第八話:封印解呪

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 激しい鼓動が全身を叩きつける。息が切れて胸が痛い。それでもアスターシャは追っ手を避けながら城の中を走り回った。この十八年間住み慣れた城の中だ。彼女にとってはどこを通れば近道で、どの道とどの道が交差しており、敵と遭遇する確率が高いかはすべて頭の中に刷り込まれている。小さい頃はこうやって侍女たちをまいて困らせたものだと思い出すのだが、いまはそれどころではない。あちこちからアートハルク兵士たちの固いブーツの音が聞こえてくる。
 この混乱に乗じて外に出る方法はないだろうか。捕まればおそらく、サーシェスや父王のように簡単には外に出られないように閉じこめられるか、あるいはもしかしたらあの巫女の得意とする術法にかけられて、生ける屍となってしまうか。ネフレテリの先ほどの凶悪な表情を思い出し、捕まったら最後、何をされるかわからないという恐怖が全身を駆けめぐっていた。
 アスターシャはいったん廊下の窓から頭を少し出し、城の庭園の様子をうかがった。兵士たちがあわてふためいて右往左往するのが見えた。
 どこか一時的にでも身を隠せるところ。できればしばらくは隠れていても怪しまれないところ。ふとアスターシャは、庭園の最奥にある謎の地下室のことを思い出した。
 以前サーシェスを懲らしめるために彼女を閉じこめた、汎大陸戦争のときに使われたという地下シェルター。自分の巻いた種によって床が崩れ、ロクラン城の下を縦横無尽に走る地下道に落とされた後、決死の大脱出を試みたイーシュ・ラミナの研究室。いまは入り口が崩れているために正面から入ることがかなわないので、あそこなら身を隠すことができるのではないだろうか。
 アスターシャはもう一度庭に目をやり、頭の中でそこまでたどり着くための順路を何度も何度も描いてみる。よし、あの道なら見つからない最短の距離でたどり着けるはずだ。アスターシャは激しく脈打つ心臓の上をさすると、意を決したように元来た道を走り出した。
 ロクラン王宮の庭園は、それは見事なものだと招かれた賓客は口々に讃えたものだった。ロイギル風のゴテゴテした大げさな彫刻はあまりアスターシャのお気に入りではなかったのだが、アスターシャはこの敷地にあるすべてのオブジェが好きだった。まだ母親である王妃が生きていた少女時代、アスターシャを連れた妃はよく庭園を散歩し、あの彫刻はロイギルのなんという作家によるものかを丁寧に教えてくれたものだった。アスターシャはそれらの間を慎重にすり抜けながら地下シェルターへの入り口を目指す。
「いたぞ! 王女だ!」
 王宮のほうからアートハルクの兵士が叫ぶのが聞こえた。それにはじかれたように、固いブーツの音がこちらに向かってくる。アスターシャは両足に力を込め、全力で駆け出す。
 地下シェルターの入り口は先日の騒ぎで封鎖されている。後に中央諸世界連合の研究チームがやってきて壁に穴を開け、脇から長い長い迂回通路を造って中を行き来できるようにしたのだが、その脇道も厳重に木の板で封鎖されていた。
「どうしてこんなときにこんなに頑丈に封鎖するのよ!」
 アスターシャは毒づき、そして思い切り足で木の板を蹴り上げた。薄い板は彼女の蹴りで見事に大穴を開けられ、アスターシャはその隙間から身体をめり込ませた。途中、ドレスの裾と肩の布地が引っかかって裂ける音がしたが、アスターシャはかまわずに身体をねじ込んだ。急いで走り出そうとした拍子に足が引っかかり、そのまま彼女は長い坂道を転げるように落ちていく。やっと体勢を整えて立ち上がると、後ろのほうからアートハルクの兵士たちが封鎖している木の板をバリバリとはがしている音が聞こえてきた。そこでアスターシャは再び走り出す。袖が破けてむきだしになった肩がヒリヒリする。さきほど割れた木の板の間を通る際に引っかけたに違いない。だが追っ手はすぐ後ろだ。一刻も早くあの気の遠くなるような小道に逃げ込んで身を隠さなければ。
 アスターシャはそのまま最奥へ向かって走り出し、やがてサーシェスとふたりでたどり着いた枝分かれする小道のスタート地点にたどり着いていた。
