第二十五話:父の記憶

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 自分の部屋をノックして入ってきた小さな訪問者を、セテは涙の跡が残る腫れぼったい顔で出迎えたのだが、すぐに顔を隠すようにうつむいた。ベゼルが不安そうに鞄を担いで部屋に入ってきたが、その右手には応急処置用の薬や包帯などが入った小箱を抱えている。
「はい、これ。あんたの荷物」
 ベゼルが差し出した自分の鞄をセテは無言で受け取り、また無言でベッドに戻ろうとしたのだが、
「それからレイザークが、右手首を痛めてるはずだから手当してやれって」
 セテの視線が手首を走る。そう言えば気がつかなかった。手首をひねるとわずかに痛みが走る。さきほどレイザークに引き倒されたときに手をついた衝撃で痛めたのだろう。自分でも気がつかなかったくらいなのに、あの大柄な聖騎士は見ていたというのか。
 セテはため息をついて黙ってベッドに腰掛けると、おとなしく右手首を差し出した。ベゼルは部屋の中の椅子をベッドの脇に引っ張ってきてセテの真横に腰掛けると、持ってきた小箱の中から湿布薬と包帯を取りだした。ベゼルは丁寧な手つきでセテの手首に湿布を貼ってやり、その上から包帯を巻いてやる。
「あの……さ……」
 包帯を巻きながら、ベゼルがおそるおそる声をかけた。顔を上げたセテのまぶたはまだ赤く腫れぼったい。
「レイザークのこと、嫌いにならないでくれよな」
 少女の言葉に、セテは意外な顔をした。何を言い出すかと思ったら、さきほど怒鳴られた自分のことではなく、あの口の悪い聖騎士の心配をしているとは。
「レイザークはさ、すっごくいいやつなんだよ。そりゃ、多少言葉は悪いし、口を開けばイヤミか下品な冗談の類ばっかりだけど。でも、オレがアートハルクから逃げてきたときに両親が死んだって話、したよね。それからオレが叔父さん叔母さんに引き取られて暮らしてたって話もしたと思うけど。でも去年、叔父さんが病に倒れてから家を出ようと思ったんだ。オレ、まだ十二だけど、ロクランとまではいかなくても、アジェンタスみたいな大きな都市なら働き口が見つかると思って」
 そこでいったんベゼルは話すのをやめて、セテの顔色をうかがうように見つめた。セテがなにも言わなかったのでベゼルは続きを話すことにした。
「でも世の中そんなに甘くないんだよね。アジェンタスにやってきても結局働き口なんか見つからないし、こんな子どもじゃどこも雇ってくれないのは分かってたけど。剣士の従者にでもなろうかなとも思ったんだけど、悪い奴もいてさ。子どもが趣味の辺境のハイ・ファミリーとかいろーんなえげつない連中に、身よりのなさそうな子どもを売ってる奴らに掴まりそうになって。助けに入ってくれたのがレイザークだったんだ」
 セテは目を見開いて、この小さな銀髪の少女を見つめた。この少女が、外見の割にずいぶんと大人の汚い世界を理解できているのは当然のことだと思った。
「聞けば、レイザークってうちの叔父さんと面識があったんだってさ。オレは覚えてないけど。あ、うちの叔父さんね、宿屋を稼業にしててね、何度かレイザークと朝までベロベロになるまで飲んだ仲だったんだってさ。これはもちろん後から聞いた話だけど。それからオレはレイザークに引き取られて、こうして一緒に住んでるんだけどね」
 包帯を巻き終わり、ベゼルは小さく「よし、と」とつぶやいた。セテは申し訳なさそうに手を引っ込め、きれいに巻かれた包帯を見つめた。
「ああ見えてもレイザークはとっても正義感が強くて優しいんだ。オレみたいななんの取り柄もない穀潰しを、昔の恩義だけで引き取るなんて考えられないもん。だからさ、あいつのこと、嫌いにならないでやってよ」
