特使ともに一名ずつ、それから小姓のような少年と幼い少女、辺境出身と見られる若い男の五名と一緒です。面白いことに、このうちの中央特使については、中央から手配書が回っているようで」
「お……お尋ね者と一緒にいるということか……」
「左様で」
 アンドレ・ルパートは深いため息をついた。なんと言葉を発していいのか分からない。娘が無事であったことはたいへん喜ばしいことだ。だが、戦闘に巻き込まれるようなことになっているとは。まして、お尋ね者を含む男ばかりの団体と行動を共にしているなど、娘の貞操が無事なのかどうか。男親というものはなぜこのような下衆なことを考えてしまうのかとアンドレ・ルパートは己の胸の内を嫌悪するが、だがこの混乱した頭が感情を抑えることができないのも分かっていた。
「心中お察し申し上げます。陛下」
 高官はもう一度指をパチリと鳴らして〈スクリーン〉を切り、ロクラン王に向かって頭を下げた。
「そこで、ハルタ将軍からの提案がございます」
 もったいつけたように、高官がそう切り出した。



 メリフィスは議場への道を急いでいた。会談には、ロクラン側からアンドレ・ルパート・ロクラン王、外務長官、内務長官、数人の高官に加え、国軍を預かり、ロクランの軍事すべてを司るメリフィスが出席することになっていた。対して、アートハルク側はアルベルト・ハルタと数人の高官のみ。アートハルク側からの要求が主たることは出席者からも明らかであったが、一方的な非難がなされるだけでなく、制裁のようなことまで考えられているかもしれない。
 メリフィスは事前に配られた資料を携えていた。本日の議題は、先日の暴動に関する一連の調査報告に対するアートハルク帝国からの提案ということになっている。アートハルクからの提案などとは聞こえがよすぎる。要求、あるいは命令に近いものだ。
 アートハルク側は先日の暴動で中央が関与したことにたいへん憤っている。そして、守護神廟を解呪する際、術法罠《トラップ》で味方に甚大な被害を被った。のみならず、彼らが喉から手が出るほど欲していたものはそこになかったのだ。いや、もしかすると。あのときメリフィスとチェレンコフは同じ結論に達した。そう、ミハイル・チェレンコフが暗示をかけられ、ラインハット寺院の僧侶に扮した男に横取りされたあの立方体、あれこそが〈神の黙示録〉第三章ではなかったのか、と。
 生き残った多くの目撃者から、強制的に守護神廟を解呪しようとした際、聖騎士《パラディン》レオンハルトの姿をした術法罠《トラップ》が発動したことが証言されている。守護神廟を建立したのは初代国王となったデミル・ロクラン将軍であったが、当初、ここには救世主《メシア》の亡骸を安置する予定だった。しかしレオンハルトが強く反対し、魂だけをここに祀るという形だけのものになってしまった。だが、魂を祀るためだけにこれだけの規模の建造物を立て、封印を施す必要があったかどうか。レオンハルトが自らを模した術法罠を仕掛け、悪意を持ってこじ開けようとする輩を殲滅するほどに守りたかったもの、二百年もの間、人々を欺き、封印で遠ざけてまで隠したかったもの、救世主でなければ〈神の黙示録〉以外に考えられまい。守護神廟の解呪を許諾したガートルードすら信じていなかったのだ、救世主の魂のありかなど。
 その秘密は、ロクランの者でもアートハルクの者でもない何者かに奪われてしまった。問題は、誰が横取りしたのか。
 アートハルク側は一連の事件についてロクラン側と共同で調査を進めていた。メリフィスが真っ先に厳しい尋問を受け、しかしその後メリフィスの証言でラインハット寺院の僧侶たちにも事情聴取をするなどし、結果チェレンコフの証言まで辿り着いたようだが、彼らは何が起きたかを把握できていなかったのだ。さらに付け加えれば、メリフィスやチェレンコフが外部と通じていたことも、彼らには突き止められなかったようだ。そこはエチエンヌの働きによるものだろう。もっとも、それすらアートハルクは知っていて泳がせているだけかもしれないことを念頭におく必要はある。