「どこ? どっちに行けばいいのよ!」
 アスターシャはいらだち、無数に別れた小道のひとつひとつを素早く一瞥する。
「神様、サーシェス、どっちに行けばいいの?」
 ほとんど泣き声に近い震える声で、アスターシャは祈る。そしてそのとき、前にここに迷い込んだ際、サーシェスが置いた石のかけらが目に入った。彼女は確か入った先が行き止まりだった場合は入り口まで戻り、石を置いていた。その石は中央の研究チームが入る際にも大いに役立ったのだ。石のない通路が奥へと続く道だ。あの六本足の馬に乗った巨大な化け物が守っていた謎の研究室に通じるはず。アスターシャは迷うことなく小道に進み始めた。
 途中から通路は緑色のほのかな光を放ち始め、すべすべした奇妙な感触の鉱物に覆われている。すべるブーツと格闘しながらアスターシャは先を目指した。そして、ようやく彼女は白い光の中に身を躍らせた。
 最奥の研究室は、あのときのまま白い光に包まれていた。中央の研究チームが来た際に、彼らは壁に埋め込まれたさまざまな装置に中央標準語の張り紙をしておいたのだが、アスターシャにはそれが何を意味するのかさっぱり理解できなかった。そして中央のステージ上に張り出した部分は、解体もされずにいまだそのままの姿を残していた。あのときと同じ、上に向かって伸びる矢印が空中に浮かびながら明滅している。アスターシャの頭が閃いた。これを使えば外に出られるはず。
 アスターシャはすぐそばの台のような装置に駆け寄り、その上にずらりと並んだツマミやボタンを適当にひねったり押してみる。だが、反応はない。
「どうすればいいの。あいつらが来る!」
 いまにも泣きそうな声でアスターシャはツマミやボタンをあちこち触りまくる。そのうちに足音が迫ってくる気配がして、とうとうアートハルクの兵士たちがこの研究室の入り口に飛び込んできたのだった。
「お願い! 動いて! 動いてよ!」
 乱暴にパネルの上を叩きながらアスターシャが叫ぶ。そのとき、うねるような音が急に部屋中を揺るがせた。アスターシャが顔を上げると、中央の台座からまっすぐ円柱状に、淡い光が上に向かって伸びているのが見えた。アスターシャは奇跡に顔をほころばせ、その中へ身を躍らせようとしたが、そのときだった。
「お戯れもいい加減になさいませ、アスターシャ王女」
 冷たい少女の声に、アスターシャの足が止まる。入り口に姿を現したのは、アートハルクの巫女ネフレテリであった。
「一国の王女ともあろう者が、そのように泥にまみれてはしたない。だが、お遊びはここまでとさせていただきますわ」
 ネフレテリはゆっくりとアスターシャに向かって歩いてくる。アスターシャの足が、知らずに震えだしていた。
「ただの小娘と思っておりましたが……。我が術を見て自由にしておくことはできませぬゆえ」
「術? やっぱりそう。眠りながらオレリア・ルアーノの誰かと戦っていたのね。三日は離れるってどういうことかと思ってたけど、まさか遠く離れたロクランから自分の精神だけを飛ばせることができるってわけ?」
「察しのよい王女だこと」
 ネフレテリはころころと笑い、そして後ろにいたアートハルクの兵士たちを指図して入り口を固めさせた。
「さあ、お戯れもここまで。おとなしくなさいませ。見苦しく抵抗する場合はその精神を引き裂いてやることもできるのですよ」
 ネフレテリの言葉は脅しでもなんでもない。ネクロマンシーである彼女には、それが可能なのだ。アスターシャは震える膝に鞭打ち、気丈に背筋を伸ばして相手を睨み付けた。
「あんたたちのばかげた計画もこれまでよ。私は絶対、オレリア・ルアーノに行って援軍を連れてくる!」
「馬鹿なことをお言いでない。ここからどうやって出るおつもりで?」
 ネフレテリが小馬鹿にしたようにそう言うと、アスターシャは満足そうににやりと笑ってみせた。そして一気に身体を翻し、台座の光の中へと身体ごと飛び込んでいった。ネフレテリと兵士たちが驚く間もなく、彼女の身体はまばゆい光に包まれ、やがて粒子をかき消すようにじわりと消えていった。
「馬鹿な! 門《ゲート》か!」
