第三十話:忘れ得ぬ傷

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 なんという暗澹、静寂。
 これほどまでに水が人を拒絶するものとは思わなかった。やたらに塩辛い水は喉を焼き、目の粘膜を容赦なく攻撃するために目がしばしばする。水面からわずかに潜っただけであっという間に光が遮断され、驚くような冷たさに身を切られる。
 夢中で足掻き、腕を動かせば目の前が晴れるのではという錯覚に陥りながら、セテは重い海水をかき分けて潜った。闇に沈んでいく小さな身体を追いかけて。
 意識がないために抵抗のなくなった銀髪の少女の身体が沈む速度を落とし、ゆっくりと水の中で浮遊している。その彼女の周りに、泡が淡い光の輪のようになってまとわりついている。セテは両足に力を込め、両手で大きく水をかきながら手を伸ばした。
 彼女の身体に触れられるまでの距離はおよそ六、七メートルだろうか、せめて彼女の服の裾だけでも掴みたい。そう思いながら、セテは必死に水を蹴る。両足に水が絡みつき、うまく動かすことができない。魔物に足の自由を奪われているような、そんな錯覚さえ現実のもののように思えてしまう。
 ようやく伸ばした指先がサーシェスの服の裾に触れ、腕にまとわりつく水を払いのけるようにして彼女の身体を引き寄せる。幼女の身体は水の中にあってたいそうな重量を増し、セテは渾身の力を込めて彼女の小さな身体を抱きしめた。冷たい皮膚が触れ合い、互いの体温すら水の中では感じることができない。
 静寂の中で誰かが笑っているような声が聞こえ、セテは心の中で毒づいた。
 幻聴だ。水の中で笑う人間などいるわけがない。
 だがしかし、セテは急激に意識が遠のくのに気付いた。体温が急低下したためであった。川遊びならともかく、ここは大海原のど真ん中だ。水温は低く、少し潜っただけでも光を遮るなかにあって、生身の人間が体力をそう長く温存できるわけもない。
 ──こんなところで……!
 セテは歯を食いしばった。だがそこまでであった。浮上しようにも身体がかじかんでうまく動かない。息苦しさに根負けして口の端から空気が逃げていくのを止められず、セテは息苦しさに頭上を仰いだ。自分にできることがここまでであることをセテは確信せざるを得なかった。
 見上げた視界に、セテは言葉を失う。なんという光景だろう。陽の光があんなに遠く、懐かしいものに見えるとは。
 恐ろしさは感じなかった。ただ、海がこれほどまでに美しいとは思わなかったのが意外だった。淡い光の輪が遠く頭上でゆらゆらと煌めく様は、酸素不足で視界のはっきりしなくなった頭が見せる幻影かもしれない。だが、そこに沸き起こる不思議な感情、幼い頃に何度も遊んだ川でも感じたことのない、憧憬にも似た思いは確かなものだった。
 いまを生きる人々にとっては、海は二百年前の汎大陸戦争で大陸のほとんどを飲み込み崩壊させた忌むべきものであり、また沈んだ都市の瓦礫や汚染物質などが危険であるとして、中央では一般人がみだりに近づくことを禁止していた。人々が海に触れることはまずなく、セテも知識として知ってはいたが生まれて初めてのことである。それなのに、なぜこんなにも懐かしく感じるのか。
 本でしか知り得ることができなかったが、海はすべての生命の母なのだとセテは思い返した。なるほど、懐かしいぬくもりを感じるのは、母の腕に抱かれているからなのだ。人間が肺呼吸をするように進化したから苦しいだけで、いま自分は母なる海に還ろうとしている、ただそれだけのことだ。
 それを感じたことで、セテは呼吸ができない苦しさも溺れることへの恐怖も吹き飛んだような気がした。
 セテは少女の身体を抱きしめた。遥か上空からわずかに降り注ぐ光が泡となって、サーシェスの銀色の髪を滑る。銀の糸のような髪が青みがかって、海の水に溶けてしまいそうに思えた。その髪を手繰ってたどり着く小さな額には、槍と化した蒼月《そうげつ》が鈍く光っている。少女の眉間から脳天まで無惨に貫いているのに、恐ろしさも憎しみも感じられなかった。神々しさと、わずかな淫靡ささえ覚える。なんという不謹慎な感情だろうか。セテは愛おしげに少女の髪に指を絡めながら、せめてもう少しでも太陽が降り注ぐところまで戻れさえすれば、このまま海に溶けてしまってもいいと考え始めていた。
 そのとき、セテは自分の身体が唐突に引き揚げられる感覚を覚えた。わずかな衝撃。音のない世界からの脱出。刺すような陽の光。空気の気配と背中には固い木の床の感触があり、何人かの男たちの声が騒がしくなにかを叫んでいる。
 セテは濃厚な酸素を求めてあえいだが、激しく咳き込んでそれもままならない。体温が急に息を吹き返したように上昇していくのがわかる。
 誰かが身体を仰向けにして肺のあたりを何度も力強く押したので、セテは海水を大量に吐き、また激しく咳き込む。うっすら開けた目で確認できたのは、自分が小舟の上にいることであった。自分のすぐ横には、銀髪の幼い少女の身体がある。咳き込みながらもセテは隣で仰向けに寝かされているサーシェスに誰かが手を触れようとしているのを見て、飛びかかるようにしてそれをはねのけた。