 ベゼルの懇願するような瞳に、セテは小さく微笑んだ。この少女を見ていると、心が温かくなってくるような気がした。誰かが誰かを必要としている、そんな強い結びつきに琴線がかき乱されているのだと気付くのに、時間はさほど必要なかった。
「ああ。俺は別にあいつのこと、嫌いなわけじゃない。ただちょっと、あいつを見てると自分がだめなヤツだと思わされる、それがいやなだけだ」
 こんな気分を味わったのは、セテにとっては初めてのことだった。まだ学生の時分に、早く聖騎士になりたくていらつき、周りに当たり散らしたこともあった。中央騎士大学に進学してそれは変わった。負けることを知らずにいるうちに、自分は剣の才能があるのだとうぬぼれていたのだとセテは思う。そして中央特使の道が決まり、アジェンタス騎士団への出向を命じられたときもまだ、心のどこかで自分が才能のある人間だと思っていたのは反論できない。
 それは後にして思えば、上司や同僚、先輩に恵まれていただけに過ぎない。本当は自分ひとりでは何もできない人間だったのだと気付くのが、アジェンタスが陥落して、何もかもを失った今になるとは。
 だからつらいのだ。レイザークを見ていると、現役の聖騎士で多くの人間を救える力を持つあの男を見ていると、全身の神経をかき回すような痛みが脳を刺激する。例え聖騎士団がアジェンタス陥落に間に合わなかったとしても、彼はかつてこの少女を救ったではないか。
 それに比べて自分はどうだ。こんなふうにレイザークやベゼルに八つ当たりをして、いらだちが募れば悔しさに涙を流すことしかできないなんて。
 自分をうらやんで、妬んで、恨んで死んでいったオラリーも、そして親友だったレトも、こんな気持ちだったのだろうか。こんなふうに全身を針で刺されるような心の痛みに、脳を焦がすような焦燥感に、ずっと、ひとりで堪えてきたのだろうか──。
 セテの表情が再び曇ったのに気付いたベゼルは、椅子に座り直して背筋を伸ばすと弱々しく微笑んだ。
「あの……オレさ……あんたがどういう人間かとか、あんたとレイザークの間に昔何があったかとかそういうの全然わかんないけど……」
 ベゼルはためらいがちに声をかける。セテが首を傾げて待っていると、
「あの、オレ、あんたが剣を振るってるの、すっごくかっこいいと思ったよ。レイザークについてるといろんな剣士に出会えるけど、あんた、オレが見てきた中でいちばんカッコよかったし、様になってた。すっごく剣士の才能に恵まれてるって気がした」
「よせよ。お世辞言ったって始まらないだろ」
「お世辞じゃないよ。レイザークだって言ってたよ。あんたはものすごい逸材だって。生まれながらの剣士だって言ってた。そういうヤツに会ったの、レイザークはとっても喜んでるみたいだよ。オレはさっきの立ち回り見てただけだけど、あんたがすごい剣士なんだなって思ったもん。だからさ、剣を取るの止めるとか言わないでくれよ。あんたが剣を振るうの、オレ、もう一度見たいもん」
 セテは驚いてベゼルの顔をじっと見つめ、しばし無言で動かなかった。ふとよぎるのはレイザークの言葉──。
「よせって。格好よく見せたいから剣士になったわけじゃないし、格好よく見せたいなんてことも思っちゃいない。俺を慰めようなんて思って言ってるならやめてくれ」
 セテはできるだけ陰険に聞こえないように、少なくともさきほど少女に悪態をついたときのような思いやりのない口調で言うのを抑えたつもりだったが、それでも語尾に少しだけ怒りの片鱗が見えてしまうのだけは隠せなかった。だがベゼルはさほど気にしなかったようで、さっきよりももっとセテの顔に自分の顔を近づけ、覗き込むような仕草をした。
「なんで? 格好いいって見られるのがそんなに悪いこと? なんか、あんたって自分をいっつも否定してるみたい。あんた、ホントはそんなに卑屈なヤツじゃないんでしょ? 態度デカそうだし」
 そこまで言うと、銀髪の少女はしまった!といったように顔をしかめたのだが、