 ネフレテリはそう叫び、台座目がけて即座に攻撃術法を発動したが後の祭り、誰もいなくなった台座が爆煙を上げるだけだった。
 巫女は舌打ちをし、苦々しい表情で台座を見つめていたが、やがて彼女の口から不敵な笑いが漏れる。しばらくすると彼女は楽しげに笑い出したので、周りにいた兵士たちは蒼白となって彼女の様子を見守るだけだった。
「たかが人間、しょせんは自分の運命さえも変えられぬ小さき者だと思っておったが、やりおるわ。『神の黙示録』の筋書きどおりに動かぬ、ときに突拍子もない行いをして我らを驚かせる、それもまた人間のおもしろさなのかもしれぬな」
 ネフレテリは鼻を鳴らし、そしていまだくすぶり、煙を上げている台座を見つめてそう言った。それから、彼女は中央標準語の張り紙で埋め尽くされた壁際の装置に近づき、そこに書かれた張り紙の文字に眉をひそめながら乱暴に剥がし、破り捨てた。
「イーシュ・ラミナの研究室。こんなものがロクランの地下に眠っていたとは。中央のサルどもがいくら使い方を探ったところで分かるはずもあるまいに、ご大層なことだ」
 巫女は壁に埋め込まれたパネル状の装置に軽く振れ、いくつも並んだボタンにその細い指を軽く二、三度打ち付けた。すると、これまで真っ暗だった四角い枠状のパネルに光が灯され、中央標準語ではない文字列らしきものが浮かび上がった。
「なるほど、二百年経った今でもまだ動力は生きていると見える。だが、出力は半分に制限されている。ここから門《ゲート》をくぐったとしても、百キロが関の山といったところか」
 独り言のようにつぶやくと、ネフレテリはまたいくつものボタンに指を走らせた。パネルに映し出される文字列を満足そうに眺めた後、巫女は後ろで控えている兵士のひとりを振り返り、
「アジェンタス騎士団領の現状を報告せよ」
「はっ。先ほど心話が届きました。真紅の竜騎兵《クリムゾン・ドラグーン》が首都アジェンタシミルの総督府に到着。ほぼ制圧したとのことです。もうまもなく要石《かなめいし》の封印も取り除かれるかと」
 兵士は淡々と状況を報告する。ネフレテリはまた満足そうに冷たい笑みを浮かべた。兵士のひとりが彼女に指示を求めたが、巫女は冷静な表情で彼らに元の配置場所に戻るよう指図をする。兵士たちは困ったような表情で研究室を出ていくしかなかった。
「難攻不落のアジェンタスもいよいよ陥落か。それにしてもあの小娘、王女にしておくのは惜しいほどの気丈夫よ。まあよい。これから先のことなど、我らにはすべてお見通し。見事あの娘がオレリア・ルアーノにたどり着いたとしても、すぐに別の要素が修正軌道用演算処理を新たに組み始めるだけだ」
 アートハルクの巫女はそう言い、上等なシルクで織られたローブの裾を優雅な仕草で翻した。
「そう。あるべき姿を取り戻すまでは、我々は何度も何度も同じことを繰り返すのだから」






 闇に紛れて足早に動く複数の人影。彼らは地面からにじみ出して不快な音をたてる水たまりを気にすることもなく、無言で走っている。一寸先も闇といった暗い地下道を歩いているうちに、壁面がほのかに緑色に光る地点にさしかかると、彼らはその先で強い緑の光を放つ小部屋を目指してさらに足を速めた。
 小部屋の中はこれまでの闇から光の中へ飛び出してきたかのごとく目をくらませる。緑色に光る壁面の装置群と、壁際から中央の台座に向かって伸びる無数のチューブに目が奪われる。途中からちぎれたチューブの中を、緑色の液体がコポコポといやな音をたてて流れて、床にこぼれている。一行は到着すると、部屋の中央で台座を眺めていた男に駆け寄り、敬礼をした。男がゆっくりと振り向く。火焔帝ガートルードの精鋭部隊である真紅の竜騎兵《クリムゾン・ドラグーン》を束ねる剣士、アトラス・ド・グレナダであった。
「要石《かなめいし》の位置は確認できたのか」
 アトラスは威圧的な態度で後ろに控える兵士たちに尋ねる。ひとりの兵士が地図を広げて進み出た。
「はっ。ここから南へおよそ二キロほど行ったところに。途中入り組んだダミーの道が枝分かれしておりますが、こちらの地図は汎大陸戦争以前に作られたものですから、ほぼ正確に道案内をすることができるでしょう」
「ご苦労」