 表面に出さないだけで、ガートルードは失態続きに焦っているはずだ。仮に、守護神廟の一件が彼らの自作自演でないならば──聖騎士レオンハルトの封印がアートハルクの術者軍団ごときにやすやすと破られたり、アートハルク側で配置した人間だけに死傷者が出たことが、自作自演を疑える要因でもあるのだが──会談まで少し時間があいたのはその方策を検討していたためで、ようやく方針が決まったと見るべきか。こちらの勝機になるか、あるいはアートハルク側の強硬な姿勢を引き出すことになるか。
 議場近くの廊下に差し掛かったところで、アルベルト・ハルタその人が現れた。空気が変わるとはまさにこのことだとメリフィスは思った。獅子のたてがみのような髪と髭に覆われたその顔は日に焼け、これまでの戦役が長かったことを強く誇示するようだし、いかつい体つきが彼を優秀な戦士であることを証明している。背は、実は思ったほど高くないのに、存在感の強さとでもいうべきか、人が大きく見えるのは身体的特徴だけではないというのがよく分かる。病み上がりで少しやつれたロクラン国王と比較してしまうので、余計に強調されているようだ。背はロクラン王のほうがよほど高いのに、支配される側のなんと小さく見えることか。
 ハルタが議場に入るまでの間、メリフィスは彼に道を譲り、その後に続く高官たちの後ろから議場に入るつもりだった。だが、メリフィスが議場に入ろうと足を進めたその瞬間、
「メリフィス司令官。今回の会談の予定は急遽、変更されました。どうぞお引取りを」
 アートハルク側の高官のひとりが進み出てきて、メリフィスが議場に入るのを遮ったのだった。
「どういうことだ。そのようなことは聞いておらぬぞ」
「他の長官や高官の方々にもいまお伝えしているところでございます」
「王をひとりになどできるわけがなかろう」
 メリフィスは食い下がるが、
「アンドレ・ルパート・ロクラン王からのお申し出によるものです。ハルタ将軍とふたりで会談なさりたいとのこと」
 メリフィスは議場の扉の隙間から中を覗き、ロクラン王を見つめた。王は、議席の中央で睨むようにハルタ将軍を見つめている。鬼気迫る表情であった。
「馬鹿な……! 王はいったい何をお考えか!」
 高官はメリフィスを押しやり、無理やり議場の扉を閉めた。木造りの大きな扉が恭しく閉じられ、廊下に響き渡る。
 あの純朴な王が、ハルタのような狡猾な男と対峙して丸め込まれることは必至、だが、王自身がそれを望んでいるとはいかなる理由があってのことか。
 メリフィスは拳で廊下の壁を叩きつけたあと、大きなため息をはいて気を落ち着かせた。よくないことが起こる予感がする。一刻も早く、ミハイル・チェレンコフに相談して同志たちと連絡を取り合わねば。






 レイザークやセテたち一行を乗せた船は、大海原を進む。船のマストの上からしばらくジョーイが望遠鏡でセレンゲティ方面を監視していたようだが、一度、大きな光の柱が上がったのを確認して以降、セレンゲティの集落から煙が上がるようなこともなかったようだ。追手との戦闘はその一度きり、テオドラキスの食い止めが功を奏したということだろうか。
 しばらく船の中での面々は思い表情のまま、口を開くことは少なかった。レイザークも、あのヨナスでさえ沈痛な面持ちで押し黙っていた。セテはと言えばやはり気持ちの整理がつかなかったようで、部屋にこもったきりだ。
 アスターシも浮かない表情のまま階段を登り、途中、何度か小さなため息をついていた。甲板に出てから激しい潮風が彼女の柔らかい金髪を吹き上げたので、アスターシャは面倒くさそうに髪を整えたあと、大きな深呼吸をした。
 深呼吸でも気持ちが落ち着くことはなかった。嫌な気分が胸の奥につかえたまま、ドロドロと腐臭を放っているような気がする。こんな嫌な気持ちを抱えたまま船底にいたら、その重みで船が沈んでしまうのではないかとさえ思えた。
 いまは、サーシェスのそばにいたくない。サーシェスが怖い。
──フライスに愛され、セテに愛され、みんなから大切に思われているのが妬ましい。自分が愛した男が、自分ではなく、サーシェスになびくのが悔しい──
 いやだ!
