第十六話:追放者

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 暑い。まぶしい。
 目覚めた瞬間の印象はただそれだけだった。
 頬を伝う生ぬるい感覚。あごの下に唐突に感じる不快な水の感触で、サーシェスの意識は引き戻された。
 さんさんと照りつける太陽の黄色い光。肌にまとわりつく、これまで体験したことのない熱い大気。目の前には、茶色くて固い毛に覆われた物体。馬の首だ。その馬の首に身体を預けるようにして寄っかかっているところだ。自分の汗が、すり寄せていた馬の首との間、ちょうど自分のあごの下にたっぷりとたまっていたことに気付いて、彼女は不快感から逃れるように顔を上げる。どういうわけか、疲れて諦めたように歩く馬の上に座って気を失っていたのだった。
「ここ……どこ……?」
 周囲を見渡せば広がるのは赤茶けた土の色ばかり。激しく照りつける太陽にさらされて、着ていた服は汗と土埃にまみれてぐっしょりだった。肩が痛むので手で触れようとするのだが、それがままならないことに愕然とする。両手は自分がまたがっている馬の首の前で、頑丈に縛り付けられており、腰回りにも同じように紐が巻かれて、馬の胴体にきっちりと縛り付けられていたのだった。
「止まって。止まってよ!」
 サーシェスは縛られたままの両手を使って軽く馬の首を引いた。馬はすぐに止まったが、疲労でかなり弱まっているのが見て取れた。
 サーシェスは固く結ばれた布きれの結び目をゆるめようと、馬の首の前で手首を乱暴に動かした。その拍子に激しく肩が痛む。なにか矢のようなものが当たった深い傷口。そこから血が流れ落ちた痕があって、服の前身頃は血まみれだった。傷はある程度塞がり、血の跡もすでに乾いているものの、動かした拍子に血の塊がザリッと音をたてて剥がれ落ちる感触がする。そのたびに激痛に呻くハメになった。だがサーシェスはそれを我慢して、少しゆるんだそこから手首を力一杯引く。皮膚がこすれて赤くなっているのもかまわず引き抜き、やっとのことで両手が自由になったので腰回りの紐もはずし、馬を下りた。
 着地の際に再び傷口が開いたのか、血が流れてくる感触がした。さらに腹までもが痛んだので小さく呻く。服の間から覗いてみると、脇腹やみぞおちに青あざが多数にできていた。さらに口元に手を当てると、乾いた血のりがボロボロと剥がれ落ちてくる有様だった。
 一体どうしたというんだろう。確かさっきまで盗賊団との立ち回りをしていたはず。思い返そうとしても、たったひとりで剣を振り上げて馬を駆り、突進していったところから記憶が途切れている。まさかあのあと、〈地獄の鍋〉に落ちてしまったのだろうか。
 戻らなければ。本で読んだ〈地獄の鍋〉は摂氏四十度を軽く超え、日中は最高六十度まで上がることもある。このままでは脱水症状どころか熱中症で死んでしまう。
 もう一度馬にまたがろうとその背に手をかけるのだが、馬は小さくいなないて膝をついてしまう。荒い息で口から泡を吹いているのに気付いて、サーシェスは後ろを振り返る。遠くのほうに揺らいで見える〈地獄の鍋〉の崖。容赦なく照らす太陽に温められた周囲の空気がかげろうのように揺らめいて、さらに壮絶な熱を振りまいている。この暑さの中、自分を乗せたままあそこからここまで歩いてきたとすれば、疲労で倒れてもおかしくはない。
「お願い、立ってよ」
 懇願するようにサーシェスが馬の首に抱きつくが、ふとこれまで歩いてきた馬の蹄のあととともに、点々と残るどす黒いしみを見つけて、彼女は馬の後ろに回る。馬の尻には剣で深々と突き刺した痕があり、そこからずっと大量の血が流れ落ちている状態だった。
「ひどい……なんてこと……!」
 脱水状態だけでなく、出血でも弱っていたとは。もう長くはないだろう。そうなったら自分の脚だけであそこまで戻らなければならないが、それまで自分も無事でいられるという保証はどこにもない。
 フライスのように転移術法が使えれば……。これまで何度となくそう悔やむことがあったが、今ほど思ったことはない。しかも、まだ自分の首には術法封じの首飾りがはまったままだ。
 手も足も出ない。セテとの誓いが、こんなところで終わってしまうなんて。横たわったままかろうじて息をしているだけの馬の首にすがり、サーシェスは固く目を閉じた。
 ふと足下から伝わるかすかな地響きに顔を上げる。乾いてひびの入った赤茶色の地面が、わずかに震え、小さなうなり声をあげているようだ。地中を何かが移動しているような気配。それがだんだんと近づいてくる。
 ボコリ。
 数メートル先の地面が盛り上がり、また何事もなかったかのように元に戻る。またひとつ、地面が盛り上がってこぶになり、元に戻っていく。
 何か、いる!?