 少女はやはり意識を失っていた。その額には光り輝く蒼月が突き刺さったままであった。とっさに蒼月を抜こうと手を触れると蒼月は一瞬強く輝き、消えた。確かに槍に姿を変えてサーシェスを脳天まで貫いていたはずだったが、額には血の跡どころか傷跡すら残っていなかった。
「どけ! 水を吐かせる!」
 屈強な男が辺境なまりの言葉でそう言い、セテを押しのけた。サーシェスの小さな胸のあたりを何度か押すが、わずかに水を吐き出しただけだった。
「気を失ってたのが幸いしてあまり水を飲んではいなかったようだな。呼吸はしている」
 周りにいた男が、また辺境なまりの強い中央標準語でセテにそう言った。さきほど蒼月が彼女の頭を完全に貫いていたのに、それに言及する者はいない。あれほど深々と突き刺さっていたのに、誰も気付かなかったのだろうか、そんな馬鹿な。
 ガクンと小舟が揺らいだのでセテが我に返ると、船はロープで帆船に引き揚げられるところであった。強い日差しを受けて雄々しく帆が輝き、小舟から見上げればまるでアジェンタス連峰の絶壁のようにも見える。そして、その船体甲板からは何人かの男たちが見下ろしているのが見えた。日焼けした肌に鍛え上げられた筋肉が眩しい。剣士とはまた別の、戦う男たちの姿であることを確認したセテは身を固くした。
 甲板まで引き揚げられると、セテは軽く突き飛ばされて甲板に飛び移らされた。ずらりと屈強な海の男たちが小舟を取り囲んでおり、見れば人垣の中央でレイザークとヨナスも同様に拘束されている。別の男がサーシェスを小脇に抱えて降りてきて彼女を甲板の床に寝かせ、それからサーシェスの両腕を後ろ手に縛り上げた。
「おい! 彼女に触るな!」
 セテは男に食ってかかろうとしたが、後ろにいた男に肩を掴まれてそれもままならなかった。
「ちょ、ちょっと! ちょっと待ったあーーーッ!!!」
 男たちの後ろから焦りに焦った叫び声がする。人をかき分け転がるように飛び出てきたのはジョーイであった。
「待ってくれ! 彼らは俺の友人だ! 敵意はない! 拘束を解いてほしい!」
 ジョーイの言葉に海の男たちがざわめく。男たちの中からさらに長身の男が進み出てきたので、人垣が彼を敬うようにして引いた。年は三十半ばだろうか。無造作に束ねた黒髪が、日焼けして黄金に輝く肌によく映える。野性の獣のようなしたたかさと強靭さを併せ持つ、この船の主に違いなかった。
「ジョーイか?」
 男はジョーイの姿を認めて尋ねた。ジョーイは見知った顔が出てきたためかようやく顔を綻ばせ、再会を祝福しようと両手を広げて男に小走りで近寄った。だが。
「ジョーイ!! このクソ野郎が!!」
 男はいきなりジョーイの顔に拳を付き出し、駆け寄ってきたジョーイの身体は勢いがついてたいそう激しく殴り飛ばされるはめになった。
 長身の男は腕組みをしてジョーイを見下ろしている。古代の厳《いかめ》しい戦士を模した彫像のようであった。ジョーイは殴られた顎をさすりながら、何がなんだか分からないといった顔をして男を見上げたままだ。
「てめえには一年ほど前に貸しがあったよなぁ? てめえのホラのせいで俺たちがどんな目に遭ったか、知らねえとは言わせねえ」
「いや、ホラじゃなくてあれはちょっとした行き違い……」
「詐欺みてえなもんだろうが!! あのあと中央の軍艦と追いかけっこでたいそうな迂回をするはめになった。挙句に今日のコレだ」
 男はジョーイの胸ぐらを掴んで立たせ、そう怒鳴った。
「これには深いわけが」
「てめえが乗ってても撃沈させるべきだった。てめえみたいな疫病神はいますぐ鮫どもの餌食にしてやってもいいんだぜ?」
 男がそうすごんだので、レイザークがいきり立ったが、後ろ手に縛られているのを引っ張られそのまま床に跪かされてしまう。しかし当のジョーイは怖がるどころか愉快そうに笑みを浮かべたまま、
「そんなおっかないこと言わないでよ、お兄サマ」
「お兄サマだあ!?」
 声を荒らげたのはセテとレイザーク、ヨナスであった。
「そ。これ、うちの兄貴」ジョーイはいまだ胸ぐらを掴まれたまま、セテたちを振り返る。
「なに。その顔」
 ジョーイは仲間たちの顔を見ながら不思議そうに口をへの字に曲げた。
「てめえに兄貴呼ばわりされる筋合いはねえ」
 ジョーイの兄と呼ばれたその男は、ジョーイの身体を突き飛ばすようにして胸ぐらから手を離した。ジョーイが困ったように肩をすくめた。
 なるほど、黒髪に浅黒い肌といい顔の表情といい、よく見ればたいそう雰囲気の似たふたりである。兄のほうは野趣あふれる海の男という感じだが、中央に出入りしているジョーイが多少、洗練されたところが見受けられる程度か。
「とりあえず、その娘の身体は拘束させてもらう。てめえの友人とかいうそのデカブツとちっこいの、あと、この気の強そうな坊や、あんたらの身元についても調べさせてもらおう」
「サーシェスの拘束は解いてくれ。彼女は意識がないうえに術法を使い果たして困憊してるはずだ」
