第二十九話:伝染

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「覚えていないだと!?」
 そう声を荒らげたのはレイザークだった。
「大きな声を出すなよ。外に聞こえる」
 不機嫌な様子でセテがレイザークを睨みつけた。レイザークの部屋であったが、先ほどからレイザークはタバコばかり吸っているためにたいそうな空気の悪さだ。ちょっと吸っては消しを繰り返していることから、イライラが収まらないのだろう。レイザークはまたタバコに火をつけながら、
「どういうこった。サーシェスの嬢ちゃんに斬りかかったのは姫本人なんだろう」
「持ってた短剣の柄にはロクランの紋章が彫られてて、間違いなくアスターシャ本人が護身用に持ち歩いていたものだし、サーシェスがアスターシャに話があるから俺にはずしてほしいと言った。それからあの部屋ではしばらくふたりきりだったと思う」
 セテの不機嫌な様子はレイザークの大声によるものではなく、もちろん先ほどサーシェスの部屋で起きた刃傷沙汰の件である。
「それだけで姫が斬りつけたことは十分すぎるほどなわけだが」
「ベゼルが聞き出したところじゃ、まったくそのときの記憶がないと言ってる。そもそも、動機がない」
「動機、ねえ……」
 レイザークはタバコの煙を盛大に吐き出しながら、上の空のような口調でそう言った。
 部屋に駆けつけたとき、切っ先に血糊をつけた短剣を握りしめ、アスターシャは震えていた。目は扉の方向を向いていたが焦点は合っておらず、誰を見ているわけでもないようで、唇の間からガチガチと震える歯の当たる音が聞こえてくるようだった。彼女のチュニックには血痕と思しき赤いものが飛び散っていたが、短剣の切っ先についた血液も含めて、出血量はかなり少ないのが見てとれた。
 怯えた小動物をなだめるような仕草で、レイザークがわずかに手を差し出してアスターシャを呼んだが反応はなく、歯をガチガチ鳴らしたままだった。声をかけられたことで余計に肩に力が入ってしまったらしく、短剣をかまえた腕が少し上がったのを見たベゼルが、もちろん彼女はレイザークによって後ろにかばわれていたのだが、「ひっ!」と小さく息を飲んでレイザークにしがみついた。
 そのあとセテが彼女の名前を呼ぶと反応があったが、うまく呼吸できないのか不規則な呼吸音だけが彼女の口から漏れていた。セテは辛抱強く慎重にアスターシャの名を呼び、肩の力を抜かせ、そうすることでようやく彼女の手が徐々に下がり始めた。関節が白くなるまで握りしめていた指が、一本ずつではあるが赤みを取り戻していくのが見えた。ようやく薬指あたりまで力が抜けたところで、彼女の手から短剣が滑り落ち、固い木の床の上で一度跳ねたが、それを合図にアスターシャの全身の力が抜けた。倒れるアスターシャを間一髪のところでセテが抱きかかえ、それとほぼ同時に、レイザークが床に伏しているサーシェスに駆け寄ったのだった。
 レイザークはサーシェスの身体を抱えてすぐさま怪我の具合を確かめたそうだ。服の肩口に切り裂かれたあとがあり、血が付いていたが、サーシェス自身が即座に回復術法を発動させたのだろう。すでに傷はふさがっており、またそれ以外にも傷口は見当たらなかった。
「ふたりとも怪我はなかったってのが幸いだが、やっちまったことは消せやしない。女同士の確執にしたって、短剣を持ち出すなんざやりすぎだ」
「もとよりアスターシャにサーシェスを傷つける理由なんかないだろ。出会ったころにお互いビンタを張りまくったってのは聞いたことあるけど」
「仲よく見えたって、腹の底でナニ考えてるのかなんざ他人には分からんもんだぞ?」
「あのふたりに限っては俺は同意しかねるね。気に入らないことがあったって、短剣を持ち出すなんてよほどのことがない限り」
「貴族サマを衝動で斬りつけたご本人が言うと重みがあるなぁ」
 レイザークに言われてセテがぐっと言葉を詰まらせる。もちろん、以前ロクランでサーシェスを守るためにハイ・ファミリーの坊っちゃんを斬りつけたセテへの嫌味である。
「お前が言ってるのは、姫が短剣を持ち出すほどに激情に駆られるようなことをサーシェスの嬢ちゃんが言ったか、あるいはやったかってことなんだがな」
 もう一度、レイザークが煙を吐き出した。
「サーシェスは……そんなこと……」
「悪意をぶつけられれば、悪意で返したくなるってのが人間ってモンだ」
 レイザークの言葉に、セテははっとする。悪意。ハドリアヌスの影が言った、船内に満ちているという悪意の話が思い出された。
「なあ、レイザーク。悪意って、伝染するものかな」
 問われたレイザークは目を丸くする。
「熱でもあんのか、お前。急に哲学的なことを言いやがる」
「いや、たとえばだよ、その、術法で人の悪意を増幅させたり人を凶暴化させたりできるのかなとか」
「そんな便利な術法は……と言いたいところだが、精神感応の応用みたいなもんで人を意のままに操ることはできるっちゃできる。心理操作だわな。だが、それこそ理由がない。この船でそんなことをして誰が得をする。そもそも術法使いは俺を含めて三人しか乗ってない」
「そりゃ……そうだけど……」