 サーシェスは立ち上がり、こぶになっては消えていく地面の奇妙な動きに注意を払った。
 地響きが徐々に激しくなったかと思うと、突然地面がはじけた。土塊とともに飛び出してくる黒い巨大な影。驚いたサーシェスは身を翻してその場を離れる。見上げると、頭に鋭利なはさみを持つ巨大な甲虫が、身をくねらせながらサーシェスと馬を見下ろしていた。
 固い甲羅をつないだような節くれ立った長い身体に、アリのようなはさみのついた頭を持つこの生物は、〈ムカデ〉と呼ばれる辺境の砂漠地帯に潜む凶暴な昆虫類である。体長はおよそ十メートル。大きなものでは二十メートルにも成長するのだという。太陽を受けて輝くようなつるんとした赤い身体が、生き物の血を求めてやまない残虐な性質を物語っている。辺境にしか見られないと言われているのに、中央圏内に生息していたなんて。図鑑で見たことはあっても、間近で見ることはサーシェスにとってもちろん初めてであった。
 〈ムカデ〉は横たわる馬の死体を見つけると、まるで久しぶりに食事にありつける喜びを表すかのように大きく口を開けた。その口には鋭利な小さな牙がびっしりと並んでおり、サーシェスを震え上がらせる。巨体に似合わない素早い動きで馬に食らいつく〈ムカデ〉。地響きとともにぐしゃりといやな音をたてて、その牙が馬の身体に食い込んだ。まだ息はあったのだろう馬の身体から大量の血が噴き出すのを見て、サーシェスは口元を抑えながらさらに距離を保とうと駆けだした。
 野蛮な食事を終えたあと、大きく開けた口からぺろりと舌なめずりの音が聞こえそうなくらいの凶悪な顔で、化け物はサーシェスを見つめた。足がすくむとはまさにこのことだとサーシェスは思った。
(血だ……! 血の臭いに反応してるんだ……!)
 自分の肩口からしたたり始めた血を手で覆い隠そうとしたのだが、すでに手遅れだった。〈ムカデ〉は長い身体を伸ばしてサーシェス目がけて突進してきた。全身に走る痛みなどかわまず、サーシェスは脚に力を込めて地面を蹴る。化け物はチュニックの裾をかすめて、さきほどまでサーシェスのいた地面に激突した。地表の乾いた土が砕け、土埃が舞う。しくじったことに腹を立てたのか、化け物が歯の間からシーシーと不快な鳴き声をあげた。
「冗談じゃないわよ! こんなとこであんたのうんちになってたまるもんですか!」
 サーシェスは再び身を翻し、両手で大きく円を描いて水の法印を結ぶ。
「心正しき者の盾となり給え!」
 術法封じの首輪で術が封じられていることなどすっかり忘れていた。とっさに出たのは水属性の物理障壁呪文だった。だが当然、差し出した両腕からは術法が発動される気配などみじんもない。サーシェスは失念していた愚かさに舌打ちをし、肉体の力だけで化け物と追いかけっこする覚悟を決めた。
 逃げるサーシェスの後を、〈ムカデ〉は巨体に似合わない速度でサーシェスを追いかけてくる。必死になって走るのだが、肩に受けた傷の痛みと脱水症状で足がおぼつかない。それを見計らったのか、あるいは業を煮やしたのか、化け物は頭を大きく振りかぶってサーシェスの身体に体当たりをしようと試みた。
 固い化け物の頭はサーシェスの身体を見事にはじき飛ばしていた。サーシェスの身体は数メートルほど空中を舞い上がり、地面に叩きつけられる。背中から激しく落下したサーシェスはうめき、そして薄れていこうとする意識の中で、逆光に照らされた化け物の黒い口が愉快そうに笑ったのを見た。だがそのとき。
 神聖語にも似た響きを持つ、歌うような声。意味は分からなくても、それが攻撃を意味する呪文の詠唱にも似ているとサーシェスはおぼろげに思った。その詠唱が止んだと同時に、サーシェスに食らいつこうとしていた化け物の身体に亀裂が走る。するどい突風が〈ムカデ〉の身体にまとわりついたかと思うと、それはかまいたちにも似た刃となってその身体を粉みじんに吹き飛ばしていた。