「ごめん。そういう意味じゃなくて。なんて言ったらいいのかな。もっと自信持ってっていうか……。オレはまだガキだしよく分からないけど、誰でも、カッコいいから憧れてその職業に就きたい、なんて思うもんじゃないの? なりたいからなるとか、やってみたいからやるとか、ああいうふうにカッコよく見られたいからとか、それでいいんじゃないかなぁ。だってこんなオレだってなりたいもの、山ほどあるもん。そう思うのなんて自由だし、誰もそれでちょっかいだそうなんて思っちゃいないだろ? だいたい、最初から『崇高な使命を果たしたい』なーんて考えてるヤツなんて、お高く止まってるって感じでいけすかないじゃん。もっとこう、なんてのかな、自然体でいこうよ。あんただって誰かに憧れて剣士になろうと思ったわけでしょ?」
 セテは目を丸くして少女がまくしたてるのを黙って聞いていた。少女はいたずらっぽく笑うと、
「だってさ、あのレイザークだって、あーんな熊みたいな図体してるくせに、子どものころは伝説の聖騎士に憧れてたんだってさ。笑っちゃうよねぇ。聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》のレオンハルトになんて、風貌からしてお近づきになれないのにね」
 少女がおかしくておかしくて仕方ないといった具合に笑い出したので、つられてセテも吹き出した。
 意外だった。あの横柄で底意地の悪い色黒の聖騎士までもが、レオンハルトに憧れていただなんて。セテはあの熊のような聖騎士との距離が、少しだけ縮まったような気がして肩から力を抜いた。
 俺はいったいなぜ聖騎士になろうと思っていたのか。
 心臓が高鳴る。うれしいのとはまた違う、照れくさいのとも別の感情だった。子どものころに忘れてしまった大切な何かを、こんな小さな少女に思い出させられるとは。
 心が珍しく躍っているのだとセテは思った。こんな気持ちになったのは、何年もなかったような気がした。
「だいじょうぶ。俺はまだ剣士を辞めるつもりはないよ。俺にはまだやり残したことが、まだやりきれてないことが山ほどあるんだ」
 そう。起こってしまったことよりも、これから何ができるかを考えなければ。そう思っただけで心がぐんと軽くなるのが感じられた。もう、あの悪夢は見ないような気がした。
 突然、ベゼルの腹のあたりからグゥという醜いカエルのような音がしたので、セテは目を丸くする。ベゼルはあわてて自分の腹を押さえ、顔を赤らめた。もう一度、彼女の腹の虫はベゼルが恥ずかしがるのもお構いなしに大きな音をたてた。
「もしかしてお前、メシ、まだ食ってないの?」
 セテがおそるおそる尋ねると、ベゼルは諦めたようにため息をつき、
「……うん。まぁ。近くで食堂やってるおばさんが材料を運んできてくれたんだけど、オレもレイザークも料理は全然できなくて……。オレは掃除とか洗濯なら得意なんだけど。レイザークはあのとおり、なんもしないし」
 照れくさそうにベゼルが笑い、頭をかいた。つられてセテも笑う。それからセテはベッドから起きあがると、ベゼルの小さな肩をポンと叩いて部屋を出るように促す。ベゼルが不思議そうな顔をしてセテを見上げると、セテは小さく肩をすくめてばつが悪そうに微笑んだ。
「いいよ。俺が作ってやる。あいつも起こしてこいよ。二十分くらいで腹いっぱい食わせてやるから」





 その神業ともいえる手際のよさに、ベゼルは終始目を見開いていた。
 金髪の青年は右手を捻挫しているとはいえ、利き腕の左手だけで貯蔵庫に詰め込んであった野菜や肉類を包丁で刻み、ざるに放り込んでいく。まずは強火で熱したフライパンで肉を炒めたあと、刻んだ野菜を後から入れてしばらく炒める。油の跳ね上がる派手な音とともに、火に当たって鮮やかな色味を帯びた野菜や肉のいい匂いが漂い始めると、調味料を何種類も混ぜてふたをする。蒸し焼きのような状態にしている間、横の調理台で沸騰し始めた深鍋の湯に、といた卵を二個流し込み、沸騰させた後、やはり何種類かの調味料をばらばらと振った。