 アスターシャは耳を塞いだ。サーシェスの放ったその言葉が、この数時間、ずっと心の中で大きな楔となって突き刺さっている。
 自分を特別扱いするなと言ったのは、まぎれもなく自分だ。王女だから、ロクランの命運を握っているから、そんなふうに思われるのが重荷だし、サーシェスの友人のひとりとして、同じ仲間として接してほしいと思った。
 そう。サーシェスの友人……でしかないのだ、自分は。でももしそれすら失ってしまったら?
 救世主《メシア》というとんでもない十字架を背負ったサーシェスは、強かった。記憶がなくともいつも前に進もうとしていた。そして人格交代があったとはいえ、それでもそのまっすぐ突き進む姿や運命をはねのけようとする姿には憧れるし、強大な術法を操る戦女神のように堂々とした彼女を神々しいとまで思える。事実、彼女はこの世界の大きな秘密を握り、その命運を担っている女神といっても過言ではない。仮に彼女が救世主でなくたって、記憶がなかったときの彼女のがそうであったように、彼女の何者にも侵されない強さに、フライスもセテも惹かれたのだろう。
 対して、私には何もない。私から王女であることやサーシェスの友人であることを除去してしまったら、私は何者でもないじゃない。
 いやだ。こんなことを考えている自分、すごく意地汚い。みんなに必要とされ、愛されるサーシェスが妬ましい。
「アスターシャ、大丈夫? 気分でも悪いの?」
 ベゼルの声に、アスターシャの身体がびくりと跳ねた。少年のような風貌をした銀髪の少女は、積み荷の角に腰掛けて頭を抱えているアスターシャを心配そうに見下ろしている。アスターシャの顔には、玉のような汗がいくつも浮き出ていた。
「あ、ごめん、なんともない。ただちょっと……疲れちゃって……」
 アスターシャは袖口で汗を少し拭い、弱々しくベゼルに微笑んで見せた。
「そうだよね、ずっとサーシェスの看病してたし、移動ばかりだったし。いいよ、休憩してなよ。サーシェスのことはオレが見ておくからさ」
「……ありがと……」
 気を遣わずに接しろと言ったのは自分だ。だが、ベゼルがそうやって気遣ってくれるのがうれしい反面、それでもやはりサーシェスと対であるかのような扱いをされた気がして、心がささくれ立つ。
 いけない。毒気に当てられたんだわ。
 アスターシャは頭を振り、いまだ心配そうな表情のままのベゼルの顔を見上げた。
「……なに?」
「あ、あの……ね、ベゼル」
「……どうしたの?」
 ベゼルの顔がさらに心配そうに歪む。
「サーシェス……なんか様子がおかしく……ない?」
「へ?」
 ベゼルは間の抜けたような声を上げた。
「熱はないと思うけど……」
「そうじゃなくて……その……話しぶりとか……」
「うーん……。ずっと寝ているみたいだし、会話もほとんどできないみたいだからおかしいって言われてもなぁ」
「そうだよね……うん。ごめん、変なこと聞いて」
「疲れてるんだよ。アスターシャもちょっと休んだほうがいい」
「そうね、そうする」
「部屋まで送っていこうか? あとで誰かを寄越すように言っておく」
「あ、いい、いいよ、そんなに心配しなくたって大丈夫」
 アスターシャは申し訳ない気分になり、逃げるようにベゼルの脇をすり抜けた。その後姿にベゼルが「おやすみ」と声をかけたが、それに反応する気になれなかった。
 階段を降りて船室に向かう。大丈夫だ。少し気が張っていただけだ。少し横になればこんな気分も落ち着くはずだ。アスターシャは自分の胸に手を当てる。鼓動が早い。頭に血がのぼるような感覚がする。どうしようもなく苛立っている自分がいる。
 船室の廊下に差し掛かったところで、アスターシャは足を止めた。サーシェスの船室の扉を少しだけ開けて、中を気遣わしげにうかがっている人影が目に入ったからであった。セテである。