「人の負の感情ってのは確かに伝染する。戦場で士気が乱れたり戦意喪失したり、身近なところで言えば悲しんでる人を見たら悲しくなる。人の心ってのは案外もろいから、それを補強するために精神感応を利用することだってある。だがな、王女サンにしてみりゃ、いままで王宮で何不自由なく暮らしてたんだ。過酷な逃亡生活、非日常的な戦闘行為、そういうのでまいってたところで、なにか言われてカッとなったってのが自然だろう。だからといって人を傷つけていい理由にはならん」
「そう……だな……」
 セテはなにかが気にかかって仕方ないのが晴れないのだが、それが何なのかを言語化できずにいた。ただ、ハドリアヌスがそういう人間の弱い心について比喩的な意味で警告をしたとは思えない。あの狡猾な男に、人の心の微妙なひだを理解できるとは思えなかった。
「とにかく、だ」
 レイザークは灰皿に灰を落としながらセテに指を突きつけた。
「姫サンには申し訳ないが、目的地までの間、船室に見張りを立たせて軟禁させてもらう。念のため、サーシェスの嬢ちゃんの部屋にもだ。こっちは護衛の意味でだが。身の回りの世話についてはベゼルにやってもらう。お前と俺も船室を彼女らのすぐ隣に移すことにした。お前はサーシェスの、俺は王女の隣。それでいいな」
「分かったよ」
 力なくセテは同意した。



 そのころ、アスターシャに鎮静剤を飲ませてから彼女が眠り込んだのを見届けたベゼルは、入り口に立つ屈強な船乗りの男を見上げて大きなため息をつき、それからアスターシャの部屋をあとにした。見張りである。
 アスターシャは事件のあとも呆然とするばかりで、まともに話をできる状態ではなかった。確かに、事件の直前に会話したアスターシャは、疲れているのかどうも様子がおかしかった。初めてベゼルがアスターシャと会ったときに近い、とげとげした印象を受けたものだった。そんなにも疲れ果ててしまっていたアスターシャの心の支えになれなかったことを、ベゼルはとても心苦しく思っていた。
 アスターシャとサーシェスの間に何があったのか知る由もないが、アスターシャが以前ポツリとつぶやいたことからも、なんとなくベゼルには彼女の気持ちが分かるのだ。
 アスターシャは負い目を感じているのだ。サーシェスが救世主《メシア》という超がつくほどの有名人であることや、アスターシャが恋をしたフライスやセテが、サーシェスを大切に思っていることに対して。嫉妬と言ってもいいだろう。
 それは、少年のような身なりをしているとはいえ、年頃を迎えた少女であるベゼルにも十分に分かる。
 セテは空威張りはひどいし口も悪く、怒らせれば誰彼かまわず手持ちの罵詈雑言を使い果たすまで口撃する。あいつには生理があるんだとはレイザークの名言ではあるが、とにかく感情の起伏が激しい。そうかと思えば繊細な一面を見せ、とくに父親やレオンハルトのことになると突然しおらしくなったりする。ベゼルはセテの泣き顔を見たことがあるが、かわいいとかそういう類で母性本能をくすぐられることもあるのかもしれないとベゼルは思っている。
 剣を振るうセテを、ベゼルはとても好きだ。あの美しい刀身を器用にさばく姿から目が離せなくなることがある。レイザークの武骨な剣と剣術に比べれば、はるかに優雅に感じられるのだ。顔だけはいいので、絵になるだけというのが正しいところかもしれないが。
 それに、ベゼルは早くに両親を亡くしたうえにひとりっ子であったため、突然の同居人が増えたことは兄弟ができたようでうれしかった。家族ごっこと言われればそれまでだが、セテとレイザークがアジェンタスのあばら屋を出発することになった前夜、なんとかしてセテを引き止めたいとベゼルは思った。結果的に、ベゼルはアスターシャの協力を得てこの旅に同行することができたわけだが、だがしかし。
 サーシェスの登場で、少しだけ、ほんの少しだけセテを取られてしまったような気になったのは事実だった。
 ……俺も疲れてるのかな、いまそんなこと考えてる場合じゃないのに。
 ベゼルは頭を振って余計な考えを追い出そうとした。両手で支えた盆の上の水差しとグラスがぶつかって小さな音をたてた。
 次はサーシェスの部屋だ。先ほど着替えさせてベッドに寝かせたが、またサーシェスは眠りについている。なにがあったかをサーシェスの口から聞けないのでレイザークが苛ついていたが、サーシェスもここへきてさまざまな困難にぶち当たり、さらには親友に斬りかかられるとあっては、まいるのも仕方ない。
 サーシェスの船室の前には、護衛のためにやはり船員がひとり警邏で立っていた。レイザークの指示によるものだ。
「ご苦労様」
 ベゼルは入り口に立つ船員にねぎらいの声をかけた。が、返事はない。むしろ、上の空のような気がして多少ベゼルは気分を害した。あんなにぼんやりしていても体格がよければ問題ないというレイザークの判断かもしれないと思いながら、ベゼルはサーシェスの部屋の扉を軽くノックした。もちろん、サーシェスは眠っているから返事を期待しているわけではない。
 そっと扉を開け、ベゼルは持ってきた盆を片手で傾かないように慎重に支えながら、後ろ手で扉を閉めた。そこでベゼルはぎょっとする。意識を失っていると思われたサーシェスが、ベゼルを待ち構えていたかのようにベッドに半身を起こして彼女のほうを見ていたのだ。
「あ、ご、ごめん。寝てると思って」
 ベゼルは返事を待たずに部屋に入ってきたことを詫び、それから、ベッドの脇のテーブルに盆を載せてグラスに水を注いでやる。
「たいへんだったと思うけど、とりあえず気を落ち着けて。水、飲む?」
