第十五話:聖騎士の申し出

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「そんなコトいちいち気にしててもしょうがねえだろ?」
 日の光を受けてまぶしいほどに輝く金色の髪を揺らししながら、彼は笑ったものだった。肩にようやくつくくらいの長さに伸びたその髪がほつれてくるのを、面倒くさそうに後ろで縛り直しながら。端正なその顔立ちに似合わずよくコロコロと笑い、アイスブルーの瞳はそのたびに大きくなったり細くなったりする。とても表情の豊かなその顔は、自分より十も年齢を重ねているにしては若すぎるように見えた。
 まだ駆け出しだった自分を、まるで弟のようにこまめに面倒を見てくれたあの男は、聖騎士の中でもトップクラスといっていいほどの腕の持ち主だった。明るくてサバサバした性格が人を魅了して、同僚や下っ端からも慕われていた彼は常に誰かと一緒に話をしていた。ひとりでいるところなんて見たことがないくらいだ。あの伝説の聖騎士に対してまったく臆することなく接することができたのも、あの男だけだった。
「レイザーク、剣士ってのは剣の腕もそうだけど、運だよ、運。俺なんか見てみろよ。いつの間にか聖騎士になってたってくらいだ。ま、レオンハルトに追いつこうなんてコト考えなければ、お前だって十分すぎるほどの腕だと思うけどな。でも覚えとけよ。運が悪けりゃお前だってあの世行きだった」
 戦闘中、ヘマをして危ういところだったのを彼に助けてもらって命拾いしたなんてのは、あの頃の自分にはザラだった。だから戦闘終了後には彼はそう言って、自信をなくしている俺を慰めたものだ。言いづらいことを言うときには、彼はあの美しい刀身を持つ剣を愛おしそうになでた。「飛影」という不思議な名前を持つ、細身の剣。彼が剣を振るうときのあの煌めき。日光を受けて輝く刀身が彼の手の甲で回転し、クルリときれいに円を描くさまは、いまでも脳に焼き付いて離れない。
──その剣は、親父の形見だ──
 そしていま。あの男と同じ金色の髪、あの男よりもずっと濃いブルーの瞳がそう答えた。
 彼の遺伝子と飛影を受け継いだ青年。あのときの、あの子どもが、まさか自分の目の前に立っているなんて。運命のいたずらというものがあったとしても、これほど衝撃的な再会はあるのだろうか。
 顔立ちがそっくりというわけではない。おそらく母親似なのだろう。だが強い光をたたえるその瞳は、十七年前のあのときまでの彼とまったく同じだ。
 あんな死に方をして、周囲の人間を散々悲しませ、苦しめたのに、思い出すのはあの男の笑顔ばかり。俺とレオンハルトと三人で楽しくやっていた頃の、笑顔ばかりが思い出されてくるなんて──。






「精神的なものですよ、パラディン・レイザーク」
 担当の術医がレイザークの煙草を一本失敬しながら答えた。医療用に仮設された天幕の中は、レイザークのはき出す煙草の煙で真っ白だったが、術医は気にすることなく煙草に火を点ける。
「なんだ、精神的なものって?」
 レイザークは顔をしかめて首を傾げると、初老の術医の男はカルテらしい書類を手に取りながらレイザークを振り返った。
「言葉どおりですよ。特使になったばかりでずいぶん過酷な任務をこなしてきたみたいじゃないですか。彼、トスキ特使は。目の前で親友に死なれて、狂信者の復讐を食い止めて、休暇になったら今度はアジェンタシミルが包囲され、飛んで帰ってきたものの上司も同僚もほとんど死に、肉親も恋人も失った。人間が一生かかっても経験できない異常なできごとにこんな短期間のうちに遭遇すれば、精神的にまいるのは当然でしょうよ」
 そうまくしたてて術医は煙を吐き出した。
「だからなんなんだ。俺は原因に興味があるわけじゃねえ」
 レイザークがイライラした調子で尋ねるので、術医は大きくため息を吐いて肩をすくめた。