 逆光のためにもはや黒い固まりにしか見えなくなった化け物の身体の一部が、バラバラとサーシェスに降り注ぐ。その向こうに、太陽を背にして中空に浮かぶ鳥のような巨大な羽がゆっくりと舞い降りてくるのが見えた。固い雨を身体で受けながら、サーシェスはその姿をもっとよく見ようと懸命に目を細める。
 鳥の姿をしたその影は、サーシェスのすぐ前に降り立った。だが鳥ではなく、それは人の姿をしているのだということにサーシェスは気がついた。背中に巨大な翼を持った人間の姿。
 天使──!?
 サーシェスは朦朧とする意識の中、ラインハット寺院の文書館で見つけた大昔の書物の中で見た、神々しく美しいその生き物の名をつぶやいていた。神の使いと呼ばれた、美しい翼を持つ伝説の生物の名を。太陽の光が後光のように見えて、まさしくそれは本の中で見た天使の姿そのものだった。
 見下ろすその人影は安心したようにため息をつき、そしてサーシェスの傍らに膝を付いて覗き込んだ。背中の大きな翼がサーシェスの脚をくすぐった。差しのべられた手がサーシェスの頬に触れる。それと同時に、長い黒髪が自分の頬をなでたような気がして、サーシェスは安堵のため息をついた。
 誰? ──フライス──?
 その答えを聞く前に、サーシェスの意識は疲労と痛みに負けて深い闇に囚われていった。






 潜めていた物陰から顔を出そうとした私を引き留める力強い腕に抱きすくめられて、私は小さく抗議の声をあげた。振り返ると、弱い日差しに照らされて輝く黄金の巻き毛。何度となく夢の中や古い雑誌で見た、聖騎士レオンハルトのエメラルドグリーンの瞳が、静かに、と言って私を叱責する。
 ああ、また私はあの夢を見ている──!
「レオン。あの人たち……」
 私はまたレオンハルトに抗議をした。私の声は、小さな女の子のものになっていた。レオンハルトは首を振って、小さな私が飛び出そうとするのを強く抱きしめて留めた。
 私は無言で小さな指を差し出す。指を指したその先には、くたびれた馬に引かせる荷台といっしょにうなだれて歩く、十数組の家族の姿があった。彼らは無言のまま城門の脇を、いかつい兵士に睨み付けられながら歩いていく。
「あの人たち、どこへ行くの?」
 囁くように私は尋ねた。レオンハルトは一瞬困ったような顔をしたが、小さくため息をつくと、
「彼らはこの国から追放される人々だよ」
 彼は無感情な声でそう言った。
「追放? なんで? あの人たち、なにか悪いことでもしたの?」
「悪いことなんか何もしていない。ただ、彼らはここに住まうことを許されなかっただけだ」
「どうして? 何も悪いことしてないのに、どうしてここに住んじゃいけないの?」
 しつこく尋ねる私にいらつくこともなく、レオンハルトは私の瞳をしっかりと見つめ、
「皇帝がそう決めたからだよ」
「皇帝? ダフニスのこと? ダフィがそう決めたの? どうしてそんなひどいことをするの?」
 私がそう言うと、レオンハルトは悲しそうに眉をひそめた。
「そう、とてもひどいことだね。だから私たちは戦う準備をしているんだよ。ダフニスを倒すために……わかるね?」
 念を押すようにそう言われたが、私は激しく首を振った。
「なんで? どうして戦うの? レオンはダフィと喧嘩したの? だめだよレオン。喧嘩しないで。ダフィと仲直りしようよ。ダフィもきっと仲直りしたいと思ってるよ。お城に戻ろうよ。またレオンとダフィとガーティと四人で、楽しく暮らしたい」
 私がそう言うと、レオンハルトの瞳はいっそう悲しげに細められた。伝説の剣士、最強の聖騎士と言われたレオンハルトが、そんなに悲しい顔をするなんてとても信じられなかった。それから彼は困ったように小さく微笑むと、マントのフードを目深にかぶり直し、私の頭にもフードをかぶせてくれた。そして小さな私を抱きかかえ、立ち上がる。
「さあ、戻るぞ。ガートルードが待っている」
 抱きかかえられた私は、名残惜しそうに後ろを振り返る。白銀の壁がまぶしい、美しい白亜の居城が不気味に輝いているのが見えた。
 そう、私はこの風景をよく知っている。あれは確か、紫禁城《しきんじょう》と名の付く悲劇のアートハルク城ではなかったか──!?