 そう言ってアトラスは赤茶色の髪を掻き上げ、再び台座を見つめる。
「アジェンタス騎士団領を難攻不落にしていた霊子力炉か。中央の研究チームが解体したものの、手に余ると見えるな。それからカート・コルネリオが使ったというもうひとつの霊子力炉。このアジェンタスにふたつの霊子力炉があるとは、ここの要石はよほどフレイムタイラントと相性がいいらしい」
 アトラスは鼻を鳴らして笑うと、兵士たちを引き連れて部屋を後にする。
 アトラスを先頭にした一行は言葉少なに地下道を歩き続ける。アジェンタス全体の地盤の下にある汎大陸戦争以前に使われていたこの地下道は、要石とふたつの霊子力炉を隠す絶好の場所だ。偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》の技術を応用して作られたこれらの忌まわしい装置がいまもなお完全に残っているのは、中央でも報告されていない。もしくは、発見されていても中央がひた隠しにしているのだ。アトラスは中央諸世界連合の強欲な研究チームを思い、苦々しげにため息をついた。
 細かく枝分かれしたダミーの道に惑わされることなく地図どおりに進んでいくと、やがて彼らは大きな鉄の扉の待ちかまえる小道にたどり着いた。扉はM字とV字の合わさったような奇妙な紋章が掘られており、だがそれは長年のサビに覆われて醜くふくれあがって不気味な様相を呈していた。
「ここだな」
 アトラスは確認するように兵士たちに問いかけ、そして扉に触れる。結界の気配がして、アトラスはにやりと笑った。
「ご丁寧なことだが、これだけ重要な施設に間に合わせのような結界しかないとはな」
 アトラスが顎で指図すると、小さなパネル状の板を持った初老の男がひとり扉の前に進み出てきた。兵士に混じって歩くには不似合いな、研究者かあるいは賢者のような長いローブを羽織っている。
「どうだ、ベルーゾー」
 アトラスに尋ねられ、ベルーゾーと呼ばれた初老の男はパネルの上に表示される文字列に目を走らせながらため息をついた。
「簡単ですな。レベル2程度の結界など、赤子の手をひねるようなもんです。まぁ一分もかからずに解呪してみせますよ」
 ベルーゾーは研究者には似合わない気さくな話しぶりでそんなことを言い、そしてパネルの下に並んだいくつものボタンに指を走らせる。そのたびにパネルに文字列が浮かび上がり、そして複雑な数式のようなものが現れては消え、消えては現れていくのだった。
「たいしたものだな、ベルーゾー。俺にはその『解呪用三次元進数演算処理』というのがさっぱり分からん。さすがは中央の研究チームにいただけはある」
 アトラスは気のない素振りで言ったのだが、ベルーゾーはうれしそうに笑いながらものすごい速さでボタンに指を走らせている。
「なあに、このくらいのレベルなら中央の研究者ならわけのないことですよ。まぁもっとも、救世主《メシア》や聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》が施したような要石となると、ちょっと手はかかりますがね。やつらは意識せずに頭の中でこの演算処理をやってのけるってんだから驚きです」
 やがてパネルに現れていた文字列がいっせいに消え、中央標準語でない文字列が点滅する。アトラスにはその文字列を読むことはできなかったが、作業が完了したことを知らせるものだということは理解できた。その証拠に、扉の結界の気配が完全に消えたのだ。
「どうぞ、アトラス殿。中にはトラップは仕掛けられていないようですから安心してお入りください」
 ベルーゾーは恭しく手で入るように促した。アトラスは無言で頷いて鉄の扉に手をかけた。
 二百年間一度も開けられたことのない扉から、中の空気がどっとあふれてくる。かびた空気のいやな匂いが鼻を突くので、アトラスをはじめ、兵士たちは袖で鼻を覆わなければならなかった。
「ああ、入ってすぐの壁際に空気清浄機のスイッチがあるはずです。二、三分もすれば完全にきれいな空気と入れ替わりますよ」