「つまり、精神的なストレスで剣が振れなくなってるってことですよ。彼、右腕がうまく動かないって言ってたでしょ。透視によればやられた右肩はもう完治しているはずなのに。右腕どころか利き腕もうまく上がらないらしい。特に剣を握っているときはね。彼はどこも悪くない。心の病気ってヤツですよ」
「心の病気だぁ?」
 レイザークが鼻を鳴らすのだが、術医は辛抱強く続けた。
「報告書によれば、コルネリオの事件のときに初めて人間を斬ったそうじゃないですか。それからずっと心のどこかで剣を振るうことを恐れているか、あるいは嫌悪してるんでしょうね。積もり積もって今回のアジェンタシミル崩壊のおかげで、それが体調にまで影響を与えるところまできてしまったって感じでしょうな。剣を振り上げようとしてもできない。あるいは無理にそうしようとして、吐いたりぶっ倒れたり。おわかりですか」
 いやみったらしく確認する術医を睨み付け、レイザークはその顔に煙草の煙を吐きかけてやる。ゲホゲホと術医が咳き込むのを見て、レイザークはここぞとばかりに愉快げに笑った。
「ったく、女々しいヤツだな。死んだり殺したりなんてのは珍しくもなんともねえじゃねえか」
「あなた方聖騎士みたいに図太い精神を持っている人には理解できないかもしれませんがね。あたしだって人を殺したことなんてないんだから、ふつうは当たり前でしょう」
 術医が「ふつうは」というところを特に強調して言ったので、レイザークは顔をしかめた。
「でも剣士にとっては死活問題ですよ、剣を振れないってのはね。一回だけならまだしも、二回、三回と戦闘で役に立たないようでは……。もうご存じでしょうけど……しばらく休職せざるを得ない」
 レイザークは唸り、そして術医の机の上の書類を見つめた。青年の身上書の写しの下の欄に、赤い字で今日の日付と、「無期休職」という文字が書き込まれているのが見えた。
「それで? パラディン・レイザーク。こんなことまで聞き出して彼をどうするおつもりで?」
 我に返って術医を見上げると、彼はレイザークの顔を見ながら興味深そうに薄笑いを浮かべているところだった。
「なにニヤニヤしてやがる。気色悪い」
 レイザークが悪態をつくが、
「ずいぶんご執心じゃないですか。一介の特使のことをこれだけ聞き回ってどうするのか。個人的に興味がおありのようで」
「別に興味があるってわけじゃ……」
 そう言ってみたものの、レイザークは確かに自分らしからぬ振る舞いをしていることを、ここへきてやっと自覚するのだった。ロクランの決闘騒ぎのときにも確かに使えそうな人材だと思って興味をひき、わざわざ中央騎士大学まで出向いて再び会いに行ったくらいなのだが。今回は違う。今回は明らかに、ひいき目が入っていると自分でも思う。
 あの男の息子だから──か。
 レイザークはため息混じりに術医に笑ってみせた。すると術医は、
「まぁ確かにいい男ですからねぇ、トスキ特使は。剣はだめでもそっちのご用なら、ずいぶんお役に立つんじゃないですか」
「ふざけんな。てめえの腐れたケツにぶち込んでほしくなかったら少し黙るんだな」
 レイザークは術医の背中を太い腕でどつくと、救護用の天幕を後にした。
 復興作業もずいぶん進み、ほつれた結界の修復作業もほぼ済んで、アジェンタスは徐々に元の活気を取り戻そうとしていた。聖騎士団の派遣期間は今日で終わる。仲間たちが引き上げの支度をしている中、レイザークも帰還準備をしなければならなかったのだが、ここを後にする前にやるべきことを済ますために仮宿舎に急いだ。休職届を提出し、支度をしているはずの青年の姿を求めて。
──その剣は、親父の形見だ──
 二日前、金髪の青年がそう言ったときのことを思い返す。あのときの自分がどんな表情をしていたのか、思い出すだけでも胸くそが悪くなってくる。おそらく近年まれに見るほど動揺して、目をカエルにように見開いて固まっていたに違いない。






「親父の形見って言ったな。父親は死んだのか」
 レイザークは動揺する心を抑えながらやっとそう言うことができた。よくある話のひとつだと思いたい。そう思っていても、あの男の忘れ形見かも知れない青年の姿に心が躍る。