 ベゼルはサーシェスにグラスを差し出した。サーシェスは何も言わずにそれを受け取り、ぐいっとグラスを煽った。なんとなくだが、ベゼルはいやな気分になった。
 お礼とまでは言わないけど、なにかひとことくらい言えばいいのに。いままで気付かなかったけど、けっこう無礼な子なのかな。そんな考えが頭をよぎったが、努めてそれを追い出そうとした。
「やっぱり、あなたも私が気に入らない?」
 ふふっといたずらっぽく笑いながらサーシェスがそう言ったので、ベゼルの身体は飛び上がるほどに震えた。サーシェスのエメラルドグリーンの瞳が、あわてふためいて言葉を探すのに懸命なベゼルを凝視していた。



 セテは頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜながら大きなため息をついた。セテの船室は、先ほどの騒ぎでサーシェスのすぐ隣に移されたばかりだったが、とにかく後味が悪すぎて気分が落ち着かない。たとえ口喧嘩をしても、親友を斬りつけるような真似をするだろうか。あのふたりの間に、いったい何があったのだろうか。
 そういえばレトとはずいぶん殴り合いの喧嘩をしたものだったが、剣を持ち出してどうのなんていうのはなかった。そして最後、レトは確かに自分を裏切るような許されざる殺戮を犯したが、彼は自分の悪意からセテを守るために自らを殺めることになった。
 最悪の結末だったし本当に悲しい事件だったが、自分が親友を殺めるようなことにならなかったのは、レトの思いがあってこそだ。
「親友……か……」
 ずいぶん昔のことのように思える。アジェンタスに戻ってから本当にいろいろな出来事に翻弄されて、そしていまは追われる身。もしレトがいまそばにいたらどんなふうに自分を慰めてくれるだろうか。
「やっぱ俺、あんま成長してないな。人に慰めてもらうことしか考えてない」
 セテはそうひとりごちたあと、自虐的に笑いながら前髪をかきあげた。
「よし、風呂だ風呂! こういうときは風呂に入って命の洗濯だ!」
 セテは立ち上がり、荷物を漁ってタオルを引っ張りだす。
 セレンゲティに到着後、テオドラキスのはからいで風呂に入ることができたが、ここしばらくは風呂どころかシャワーですらあまり縁がない。この船には樽風呂というのがあるらしく、空いた酒樽に湯を張ってザブンと浸かるのがよいのだそうだ。レイザークがゴエモン風呂みたいなもんだとかなんとか言って楽しみにしていたようだ。ゴエモンの意味は教えてもらえなかったが、どうせレイザークとて由来は知るまい。
 セテはタオルをパンパンと肩に叩きつけながら自室のドアノブに手をかけた。が、急に扉が空いたので前のめりに倒れそうになる。目の前に人が立っていたので、体勢を整える間もなくその人物に倒れかかる形になってしまった。
 見上げればこの船の乗組員の男で、確かサーシェスの部屋の警護にあたっていたはずだ。
「ああ、あんた。交代か? それともサーシェスになにか……」
 男は倒れかかってきたセテの腕を掴んだまま答えない。代わりに、ずいと部屋の中に入ってきてセテを押し戻そうとする。
「おい!」
 セテが抗議の声を上げたが、その瞬間、セテは後ろのベッドに突き飛ばされる。男が扉を閉めた気配がして即座に跳ね起きたセテだったが、もう一度男の太い腕がセテをベッドに押し戻した。
「なにしやがる! イテッ!!」
 セテの両手首は男に掴まれたまま、頭上で捻り上げられてしまっていた。
「なにすんだよ! 放せよ!!」
 自分でも血の気が引いていくことは分かった。男の目はギラついており、荒い息が顔にかかる。生温かい気配にセテは顔を逸らし腕に力を込めたが、船で鍛えた男の腕はレイザークよりもずっとがっしりしていて引き抜くことはかなわなかった。
「なあ、あんた」
 男はセテの顔をまじまじと見ながらそう言った。セテを見ているようでいて、その目はあまり焦点が合っていない。生理的な嫌悪感がセテの背筋を走った。
「あんた、恋人いるのか?」
「い、いねえよ! いいから放せよ!」
「知ってるか? 船乗りってのはな、何週間も、ときには何ヶ月も海の上なんだ、女房子どもを家に置いてな」
「そうかよ! そりゃたいへんだよな! 分かったから放せって!」
「女房と子どものことを思い出して、たまに胸が苦しくなるときがあるんだ。子どもは元気にしているか、父親がいないことで友だちにからかわれたり、悪い遊びをして女房に心配かけてないか」
「母親がしっかりしてりゃ、父親がいなくたって子どもはちゃんと育つさ! 俺だってオヤジは」
 言いかけたが、男はセテの言葉などまったく聞いていないようでひとりごとさながらに続ける。
「その母親……な、女房のこともな、恋しくて、心配で心配でたまらなくなるときがある」
「そりゃ離れていればみんな同じだろ!?」
 ぐいと力強く手首を捕まれ、セテの顔が苦痛に歪む。睨み返すと、男の目が異様に血走っているのが見えた。男はそのままセテに馬乗りになる。太ももに乗られたことで、膝下を完全に封じられてしまった。
「あんたにゃ分かるまいよ。残してきた女房が他の男とねんごろになっちゃいないか、航海から帰ってきたときに子どもと一緒に逃げちまってないか、そんな妄想をして心が張り裂けそうになる」
 男の呼吸がさらに荒くなり、空いたほうの手がセテの顎を捕らえた。狂気が宿った目というべきか、血走り、濁ったように光を失った男の瞳が心底おそろしいと感じた。男の心にある底知れない闇、ドロリとして腐臭を放つ粘着性の悪意を感じるのだ。