 セテが男に食いつくようにそう言うと、
「なおさらだ。さっきのように術法を暴発されたらかなわん。術法封じも施させてもらう。そうでなきゃ、船からたたき落とす」
 冷たく男が言い放ったので、セテはぐっと言葉を飲み込んだ。男の言うことももっともなことである。またサーシェスが目を覚ましたときに暴れない可能性はないのだ。その原因はまったく不明であるが、この船まで沈むことになってしまってはかなわない。
「叩き落とす、ねえ……。兄貴、そんな短絡的思考じゃ損するぜ」
 そう言ったのはジョーイであった。兄が睨み返すが、
「彼女、手元に置いておくほうがいいと思うよ。なんせあの、救世主《メシア》なんだからさ」
「おい! ジョーイ!」
 セテが割って入るが、船の男たちのざわめきがさざ波のように広がっていく。言われたジョーイの兄も少し驚いたようだった。だが、努めて平静を装っているようで、その声は一段と低くなった。
「……寝言は寝て言え」
「寝言かどうかは、こっちの友人たちに聞いてみればいい。そのでっかい旦那は聖騎士《パラディン》だし、そこの金髪のオニイチャンは中央特使、そこのちっちゃいのは土の一族の長だしね」
 ジョーイがさらりと身内の身元を暴露してしまう。再びざわめきが起こった。ヨナスが「ちっちゃい」と言われたことにたいそう憤慨したが、ジョーイの兄は腕組みをしたまま紹介された三人を値踏みするように睨みつけている。彼の後方で、わずかに得物に手を掛ける仕草を見せる男たちの姿もあった。
「聖騎士に特使だと? 大捕り物でもしに来たか」
「別に兄貴たちを捕まえにきたわけじゃない。だけど、返答次第では聖騎士団と中央特務執行庁を敵に回すことになるだろうね。土の一族の長もいるし。こちらも任務というわけじゃないが、その理由もなにもかも、拘束を解いてからだ」
 聖騎士団と中央特務執行庁を敵に回すなどとはもちろん口から出任せである。いずれも中央から追われる身。だが、相手はその事情を知る由もないので、ここははったりでもジョーイに任せておくほうがよいだろうと、レイザークもセテも特に口を挟むことはしなかった。ただ、セテはいま特使の身分を証明する殺人許可証は携帯していないし──そもそも光都を脱出する際に携帯し忘れている──、レイザークに至っては、聖騎士の身分証明書を持ち歩いているところなぞ見たこともないし、ましていまは聖騎士の正装である銀の甲冑や、マントをとめる三本の矢を掴む鷲の紋章ブローチも身につけていないので、いつもどうやって身分を証明しているのか謎である。
「てめえが言うからには厄介事のはずだろうが」
 ジョーイの兄は忌々しげにため息をついた。
「だがとりあえずは陸に上がってからだ。海でまたなにか起こされてもかなわん。港までご同行願おう。ご友人らの拘束は解くが、そこのお嬢ちゃんは術法封じを保険代わりに施させてもらう」
 セテとヨナスはレイザークを仰ぎ見る。ジョーイもだ。
「分かった。従おう」
 レイザークがそう言うと、ジョーイの兄が配下の者に目で合図をし、レイザークとヨナスの拘束を解かせた。セテはほっとひと息ついたのだが、
「それより、アスターシャとベゼルは!?」
 セテはすぐに険しい表情に戻り、ジョーイに尋ねる。船の中での大混乱の詳細はあとで聞くとして、彼女たちの姿が見えないのはどういうことか。
「うん。無事だよ。俺と一緒にちゃんと引き揚げてもらった。いま船室に寝かせてある。なんせあっちの船、曳航するにももうほとんど沈んじゃってしかたないから、乗組員全員こっちに引き揚げてもらったんだ」
 ジョーイは乗ってきた船を親指で指し示す。鼻先にたいそうな大穴を開けられ、サーシェスの術法攻撃によってひどく痛めつけられた船は、船首からゆっくりだが浸水し、沈み始めていた。もうまもなくすれば船体が前後まっぷたつになって完全に沈没してしまうだろう。
「多少の怪我人はいるけれども、ほぼ全員が無傷だよ。俺も手が回らなくてさ、そしたら元気なお姉チャンが彼女たちふたりを助けるのを手伝ってくれて」
「お姉チャン?」
「兄貴の部下かな。やたら身軽で手際よかったから助かった」
 ジョーイがそう言ったので、兄が振り返る。
「女だ? なに言ってんだ。この船に女なんか乗せるわけないだろが」
「え!? じゃあ見間違えたのかな。おかしいな、髪の毛は短かったけどオッパイがちゃんとあったし」
「女日照りすぎて頭おかしくなったんだろ」
 兄が吐き捨てるようにそう言った。
「ま、そんなわけで」
 ジョーイがいつもの調子づいた口調で言い、パンと手を叩いた。
「一年ぶりの再会だし、道中よろしくネ! お兄サマ!」
 ジョーイの兄だけでなく、セテたち一行や周りで見ていた乗組員たちも顔をしかめたり肩をすくめながらため息をついた。



 ジョーイのおかげでとりあえず剣呑な状況は避けられたものの、それでもセテたち一行とジョーイの兄の船乗りたちとの間には不穏な空気が流れたままであった。どちらかといえば、乗組員たちのほうが一方的にセテたちを強く警戒しており、中にはあからさまな敵意をむき出しにする者もあったが、一触即発になるのを意識して押さえ込んでいるという状況である。