 隣の炒め物のふたを取ると、セテは火を止め、ベゼルに食器棚にあるスープ皿と大皿をとってこさせた。できあがった料理を皿に盛るとベゼルにテーブルに運ぶよう指示する。それから食器棚の脇の籠に入った固そうなパンを火であぶって人数分に切り分け、こちらも大皿に盛り、今度は自分でテーブルに運んだ。
 並べられたその豪勢な(もちろんレイザーク一家にとっては、だが)料理に、ベゼルは歓声に近い声をあげて、大急ぎでレイザークを呼びに駆けていく。レイザークは部屋でちびちびと飲んでいたのか、片手に氷と蒸留酒の入ったグラスを持ったまま台所にやってきて、そしてベゼルがそうだったように目を見開いたのだった。
「これ、お前が作ったのか」
 半信半疑に問うレイザークに、セテは肩をすくめて答えてみせた。それからセテはふたりを席に着くよう促した。ベゼルが思い出したように台所に駆けていって、セテとレイザークの分のビールを注いで戻ってき、その小さな身体で椅子に腰掛けたのを見計らって、セテはふたりに自前の料理を食べるように促したのだった。ベゼルはもちろん、レイザークまでが子どものようにスープ皿のスープと格闘し始めたので、セテは小さく笑った。
「たいしたもんだな。やっぱりお前は料理大臣就任決定だ」
 炒め物とパンを頬ばりながらレイザークが言ったのを、セテは自嘲気味に笑ってかわし、隣に座っている小さなベゼルに目配せをした。ベゼルも目で頷き、温められて幾分柔らかくなったパンをいっきに口に放り込んだ。
「なんだお前、メシ食うときは右手使えよ。左利きだからってフォークは右手で使うのがテーブルマナーってもんだろ」
 セテが左手にフォークを握っているのを見たレイザークがそんなことを言ったので、セテはため息をつき、
「あんたがそんな細かいこと言うの、けっこう意外なんだけど」
「意外なもんか。俺のお袋ってのがしつけに厳しくてな、スプーンや箸は絶対右で使えって教わったんだ。だから気になるんだよ。ホントは剣だって左手に持つのが許せないくらいだ」
「なんだよ、ハシって」
「ああ、知らんヤツもいたのか。旧世界《ロイギル》の時代から辺境に伝わる、そりゃー洗練された食事用道具のことだ。二本の細い棒でな、こうやってなんでも掴めるしきれいに食べられる。ゲイジュツ的といってもいいもんだ。フォークやナイフなんてあれに比べたら無粋なことこの上ない」
 レイザークが箸と呼ばれる道具について手で説明するのを興味なさそうに見つめると、セテは、
「どうでもいいけど、あんた左手を差別してるよな」
「差別じゃない、こりゃあ俺のポリシーの問題だ」
「はいはい。右手で持ちゃいいんだろ」
 セテがフォークを不自由な右手に持ち替えて器用に野菜をつついたので、ベゼルが感心したように頷いた。
「なに? 右手も使えるの? 便利〜」
「一応。母さんが右手も使えるようにって訓練してくれたからな。でもペンと剣を持つのだけは左手だけど」
 セテが自慢げにそう言うと、レイザークは鼻を鳴らし、
「気に入らん。左手の剣士なんてダノルだけで十分だ」
「…あんた、意外に子どもっぽいんだな」
 セテは肩をすくめてそう言った。だが、ふと聞き流した言葉に、セテは身を乗り出してレイザークの顔を見つめた。
「ダノル……。ダノルって……パラディン・ダノル? あんたとレオンハルトと三人でヴァランタインの任務にやってきたっていう、そいつのこと……?」
 レイザークが眉間にしわを寄せて睨み付けたので、セテはいったん身体を引き、椅子に座り直した。
「なんだ。またレオンハルトの話が聞きたいとか言うんじゃないだろうな」