「だから、俺のこの鬱屈した気分を晴らしてくれよ。あんたの身体で鎮めてくれりゃいい、どうせ初めてじゃねえんだろ?」
「ふざけんな! 放せ!!」
 セテは身体をよじって叫んだが、男がさらに手首を強く捻り、今度はセテの膝下を自身の太ももで強く締めあげた。そしてセテのGパンのボタンフライに手をかける。
「馬鹿! よせ! やめろっての! 放せよ変態野郎!!」
 セテは思いつく限りの悪口雑言で罵倒するが、腕と膝下を封じられているために得意の拳も膝蹴りも繰り出すことができない。胴体を捻って抵抗するも、男の手はすでにボタンフライのいちばん下まで器用にはずしにかかっていた。
「くっそ!! レイザーク! おい! レイザークってば!!!」
 力の限り叫んだそのときだった。鈍い音がしたあと、男の動きが唐突に止まった。焦点の合わない目が一度天井を睨んだかと思うと、船乗りの上半身はベッドから崩れ落ち、その巨体はそのまま床にずるずると伸びていった。間一髪、男がセテの腰からGパンを引きずり下ろそうとしていた矢先のことであった。
「昼間っからおさかんだねぇ」
 間延びする声と大きなため息。鞘をつけたままの飛影《とびかげ》を握りしめるジョーイの姿があった。
「ジョーイ!」
「きれいに延髄に入ったっぽいからお目覚めには少し時間かかるけど、お邪魔だった?」
「アホか!」
 盛大に悪態をつきながらセテは跳ね起き、あわてたように衣服の乱れを直す。
「……すまん。正直、助かった」
 セテは大きなため息をついて全身の力を抜いた。まさか船旅でこんな展開になるとは。
「サーシェスちゃんの部屋の前に誰もいなかったから来てみたんだけど。なに、こういうのよくあるの?」
「ねえよ!」
 いまだニヤニヤしながらからかうように言うジョーイを睨みつけて格別に邪険に言い放ったつもりだったが、そこでセテは小さく咳払いして、
「……いや、二回ほど……」
「あらま」
 ジョーイはおどけたように肩をすくめた。愉快そうなのを隠す気はまったくないようだった。
「まぁ、船乗りの生活は女っ気もないし荒んじゃうみたいだからねぇ」
「そんなんで男のケツが欲しくなる理由も意味わかんねえわ。気色悪い」
 セテは前髪をかきあげて再びため息をついた。見れば、ジョーイは気絶した男の両腕を持ってきたロープで後ろ手に器用に縛り上げ、両足首にもロープをかけているところだった。
「念のため、ね。起きてまた犯る気になられても困るし。にしても」
 やたら手際よく男を縛り上げ終わったジョーイは、満足そうにパタパタと両手をはたいた。
「さっきのお姫さんの事件といい、なんだか今日は忙しないなぁ」
「忙しない、なんてもんじゃない。これは……」
 悪意の伝染。セテはハドリアヌスの言葉が気になって仕方なかった。
「おい、ジョーイ、他になんか様子がおかしいヤツとかいなかったか?」
「様子がおかしいヤツ?」
「目が虚ろとか、血走ってるとか、呼吸が荒いとか、その他なんでもいい」
「それだけじゃただの病人と見分けつかないでしょ」
「いや、ちょっと待て、隣の部屋、見たか?」
「サーシェスちゃん? いや、君の叫び声がしたからまっすぐこっちに来ちゃったし」
「クソッ!」
 セテは悪態をついて廊下に飛び出した。すぐ隣りのサーシェスの船室を、ノックもせずに乱暴に開ける。部屋はもぬけの殻だった。
「ジョーイ! サーシェスを探してくれ! それとベゼルもいない。人を呼んでくれ。いますぐふたりを探すんだ!」
 素早く身体を翻し、ジョーイが廊下の伝声管に向かってなにやら辺境の言葉で叫んだ。火急の用を告げているのは口調で分かった。しかし応答はない。
「おかしいぞ。誰も反応しない」ジョーイが珍しく不安そうな表情を見せた。
「俺は操舵室に行ってくる。セテは船内を見てくれ」
「わかった」
 ふたりが二手に分かれようとしたときだった。船が大きく左に傾ぎ、ふたりの身体は廊下で踊るように跳ねた。セテもジョーイも壁に叩きつけられる。
「取舵!? なんでこんなところで!?」
 ジョーイが叫ぶ。陸地にはまだまだ遠い。ここで進路変更をする必要などあるわけがない。
「セテ! レイザークを探してくれ! 操舵室でなにか起こってるっぽい! なにかあったらそこらの伝声管で叫んでくれ!」
 ジョーイはセテの背中を突き飛ばすように押し、廊下を走った。押されたことで勢いがついたセテも走る。
 アスターシャの部屋の扉を開けるが、アスターシャはよく眠っている。部屋には彼女以外に誰もいない。隣のレイザークの部屋に駆け込むともぬけの殻で、さらにその隣のヨナスの部屋にも誰もいなかった。
「おい! 誰もいないのか!?」
 セテは廊下で怒鳴る。もちろん返事はない。
 嫌な予感が現実になるときの気分は最悪だ。我ながら自分の直感には恐れ入る。いったんセテは自分の部屋にとって返し、縛られて気絶した船乗りをそろそろとまたいでベッド脇のかばんに手を伸ばした。ヨナスがセテに手渡した二本の剣が姿をあらわす。
 船は狭い。リーチの長い飛影《とびかげ》で応戦するのは自分も危険に晒される。脇差と呼ばれた飛影より少し小ぶりの蒼月《そうげつ》ですら、天井や柱に食い込んだときに間合いに入られたら危ない。だが、盾代わりには使えるかもしれない。セテは短剣よりも柄と刀身がやや長い不知火《しらぬい》と蒼月をベルトの脇に挟んだ。こんなものが必要となる事態とは思えないが、丸腰よりはましだ。