 ベルーゾーはポケットから何本かのチューブのようなものを取り出し、パネルに接続しながら中の壁際を指さした。兵士のひとりが鼻を覆いながらベルーゾーの指示通りに壁のスイッチを入れると、うねるような音とともに中から涼しい風が吹き出してきた。
 一行が中に入ると、巨大な円柱状の筒が床から天井まで張り出しているのに目を奪われた。床にしっかりと固定されたその巨大な筒の継ぎ目から、たまに赤黒い火花が散っている。筒自体の円周はおよそ十五メートルほど。その周りを、人間が近づけないように低い柵が囲っている。
「これが要石か。俺も見たことがなかったが、たいしたシロモノだな」
 アトラスは円柱を見上げながらため息をついた。後ろに控える兵士たちもあっけにとられて口をあんぐりと開けているようだった。ベルーゾーは準備の終わったパネルを小脇にかかえて円柱を守る柵に近寄ると、
「簡単に説明しておきましょうか。この筒自体は、汎大陸戦争のときに聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》が施した封印を補強する役割しか持っておりません。筒のすぐ下、我々のいるこの地面の下には幾重もの立体魔法陣が隠されていて、それがエルメネス大陸に眠るフレイムタイラントを封じています。ほら、赤黒い火花が散っているでしょう。フレイムタイラントの霊子力があふれ出している証拠です。まぁあの化け物の寝言みたいなもんでしょうな」
 ベルーゾーが指さす方向を目で追いながら、アトラスは無言で頷いた。
「まずはこの筒の自己防衛機能を破壊する必要があります。その作業は数分で終わるでしょうが、問題はその後。救世主の施した立体魔法陣がどれだけの防御機能を持っているか」
 ベルーゾーは小脇に抱えたパネルを柵の上に置き、そこから伸びるチューブを筒の脇に設置された台座まで引っ張る。台座の側面にはいくつか小さな穴が空いており、ベルーゾーのチューブはその穴にぴったりと収まった。
「これでよし、と。ちょいと危険かもしれないんでね、アトラス殿はさがっておられたほうが」
 アトラスはベルーゾーから一歩下がり、彼のやることを腕組みしながら見守ることにした。再びベルーゾーの指がパネルのボタンで踊る。見たこともないような複雑で長い数式が表示されたが、初老の研究者はそれを自分の技術力への挑戦と取っているのか、うれしそうだった。
「イーシュ・ラミナというのはみなこの演算処理をひとりでやるんですよ。いわば暗算ってやつですな。彼らはこの複雑な演算をすべて人間の言葉に置き換えて、我々にも使えるように術法ってやつを作り上げた。まったく恐ろしい連中ですわ。まぁしかし、本当に恐ろしいのは人間のほうですがね」
 ベルーゾーはそう言って、アトラスに向かって小さく肩をすくめて見せた。
「霊子力炉のことか」
 アトラスが尋ねるとベルーゾーはパネルに熱中しながら頷き、
「そう。ほとんどの人間が、たぶんガラハド提督をはじめとするアジェンタス騎士団領の歴代の提督も信じて疑わなかったでしょうな。霊子力炉を作ったのはイーシュ・ラミナだってね。だが真実は違う。彼らの技術力を盗んで、そこに犠牲者を据えてエネルギーを吸い上げる霊子力砲を確保したのは、人間なんですよ。おっと、アトラス殿はもうご存じでしたな」
 アトラスはベルーゾーの説明に顔をしかめた。知ってはいたが改めて聞くと背筋が寒くなるような装置だ。彼は自分の中の人間に対する憎悪が、ますますふくれあがっていくのを感じた。そして、冷たい土の中で眠る恋人の優しい笑顔を思い出す。彼女の死に報いるために、絶対にすべての要石を解放してやるのだと、力強く拳を握りしめた。
 突然大きな音がして、筒の真ん中に光が走る。真ん中から左右に金属の筒が割れていくところだった。パカリと左右に完全に開いた金属の筒は、轟音をたてながら静かにゆっくりと地面に吸い込まれていく。それが完全に地中に降りたころ、アトラスたちは息を飲んだ。強烈な緑色の光を放つ、幾重にも重なった結界、積層型立体魔法陣そのものが姿を現したのだった。
「ま、これくらいのシステムを壊すのは朝飯前ですわ。このあとの解呪の作業がやっかいですからね」
「どれくらいかかるんだ」
「お待ちください」