 無理もない。砲門を開いて攻撃をしかけたのはこちらだし、ましてサーシェスの謎の暴走により船が大破したのを目の前で見たとあっては、たとえ船長の弟──ジョーイの兄は確かにこの船の船長であった──といえども信用ならないはずであった。
 レイザークはセテを伴って、この船に引き揚げられた船員たちを見舞って回った。営倉で雑魚寝を強いられている有様ではあったが、ジョーイの言うとおり確かに多少の負傷者がいたものの、ほとんどはピンピンしている。途中、セテを襲った見張りの乗組員の姿もあり、さすがのセテも少し及び腰であったが、本人はその前後のことをまったく覚えておらず、彼がセテを手込めにしようとしたなどとレイザークが茶化して彼に話して聞かせると、彼は土下座──レイザークによれば旧世界《ロイギル》の古いしきたりで詫びを意味するのだというが──をしながら平謝りにセテに自分の蛮行を詫びた。仲間の話によれば、彼はたいそう腕利きではあるが家族思いで仲間思いの気のいい奴だということで、どうしてそのような行為に及んだのかはさっぱりだという。
 続いてレイザークとセテは、サーシェスが軟禁されているという船室に向かった。積み荷を監視する乗組員の詰め所で、他の船室から離れているどころか、寝泊まりできる船室ですらない作業部屋のような狭い場所である。もちろん船底に近く、外を見ることもかなわない。
 セテは近づくにつれて肌がピリピリ刺されるような感触を覚え、顔をしかめた。レイザークを仰ぎ見れば、同じような感覚を感じているらしく、少し眉間にしわが寄っているのが見えた。セテの視線に気づいてレイザークがじろりと彼を見返した。
「お前も気づくほどってことは、相当な結界だなこりゃ」
 おもしろくもないのにレイザークがそう言って鼻を鳴らした。
 レイザークの言葉は的中した。サーシェスが軟禁されている部屋の周りには、幾重もの緑色に輝く立体魔法陣が構築されており、ときおり白い火花がはぜ、不気味なうねり音をあげている。この船にこれほど立派な魔法陣を築くことのできる術者がいたとは思えないのだが、そのとき扉が開き、中からヨナスが姿を現したのだった。
「ヨナス、お前か」
 レイザークとセテが同時にそう呟いたので、ヨナスは少しだけ得意そうな顔をしてニヤリと笑い、顔を縁取る肩くらいまでの黒髪を大人っぽい仕草でかきあげたあと、後ろでひとつに結び直した。
「一応、誠意を見せておこうと思ってね。こちらに敵意はなく、術法の暴発による不慮の事故だったことを証明しておかないと」
 彼の言葉が終わらないうちにセテはヨナスを押しのけ、部屋に飛び込んだ。
 サーシェスはそこにいた。だが、目隠しをされ、両手両足には枷《かせ》がはめられており、複雑な文様の描かれた緑色の魔法陣の中に座らされている。両手足の枷には魔法陣と同じく緑色の光がまとわりついており、それが術法で封印されていることを物語っていた。
「彼女は囚人じゃない!」
 セテはヨナスを怒鳴りつけるが、
「彼女の意識はない。偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》が多重人格である以上、本人の意志とは関係なく暴れ出す可能性がある。さっきみたいにね。これは、俺たちの身の安全を確保するために必要な策だ」
「意識がない……だと?」
 セテはヨナスの胸ぐらを掴んでいた。
「サーシェスの意識が戻らないのは、蒼月が彼女の頭をぶち抜いたからだろうが!」
 ぐいとヨナスの胸ぐらを掴み上げて怒鳴るが、掴んでいた腕を火花が襲ったのでセテはヨナスから手を放さざるを得なかった。痛みと悔しさで悪態をつくセテをヨナスは冷ややかに見つめ、
「頭を冷やしな。救世主の意識がないのは元からだ。意識がないから邪《よこしま》なものに取り憑かれた。それが俺たちの船全域に広がって悪意の伝染病みたいなもんを引き起こしたってわけだ」
 ヨナスは魔法陣の中にズカズカと入っていき、その中央に座っているサーシェスの額に手を当てて彼女の前髪を押し上げた。
「見ろ。傷跡なんかないだろが。あの槍は蒼月の破邪の力を具現化したものだ。蒼月の力が彼女を支配していた何かを打ち破ったが、その代わり、この娘の中身はすっからかんさ」
「すっからかんだと!?」
 セテがいきり立って魔法陣に近づくが、鋭い火花が上がって押し戻され、近づくことができない。
「俺の作った封印だ。火傷したくなかったら離れてな」
 ヨナスが馬鹿にしたような顔でセテを振り返った。
「もっとも、この封印だって本当に救世主に効くかどうか、いつまで持つかは分からんけどな」
 ヨナスが肩をすくめた。軽口を叩いているように見えるが、少しだけ焦りのような表情が見え隠れしているのが見て取れた。
「どういうことか説明しろよ。なんでサーシェスがすっからかんなんだ。それに邪な……」