「……親父のことはよく知らない。死んだって聞かされただけだから。俺が小さい頃には行方不明って教えられた。でも高校を出る頃に、母さんから親父は死んだのだと初めて聞かされた」
 青年は感情のない口調でそう言った。レイザークは頷き、
「……親父さんってのは剣士だったのか。これが親父さんの剣だってからにゃ、ずいぶん立派な剣士だったんだろうな」
「知らない。顔も名前も知らないし。でも、聖騎士だったってことだけは聞いた」
「聖騎士……か……」
 レイザークは唸り、そして飛影と青年の顔を交互に見つめた。青年はバツが悪そうな表情をしながらレイザークに手を差し出し、飛影を渡すよう仕草で求めた。
「あんたに会いたかった理由はいくつかあるんだけど……。そうだ。あんた、これを持ってた聖騎士に見覚えないか? 俺は母親似だから俺にそっくりなヤツって言ってもわからないだろうけど」
 彼はレイザークから飛影を受け取りながらそう言った。その目が期待にふくらんでいるのは誰の目から見ても明かだった。
「さあな。聖騎士っつったって何百人もいるんだ。聖騎士になってからは苗字を名乗り会うこともないし、名前も知らんのなら俺にも分からん」
 レイザークが気のなさそうにそう言うと、
「そうか……そう、だよな……」
 そう言って自虐的なため息をつきながら、彼は前髪を掻き上げた。
「ほかの理由ってのはなんだ? 雪辱戦を果たすつもりじゃないなら」
「ああ……その……」
 青年は少し言いよどみ、レイザークの机の上に自分の書いた報告書の写しがあるのを見てしばし口をつぐんだ。アジェンタス全土を恐怖の底にたたき込んだ、コルネリオの事件の詳細報告だ。狂わされた剣士による大量虐殺や、霊子力炉に関することのすべてが記されているものだった。
「報告書、読んだなら分かると思うけど……十七年前、あんたヴァランタインに来たことがあるんだろ? レオンハルトと一緒に。コルネリオの事件ととてもよく似てて、ひとりの剣士が狂って人を斬殺しまくったって事件、あれについて詳しく教えてほしいんだ」
 レイザークは顔をしかめた。よりによって、こんな状況で、こいつがあの事件のことを知りたがるとは。
「そんな昔のことを知ってどうする。すでに解決した事件じゃねえか。おもしろくもなんともないぞ」
「いや、その……知りたいっていうか……」
 青年はうつむいて頭をかき、照れたように笑った。
「あんたさ、レオンハルトと一緒に仕事したってことだろ? 事件もそうなんだけど、レオンハルトのこととか、いろいろ聞いてみたいなとか思ったんだけど」
 レイザークは大きなため息をつき、金髪の青年に一瞥をくれる。よりによってあの事件のことを知りたがるとは。そう心の中で神々を呪う。
「子どもじゃあるまいし。なにがレオンハルトについて聞いてみたい、だ。聞いたって聖騎士になれるわけじゃないんだぞ」
 そう言われて、青年の表情が途端に怒りを含むのが見て分かった。
 初代聖騎士であるレオンハルトは、アートハルクの一件がありながらいまだにたいへんな人気だということは、レイザークも重々承知だ。剣士や、これから剣士になろうとしている者はみな彼に憧れているのだが、たいていの者がそうであるように、「聖騎士になりたくてもなれない」人間が彼を崇拝しているのだ。まるで自分の夢を、彼が代わりに叶えてくれるのだとでも言わんばかりに。
 そしてその点について追求すれば、自分の能力のなさに打ちひしがれており、相当根深いコンプレックスを抱いている。この金髪の青年も例外ではなく、現役の聖騎士にそう言われたことで、やり場のない屈辱感と羞恥心で怒りをあらわにしているに違いなかった。
「ほう、いっちょ前に怒ってみせたりするんだな。無駄だ無駄だ、小僧。そんなふうに感情の起伏が激しいうちは、冷静に剣を振るうことなんざできやしねえ。怒って聖騎士になれるんだったら、うちの小うるさい義姉はとっくに聖騎士の頂点に立ってるさ。帰って頭でも冷やして、とっとと休職届でも書くんだな」