「いや、そういうわけじゃないけど……。なんだよ。レオンハルトの名前が出ただけで悪態つくなよ。あんただってレオンハルトに憧れて聖騎士になったくせに」
 言われてレイザークの顔がひきつる。まさかこの金髪の青年に自分の秘密を知られていたなんて、とでも言いたげな顔だった。その横でベゼルは大笑いをし、
「ごめんレイザーク! セテにチクっちゃった。あんたが伝説の聖騎士に憧れてたってさ。あきらめなよ。今度はあんたの負けだからね」
 銀髪の少女がバンバンとレイザークのたくましい腕を叩いたので、彼は殊勝にも赤くなった顔で大袈裟に咳払いをした。
「坊主、今度それを口にしたら、もう一度デュランダルでぶった切ってやる。今度は幻覚じゃすまんぞ」
「はいはい、分かりました。あんたもいい加減、人の名前覚えろよな。特使は一発で人の顔と名前を覚えることができるのに、聖騎士ってやつはホントに使えないな」
 してやったりと、セテはにやにやしながら頷き、ビールジョッキに口を付けた。レイザークも悔し紛れにビールをあおり、当てつけのように盛大なげっぷをしてみせた。それから目の前の青年がパンをちぎり、口に運ぶのを見守ってから大きなため息をついた。
「まあいい。料理の腕に免じて、お前の知りたがってたことをひとつ教えてやる」
 セテはあわててパンを飲み込み、喉につかえたのか手元のビールを勢いよくあおってやっとのことで胃の中に流し込んだ。知りたかったこととはどの話をいうのだろうか。レオンハルトのことか、レイザークの過去のことか、それとも──。
「お前の父親の話だ」
 言われて、セテの背筋がピンと伸びる。フォークを握りしめる手の関節が、知らず白くなっていた。
「お前の父親は、立派な聖騎士だった。それも、聖騎士団の中でも一目置かれていたほどの」
「……知ってる」セテはできるだけ冷静に答えたつもりだった。
「隊長が……スナイプス統括隊長が少しだけ話してくれた。聖騎士になる前は、アジェンタス騎士団にいたってことも聞いた。聖騎士になって、たぶん任務で死んだんだってことも。でも、俺が知ってるのはたったそれだけのことだ。名前も、どうして死んだのかも知らない」
「そうか」
 ベゼルが空いたジョッキにビールを注ぐのを見届け、それに一口つけてからレイザークは、セテの顔を険しい表情で見つめる。
「俺は彼の部下であり、友人であり、好敵手だった。おそらく俺はレオンハルトの次に──お前の父親と長く過ごしてきた」
 やはりそうか。セテはごくりと唾を飲み、レイザークの顔を見つめて心の中でつぶやいた。
「顔は……確かにお前とはそんなに似てない。お袋さん似だというのも頷けるが、それでもお前と同じ金色の髪をしていて、薄いブルーの瞳で、よく笑う表情豊かな男だったな。誰からも好かれて人なつっこい、おまけに十歳も上なのに、俺のほうが年上に見られるくらいの童顔で──。そういえば女性にもよくもてたみたいだ」
「モテてたんだ」
 セテが鼻で笑うようにそう言ったので、レイザークは我関せずといった感じで
「詳しくは知らんがな」
 と、肩をすくめた。
「だがひとたび剣を──お前が持ってる飛影《とびかげ》を握れば、まさに戦神のごとく勇猛果敢に戦い、舞うように剣を振るった。聖救世使教会主催の御前試合で、あのレオンハルトと引き分けたのも、後にも先にも彼だけだ。そして彼も例外ではなく、聖騎士レオンハルトに憧れて、アジェンタス騎士団に入団してからも必死になって聖騎士試験を受けたそうだ。情熱的で子どものまま大人になったみたいな男で、誰からも好かれ、自然と人が集まってくる、俺は彼のそんなところがとても気に入っていた」
 手の平がじっとりと濡れてきて、フォークを持つのがおっくうになってきたので、セテは静かにフォークを皿の横に置き、両手の平をGパンの膝で拭った。