 コンコン、と壁を叩く音がしたので、セテとヨナスが振り返る。ジョーイの兄とジョーイ、その後ろにアスターシャとベゼルの姿があった。
「お嬢さんがたをお連れしたぞ。どうしてもと言うんでな」
 ジョーイの兄が後ろにいるアスターシャとベゼルたちに向けて顎をしゃくった。セテの視線が自分に注がれるのに気づいたアスターシャの身体が、びくりと震えた。
「アスターシャ、ベゼル、ふたりとも無事で……」
 セテはそう声をかけたのだが、内心複雑な気分であった。アスターシャがサーシェスを切りつけたのが発端のような気がしたからであった。そして、親友であるはずの彼女がサーシェスを傷つけたことも許せる気分にはなかった。アスターシャはそうしたセテの気持ちを敏感に感じ取ったのだろう。目を逸らし、身体を引いて背を向けようとした。
「だめだよ、セテ、彼女だって何も覚えていないんだ。他の連中と同様、その〈邪なもの〉ってヤツにいいようにされた被害者なんだよ」
 ジョーイがアスターシャの肩を抱きかかえるようにして彼女を向き直らせ、セテに珍しく厳しい視線を送る。
「……ごめん。そういうつもりじゃ」
「ごめんなさい……本当に……私……」
 アスターシャが呟くようにそう言ったが、セテにはかける言葉も見つからなかった。
「私のせいなの……? サーシェスが……こんなふうに……まるで囚人みたいに……」
「オレ……オレも……。ジョーイにひどいこと言ったみたいで……。本当にごめん。でも全然覚えてないんだ。サーシェスと何を話したかも。でもこんなことになったのもオレの……」
 横からベゼルの小さな身体が躍り出て、深々と頭を下げた。
「違うよ、お嬢チャンやお姫サンのせいじゃない。サーシェスのお嬢チャンもなにかに操られていたんだよ、きっと」
 ジョーイが優しくベゼルの頭をなで、それからアスターシャの肩にぽんぽんと手をおいてなだめたが、アスターシャの顔色は青白く、唇は震えていた。
「だいたいの話はジョーイから聞いた。まだ半分も信用したわけじゃねえが……」
 ジョーイの兄が割って入ったので、その場の全員が凍り付いていた空気が氷解したような気分になれた。
「ヴィンスだ。ジョーイが世話になったことについては礼を言わせてもらおう。だが」ヴィンスはそこでいったんジョーイを睨みつける。
「損害賠償と救護活動の費用についてはジョーイと、ああ、あんた、聖騎士《パラディン》だっけかな、あんたとも後でじっくり話をつけさせてもらおうか。こちらも慈善活動をしているわけではない」
 鋭い眼光でギロリと睨まれたレイザークは強面のままであったが、仕方なさそうに小さく頷き返した。
「しかし……」
 ヴィンスは海の男らしい鍛え上げられた腕を組み、難しそうな顔をして拘束されているサーシェスを眺めた。
「これが救世主《メシア》とはな……。復活していたなんざ夢にも思わなかったが、まさか生きている間にお目にかかるとも、こんな小さな子どもだとも思わなかった」
 少し小馬鹿にしたような口調であったが、さげすんでいるわけでもなさそうであった。
「伝説の具現化に立ち会うなんてけっこうな話だが……だが厄介事には変わりない。面倒はごめんだ」
「いや、ヴィンスには迷惑をかけないって。ただちょっと力を借りたいだけだから」
 ジョーイが慌ててそう言った。どうもヴィンスという男は慎重派らしい。
「長老と話をしてから言え。〈水の一族〉との同盟を結びたいそうだな。確かに俺たちは〈水の一族〉の末裔だが」
「そうそう。兄貴には口添えをお願いしたいんだ」
「それも長老の判断だ。末裔といってもその能力は代々薄れてるし、俺たちが理解できて協力できることなんざほとんどない。そもそも、〈水の一族〉を名乗れる者がいないのはお前だってよく知ってることだろうが」
 セテとレイザークはジョーイをじろりと睨む。
「……まさかお前、口から出任せを……」
 レイザークに睨まれたジョーイは慌てて弁解すべく両手を大きく振ってそれを否定した。
「いや、出任せなんかじゃないって! ただちょっと、彼らは俺たちとは接触したがらないというか」
「長老ってのがいるんだろうが」
 レイザークが頭をかきながらいらついた様子でそう言った。
「長老って言ったって、ただの長生き婆さんだよ。〈水の一族〉の長の声をたまに聞くことができる、中央で言うところの霊能者みたいなもんかな」
「死んでるのかよ!!」
 セテとレイザークが同時に叫び、そして同じような仕草で額に手を当てて大きなため息をついた。
「死んでいるわけじゃねえ。俺たちの住む世界とは別の世界に住んでると言ったほうが分かりやすいかもな。なんだ、虚数空間? 結界? とかなんとか言ったか、こちらとは別次元に引っ込んでいて、外界との接触をほとんど拒んでる。彼らの声を聞くのもこちらの声を届けるのも、長老がひとりで受けてるわけだ」
 ヴィンスの言葉に、セテは大きなため息をついた。
「じゃあ、本物の〈水の一族〉がいったい何人いるか分からないどころか、もしかして会ったことがあるなんてのは」
「まあ、まずいないわな。俺だって声を聞いたことすらない」