 ベルーゾーは再びパネルのボタンを操作する。幾重にも入れ子状態になった複雑で長い数式が表示されるのを見て、ベルーゾーは顔をしかめた。
「さすがは救世主の封印。七十の積層型結界ときたか。でもまぁ、本来なら数千以上もの立体魔法陣が必要ですからね、ここの要石はさほど強力な部分を抑えているわけではないのでしょう。二十分ほどいただければすぐに解呪できますよ」
「二十分か」
 アトラスが待ちきれないといった様子でため息をつくと、
「二十分なら早いものです。ロクランあたりの要石じゃあ、たぶんまるまる一週間はかかるんじゃないでしょうかね。しかもこんなちっぽけなコンソールじゃあ解呪の速度が追いつかない。大昔使っていた汎用機械みたいなドデカイのを使わなきゃ、一生かかっちまうでしょうな」
 気の長い話だと思いながらアトラスは兵士を振り返った。彼らもまた同じようにため息をついている。
「俺は地上へ出てアジェンタス騎士団殲滅の指揮に戻る。ここは任せてもいいな」
「どうぞ。ただ、解呪の十分後には、封印されたフレイムタイラントの大きなあくびがここから噴出します。さきほどお渡しした地図周辺からは退避していてください。でなきゃあっという間に真っ黒こげですよ」
 振り返りもせずにパネルと格闘しているベルーゾーの後ろ姿にアトラスは笑い、それから残った兵を引き連れて元来た道を戻っていく。地上では主力部隊がまだアジェンタス騎士団と戦闘中だ。早く始末して先を急がなければ。






 自然な目覚めだった。ピアージュはベッドの中で大あくびをし、それからその腕をぱたりを横に倒す。そこで隣に寝ているはずのセテの姿がないことに気付いたので、ピアージュはあわてて跳ね起きた。確か六時には起きて店の支度に入ると言っていた。寝過ごしたかと思ったが、時計を見ればまだ中央時間の五時を少し回ったところだった。ピアージュはその信じられないような早朝の時刻に目を見開いた。徹夜でこんな時間を過ごすことはあっても、こんなふうに気持ちよく目を覚ます朝というのはこれまで経験したことがなかったからだった。
 突然昨夜のことを思い出して、ピアージュは殊勝にも頬と言わず耳と言わず、顔全体を赤らめた。信じられない、自分はあのセテと一夜をともにしたのだった、そんなことを思い出して、思わず自分の身体を抱きしめるように腕を回して力を込めた。
 セテは優しかった。何度も自分の名前を呼びながら優しく包み込んでくれた。自分がうわごとのように彼の名を呼ぶと、それに答えるように自分のねだる場所を攻めてくる。全身にセテの指や唇の感触が残るようで、思い出しただけで身体がかっと熱くなるのだった。
 セテはシャワールームでシャワーを浴びているようだった。ピアージュはベッドから降りると、彼を驚かせてやろうと忍び足で近づく。無防備にセテが髪を洗っている気配を察知して、ピアージュは思い切りドアを開けた。
「うわっ!」
 驚いたセテがよろめき、バスタブにやっとのことで手を突いて体勢を整える。ピアージュはくすくす笑いながら全裸の身体を踊らせてシャワールームに入ってきた。
「おはよう。さすがに早いのね」
「あ、ああ、おはよう」
 セテは濡れてぴったりとくっついた素の頭で振り返り、ピアージュを見つめた。だが、目の前の少女が全裸なのに驚いて、その顔が急激に赤くなっていくのがはっきり分かる。
「いっしょに入ってもいい?」
「バカ、狭いだろ?」
 セテが照れくさそうに、怒ったような口調で言うと、ピアージュはそのまま甘えるようにセテに抱きつく。
「昨日は、ありがとう。すっごくうれしかった」
「いや……その……」
 セテは目のやり場に困ってピアージュの顔を見ないようにシャワーノズルを止める。そして困ったような顔で、
「俺、あんまりああいうのってケーケンないからさ、その、なんか下手クソとか思われたらどうしようかと思って。心なしか下半身がガクガクしてるし」
 途端にピアージュが笑い出した。
「そんなことないよ。なんか、好きな人とするのがこんなに気持ちいいものだとは思わなかった」
 ピアージュが遠慮がちにそう言うので、セテはお返しに笑い返してやった。
「体、洗ってあげよっか」
「よせって、子どもじゃあるまいし」