「俺は中央騎士大学時代に試験を受けて聖騎士団に正式に入団することが決まってから、すぐにお前の親父さんの下に配属された。剣士としての心得をたたき込んでくれたのは、お前の親父だった。親父さんはレオンハルトと仲がよくってな、おかげでお前の親父とレオンハルトと俺と三人で任務をこなす機会によく恵まれた。親父さんは俺やレオンハルトによく言ってたもんだ。息子が生まれたら、絶対に聖騎士にしてやるってな。実際、お前が生まれたときにはそりゃもう大喜びで、俺やレオンハルトに我が子の自慢ばかりする親ばかぶりを披露してくれた。お前のお袋さん──ナルミは、そんなふうにダンナが仕事中に親ばかぶりを発揮しているもんだから、さすがに苦笑していたようだがな」
 セテはクスリと笑い、その先を待った。子どものころの記憶のどこにもいない、自分の父親の姿。彼がまぎれもなく自分を愛してくれていたのだと知ることができただけで、もう満足だとも思ったのだが。
「お前の父親の名は、ダノル・トスキ。聖騎士の称号を与えられてからは、パラディン・ダノルと呼ばれていた」
 ふいに訪れる静寂。呼吸をするのさえためらわれるほどの間。全身の皮膚の毛穴がきゅっと閉まり、筋肉を硬直させる。
「パラディン……ダノル……!」
 うめくようにセテがそう口にしたのは、息苦しさに根負けした肺が許したため息が出るのと、ほぼ同時だった。
 アジェンタスの街アルダスを蹂躙し回ったレトが死んだ後、セテはアジェンタス総督府の資料室で不可思議な報告書を見つけた。十七年前の春、やはりレトと同じように狂い、アジェンタス住民や騎士団の人間たちを斬り殺して回った剣士がいたという、アジェンタス総督府や提督にとってはあまり名誉ではない事件の記録だ。その事件のために、聖騎士団から派遣されてきた三人の聖騎士の名前が記録に残されている。それが、レオンハルトとレイザーク、そして──パラディン・ダノル。最後のダノルという聖騎士は、この事件で戦死したと記録されていた男だ。
 点と線がつながった瞬間であった。
「やっぱり……そうだったんだな……」
 セテはあえぐようにそう言い、うつむいたままレイザークの顔を上目遣いに見つめた。
「十七年前のその記録、事件の詳細についてはほとんど抜け落ちていたからおかしいなと思っていた。俺が尋ねてもみな知らんふりをして、腫れ物に触るような感じだったから……。でも、その事件で戦死した聖騎士ってのがまさか父さんだったなんて、ホントに思いもよらなかった」
 セテはうつむいたまま前髪をかきあげ、大きなため息をついた。それから頭を抱えるようにひじをついた両手で顔を覆い、レイザークが話すその先を待った。
「隠していたわけではない。お前がまさかあのダノルの息子だとは思わなかったからだろう。俺もそうだ。まさかダノルの息子に、あいつが死んでから会うことになるなんて思ってもみなかった。それに、アジェンタス騎士団にとってもお前の母親にとっても、聖騎士団にとっても、ダノルの死によってできた傷は深く、まだ痛みを発している。だが、お前には謝らなねばなるまい」
 レイザークは空いたジョッキを脇にずらすと、両手を祈るように胸の前に組み合わせ、頭を下げた。
「十七年前、俺もレオンハルトも、お前の父を救えなかった。俺は最後まであいつの側についていながら、あいつを助けることができなかった。……すまなかった。だが、ダノルは本当に最後まで勇敢に戦い、聖騎士の名に恥じない立派な剣士だった。俺は、あの男の部下であり友人のひとりであれたことを、今でも誇りに思っている。そして、同じ左利きで飛影を振り回す、性格そっくりな息子を残してくれたことに、感謝している」
 殊勝にも頭を下げて詫びるレイザークに、セテは鼻の奥がつんとするのを感じながらも首を振ってみせた。だが、少し首を振った拍子にふいに涙があふれてきたので、セテはうつむいて顔を手で覆った。