「気がついたかい? お嬢さん」
 うっすらと戻りかけた意識に呼びかける声。中年の女性の声だった。その声が引き金となって、サーシェスの意識は夢の中から現実に引き戻された。
 サーシェスは小さくうめき、それから目を開けた。だが、開いているはずのまなこにはいまだ闇が広がっている。そればかりか、暗闇の中にチカチカと光が明滅して、頭の奥がガンガンと割れるように痛む。
「目、見えない……。頭がすごく痛い……」
 つぶやくようにサーシェスが言うと、
「ああ、無理して目を開けようとしちゃだめだよ。太陽で目もやられているはずだから。いま包帯をはずしてやるからゆっくりゆっくり開けるんだよ。頭が痛いのは、さっき薬を飲んだからすぐに治まるはずさ」
 ひんやりと心地いい手が目の辺りをまさぐる。包帯が徐々に剥がされていくに連れて、まぶたの向こうからうっすらと光の気配がした。
「ゆっくり。いいかい、ゆっくり目を開けるんだよ」
 声のとおりにサーシェスは目を閉じたまま眼球をゆっくり回してみる。まだ少しチカチカするような気がするが、それがだんだんと薄れていくのが感じられると、ゆっくりとまぶたを開けてみた。光を感じられるとは言っても、周りはランプの薄い明かりで暗めに調整されているようだった。痛む頭に顔をしかめながら頭を巡らせると、自分が寝かされているベッドの脇に、前掛けをした中年の女性が座って気遣わしげに覗き込んでいるのが見えた。
「ああ、よかったね。もうしばらく休んでいればすぐによくなる」
 女性はにっこりと笑うとそう言った。年の頃はおそらく五十半ばに届くくらいか。乱暴な物言いだが、ラインハット寺院にいた食堂のおばさんたちのような、家庭的な暖かみのある女性だった。
「ここ……どこ……? 私は……?」
 いぶかしげにそう尋ねると、
「あんたはこの集落のすぐ入り口の岩陰に倒れていたんだよ。まったく驚いたよ。いったいどうやってこんなところまで来たんだい。なんの装備もなしに〈地獄の鍋〉を横切ろうとでもしたのかい? 初期の熱中症だったからよかったようなものの、あんな無謀なことは金輪際やるんじゃないよ」
 その言葉でサーシェスはさきほどまでのことを鮮明に思い出した。そうだ。確かに〈地獄の鍋〉で太陽にさらされていたはずだ。途中、〈ムカデ〉に襲われて、それから──。
「あの……天使……は?」
「は?」
「私、〈ムカデ〉に襲われて、間一髪ってところで天使に助けられたの。背中に羽の生えた……。もしかして、あなたがその……」
「なに寝ぼけたこと言ってるんだい」女性は厳しい口調でサーシェスの言葉を遮る。
「天使なんてこの世にいやしないよ。夢でも見たんだろうさ。さてと、あんたまだあたしの質問に答えておくれでないよ。どうしてこんなところまで、あんたみたいな若い娘さんが来るようなハメになったんだい」
 サーシェスは難儀そうに身体を起こし、それから目の前の女性と部屋の中を注意深く見つめた。部屋はどうやらサーシェスを気遣って明かりを落としているようだった。個人宅のようだったが、土塊をくりぬいたようて上から塗り固めたような壁が気になる。
「私、ロクランから〈光都〉に行くところだったんです。その途中に馬車が盗賊に襲われて、そのあと〈地獄の鍋〉に落ちたみたいで……よく覚えてないんですけど」
「ロクランから!? またずいぶん遠くから……」
「ここ、どこですか? ロクランからは十時間も馬車を乗ってないはずなんだけど、そんなに離れているの?」
「離れているもなにも……。ここはロクラン側からは南東にあたるんだよ。あんな太陽の下をここまで横断してくるなんて、飛んででも行かないと無理だってのに」
「反対側? 南東!?」