 ますますセテは大きなため息をついた。セレンゲティから脱出できたことはよいことだが、〈水の一族〉との同盟などというのは絵空事でしかなかったわけである。
「ま、まぁまぁ、それも含めて長老に話をするってのはアリでしょ? そんな落ち込まないでよ」
 ジョーイが気まずそうにセテとレイザークの顔を交互に見やった。
「話を聞いてくれればな」
 ヴィンスがそう言ったので、みなの視線が彼に集中する。
「長老をはじめとする年寄りたちは、救世主に対していい感情を抱いているわけではない。話にすらならん可能性も考慮しておくべきだな」
「どういうことだ? 四大元素の一族は、みな偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》の従属一族で、救世主を崇めてるんじゃないのか。末裔の者も同じだろう」
 レイザークが尋ねるとヴィンスは小さく肩をすくめ、
「さあな。だが少なくとも長老は汎大陸戦争のことは何も話したがらないし、とくに聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》も救世主もお嫌いのようでな。人間なら、好き嫌いあるだろうよ」
 そう馬鹿にするような口調で笑って背を向けた。
「あ、あの、ヴィンス!」
 その背中に声をかけたのはセテであった。
「その、さっきは悪かった。罪滅ぼしに船のことでなにか手伝いをしたいんだけど」
「なんだ藪から棒に。いきなり何を言い出すかと思ったが」
 ヴィンスが振り返ってセテをまじまじと見下ろした。
「おい、中央の人間が海賊の手伝いなんざ笑えねえぞ」
 レイザークが多少、すごみのある声でそう割って入ったので、ジョーイとベゼルがレイザークの脇をこづいた。余計なことを言う。そう言いたかったようだが、ヴィンスがゆっくりとこちらを振り返る。
「勘違いしているようだが」
 ヴィンスはレイザークの前に歩み寄り、その顔の真ん前で彼を睨みつけた。レイザークも長身であるが、ヴィンスもそれに引けを取らない。筋肉対筋肉が向かい合ったことで一瞬不穏な空気が漂ったので、ベゼルが慌ててジョーイの後ろに後ずさった。
「俺たちは海から引き揚げた貴重な遺物を取引材料にした、ごく穏便な商売をしているだけだ。多少の荒事はつきものだが、海賊と一緒にされるのはたいそう心外だ」
「ほう。一般人が海に近づけないのに、こんな武装した帆船で航海していて、穏便な商売だと?」
「略奪や強姦のことを言ってるならお門違いだ。部下には厳しく禁止しているし、お縄になるなら無許可で船を出して海からいろんなモンを引き揚げて売っ払ってることくらいだと思うがな。なあ、ジョーイ?」
 ヴィンスはジョーイを仰ぎ見た。ジョーイはあいまいな返事を返すだけである。そういえばジョーイの商売といえば、海から引き揚げた物を法外な値段で市場で売りさばくことであったが。
「じゃああの髑髏の旗はなんだ。典型的な海賊船だろうが」
 レイザークにそう言われ、ヴィンスは目を丸くし、それからしばらくして大声で笑った。
「あんた、あんた本当に典型的なオッサン聖騎士だな。頭が固くて話になんねぇ!」
 言われたレイザークはムッと押し黙る。
「髑髏の旗はな、男の浪漫なんだよ! 憧れなんだよ! なんで髑髏の旗を掲げてるかなんて、そんなのカッコイイからに決まってんだろが!!」
 今度はレイザークが目を丸くする番であった。
 それを受けてジョーイがレイザークに耳打ちするように言う。
「うちのお兄様、これでもたいそうなロマンチストなのよ。本当に海賊やってるわけじゃない。それは俺が保証するよ。本業は海運業、検査が厳しくて中央管轄の船で移動できないやんごとなき人物だとか物資を船で輸送してる。その途中に、海でいろいろ引き揚げては売っ払って日銭を稼いでいるってわけで。ただちょっとばかり、形から入るのが好きだってのが玉に瑕でさ。箔をつけたいんだってさ」
「余計なこと言ってんじゃねえ!」
 ヴィンスが弟の頭をゴツンとげんこつで殴った。それからヴィンスはセテに向き直ると、
「ま、そういうわけで、男の浪漫が分かる青少年ってのは好きだぜ。手伝わせてやるよ」
「そうさせてもらうよ」
「おい! お前なあ!」
 セテがヴィンスの後をついていこうとしたので、レイザークが止めようとする。だが、
「身体、動かしてたいんだ。いまはあんまりなにも考えたくないし、身体、なまっちまうから」
 そう言って、セテは満足そうなヴィンスの後についていった。途中、一度もレイザークたちを振り返ることはしなかった。



 洋上の日暮れは遅い。水平線の彼方に太陽が沈むその瞬間まで船上を照らし、肌を焼く。だが沈みきったあとは、唐突に闇が押し寄せてくるのだ。
 セテは貸してもらった手ぬぐいで汗を拭きながら甲板を歩き、縁に寄りかかって太陽が沈むその様を見届けたあと、大きな伸びをした。ふだん使わない筋肉を酷使したことで、体中がきしむ。剣の鍛錬とはまったく異なる部位を使うので、筋力には自信があったがさすがに船の労働は堪えたようであった。