「レイザーク! どこだ!!」
 廊下に飛び出してから、セテは伝声管に叫んだ。
『甲板だ! すぐ来い!』
 意外にもすぐにレイザークからの返信があったので、セテは少しだけ安心し、すぐさま甲板へ駆け上がった。
 双眼鏡を手にしたレイザークが立っていたが、周りに船員の姿が見えない。レイザークはセテの姿を見るやいなや双眼鏡を放ってよこし、
「真正面に船だ。さっきの進路変更はこれか? さっきまで何も見えなかったんだが」
 悠長なことを言うレイザークに多少いらつきながらセテも双眼鏡を覗いた。帆船のような大型の船が水平線に浮かんでいるのが見えた。
「それよりサーシェスとベゼルがいない。それにヨナスも。ジョーイが操舵室と連絡が取れないってんですっとんで行ったんだけど」
「ヨナスの小僧ならさっきまで甲板ではしゃいでたが……」
「サーシェスの見張りがいなくなって俺が襲われてジョーイがそいつをぶっ叩いてあとで見てみたらサーシェスもベゼルもいなくて」
「お前の話はちっとも分からん」
 レイザークが呆れたように肩をすくめた。伝わらないもどかしさでセテは拳を振り上げ、
「とにかく! なんかこの船、ちょっと様子がおかしいぞ!」
「真正面に突然船が現れたことだって十分おかしいだろが。ん?」
 レイザークは船のへりから身体を乗り出した。
「おい、砲門が開いてるぞ。誰の判断だ」
 セテも身を乗り出すが、確かに土手っ腹の砲門がすべて開いている。角度から言えば正面に見える船にちょうど狙いをつける形であった。
「なあ、あの船、なんかおかしくないか?」
 セテはもう一度双眼鏡を覗きながらそう言う。
「もう少し語彙を学べ。最近の若い連中はおかしいとかまずいとかで会話するから話が見えん」
「おかしいんだからしかたないだろ。帆船……だと思うんだけど、旗が……」
「聖騎士団の紋章つきとか言うなよ」
「なんか悪趣味なドクロみたいなのが描いてある」
「それを早く言え!」
 レイザークがセテの手から双眼鏡を奪い取った。しばらく覗いたあと、レイザークは大きなため息をついた。
「海賊船か。俺も初めて見るが」
 さして困った様子でもなく、どこか楽しそうであった。
「なんだその海賊船って」
「海の悪〜いヤツラが乗る船のことだよ」
「馬鹿にすんなよな」
 面倒くさそうに丸めて話をするレイザークの様子にセテが憤る。
「海にゃ一般人がほとんど出られないんだからお察しだろ。貿易船を狙って積み荷を奪ったりして荒稼ぎする連中だ。厄介なことにならんといいが」
 突然、轟音が響き渡り、船が揺れた。レイザークの巨体も派手に揺れる。砲門が一斉に火を吹き、正面の帆船目がけて砲弾が飛んで行くのが見えた。
「警告なしで砲撃だと!?」
 レイザークは転げるように伝声管に駆け寄った。
「おい! 誰の判断で攻撃した!? ジョーイ! 操舵室にいるんだろう!? 状況を報告しろ!!」
 砲弾は帆船には届かず、着水して大きな水柱を上げた。それを合図にしたか、帆船は速度を上げてこちらに向かってくる。
「ジョーイ! このままだとぶつかるぞ! 回避させろ!! 船長はどうした! おい!」
 レイザークの怒鳴り声は、操舵室の伝声管を通って操舵室に破鐘のように響き渡っていた。伝声管のすぐそばにジョーイは確かにいたが、彼は身動きが取れずにいた。目の前にはベゼル、そして、ベゼルとジョーイを取り囲むように操舵室の船員たちがずらりと雁首を揃えて立っていた。
「レイザーク怒ってるよ? 返事してあげれば?」
 ベゼルがジョーイに冷たく言い放つ。銀髪の少女の瞳は、かすかな憎悪に彩られ輝いていた。
「君らがそんなふうに注目してたんじゃ、レイザークと内緒話もできないでしょ」
 ジョーイは大げさに肩をすくめて見せるとそう言った。
「内緒話……だって。ふざけた男。あんたなんかいなきゃよかったのに。あんたがあの日うちに来なかったら、セテもレイザークも出て行くことなかったのに。三人で仲よく暮らせたのに、ホント、空気の読めない男」
 信じられないような言葉がベゼルの口から飛び出してくるが、ジョーイは気に止めていないようだった。
「俺が気に入らないなら好きにしてくれていいけど、さっきの砲撃はまずいと思うけどなァ。国際条約で、警告なしの攻撃は厳しく罰せられるの知ってるでしょ」
「知らない。そんなこと、関係ない」
「舵輪。回さなくていいの? あの船とぶつかるよ?」
 ベゼルは笑うだけだ。
 突然、ジョーイは足を繰り出した。ベゼルの頭をかすめ、その後ろにいた男たちの顔に次々と踵がお見舞いされる。仲間が倒れたのを合図に、周りの船員がジョーイに飛びかかった。そのときもう一度、激しく船が揺れた。ジョーイの身体は船員たちに飛びかかられる前に大きく揺れ、操舵室の舵輪に倒れかかる。ジョーイの身体と一緒に舵輪が大きく回転し、それと同時に今度は舵が右に切れたために船が面舵で旋回する。船員たちももみくちゃになりながら身体を踊らせ、そんななかでジョーイは舵輪をあわてて左に回転させる。
『なにやってんだジョーイ! 今度はあっちから砲撃食らってんだぞ!!』
 伝声管からレイザークの怒鳴り声がする。ジョーイは迫る船員たちに足蹴りを繰り出しながら伝声管に食らいついた。
「無茶言うな! こっちも立ち回り中だ! とにかく砲撃をやめさせろ!」
『どっちのだ!』
「どっちでも! 向こうのが当たったら沈むんだぞ!!」