 サーシェスは頭の中でロクラン周辺の地図を思い浮かべた。ロクランの南側には、確かに広大な〈地獄の鍋〉が広がっている。〈地獄の鍋〉の西側の迂回路を回ってさらにロクランから南西にある〈光都〉オレリア・ルアーノへ向かう途中だったのだが、ここは東側ということか。〈地獄の鍋〉の東側にはさらに崖があり、雄大な渓谷が広がる。その渓谷を横断してさらに東に行けば、エルメネス大陸を囲む海にたどり着く。半日も経たないうちにエルメネス大陸の半分に近い距離を横断してしまったことになると知って、サーシェスは愕然とする。
「驚いたのはこっちのほうだよ、まったく。まぁ、とにかくその傷が癒えるまではここでしばらく休んで行かないと、〈光都〉への旅は無理だろう? あんたも混乱してるみたいだし、しばらくはふらふらするだろうから養生なさいな。おなかがすいたろう。後でなにか食事を持ってきてあげるから」
 女性はそう言ってサーシェスの身体を押し戻し、シーツをかけなおしてくれた。確かに、肩の傷口は丁寧に手当がしてあり、簡素な寝間着に着替えさせられていた。ただ、首にはまっている術法封じの首飾りだけはどうにもはずせなかったのか、そのままだったが。
「ああそうだ。あんたの名前、聞いてなかったね。あたしはマハ。マハおばさんって呼ばれているからそう呼んでくれていい」
「サーシェスです。ありがとう。ホントに、なんてお礼を言っていいか」
「気にしない気にしない。あとで村長もやってくると思うから、そのときいろいろ聞けばいい。逆に根ほり葉ほり聞かれると思うけどね。それじゃ、ゆっくり休むんだよ」
 マハはそう言ってにっこり笑うと、テーブルの上の包帯やら絆創膏やらを持って部屋を出ていった。ドアの向こうでやけに不自然に響く足音を聞きながら、サーシェスは再びベッドの中にもぐりこんだ。
 改めて見回してみることには、ずいぶん暗くて、窓が見あたらないのが不思議な部屋だった。壁は天然の洞窟を掘ったかのようだし、本当に洞窟のようなところなのかもしれない。おかげでずいぶん涼しく感じるのがありがたいのだが、ここはいったいどこなんだろう。〈地獄の鍋〉に隣接して、ロクランから南東にあることはわかるのだが、地図を見る限りではこんなところには集落は存在しなかったはずだ。それに第一、北西まで上っていけばロクランのような豊かな土地があるわけだし、好きこのんでこんなところに住むこともないだろうに。サーシェスは痛みの和らいできたこめかみを指で揉みながら、漠然とそんなことを考えていた。
 廊下を伝って人の声がよく伝わってくる。その声は部屋のほうに徐々に近づいてくると、ちょうどドアの前あたりに来てピタリと止んだ。小さく咳払いをする声がして、サーシェスはドアの前に先ほどマハが言っていた村長らしき人物がこの部屋にやってきた気配を感じ取った。
 ほどなくしてドアが開いた。入ってきたのは意外にも、三十代後半から四十代に手が届いたくらいの男だった。浅黒い肌に神経質そうな目がギラリと異様な光を帯びていたので、サーシェスは一瞬いい知れない不安を感じ取った。
「君がそうかね」
 外見には似合わない柔和な物腰で男がそう言ったので、サーシェスは先ほどまでの不安を頭の中から追い出した。そして、礼を示すために軽く身体を起こそうとすると、
「ああ、いい。横になったままでかまわない。まだ身体のほうは本調子ではなかろうから」
 それから男はそばの椅子に腰掛けると、
「私はこの村の長デニスだ。村、といっても集落のようなちっぽけなものなのだが」
「私はサーシェスです。本当にありがとうございました。助けていただかなければ今頃私は……」
「まぁ気にすることはない。年に何回か、君のような遭難者を〈地獄の鍋〉で救出しているからね。たまにあるんだよ。どういうわけか迂回路から転がり落ちたり、自分の意志で逃げ出してくるような……ね」