 アスターシャに気付くことなく、セテは部屋の中のサーシェスを見つめている。その表情は複雑だ。手の届かないものへの焦燥、あこがれの対象に向けるような熱さと切なさ、そんなものが入り混じって見える。きゅっとアスターシャの胸が苦しくなる。セテは、どれほど彼女を大切に思っているのだろう。恋人同士にはなれなかったと聞いているが、セテのあのまなざしときたら愛する者に向けるそれではないか。
 ずるい。私だってこんなに疲れてるのに。
 セテがこちらを見た。少し驚いたような顔をしている。いまサーシェスに向けていた視線の意味を気取られたと思ったのかもしれない。
「姫……あ、アスターシャ」
 まだすんなりと名前で呼んでくれないのか。アスターシャはそのことにひどく腹が立った。
「サーシェスは……まだ寝てるの?」
「あ、ああ。さっきおぼろげに目を開けたんだけど、またそのあと」
 セテがわずかに目を伏せる。元気な頃のサーシェスを思い浮かべているんだろう。
「そう……こんなときに……」
「え?」
 セテが聞き返したが、アスターシャは言葉を飲み込んだ。こんなときにみんなの手を煩わせて。そう言ったら最後だと思った。
「いい。私が見てるから、セテはもう行って」
 つっけんどんな物言いに、セテが目を丸くする。
「あ、いや、君だってずいぶん顔色が悪いよ、少し休んだほうが。ここは俺が」
「いいから行って! サーシェスに近寄らないで!」
 大きな声を上げたためにセテがひるむのが分かったが、アスターシャはセテの顔を見ることができなかった。
「ごめん、私、ちょっと疲れてるみたい」
「休んだほうがいいよ、やっぱり」
 セテは誰にでもきっと同じことを言う。それが私でなくても。いや、私でなくサーシェスに対してなら、きっともっと優しい。
「アスターシャ」
 呼ばれて、アスターシャの身体が大げさなくらいに震えた。声の主はサーシェスの部屋の中。サーシェス自身であった。
「サーシェス! 目が覚めたのか!」
 セテの顔が喜びに満ち溢れ、ほころぶ。アスターシャはぎゅっと拳を結び、だがサーシェスのほうを見る気にはなれなかった。恐ろしいのだ。なぜか、サーシェスが別人のような気がして。
「セテ。心配かけてごめんなさい。少しアスターシャと話がしたい。ちょっとはずしてもらえるとうれしい」
 再びアスターシャの身体がぴくりと反応する。サーシェスはベッドに横になったままだったが、セテの顔をはっきり見ながら淀みない口調でそう言った。サーシェスはいつもの口調だったが、アスターシャにはそれが空々しく聞こえた。
「アスターシャ、いいよね?」
 サーシェスにそう問われて、アスターシャはわずかに頷く。有無を言わさぬ魔法のような響きがあった。サーシェスの声が身体を支配しているようだった。サーシェスの瞳はこちらを見据えているが、アスターシャにとってはいつものエメラルドグリーンの瞳が濁って見える。声も顔も幼女のままのサーシェスなのに、しゃべっているのはサーシェスではない何者かではないのか。なぜセテはこの違和感に気づかないのだろうか。
「それじゃ……またあとで来るよ。なにかあったら言って」
 セテはサーシェスとアスターシャに軽く手を振って部屋をあとにする。その背に、アスターシャは「行かないで」と言ったつもりだったが、それは声にならなかった。セテを見送る自分の視線が強制的にサーシェスに向き直らされる気がして、アスターシャは小さく息を呑んだ。
 後ろ手に扉を閉め、部屋の中に一歩、また一歩と足を進める。その間、サーシェスの瞳はずっとアスターシャの目を縛り続けているようで、視線をはずすことができない。閉じられた扉の向こうでセテの足音が遠ざかる気配がする。そのとき、アスターシャはサーシェスが不敵に笑ったような気がして身震いした。