 ピアージュが執拗に抱きついてくるのがまんざらではなかったが、セテは口調だけ怒ったように振る舞った。かわまずピアージュが抱きついてくるので、セテはため息をついてその背中に腕を回した。ピアージュは濡れたままのセテの胸に顔を埋めると、
「ね、ここでしよっか」
「はぁ!? なに言ってんだよ。六時になったら俺は」
「六時までずいぶん時間あるじゃない。ね、ここでしてよ」
 ピアージュはセテの髪を掴み、強引に自分の唇をセテの頬に寄せた。セテはとうとう降参して大きなため息をつき、そして子どものように甘えるピアージュの唇を塞いだ。
 それからたっぷり抱き合った後、ふたりはシャワールームから出て着替え、階下に向かう。早起きのキースはすでに前掛けをして準備万端、厨房の中でタバコを吸ってセテを待っていた。
「おお、約束どおり六時に起きてきたな。お利口お利口」
 開口一番、キースがふたりの顔を見て笑った。セテは厨房にかかっている前掛けを取って腰に巻くと、ほうきとちりとりを持って店内の掃除に取りかかった。ピアージュはセテの働く姿を満足そうに眺めると、タバコを吸って自分をじっと見つめるキースの視線に気付き、首を傾げた。
「いや、なに、お前ら、もしかしていい感じになっちゃったのかな、とか思ってさ」
 キースがそう言うと、ピアージュの顔がみるみる赤くなった。
「ははは、図星だな。一緒に部屋から出てくるのを俺が見逃さないとでも思ったのかよ」
「み、見てたの?」
「楽しげに手なんかつないじゃって、朝からお熱いねェ」
 キースの冷やかしにピアージュは手近にあったぞうきんを投げつけ、抗議をするのだが、キースはうまくそれをかわしてまた大笑いをした。
「あのさ、キース?」
「なに?」
 キースは吸い終わったタバコを水につけてゴミ箱に放り込みながら返事を返した。
「あたし、傭兵辞めようかと思ってるんだ」
「そう言うだろうと思ってたよ」
 キースの言葉にピアージュは目を丸くする。
「あいつだろ。あいつと一緒に暮らしたいってやつだろ。傭兵稼業なんかやめてカタギの仕事で食っていきたいってんだろ。分かってるよ」
 キースはまたポケットからタバコを取り出し、火を付けた。
「あいつは特使を辞めるつもりはないだろうよ。特使は階級が上がれば危険な仕事も増えてくる。特に中央の任務はえげつないのが多いからな。同じ剣の仕事でも、俺たちとは住む世界が違う。そういうのが分かってるなら止めはしねえけどな」
「うん、分かってるよ。でも。初めて本気で好きになったんだ。ずっと、一緒にいたい」
 キースはタバコの煙を吐き出した後、それを吹いて換気扇に向かってぱたぱたと手を動かした。
「まあ、ロクランで知り合いがいないわけでもないからな。ナルダが帰ってきてセテの満足できる情報ってやつが得られたら、その知り合いに紹介文でも書いてやるよ。いっとくけど、報酬は傭兵とは比べものにならないほど小せえぞ」
 ピアージュは満足そうに頷いた。そのとき店のドアが荒々しく開き、誰かが大慌てで駆け寄ってくる気配がした。
「キース! キースいるか!」
 薄汚れた身なりの男が店内に駆け込んできたので、セテは驚いて掃除の手を止める。キースが厨房の中から飛び出してきて男の姿を見るなり手を振った。
「おお、ナルダか。すいぶん早いお帰りじゃないかよ」
 呑気にそんなことを言うキースに、ナルダという男は舌打ちする。そのただならぬ様相に、キースは直感的に何かを悟ったのかナルダに駆け寄った。
「なんだよ、おい、そんなに急いでなんかあったのか」
 ナルダはこの店までずっと走りっぱなしだったのか、しばらく喉をヒューヒュー言わせながら深呼吸をした。ゲホゲホとむせ、また深呼吸をする彼が先を続けるのを、キースとピアージュ、それからセテまでもが見守る。ナルダはしばらくそうした後、キースの顔を見上げた。その顔には紛れもなく一大事に遭遇した男の恐怖がありありと見受けられた。
「えらいことになった。アジェンタスが、アジェンタシミルがアートハルク帝国に包囲された!」

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