 そのとき、デニス村長の瞳がまた神経質そうな光を帯びるのを、サーシェスは確かに見た。だがそれも一瞬のことで、村長の瞳はすぐに優しそうに細められる。
「マハから聞いたが、ロクランから〈光都〉へ行く途中だったそうだね。たいへんな災難だった。その傷が癒えるのと体力が回復するまでは、しばらくここで養生するといい。と言っても、それほどもてなすこともできないんだが……」
 村長は照れくさそうに笑った。サーシェスもつられて申し訳なさそうに微笑む。
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます。でも、何か私にお手伝いできることがあったら、おっしゃってください。体力仕事でもない限りは、いろいろお力になれると思いますし」
「ああ、そうだね。ぜひお願いしよう」
 村長は満足そうに頷いた。
「あの……ところで、ここはどこなんでしょう。ロクランの南東で〈地獄の鍋〉に隣接する集落なんて、私、聞いたことが……」
 サーシェスがそう言った途端に、村長の目が神経質そうに見開かれる。同時になにやら騒々しい声がドアの外に響いているのが聞こえてきた。
「村長! 〈ハルピュイア〉です!」
 ドアが乱暴に開き、何人かの男がそう叫んだ。彼らの手にはボウガンなどの武器がめいめい握られており、サーシェスは肝をつぶす。
「くそっ! 懲りない奴らだ!」
 デニス村長は悪態をつき、迎えに来た村の男たちとともに部屋を飛び出していく。開いたままのドアからは、廊下をあわただしく走っていく男たちや、子どもを抱きかかえて女たちが走っていくのが見えた。わけもわからずサーシェスはその様子を眺めていたのだが、そこへマハがやってきて、迷惑そうな顔をしてドアを閉める。
「まったく、けが人がいるってのに騒々しいったらありゃしない。ごめんね。たいしたことじゃないから気にしないでお休み」
「いえ、あの、私は全然……。でも、なにが起きたんです? 〈ハルピュイア〉って、あの、モンスターの?」
 そうサーシェスが言うと、マハは困ったような顔でため息をつき、
「〈ハルピュイア〉って呼ばれてはいるけど、あんたが想像しているような化けモンじゃあないよ。いまの村長になってからしばしばある、まぁ台風みたいなもんさ」
 だが、武器を手に取って走る男たちの形相は、台風などという天災に対処するものではないはずだ。敵の襲撃に対抗するための、戦闘態勢以外のなにものでもない。
「でも、みんな武器を手に持ってたし……」
 サーシェスにそう言われて、マハがまたため息をつく。
「そうだね。武器を持って台風に対処するバカなんざいないもんね。お察しのとおり、あたしたちはある一族と戦闘状態にあるんだよ。元々それほど友好関係にあったわけじゃないんだけどね、いまの村長の代になってから、やつらとの確執はいっそうひどくなった。そりゃそうさ。いまの村長が、やつらの宝物を奪ったんだからね」
「やつら? 宝物?」
「おいで。この集落を見せてあげよう。立てるかい?」
 マハに支えられてサーシェスは身体を起こした。ふらふらする足に鞭打ちながらドアまでたどり着くと、そこでマハはドアを開け放してサーシェスに周りを見るように促した。そこでサーシェスは息を飲む。
 部屋の外はまるで洞窟だった。いや、本当に岩盤をくりぬいて作られた巨大な洞窟で、そこに横穴を掘り、居住できるように人間が手を加えたものだ。いくつも走る横穴はさらに奥へ続き、枝分かれしているらしく、ちょっとした地下都市といった状態だった。
「ここはね、〈地獄の鍋〉のはじっこ。あたしたちのこの集落は、〈地獄の鍋〉を囲む岩盤をくりぬいた洞窟の中に作られているんだ。外はとても暑くて住めやしないけど、ここなら熱も遮断されて過ごしやすい。いまは戦闘中で見せてあげられないけど、あんたが倒れていたのは、本当にこの集落の入り口だったんだよ」