 ジョーイは襲いかかる船員の顎に確実に拳を当てながら叫んだ。
 海賊船らしき帆船から砲撃されたが、砲弾は船に届かず着水した。甲板でレイザークとセテは頭から海水を浴び、揺れに揺れる船に翻弄されてへりに捕まっているのが精一杯であった。
「おっさん! あっちの砲撃だけでもなんとかしろよ! あんた聖騎士なんだろ!?」
「念動力で砲弾を一発ずつ片付けろってのか!? 俺は術者じゃねえ!」
 再び、こちら側の砲門が火を吹いた。それに呼応するかのごとく、帆船側の砲門も火を吹く。
「くそが!!」
 レイザークは背中の大剣を抜き、小声で呪文を詠唱しながら大きく刃を横に薙ぎ払った。大剣デュランダルに載せられた術法が炸裂し、手前の砲弾が爆発する。それに引きずられるようにしてあとから続く砲弾が誘爆していった。
「やればできるんじゃん」
 セテがそう言ったので、レイザークが舌打ちをしながらセテを蹴りあげた。よろけたセテがあわてて体勢を整えたが、そこでセテは蛙のようなうめき声をあげた。
「変な声だすな、ケタクソ悪い!」
 レイザークが振り向く。セテが呻くのももっともなことであった。ふたりは何十人もの船員たちに取り囲まれていたのだった。悪意に満ちた数十もの瞳が、セテとレイザークを捉えていた。
「なんだよ、また俺のケツでも狙いに来たのかよ」
 セテが取り囲む面々を睨みつけたあと、呆れてそう言った。
「もてる男はつらいねぇ、主に男性方面に。ま、告白しにきたとは思えんがな」
 察したような表情でレイザークが肩をすくめて言った。
「テオドラキスの配下だからと思ってたけど」セテはにやりと笑い、指をポキポキ鳴らしながらレイザークに尋ねる。
「やっちまっていい?」
「目的を聞いてからだ。答えそうにもないがな」
「ふん。まぁ一応、聞くけど」セテは一歩前に出て拳を構えた。
「あんたらの目的は? アートハルクの手の者か、それともヨナスのいたずらか」
 男たちは答えない。セテは納得したと言わんばかりに鼻を鳴らすと、いきなり拳を繰り出した。セテの目の前の男の鼻面に、見事に拳がめり込んでいた。腕を返す際にセテは肘を構え、隣で飛びかかろうとしていた男の顎に滑りこませる。悲鳴をあげてのけぞる男の身体を盾にしてセテは体勢を整えたが、そこで髪を掴まれてしまう。セテはうめき声をあげた。男が拳を振り上げ、セテの眉間に叩き込もうとしたとのとき、レイザークのデュランダルが薙ぎ払われた。大剣の放つ圧力で何人かの男が跳ね飛ばされ、セテの髪を掴んでいた男も弾き飛ばされていた。デュランダルの届く範囲で一瞬だけ人の輪が乱れる。
「こういうときのために髪は切っておけ。鬱陶しい。なんならデュランダルで切ってやってもいいぞ」
 レイザークは剣を構えたまま鼻を鳴らした。
「俺が髪を切るのは失恋したときって決めてんだ。ほっとけ」
 セテは髪をかきあげたが、デュランダルの風圧で切られたらしい髪の束がひとふさ落ちたのを見て顔をしかめた。
 みたび爆音。帆船からの砲撃である。レイザークがデュランダルを構えたが、船員が間合いを詰めたために剣を振るうことができなくなってしまった。無理やり振り上げることはできるが、余裕で人間をまっぷたつに裂けるしろものだ。レイザークが舌打ちをした。術法を載せるには間に合いそうもない。
「心正しき者の盾となりたまえ!!」
 レイザークが物理障壁を構築する呪文を詠唱する。船の手前に緑色の光が炸裂し、強固な防壁を築き上げた。砲弾は物理障壁に阻まれ爆発し、水しぶきをあげたために、甲板にいた人間全員が海水を頭から浴びることとなった。
「くそ! きりがないぞ」
 レイザークが派手に毒づく。何人かを殴り倒したセテがレイザークと背中合わせになった。男たちは砲撃にも怯むことなく、徐々にセテとレイザークとの距離を縮めてきていた。
「かまわん。斬れ。何人か血を見れば頭も冷えるはずだ」
 レイザークが平然と言い放つので、セテは驚いて彼を振り返る。
「しかたあるまい。俺は砲撃を防ぐのでいっぱいで手が放せん」
 家事でも手伝えと言わんばかりにさらりと言ってのけるレイザークに、セテは身震いを覚えた。聖騎士なのだ、戦士なのだこの男は。以前、アジェンタスの地下でコルネリオの手下の術者に囲まれたときのスナイプスの言葉を思い出す。おそらくスナイプスも、そしてレイザークも、危害を加えようとする人間を前にしたら斬って捨てることができるのだろう。
 セテは腰のベルトに挟んだ蒼月に手をかけた。だがどうしても鞘から抜く気になれない。向こうは多勢に無勢といえ、丸腰の生身の人間なのだ。
「くそ……!」
 目前に迫る男たちを睨みつけながらセテは歯を食いしばる。そのときだった。
「不知火を抜け! 天にかざせ!!」
 空気を切り裂くような鋭い声が響き渡った。男たちの注意が一瞬それる。その隙を見逃さないように、セテは腰の短刀・不知火を抜いて頭上に掲げた。
 一瞬の雷光。腕がしびれたが、セテはそのまま両手で柄をしっかりと掴む。不知火の刃が光を帯び、その光が膨れ上がったかと思うと、周囲の空気が巻き上がるようにして風圧が起こった。男たちの身体は稲光に弾かれるようにして数メートル後退し、おのおの柱に頭をぶつけたり仲間の下敷きになったりして倒れて動かなくなった。最後に風がひと吹きしてセテの脇をすり抜け、男たちの身体の上を駆け上がっていった。
 腕がしびれて動かない。セテは不知火の柄を握ったまま、腰が抜けたかのように膝をついた。