 顔も知らない実の父。勇敢な聖騎士だったという父。よく笑い、誰からも好かれていたという父。父が自分を抱きしめてくれた記憶はまったくないのに、それでもあふれて抑えきれない父への思慕。自分が生まれたときにはさぞおおはしゃぎで、大袈裟なくらいに愛情を注いでくれたのだろうと思いを馳せるだけで、涙が後から後からあふれてきた。
 父に会いたかった。聖騎士としてあちこちを飛び回って家にあまり帰れなかっただろうあのときに、もう一度、戻って言いたい。母さんを愛してくれてありがとう、と。そして、自分を愛してくれてありがとう、剣士の才能を自分に残してくれてありがとう、と。
「いいよ、レイザーク。あんたのせいじゃない。もうすんだことだ」
 セテは鼻をすすり、顔を拭った。
「でも、話してくれてありがとう。俺はあんたの口から親父の話が聞けただけで十分だ」
 セテはもう一度顔をゴシゴシとこすり、隣のベゼルを見やった。ベゼルが神妙な顔をしてセテを見つめていたので、セテは少女に心配するなと目で伝えてやった。
「今日はもう寝るよ。明日の朝、片づけておくんでそのままにしておいていいから」
「ああ、そうだな。そうしろ」
 レイザークがまだ苦悶の残る表情でビールジョッキを睨んでいるのを見やると、セテは席を立ち上がって頷き、奥の部屋に歩いていった。
 ドアの閉まる音を確認したかのように、レイザークが深い深いため息をついたので、ベゼルもつられてため息をついた。そして、大皿に少し残った野菜をフォークでつつきながら、大柄な聖騎士の顔を盗み見る。
「なんか……壮絶なカンケーがあったわけね」
 知ったふうな口調でいう少女をレイザークはギロリと睨むと、
「子どもが口を挟むことじゃない」
 と、またビールをあおった。
「……そっくりな息子を残してくれたことに感謝している──か。ふん、ものは言いようだ」
「なによ。あれも口から出任せなの?」
「うるさいガキだな、お前は」
「あんたサイテー。あいつ泣いてたじゃないか。本気で信じて感動してたんだろ?」
「だれが嘘だなんて言った。俺は本当のことしか言わん」
「じゃあなんだってのよ」
「あいつが中央特使でいる限り、そのうち本当の話を知るときがくる。俺はそれが──」
 そこまで言いかけて、レイザークは口をつぐみ、空いたジョッキをじっと睨み付けた。
「なによ。やっぱり嘘だったんじゃない」
「うるさい。いい加減お前も寝ろ。明日はお前も市場に行く日だろう」
 そう言われたベゼルはあてつけのように大きく頬をふくらませ、抗議の意志を表明した。だが、もうレイザークが話を続ける意志のないことを察して観念したのか、乱暴に椅子から飛び降りるとパタパタと自分の部屋に戻っていった。





 肩につくくらいに伸びた金髪は、太陽の光を受けると蜂蜜のように輝いて見えた。その髪をうざったげに掻き上げたあと、Gパンのポケットから細いリボンを取り出して、面倒くさそうに後ろで縛り上げる。まだ長さの足りない横の髪が落ちてくるのを掻き上げながら、男は足下にまとわりつくようにじゃれている小さな子どもを抱き上げた。
「お〜。ずいぶん重くなったな。いくつになった?」
「五つよ。ひどいお父さんねぇ、セテ。自分の息子の年も覚えてられないなんて」
 隣で笑いながら寄り添う、金髪の女性。母さんだ。まだ二十代なのだろう。すごく若くてきれいだ。幸せに包まれてるって感じで、本当にうれしそうに笑っている。
「そうか、お前、もう五歳になったのかぁ。子どもってのはちょっと見ないうちにホントにデカくなるもんだなぁ」
 そう言って、男は子どもを──俺をぎゅっと抱きしめる。


 ああ、父さん。
 聖騎士だった、俺の父さん。
 あなたの笑顔は本当に太陽みたいに輝いて見えるし、あなたの髪は太陽みたいないい匂いがする。そうか、これは俺が忘れていた子どものころの記憶なんだ。あなたがまだ生きていたころの、こうやって仕事の合間に俺を抱きしめていたころの、家族三人幸せに暮らしていたころの、幸せな記憶が見せる夢なんだね。