 セテは自分の船室に戻って扉を閉めるやいなやベッドに転がりこみ、枕に頭を埋めるようにして抱えて大きなため息をついた。サーシェスの意識が戻ったのは喜ばしいことだが、まだモヤモヤした気分は晴れない。テオドラキスを見捨てたような形でセレンゲティを離れたことが腹立たしくもあり、だがそうするしかなかったことがとても悲しい。
 レイザークの気持ちを考えろとジョーイが言ったが、彼の言うとおりレイザークも苦渋の決断であったことだろう。自分を好いているアラナを残すことに、たいへんな葛藤を覚えたに違いない。いや、アラナでなくともあの大柄な聖騎士はそうするだろう。レイザークが自分で言うほど冷酷で人を切り捨てられる男でないことは、セテにはよく分かっていた。
「こういうの、翻弄されてるっていうんだろうな……」
 セテは枕から顔を上げ、誰に言うとなしにそうつぶやいた。
 そう。翻弄されっぱなしだ。まるで神々の台本どおりに、あるいはいいように動かされるチェスの駒のように。
 次の目的地は、ジョーイの生まれ故郷でもある辺境の小国ラナオルド。偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》が従えていた〈水の一族〉の末裔が住み、〈水の封印〉もそこにあるという。アスターシャの提案どおり〈黄昏の戦士〉と同盟を組み、新たな勢力として迎えなければならない。
 だが〈メタトロン〉の幻影《ヴィジョン》を見たあと、サーシェスはなんと言ったか。水の核が暴走したことで世界を海に沈めた、歴史で言われる大沈下の原因は、自分なのだ、そう彼女は言った。それは結果論であって神獣フレイムタイラントの炎を弱体化させるにはたいへん大きな功績を上げたはずだが、そこへ行くことでサーシェスがまた自分を責め続けてしまうのではないか。
 それに、たまたま〈土の一族〉は友好的──ヨナスの振る舞いはさておきだが──であったが、聞くところによれば以前サーシェスが出会った〈風の一族〉はたいへん好戦的だったし、〈水の一族〉が友好的に出迎えてくれるとは限らない。よしんば出迎えてくれたとしても、〈土の一族〉の末裔がヨナスを始めとするごく一部しか生き残っていないことを考えると、〈水の一族〉とて世代交代で血は薄れ、大戦のことを覚えている人間もほとんどいないのではないか。こちら側の火力強化になるのかどうか。
「考えても始まらない……か。行ってみるしかないもんな」
 そう言ってセテは掛け声をかけてベッドから体を起こし、座り直す。だが、セテはそこでぎょっとする。黒い影が、セテを見下ろすようにベッドの前に立っていたからだった。
『そのとおり。君たちは追手から逃げおおせるためにもラナオルドに行かねばならない』
 黒い影はそう言った。セテは一瞬驚いたようだったが、それから前髪をかきあげて大きなため息をついた。安堵のため息のようだった。
「あんたか……」
 セテは黒い影に向かって鋭い視線を投げかけた。
『中央からの大脱出劇に加え、アートハルクの追手をよくぞかわして逃げてくれた。よき働きだった』
「俺の機転でもなんでもない。味方を犠牲にしてやっと逃げられた、ただそれだけだ」
 セテは吐き捨てるように言う。
『運も実力のうち、剣士はそのように教えられるはずだが』
「偶然なんて滅多にない。剣で敵の攻撃をかわせるのは、それまでの一連の動作がそう導いていたからだ。それと同じで、俺やサーシェスを守るために動き、導いた人間がいる。それがテオドラキスやアラナ、それからレイザークだ」
『ずいぶん感傷的だな、君に似つかわしくない表情をする』