 サーシェスはマハの説明を聞きながら、呆然と洞窟の高い天井を見回した。横穴の数からすれば、五百人以上は余裕で住めるくらいの広さだ。地図にも載っていないこんな集落があったなんて。サーシェスには想像もつかないことだった。どうやって彼らが生活しているのか気になる。
「でも……ここじゃ地下水だってそんなに期待できないでしょうし、食料だって……」
 サーシェスがそう言いかけると、洞窟の中を伝って激しい轟音が鳴り響いた。そこでサーシェスは耳を塞ぎ、マハも同じような仕草をして顔をしかめる。
「そう、食料を手に入れるのも命がけだったよ。十年くらい前まではね。隊商を組んでわざわざ危険な〈地獄の鍋〉を横断して、ロクランやその周辺の集落まで、食料やら生活必需品やらを買い付けに行っていたんだ。だがそれも、いまの村長になってから必要なくなった」
 轟音が鳴りやんで、再び洞窟内に静寂が訪れる。それからほどなくして、割れるような歓声が洞窟を揺るがした。
「……終わったようだね」
 マハがつぶやくようにそう言った。どうやら何者かとの戦闘が終了した合図らしかった。その証拠に、緊迫していた洞窟内の空気がふっとゆるむ。横穴の扉から、子どもたちを抱えた女性たちがおそるおそる顔を出すのが見えた。
「いまの村長がね、とんでもない宝物を手に入れたのさ。それのおかげで水はあふれんばかりにわき出てくるし、なにも手入れをしなくても薄暗い洞窟の中で作物がぐんぐん育つ。魔法の石だよ」
「魔法の石?」
 サーシェスはけげんそうに首を傾げてそう尋ねた。「魔法」なんてうさんくさい言葉は、たいていが古い歴史の本に出てくる比喩的な言葉だ。すなわち、旧世界《ロイギル》の遺産と呼ばれるもの以外にあり得ない。
「要石《かなめいし》とか言われるものだそうだよ。大昔、汎大陸戦争よりずっと以前に活躍していたモンスターを閉じこめるためのものだそうだ。だけど、不思議なことにその要石がある場所には生命力があふれてきて、どんな枯れた土地でも息を吹き返すとか」
 ぽかんとしているサーシェスを不憫に思ったのか、マハが困ったように微笑んだので、サーシェスも理解を示すように激しく首を縦に振ってみせた。そのうちに入り口のほうから男たちが帰ってくる気配がして、安心したように談笑して歩く村の男たちの姿をサーシェスは見送った。
「ところが、その要石ってのはある部族の宝物だったんだよ。聖域にわざわざ忍び込んで、盗んできたようなものさ。以来、要石を巡ってその部族とこの集落との間にいざこざが絶えない。彼らは要石を取り戻そうと躍起になって襲ってくるし、こちらはこちらで手放すまいと必死になって抵抗する。そういう状態なのさ」
 マハはそう言うとまたサーシェスの肩を抱いて部屋に戻るよう促す。そして、まだ足下のおぼつかないサーシェスの身体を支えながらベッドに横たわらせた。サーシェスはベッドに潜り込みながらマハの顔をじっと見つめる。マハの表情は、集落の悩みの種を憂えるには、あまりにも悲壮な感じがしたからだった。
「そんなに大切なものなら、なぜ一緒に使わないんですか? だって、その人たちと共存して、利益を共有することだってできるでしょう?」
 マハはサーシェスのその言葉に驚いたようだった。しばし目を見開いてじっとサーシェスの顔を見つめ、そしてこう言った。
「そう。一緒に暮らせればいいんだけどね。でも悲しいかな、彼らは人間ではないんだよ」
「モンスター? やっぱり、〈ハルピュイア〉って……」