 レイザークが言い終わらないうちに、青年は背を向け、勢いよく天幕を飛び出していった。もし天幕の垂れ幕ではなくここにドアがあったら、きっと足で蹴り上げて飛び出していったことだろう。
 すんでのところで核心に触れずに終わってよかったとレイザークは心底思った。だが彼は、義姉であるワルトハイム将軍の忠告を無視して、あの青年を手元に置くことを考えはじめていた。ラファエラはレイザークがセテに接触することをひどく心配していた。それは中央でも機密事項に属する事件の全容を、あの青年が知ることを恐れての配慮ではあったのだが。
 ──金髪の青年とのやりとりから二日経ったいま、レイザークは、総督府敷地内に仮設置された簡易宿舎の扉をくぐっていた。






 何もしていなくても右肩が痛む。セテは身支度を整えながら顔をしかめた。宿敵とも言える真紅の竜騎兵《クリムゾン・ドラグーン》アトラス・ド・グレナダの魔剣で貫かれたところが、たまにしくしく痛むのだった。術医の透視では完治しているとのことだったが、なぜたまにこうして痛みを発したり、剣を振るうときに限って腕が上がらないのか、自分でも分からなかった。
 俺は本当に役立たずなんだな。
 セテはため息混じりに笑い、簡易宿舎のベッドに座り直した。ゼニスでの討伐の後、アジェンタシミル周辺で細々とした討伐任務が頻繁にあったのだが、そのいずれも、参加しても倒れたりしてきちんと任務を遂行することができなかった。
 悔しいがレイザークの言ったとおり、休職届を出さざるを得ない状況に追い込まれていた。今日から無期休職期間に入り、その間、セテはロクランにある中央官舎に身を寄せることとなっていた。
 総督府の騎士団員のための宿舎は復興中のため、聖騎士団や中央から派遣されてきた術者、特使の面々は、敷地内に立てられた簡易宿舎で寝泊まりをしていた。ここから荷物を引き上げてロクランへ戻ると言っても、着の身着のままで引き返してきたセテに荷物はほとんどない。レイザークから取り返してきた父の形見・飛影《とびかげ》のみだ。と言っても、先日アトラスとやりあったときに剣はまっぷたつに折れ、レイザークのおせっかいのせいで刀身ごとすっかり取り替えられてしまったとあっては、形見と言えるのは柄と鍔の部分だけ。握り具合はいっしょだし、重さもほぼ同じにしてもらったというのに、どうしても他人の剣を握っているような不快感がつきまとう。
 セテはベッドに突っ伏し、枕に顔を埋めながら、ロクランにいるサーシェスを思い浮かべた。
 こんな形でロクランに戻るなんて。
 ロクランでハイ・ファミリーの坊ちゃんを斬りつけたことでアジェンタス騎士団領へ出向、そして今度は特使として任務をこなし、一週間の休暇が終わればロクランへ帰れるはずだった。長かったようで実は短かったこの数ヶ月。入団したのは初夏だったが、いまはもうすっかり秋になっていた。
 本当にいろいろなことがあった。サーシェスへ手紙を書いたとおり、レトが死んで、初めて人を殺し、自分の罪深さに恐れおののいて何度も悪夢にうなされた。ピアージュと触れ合うことでその悪夢ともようやく別れられると思ったのに。そして秋空が美しいアジェンタシミルも、いまは見る影もない。
 唯一の心の救いになってくれそうだった彼女はもういない。サーシェスと同様にピアージュさえも。自分が好きになった女性を守ることもできなかった。それどころか、自分が守られていただけなんて。そんな状態でロクランに帰って、サーシェスは俺を軽蔑するだろうか。
 任務終了後、一年待たなければ帰れないロクランへ帰れると聞いたときはうれしかったが、今度の件でその喜びは絶望に変わった。
 サーシェスとの約束を、実現できずに負けて帰るだけじゃないか。そう考えると、無念さがこみ上げてきて無性にイライラしてくる。おまけに再び相まみえることになったあの熊のような聖騎士の態度が、とにかく気に入らない。
 分かっていた。自分がレオンハルトに幻想を抱いていることなど。どんなに憧れたって、どんなにレオンハルトを崇拝したって、いまの自分が聖騎士になれることなど、絶対にあり得ないのだ。