 身体を動かしていたのは幸いであった。余計なことを考えなくてすむ。本当はサーシェスのそばにいてあげるべきだったのだろうが、アスターシャのことや船のことや〈水の一族〉など雑多なことがぐるぐる頭を巡ってしまい、どうすることもできない自分に腹が立っていた。もしあのままあそこにいたら、なにかとんでもなくいやなことを口走ってしまいそうだった。
 今頃、レイザークは自分に腹を立てていることだろう。ジョーイやベゼルも、やるべきことをやらず自分勝手に身体を動かして発散しているように見える自分に呆れているだろう。それに対して弁解する気はなかったが、後ろめたい気分も晴れることはなかった。本当に、いまはなにも考えたくないだけなのだ。たまにそんな振る舞いをするくらい許してほしいとセテは思った。
 ため息をついた視線の先に、人影があった。もう薄暗くて白く浮かび上がるようだったので、セテはぎょっとしたが、よく見れば女、それもよく知った顔であった。アスターシャである。
 セテは最初の言葉が出てこなかった。
「お疲れ様。その……」
 先にアスターシャが口を開き、だがその先は口ごもる。彼女も負い目を感じているのだろう。
「軽蔑……してるよね……」
 アスターシャがそう言ったので、セテは大きなため息をつき、ようやく彼女を真正面から見つめなおした。見れば、彼女の目は泣きはらしたようで赤い。それを見て、セテは自分の態度がひどく思いやりのないものであったとようやく思い至ったのであった。
「話したことなかったかもだけど……」
 セテは積み荷の木箱に腰掛けながらそう言い、それから向かいの少し小さな木箱に腰掛けるよう、アスターシャを促した。
「俺さ、前に友人を失ったことがあるんだけど」
「……レトくん……だっけ?」
「うん、レトと、その前にふたり。クルトってのとオラリーってのがいて、やっぱり同郷で幼なじみでさ、子どもの頃はあちこち暴れまわって悪さしてさ、いつも一緒にいたんだ。あいつらもやっぱり剣術馬鹿で、俺とレトはロクランへ上京したけど、ふたりは地元の大学へ進んでアジェンタス騎士団に入団して、四年ぶりの再会だったんだ」
「幼なじみとまた一緒に剣の道を歩けるなんて、よかったわよね」
「うん、本当に。ただ、学生のときとは違って騎士団はものすごいしごきがあってさ、ひいひい言ってたけど、まぁあいつらがいたし、負けられないと思ってたし」
 セテは額から流れ落ちる汗をぬぐい、小さく笑った。訓練生時代は厳しい任務や鍛錬ばかりだったが、終わってからの飲みや休憩時間のだべりは、本当に楽しいものであった。
「クルトは任務で死んだんだ。化け物に踏み潰されて」
 アスターシャが息を飲んだ。小さく、「お気の毒に」と言ったようだったが、あまり声にはならないようだった。
「そのあとかな、オラリーがおかしくなったのは。俺は任務で外していて後から聞いただけだったけど……。俺を……恨んでたみたいなんだ」
「そんな……!」
「うん、もちろん、彼が死んだのは俺のせいじゃない。それは分かってる。けどオラリーは……そのあと俺が昇進したのが気に入らなかったらしい。妬んでたって……そう聞いてる。精神的に行き詰まって除隊になったあと、自殺したんだ。それからレトも……」
 セテはあえぐように息を大きく吸い込み、前髪をかきあげた。
「俺への恨み言を、俺の目の前で笑いながら、役者みたいに淀むことなく吐き出してたよ」
「それは……操られていたんでしょう? 本心なんかじゃなかった」
「そいつはどうかな。そういう悪意を、誰もが持ってるんだよ。口に出さないだけで、いや、言語化できていないだけで。学生時代から嫌な野郎ってのはいたから、そういうやつらに悪意をむき出しにされることはなんとも思っちゃいない。だけど、一緒にいるから言えなかったことや思うところなんてのはあったわけで。正直、つらいけど誰にもそういうのはあるんだってすごくよく分かってるつもり」
 アスターシャにもベゼルにも当たり前にあることで、レイザークだって、ひょうひょうとしているけれどもジョーイにだってあるはずだ。
「レイザークなんか格好つけてたけど、レオンハルトみたいな超がつく英雄なんかと一緒にいて焦燥感を感じなかったわけないんだ。父さんだって……」
 レオンハルトへの嫉妬、まだ聖騎士になる前から一緒に過ごした時間は、彼との友情を育んだと同時に、深い闇が生まれたのだ。
「俺も……正直レイザークが羨ましくて妬ましくなるときがある。俺の知らないレオンハルトや父さんを知ってる、そのうえ中央でも指折りの実力の持ち主だ。父さんにだって嫉妬しているよ。俺の知らないレオンハルトを知ってる。あの熊みたいなレイザークを感傷的にさせるほどの厚い友情でつながっていて、アジェンタス騎士団から聖騎士になるだなんて。本当に……」
 悔しくて羨ましくて妬ましくて、胸が張り裂けそうになることだってある。
「フライスにだって嫉妬したよ。レオンハルトとそっくりだっていうのももちろんなんだけど、あの年であの実力の持ち主で、おまけにサーシェスを手に入れちゃってさ。あーあ、俺、けっこう湿っぽいんだよなぁ」