「ふん。せっかくくれてやったのに、活用もできないなんざお話にならねえ。感謝しろよな」
 生意気そうな声がするので、セテは声の主を睨みつけた。ヨナスが甲板に上がる階段から顔を出していた。
「その顔じゃ、どうせ今回のことは俺の仕業だとでも思ってたんだろうけど」
 ヨナスは軽い足取りで階段を駆け上がり、甲板に踊り出た。彼の幼い顔立ちを縁取る黒髪が海風に吹き上げられる。
「術法ってのはな、巨大な大砲みたいなもんなんだよ」ヨナスは偉そうに腰に手を当て、セテを見下ろしながら言った。
「殺傷力が高すぎて、いまみたいな距離だと敵も味方も巻き込んで大バクハツ、使いドコロが悪いんだ。んで、お前にくれてやった不知火は術法を中継しやすくなってる。直接、術法を載せるには小さすぎるけど、ごく最小範囲に術法を展開するのにうってつけなようにできてるんだ。不知火ってのは大昔、海でよく見られた光の蜃気楼みたいなもんだそうだ。海面に映った漁火が光の異常屈折を受けて明滅するんだそうだが、外部からの影響で威力を発揮するその短刀の能力を如実に表してると言えるな。ま、覚えておけよ」
 ヨナスがまくしたてたのだが、セテはいまだ理解できそうにない。とりあえず少しだけ頷いてから、
「いままでどこに」
 いまだ力が入らないので頼りない声を出した。
「右舷は制圧した。こちらからの砲撃は止めたが、あとは操舵室と」
 ヨナスはそこで言葉を切り、海のほうに指を立てる。
「アレ、だな」
 セテがヨナスの指差す方角を見れば、帆船はもう目の前だった。巨大な三本のマストにかけられた帆、そのひとつには禍々しいドクロが描かれており、そして右舷の砲門はいつでもこちらを狙い撃ちできる状態であった。この距離で砲撃されれば確実に撃沈だ。
「あらら。こりゃ向こうさんも完全に頭に血がのぼってるな。こっちから攻撃したんだから仕方ないけど」
 ヨナスが他人ごとのようにそう言うので、レイザークが背中で舌打ちをする。
「おい。何が起きてるんだ、説明しろ」
「まったく。こんな邪気に気付かないなんて、たいしたタマだぜ。俺はどうやら人数に入ってなかったのか、まやかしから取り残されていただけなんだろうけど」
 横柄な物言いをするレイザークに対して怒るでもなく、まだ他人ごとのように馬鹿にした様子でヨナスは大げさに肩をすくめた。
「邪気だと?」
「船内の空気がおかしかったから軽く走査《スキャン》してみたんだが。邪気がどんどん伝染して、当てられた連中が操り人形みたいになってる。その中心にいるのが、あの娘だ」
「アスターシャ?」
「違う。救世主の娘っ子のほうだ」
 サーシェスか──!? セテとレイザークは顔を見合わせた。
「それよりアレ、なんとかしたほうがいいぞ。やっこさん連中、殺る気マンマンでこっちを睨んでるぜ」
 悠長にヨナスが指をつきつけた先では、目前に迫った海賊船の甲板で、手に手に得物を持った男たちがこちらを見据えていた。口々に鬨の声をあげ、こちらを威嚇したり挑発している。この距離では自分たちの船も跳弾で影響を受けるためか、砲門が火を吹くことはないようだったが、このまま接近して移乗攻撃を仕掛けるつもりなのだろう。
「あれが海賊か。悪そうなツラァしてやがる。だけどもう俺、疲れたわ」
 セテが大きなため息をついてつぶやいた。
『レイザーク! こっちからの攻撃はやめろ!』
 伝声管からジョーイのがなり立てる声がした。レイザークは伝声管に駆け寄り、
「ジョーイか! 無事か! 右舷は制圧済みだ! だが海賊船が」
『攻撃はするな! 味方だ!!』
 レイザークもセテもヨナスもしばし言葉を失い、互いの顔を見合わせた。
『ああもう! 今からそっち行くからちょっと待っ……うわあ!!』
「おい! どうした! ジョーイ!!」
 爆音とともに船が大きく傾いだ。小さなヨナスの身体はレイザークに体当たりする形となり、踏みとどまっていたレイザークを押しのける。見れば、こちらの船の船首が吹き飛ぶのが見え、何人かの船員の身体が海に落ちていくところであった。外からの攻撃ではない。内側からの爆発にも似た力の働きによるものであることは、一目瞭然だ。
「今度はなんだ!!」
 いらついたレイザークがデュランダルを担いでドタドタ走る。セテとヨナスもそれに続くが、煙を上げる船首から巨大な光の玉が膨れ上がるのが見えたかと思うと、再び大きな衝撃波に押しとどめられてしまった。光の玉は尾を引いて中空を二、三度回転し、ぴたりと止まった。光の玉かと思われたのはその周囲を覆う光の輪があるからであって、中心には人の形。銀髪の幼い少女が空中で静止し、二隻の船を見下ろしていた。
 サーシェスの小さな身体の周りに、神聖語が光の奔流となって渦巻いている。海賊船の連中からも驚きの声があがるのが聞こえた。
「ヤバイぞ、すげえ力が圧縮されてる」
 ヨナスが言い終わるやいなや、空気がたわむ気配。強烈な術法が展開される直前に、敏感な人間なら感じ取ることのできる空間の歪みである。急激に周囲の大気を吸い上げ、それが極限まで集中し、膨張、一気に力の奔流となってはじけ飛ぶ。海面を割り、解凍された術法が水柱となって船に襲いかかった。横倒しになるかと思うような衝撃が船全体を覆う。甲板の板が外れ、弾かれ、砕かれ、一行を襲ったが、間一髪のところでレイザークとヨナスの物理障壁がそれを阻んだ。
「サーシェス! やめろ!!」