 どんどん遠のいていく生涯の夢が恋しい。いまレオンハルトが生きていたら、自分はもっと強くなれるのだろうか。こんなふうに情けない俺を見て、レオンハルトはなんて思うだろうか。そんなありもしない想像をするだけで、心が痛い。
「おい、小僧。いるか」
 野太い声がしたので、セテはベッドから跳ね起きた。レイザークの声だった。返事をする間もなくドアが開いて、熊のような図体の聖騎士が顔を出した。二メートル近い長身のため、ドアから少しだけ身をかがめて中を覗く姿が、本物の熊のようで滑稽に見えた。銀の甲冑ではなく、GパンにTシャツといった私服なのが妙に似合わない。
「小僧じゃない。何度言ったら分かるんだよ」
 セテはレイザークに悪態をつき、睨み付けてやった。
「なんだ、案外元気そうじゃないか。えーと……」
「セテ、だ! セテ・トスキ!」
 それからセテはベッドから立ち上がり、形ばかりに支度をしている素振りを見せてやった。
「悪いけど、俺、ロクランに行く準備で忙しいんだ。嫌みを言いに来たんならとっとと消えてくれ」
 荷物などほとんどないというのに、わざと忙しそうに部屋の中をグルグル動き回る青年の姿を見て、レイザークが豪快に笑った。
「何言ってやがる。いいからそこに座れ」
「うるさいな! あんた俺に恨みでもあんのかよ! いちいち俺にちょっかい出しにやって来るなんて、聖騎士様ってのはさぞお暇なんだろうな!」
「そう怒るなって。なんだ、こないだのことまだ怒ってるのかよ。でもま、ホントのこと言われちゃあ仕方ねえだろが」
 セテの顔が急に赤くなり、表情も険しくなる。二日前、レイザークに言われたひと言が頭の中を駆けめぐった。レオンハルトのことを聞いたって聖騎士になれるわけではない。それくらい分かっていた。だが、面と向かってそんなことを言われて、黙ってなどいられるわけがなかった。
「うるせえな! どうせ俺は聖騎士にもなれない、剣もロクに振れない役立たずだよ! いいからほっといてくれよ!」
 セテが簡易ベッドを足で激しく蹴り上げたので、レイザークは肩をすくめた。
「……まったく、どうしようもなくわがままで世間知らずのお坊ちゃんだな。そのヒステリーぶりからすると、生理でもあんのか、お前は?」
 そう言われてセテがまた憤怒の表情でレイザークを睨み付ける。それを無視してレイザークが続けた。
「いいから荷物を持って俺について来い。ロクラン行きは中止だ」
「中止?」
 セテがけげんそうな顔で振り向く。レイザークは頷いて返すと、
「悪い知らせだ。ロクランがアートハルクに占領された」
 セテは無言だったが、目を見開いてレイザークの次の言葉を待つ。一呼吸おいて、レイザークがGパンのポケットからくしゃくしゃになった書類をセテに投げてよこした。中央特務執行庁の紋章の入った緊急の伝令書だった。
「二百年祭の騒ぎに乗じて、まんまとロクランまるごと制圧しやがった。王族をはじめ、ハイ・ファミリーの高官どもやラインハット寺院の術者たちも支配下にある。もちろん中央官舎も見事に包囲され、武装解除されちまった。強力な結界でロクランの国境内全部を覆っているために、外部から侵入することもかなわないそうだ。偵察に行った特使と中央の騎士団の何人かがやられた」
 セテはしわしわの伝令書に目を走らせながらベッドに座りこむ。ラインハット寺院が包囲されているとは。サーシェスの身の安全は確かなのだろうか。心臓が激しく脈打ちはじめる。
「……ロクランへ行かなきゃ」
 伝令書を放り投げると何かに憑かれたようにセテは立ち上がり、飛影を掴んだ。それをレイザークがはたくように制する。
「馬鹿が。行ってどうするつもりだ」
「あそこには俺の友達がいるんだ! 助けに行くんだよ!」
 レイザークの手を振り払い、セテは飛影の鞘をくるりと返した。それでレイザークを突き放すつもりだったが、見事にレイザークにかわされ、足を払われてベッドに倒れ込む。