 そう言って、セテは自虐的に笑った。アスターシャもつられて笑う。
「あたしも……あたし……ね、フライス様のこと、好きだったんだ」
 セテは目を丸くした。なんとなくそれは雰囲気で分かっていたのだが、本人の口から聞くのはなんとも生々しい話ではある。だが、彼女は話したがっているのだ。
「フライス様にいろいろ粉かけてたんだけど、フライス様はサーシェスしか見てなかったの。口を開けばいっつもサーシェスの話ばかり。すごく妬ましくて、サーシェスにもそれは打ち明けたつもりだったんだけど……」
 アスターシャはそこで自己嫌悪を含んだ大きなため息をついた。
「でも……それでもずっとモヤモヤしてたんだと思う。フライス様がサーシェスを気遣う様とか、セテ、あなたがずっとサーシェスを大切に思っていることとか。レイザーク様やジョーイ、ベセルにまで気を遣ってもらえある彼女がすごく……羨ましかった……」
「いいんだよ、そんなの、我慢しろってほうが無理だよ。誰にもそういうのがあるっての、俺もついさっきまで忘れてた。ごめん。そういった悪意を増幅させて人を操るなにかがサーシェスの中にいた。その正体や原因を探って、なんとかサーシェスの意識を取り戻さないと……」
「……うん……」
 アスターシャの歯切れの悪い返事があったが、セテは立ち上がり、Gパンをはたいた。
「戻ろうか。ちょっといろいろ考えながら頭を冷やしたかっただけなんだ。本当は君らのことを心配してなきゃいけなかったのに、勝手なことしやがってって、いまごろレイザークの野郎がオカンムリだろうから」
「……うん……」
「なに?」
「あの……」
 言いよどみながらアスターシャはセテの顔をまっすぐに見返した。
「あたしじゃ……ダメかな……?」
「なにが?」
「その……私……あなたのことが好きです」
 派手に木箱が崩れる音がして、セテとアスターシャが振り返ると、積み荷に埋もれてもがいているベゼルの姿があった。
「ベゼル!? なにやってんだお前!?」
「あわわわわわわわ……! ご、ごめん! 別に盗み聞きしてたわけじゃ……!」
 ベゼルは大慌てで手足をばたつかせながら起き上がり、バタバタと小さな足で大きな音を立てながら甲板を走って行く。
「あ、おい!!」
 セテが声をかけるが、ベゼルはそのまま階段を転げるように駆け下りていった。
「なんだあいつ……」
 セテはそう言いながら、アスターシャをちらりと見やる。勇気を奮った告白の瞬間がすっかり喜劇のようになってしまったので、アスターシャがたまらず声をあげて笑い出した。
「まったくもう……自覚がないって本当に厄介な男ね。こんな近くにも敵がいたとは」
 アスターシャが大きな大きなため息をついてセテを見返した。
「返事はいらないわ。きっとあなたはまだサーシェスのことを大切に思っていて、それどころじゃないのも分かってる。でも、私があなたのことを好きだってこと、覚えておいてほしいの。サーシェスの代わりにはなれないけれども、あなたの力になってあなたを支えられるかもしれない」
 アスターシャのきっぱりとした物言いに、セテはしばし目を泳がせる。
「告られたことあまりないからよく分からないけど……それって……女の子の台詞じゃないよなあ……なんていうか」
「頼もしい?」
「頼もしいし、うれしいよ。すごく。でも、本当にそれに答えられる自信もないし、余裕もないんだ。ただ、君のことは好きだし、仲間としてとても大切に思ってる。いま言えるのはそれだけ」
「うん。それでいいよ。私は……いつなにがあってもいいように、自分の思ったことはなるべく口に出しておきたかったの」
 アスターシャは笑った。
「えへへ、なんかすっきりしちゃった。サーシェスの様子、見てくるね。もうすぐ食事の時間だろうから、セテも早く降りてきてね」
 アスターシャはそう言って手を振り、階段を歩いて行く。セテから見えなくなったあたりで、アスターシャは細い指で自分の心臓のあたりを掴み、足を止めた。知らぬ間に涙がこぼれ落ちてきていたのでそれを拭ったが、やがて涙があとからあとから流れ落ちてきて、そのうちに声にならない嗚咽が小さな唇から溢れでていた。
 思いを打ち明けられたのは二度目だ。セテはもうひとり、かけがえのない人物に思いを馳せていた。アスターシャのように気丈で、大の男に守ってあげるなんて頼もしいことを言ったあの少女、ピアージュである。
 短く刈り上げた燃えるような赤毛、気の強そうな釣り上がった大きな瞳、小柄でしなやかに動きまわり、よく笑い、よく怒る。あのアジェンタス陥落のあの瞬間、アトラスの炎の剣の露と消えた彼女に、いま、無性に会いたい。ピアージュを死なせたことを忘れて、誰かを好きになることは、いまはまだできそうになかった。
 そのときだった。船が大きく揺らぎ、積み上がっていた木箱が甲板を滑ってガラガラと崩れていく。急激に舵を切ったためであった。


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