「父親がいなくても子どもってのは育つもんなんだよ、ダノル。あんたもちょっとは反省して、今度こそ有給取って家族と一緒に過ごしてやれよ」
 父さんの脇をこづいたのはレイザーク。顔を横切る派手な傷も、人を威圧するような険悪な表情も見えない。でも、このころから大柄で、若いくせにずいぶんな貫禄がある。二十二、三歳のレイザークなんて、信じられないけれど。
「なんだ、先輩に意見する気か、レイザーク。ずいぶん出世したもんだな」
 そう言うものの、父さんはレイザークを見ながらニヤニヤしている。こういったやりとりができるほど仲がよかったってことなんだろう。
「そうだ、今夜はうちに来てナルミの手料理でも食っていってやってくれよ。レオンハルト、お前もいいだろ?」
 父さんとレイザークのやりとりを、目を細めて楽しげに見つめていたレオンハルトを振り返って、父さんがそう言った。伝説の聖騎士が頷くと、隣にいた母さんが満足そうにため息をついたのが聞こえた。


 そうか。父さんは本当にレオンハルトと一緒に仕事をしてきた聖騎士なんだな。
 うらやましいよ、父さん。
 俺の知らないレイザークやレオンハルトのことを知ってて、いつも太陽みたいに笑って。
 俺をこうやって抱きしめてキスをしてくれて。
 それなのに俺と母さんを置いて死んじまって。
 みんなをこんなに悲しませたくせに、夢の中ではこんなふうに幸せそうに微笑んで。
 父さん、あなたはずるいよ。


 なにか陶器のようなものが床に落ちて激しく割れる音とともに、あたりは闇に包まれた。同時に乱暴にドアの開く音。突然の闇の中に、廊下から漏れる明かりが差し込んできて、ドアを開けた人物の影をくっきりと浮かび上がらせる。その左手に長細い剣を持って肩で息をする男が、戸口で俺を見下ろしていた。
「見つけたぞ、売女の息子が」
 どこかで見たことのある風景だ。
 いつか、こんな夢を見た記憶がある。
 まだ夢の続きなのだろうか。
 でも、俺はこの光景に見覚えがある。ここは俺の、父さんと母さんの家のはずだ。
 悲鳴をあげながら母さんがすっ飛んできて、男の背中にしがみついた。だが、男は母さんを振り払ったので、母さんの華奢な身体は地面に叩きつけられる。
「母さんをいじめるな!」
 俺は立ち上がると、男に向かって叫んだ。男は鼻を鳴らしてニヤリと笑うと、
「生意気な口を利く。さすが売女の腹から生まれただけはある」
「やめて! ダノル!」
 ダノル? 母さん、いま、なんて?
「うるさい! 親子して俺を小馬鹿にしていたんだろう!? 俺の息子と偽って、お前はいつまでもあの男に未練がましく思いを寄せてたんだろう!?」
「違う! 違うわ!」
「俺がその妄執を断ち切ってやる! お前の愛したあの男の忘れ形見をな!」
 男は──父さんはそう言うと俺の襟首を掴んで床に引き倒した。振り上げた左手には、父さんの形見の──俺の愛剣・飛影《とびかげ》が銀色の鈍い光を受けてギラリと光っていた。
 そして小さな俺は、恐怖にかられて壮絶な悲鳴をあげる。
 そこで俺の意識は完全に眠りに落ちていった。


 お前は誰だ?
 俺の夢に出てきてこんな悪夢を見せるお前は、いったい何者だ?
 お前なんか知らない。
 父さんなんかじゃない。
 俺の知ってる父さんは、いつも楽しそうに微笑んで──
 だからこれはただの悪夢だ。
 明日になれば、俺はこんな夢のことなんか忘れて、いつもどおりに生きていける。
 だからもう……。


 忘れよう。
 俺はもう、なにもできない小さな子どもではないんだから。

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