「ふざけんな! てめえひとりで何ができるってんだ! また同じ轍を踏みてえのか!」
「うるせえ! 俺にかまうな! あんたにゃ関係ねえだろ!」
 セテは即座に起きあがってレイザークにつかみかかる。拳を振りかぶってレイザークの顔に目がけて突き出したのだが、それはあっけなくかわされてしまう。もう一度セテは利き腕で拳を突き出してレイザークの腹を狙うのだが、その腕を掴まれ、ねじり上げられてしまい、苦鳴をあげることとなる。
「いてッ! クソッ! 離しやがれ! この馬鹿力が!」
 セテは今度は足でレイザークの膝を蹴るのだが、まるで巨木に斧を当てるような状態だ。蹴られてもまったく平然としている。そのうちにレイザークの眉間のしわが深くなったかと思うと、
「いい加減にしろ! このクソガキが! ちったぁ頭を使え! 特使の頭は飾りものか!」
 レイザークの拳が見事にセテの顎にヒットした。反動で壁にぶち当たり、再びベッドの上に倒れ込む。騒ぎを聞きつけた他の特使の連中が、ドアの向こうから物珍しげにふたりの立ち回りを覗いているのが見えた。
「ロクランを攻撃せずに占領したってことがどれだけ重要なことか分かってんのか!? のこのこ出かけていってやつらを刺激するようなマネしてどうする! やつらの狙いはロクランを人質にとって中央に要求をのませることだ! 無駄死にしたいってんなら止めねえが、人質のことも少しは考えろ! 剣もロクに振れねえくせに、いっちょ前に血の気だけは多くてやがる! 同じ血の気が多くたって、お前の親父はもう少し頭が切れたぞ!」
 セテは口の中に血の味が広がるのを確かめながら口元をぬぐう。ペッと唾を吐くと、確かに血が混じっていた。
「……やっぱりあんた、親父のこと知ってんだな」
 セテは強烈な一撃でずれたかと思うほど痛む顎をさすりながら、レイザークを睨み付けた。レイザークが身を固くするのがはっきりと分かった。
「母さんだって教えてくれなかったんだ、あんたみたいな赤の他人が教えてくれるわけないとは思ってるけどな」
 それからセテは乱れた前髪をいつもの尊大な態度で掻き上げ、ふらりと立ち上がると、
「いいよ、別に。無理して言わなくても。言いたくないんだろ。だったら俺も聞きたくない。隠すってことは知られたくないってことだもんな」
 子どものようにかんしゃくを起こして暴れるかと思ったら、急に冷めた大人びた視線でそんなことを言うので、レイザークは正直驚いていた。聞きたくないというのなら好都合ではあるのだが、これほど聞き分けがいいとは思わなかった。もちろん、当てつけだということは分かってはいるのだが。
「それにどの道ロクランに行けないんだから、あんたについてくことしかできないしな」
 冷めた視線でセテにそう言われて、レイザークのほうがバツが悪くなってくる。
「で? 俺はあんたについて行ってどうすればいいわけ? 役立たずを連れてったって何の役にも立たないだろ?」
「ずいぶん卑屈な態度を取るじゃねえか」
 レイザークに言われたが、セテはフンと鼻を鳴らして自虐的に笑ってみせた。そこでレイザークは当てつけのように大袈裟なため息をついてやると、こう言った。
「俺んちだ」
「……は?」
「だから、お前がこれから行くのは俺んちだって言ってる」
 そこでセテがまた目を見開いてレイザークを睨み付ける。しばらく冗談か何かとでも思っていたのか、そうやってレイザークを睨み付けていたのだが、
「はぁ? あんた何言ってんだよ。なんで俺が」
「いいから黙ってついて来い。義姉さんからお前のことは全権委任されてる。ロクランの官舎にも行けない、アジェンタスにも宿はない、だったら俺んちに来るしかねえだろが」
 ラファエラから全権委任されているというのは真っ赤な嘘だったが、嘘も方便。そうでもしないとこの青年がおとなしくついてくるとは思えなかった。レイザークがニヤリといやみったらしく笑ってやると、
「なんだよそれ! 勝手に決めるなよ!」