「〈ハルピュイア〉なんて、村長たちが勝手にそう呼んでいるだけさ。見かけはあたしたち人間とほとんど変わらない。〈風の一族〉と呼ばれていたそうだけど、彼らは厳密にはあたしたちと同じ『人間』ではない。一緒に住めないってのはそういうことだよ」
 マハはそう言って、サーシェスにシーツをかけ直した。だが、サーシェスはなおも食い下がる。
「でも、戦ってまで自分たちの利益を守るなんて、どう考えても理不尽じゃないですか。わざわざ命の危険にさらされながらこんな洞窟に住まなくたって、もっと北西に行けばロクランのような豊かな土地があるわけだし、南西に行けば〈光都〉オレリア・ルアーノがあるし……」
 そこでマハは小さくため息をつき、しばし目を閉じた。
「住みたくても住めない、出て行きたくても行けない、そういうこともあるんだよ」
 その表情がいっそう悲壮な雰囲気を醸し出して、サーシェスは余計なことを聞いてしまったことに気付いた。
「あたしたちの先祖はね、二百年前の汎大陸戦争後、ロクラン建国前の混乱の際に覇権を巡ってデミル・ロクラン将軍たちと争った反乱分子だったんだそうだ。聖騎士レオンハルトとロクラン将軍の軍隊と派手にやらかしてね。敗北してからはロクラン周辺から追放され、それ以来、ロクランやほかの豊かな土地に住まうことを許されなかった。だから、あたしたちはずっとここに縛り付けられたまま。中央の地図にさえ、あたしたちの集落は記されることもない」
 そこでやっとサーシェスは思い至ったのだった。〈地獄の鍋〉を迂回する途中に見た粗末な集落も、ロクランから追放された人々の住まう居住区だったとは。反逆者の烙印を押され、中央の豊かな国々に住むことも許されない人々がいる。これまでの講義で、一度たりとも聞かされることはなかった真実。
「だから、〈地獄の鍋〉を渡ってここまでやってくるのは、たいがいが犯罪者やら逃亡者やらってわけさ。村長もそんなこと、言ってただろう? 私はそうは思わないけど、村長はあんたに会うまでは、あんたもやっぱり自分の意志で逃げ出してきたか、追放された人間だと思ってたみたいだよ」
 マハにそう言われて、サーシェスは無意識に首にはまった術法封じの首飾りに手をやった。犯罪者。追放者。確かに自分は、ロクランから追われてオレリア・ルアーノへ護送される途中だった。この人たちに知られたくない。そんな思いが頭をよぎった。
「さて、こんな辛気くさい話をしても仕方ない。しばらくは襲撃もないだろうから、安心して休むといい。あたしは食事の支度をしてくるよ。疲れただろう。ゆっくりお休み」
 そう言って、マハは小さな子どもをなだめるようにサーシェスの柔らかい銀の髪をなでてやり、部屋を出ていった。
 心臓が高鳴って目を閉じても身体がブルブルと震えだす。知る必要のなかった真実を知ってしまった衝撃が、身体の内側から怒りにも似た熱を帯びてわき上がってくる。どうして中央はこの真実をひた隠しにしているのだろうか。なぜ誰も彼らを許さないのだろうか。彼らを許さないように、自分も許されないのだろうか。
 そう思うと胸が苦しくなってくる。
──悪いことなんか何もしていない。ただ、彼らはここに住まうことを許されなかっただけだ──
 夢の中でレオンハルトはそう言った。そう、ここに住む人々は自分たちの利益を守ろうとレオンハルトやロクラン将軍たちと戦い、そして敗れただけ。そしていまなお許されずにここに住み続け、生きるために他部族と戦い続けるだけだ。悪いことなんか何もしていないのだ。
 なぜ!? どうして!? どうしてレオンハルトは、敗れた彼らに慈悲を与えなかったのだろうか。そうして彼らにそうしたように、私もロクランから永遠に許されることなく、迫害され続けるのだろうか。

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