「嫌味を言いに来たわけじゃないだろう。用件を言ったらどうだ、祭司長ハドリアヌス」
 セテは前髪をくしゃくしゃとやりながら黒い影に向かって悪態をついた。目の前の黒い影こそ、聖救世使教会祭司長ハドリアヌス。正しくは、彼の影だ。
『悪い知らせがいくつか』
「いい知らせなんざここのところ聞いたこともないけどな」
 セテの悪態に、黒い影が笑った。
『アートハルクの動きに注意せよ。占領下のロクランで斥候が不穏な動きを察知したとのこと。火焔帝は中央の動きに対して苛立ち、焦り始めている。しばらく大々的な軍事行動は控えていたが、ここへ来て再び兵を挙げる可能性もある』
「ご親切にどうも」
『それから〈水の一族〉だが、君の推測どおりあまり友好的種族とはいいがたい。心してかかるように』
「はいはい」
『それから』
「まだあるのかよ!」
 セテは呆れたように言い放つ。
『君にとってはこちらのほうがずっと重要だと思うがね』
 そう言いながら黒い影は喉を鳴らして笑う。セテはその様子がおもしろくなく、憤慨したように鼻を鳴らした。
『この船には悪意が満ちている。作られた悪意、君の表現を借りれば、そう導こうという人間が引き起こすものだ』
「どういうことだ?」
『そのままだ。悪意は伝染する。こちらから干渉したり原因を突き止めるのは困難だ、その原因を早急に解明したほうがいいだろう』
 悪意は伝染する──。なぜだかアスターシャのことが頭に浮かんだ。取り越し苦労だと思えばそれまでだが、どうも疲労でまいったにしては神経質すぎる気もする。
「わかったよ。注意しておく。それよりあんた本当にこれが終わったら」
『待て』
 セテの言葉を遮り、ハドリアヌスの黒い影は少し様子を伺うような仕草をした。
『追って連絡する。健闘を祈る』
 唐突に黒い影が消えた。しかしセテも、扉の向こうに人の気配を感じて跳ね起きた。そのまま扉に駆け寄り、ドアノブを乱暴に回して扉を大きく開け放つ。廊下を見回すがもちろん人影などあるわけもなく、人がいた気配もない。
 隣の船室の扉が開き、大あくびをしながらレイザークが出てくるところだった。レイザークはセテを見るやあくびを噛み締め、片手を上げた。
「レイザーク、あんたいま、俺の部屋の前にいた?」
「は? 俺はさっきまで昼寝だ昼寝。なんだ、オナってたのを誰かに覗かれでもしたか?」
「アホか!! そっか、ならいいんだけど」
「なんだそんな溜まってんのか、俺が手伝ってやろうか?」
「冗談はやめろキモチワルイ!!」
 ニヤニヤするレイザークをセテは足で蹴る真似をして遠ざける。レイザークも、わざとこうやっておどけて辛気臭い気持ちをはねのけようとしているのだろう。セテは気を入れ直してこれからの目的地に望む決心をした。だが。
 つんざくような悲鳴が廊下に響き渡る。レイザークとセテは同時に声のするほうを振り返った。女の声。しかもサーシェスの船室のほうだ。
「サーシェス!?」
 もう一度、今度は短い悲鳴。ベゼルの声だった。サーシェスの船室の扉がいやな音を立てて開くのが見えたので、セテとレイザークは全速力で駆け寄った。見れば、顔面蒼白のベゼルが口元に手を当てながら後ずさり、廊下に出てくるところであった。
「どうしたベゼ……」
 部屋の中に身体を滑り込ませたところでレイザークはそう言いかけ、息を呑んだ。ベゼルよりももっと顔面を蒼白にしたアスターシャが、両手で短剣を握って立ち尽くしている。短剣の先には血糊。アスターシャのチュニックに返り血らしき赤い点描が散らばっている。そしてその足元に、サーシェスの小さな身体が崩れ落ちていた。

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