 セテはふてくされてベッドに座りこみ、拳をシーツの上に叩きつけた。それから髪を掻き上げてじろりとレイザークを睨み付ける。腕を組んで見下ろしているレイザークを見上げると、その顔にはまだ薄笑いが残っていた。腕を組んだことで見事に鍛え上げられた上腕二頭筋が盛り上がっている。こんな筋肉ダルマに本気で殴られたらひとたまりもないと思った。さっきのはそれでも手加減して殴ったのだろうかとぼんやり関係ないことを考えていたのだが、そこでようやく頭が冴えて血の巡りがよくなってきたのか、自分の立場が理解できたようだった。どの道いまのセテに選択の余地などあるわけがなかった。
「……分かったよ。あんたについてくよ。その代わり」セテは飛影を掴んで立ち上がり、睨むようにレイザークを見つめた。
「あんたが十七年前にヴァランタインに来たときの話くらいしてくれたっていいだろ」
 セテがそう言った瞬間、レイザークの顔が微妙に引きつったのだが、セテはそれに気付く由もない。
「あんたとレオンハルトと、えーと、それからもうひとり聖騎士がいたよな。確か……そうだ。ダノル! パラディン・ダノル! だっけ?」
「お前、なんでそいつのこと知ってるんだ」
「特使をなめるなよ。コルネリオの事件に関連して、俺だってそのときのファイルぐらいはチェックしてる」
「そうか……」
 レイザークが気のない返事をするので、セテは余計にムキになる。
「でもおかしいよな。聖騎士年鑑を見たって、ダノルって聖騎士の名前がなかったんだぜ? ヘンだろ? そいつ、なんか悪いことでもやったのか? 戦死したって記録されてるけど。でも戦死したくらいで除名になるなんてことないだろ? 気になるよな」
 レイザークの背中にセテがぺらぺらまくしたてる。レイザークはそれを受けて小さくため息をつくと、
「あの事件のことは中央でも最高機密に属する。お前さんが特使だからって、べらべらしゃべるわけにはいかん」
 セテは不機嫌そうに生返事をして髪を掻き上げた。しかしレイザークはセテの顔を覗き込むようにして尋ねる。
「お前、聖騎士年鑑なんて見てるのか。おかしなヤツだな」
 そう言われてセテは自慢げに鼻を鳴らすと、
「悪いけど俺、聖騎士のことならずいぶん小さい頃から詳しかったからな。レオンハルトの影響だけど」
 レイザークは初めてこの青年が顔を輝かせるのを見たような気がした。そう言えば先日やりあった直前にレオンハルトの名を口にしたときは、ずいぶん楽しそうだったが。まったく、複合技で厄介なヤツだ。
「悪いが」
 レイザークはくるりと振り返り、もう一度腕を組んでセテを見つめた。その気迫に圧されて、セテがぴくりと身体を震わせた。
「俺の前でレオンハルトのことはあまり話すなよ」
「なんでだよ。あんた同僚だったんだろ?」
 レイザークの言いぐさが気に入らなかったのか、セテは眉をひそめて抗議をした。
「俺はあいつが気にくわないだけだ。あの裏切り者の話だけは俺の前でするなよ。分かったな」
「昔の同僚なのにずいぶん冷たいんだな」
 セテは不機嫌そうに肩をすくめ、鼻を鳴らして軽蔑の意を表した。それから威圧的な態度で腕を組むと、
「分かったよ。言っとくけど、俺はワルトハイム将軍の命令だってんであんたについてくだけだからな。俺はあんたの人間性について知りたいとも思わないし、あんたも俺のこと知ろうとしてくれなくて結構。だけど、俺の主義主張に対していちいち文句をつけるのだけはやめてくれよな」
 レイザークとセテはしばらくお互いを威圧するような態度で睨み合っていたが、レイザークは自分がムキになっているのが滑稽と感じたのか、腕を下ろしてため息をついた。
「うるさいヤツだな、お前は。いいからとっとと支度をしろ。馬車を掴まえたらすぐに出発だからな」
 そう言うなりレイザークは背を向け、ドアをくぐるように腰をかがめて出ていった。その足音を聞きながらセテはベッドの脚を蹴り上げ、久しぶりの悪口雑言をまくしたてた。

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