 セテが叫んだがその声が届くわけもなかった。サーシェスは次々と光弾を放ちながら愉快そうに笑い転げていた。
「笑ってる……?」
「よせ、聞こえやしない」
 ヨナスがセテを押しとどめた。
「アヴァターラの分裂ってことか?」
「こんな邪悪な気が集中してるのも分からないのかよ。本人は眠ってる。傀儡状態だ」
「アートハルクか?」
 アトラスを引き取りに来たあのランデールとかいう男の仕業だろうか。相当な力の持ち主だとは思っていたが。
「さてな。おい、おっさん」
 ヨナスにおっさんと呼ばれてレイザークはたいそう不機嫌な様子だったが、ヨナスはおかまいなしだ。
「ちょっと障壁に集中しててくれ。こっちは準備する。おい、蒼月を寄越せ」
 今度はセテに腰の蒼月を手渡すように指示する。不承不承、セテはヨナスに蒼月を預けた。
「蒼月ってのは青い月を指す言葉だそうだ。月ってのはまんまるじゃない。日によってその姿を変える。満月、半月、三日月、新月、球体なのに太陽光とこの星の自転の影響を受けて、見るたびに形が変わる。蒼月にもそういう特性があってだな」
 ヨナスは蒼月を鞘から抜き払うと、柄を握ってなにやら小声で呪文らしき言葉を詠唱した。刀身が光り輝いたかと思うと見る間に細くなり、蒼月のもとの刀身よりもはるかに長く伸び始める。セテが目を丸くしたまま口をぱくぱくさせるのも無理のないことであった。あろうことか、剣の形をしていたはずのそれは、大人の身長もあるほどの槍に変化していたのだった。
「土の一族にかかれば、ざっとこんなもんよ」
 ヨナスは得意気に胸を張り、槍に変化した蒼月をセテに手渡した。
「そ、それ、どうやんの?」
「お前にゃまだ無理だ」
 言われて、セテがつまらなそうに鼻を鳴らした。
「槍投げは得意か?」
「剣士にだって得手不得手はある」
 セテはうらめしげにヨナスを睨みつけたが、
「だろうな。だがやってもらう。蒼月には破邪の力がある。いま〈気〉の力を込めた。それを救世主に投擲しろ」
「無茶な!」
 自分の腕で中空のサーシェスにまで到達させられるかという不安と、万が一にも成功したとして、サーシェスの身体が傷ついた場合の恐怖であった。
「無茶でもやれ。でなきゃこのまま全員、海の藻屑だぞ。彼女の身体には影響ないし、俺が術法で補助する。俺の合図で投擲するんだ」
「いいから早くやれ! 障壁がもたん!!」
 レイザークの泣き言でセテは決意する。左手で蒼月を握りしめ、足を開いて踏み出しの構えを取る。左足を後ろに引いて重心を預け、いつでも助走をつけて投擲できる体勢を整えた。
「いち……にの……」
 ヨナスがゆっくりと数を数え始めた。セテは二が数えられたときに渾身の力を込めて左足を蹴る。
「行けえッ!!」
 圧力でたわんだ金属がもとに戻る音とともに蒼月が光の矢さながらに空気を切り裂いた。弧を描いて落ちると思われた槍は、術法の威力で加速し、光り輝く尾を引いてまっすぐサーシェスに向かって飛んだ。術法を展開しようとしていたサーシェスがそれに気づき、腕を差し出した。サーシェスの構築する物理障壁に蒼月が垂直に衝突。すぐに跳ね返されると思われたが、槍の切っ先は壁に刺さるがごとく防御壁《シールド》に食い込んでいる。サーシェスの表情に苛立ちがありありと浮かんだ。念動力で跳ね返そうとしているのだろうが、槍は障壁を押しつぶすように突き進んでいる。
「すごい、障壁を押しとどめてる」
 どうせヨナスは自慢げな表情をしていたに違いないので、セテはヨナスのほうを見ずにそう言った。だが、槍はぐいぐいと障壁とサーシェスの身体との距離を縮めており、彼女の表情が苦悶に歪む。先端がサーシェスの身体のすぐそばまで迫っているのに蒼月の威力が落ちないことに気付いたセテは、ヨナスの胸ぐらを掴んだ。
「おい! このままじゃ串刺しだぞ!」
「まあ見てろって」
「ふざけんな!」
 ガラスの弾けるような音で、セテはヨナスの胸ぐらから手を放した。あろうことか、世界でもっとも堅牢であろう救世主《メシア》の防御壁《シールド》が破られたのだ。砕け散った防御壁は金色に輝く光の粒子となって中空に溶けていく。そして防御を突破することに成功した蒼月は、サーシェスの額をまっすぐに貫いていた。
「サーシェス!!!」
 セテは叫び、駆け出していた。サーシェスの小さな身体がまとっていた光の輪が消え失せ、ふいに重力の影響を受けて自由落下を始める。
「おい! 馬鹿! 落ちるぞ!!」
 レイザークが叫んだがあとの祭りだ。セテは崩れた船首から身体を踊らせていた。ふたりの身体は大きな水しぶきを上げて海に落下していた。
「くそ! セテ! あの馬鹿野郎が!!」
 レイザークが駆け出そうとしたときだった。顎の下にひやりとする感触を覚え、レイザークは足を止めた。剣だ。剣の根本を目で追うと、その先では険悪な表情の男がレイザークを睨みつけていた。周りを見れば、甲板に板を渡して乗り込んできた海賊船の男たちにすっかり囲まれているところであった。
「ジョーイのヤツめ、さっきなんて言ってた」
 レイザークは毒づき、戦意がないことを示すために両手を頭の上に掲げた。ヨナスもそれに習って両手を頭の上で組む。
「それよりこの船、沈み始めてるんだけど。俺、泳げないんだよね。責任とれよな、おっさん」
 ヨナスが恨めしげにそう言った。

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