第三十話:神々の追跡者

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神々の黄昏──
天統べる数多の神、人を嘆き、その御姿を御隠せり
人、英知の光失い、時代《とき》、漆黒の夜に包まれり
人の子ら、暗闇の雲、翼広げるを知らむ
恐怖と絶望の復活
されど、何憶もの光を超へ、眼れる救世主、再び目覚めん
やがて、大いなる知恵と力を持ちて、暗闇の雲、追い払うべし──


 薄く紅をさした花のような唇から、『神々の黄昏』の序文がつぶやき出された。それと同時につややかな黒髪が揺れる。
「語り部になりきった伝承かぶれが作った、できの悪い散文といったところだな」
 ガートルードは鼻で笑うと、隣で控えているアートハルクの研究者ベルーゾーを振り返り、同意を求めた。術者のものに似た長衣を羽織ったベルーゾーは、同意を示すとともに眉を大げさに動かしてみせた。
 部屋の中央から天まで届くかと思われるほど遙かな天井へそびえる天蓋の、その下にしつらえられた火焔帝専用の寝具に、ガートルードはゆったりと座っている。しなやかな糸で丁寧に織られた前あわせの薄衣をまとってくつろいでいるようだった。その脇には、女帝の寝室にはおよそ似つかわしくない無粋な鉄の箱がいくつも並べられている。ベルーゾーはそれらの前に引き寄せてきた柔らかな革張りの椅子に腰掛けて、豪勢な大理石の応接用テーブルの上に置いた、つまみやボタンがぎっしりと並んだ薄い板のような物体に熱心に指を走らせていた。
「『神の黙示録』第二章、第三章のいずれの冒頭にも必ず登場する散文ですな。その後に続く本体そのものにも巧みに組み込まれたこの文の初出は、おそらく我々の手元にない第一章。これが何か重要な事柄を伝えようとしているのは間違いないはずなんですがね。なぜこのようにあえて分かりづらく、古めかしい言葉で綴るのか。ただの戯れ言でないならば、その真意は『真実を覆い隠すため』にほかならない。なにを隠し、なにを伝えようとしているのか。暗号なのか、それとも……」
 板にびっしりと並ぶボタンの上に、信じられないほどの速さで指を滑らせながら、初老の研究者は独り言のようにそうつぶやいた。
「お前には分かっているのではないか? ベルーゾー。智恵院始まって以来の『裏切り者』なわけだからな」
 ガートルードは口の端に意地悪そうな笑みを浮かべながらそう尋ねた。
「手厳しいですな、火焔帝は」
 ベルーゾーは大げさな芝居がかった仕草で肩をすくめて笑った。
「何度も申し上げているとおり、『神の黙示録』は第一級機密事項、我々智恵院の研究者が知り得る内容は上っ面だけのクズデータばかり。私のような二等級の研究者でも、レベル4より上位の情報にはアクセスできないんですよ。しかも、三つに分かたれたそれぞれは分散していて中央の手元にもない。だからこうして、あちこち虫食いのように抜け落ちた膨大な情報だけで解読を進めて、何が書かれているかを探ろうとしている。お忘れでしたかな?」
「お前にしてはずいぶんいいわけがましい言い草だな、ベルーゾー?」
 ベルーゾーの言葉に、ガートルードはクスクスと笑った。初老の研究者は大きなため息をつく。
「私がべらべらしゃべってしまうのを期待してらっしゃるようですが、残念ながら隠し事はすべてお話したはずですよ、ガートルード様。先代のダフニス皇帝が発表した『第三章』のほんの一部の情報だけでも、1から5までの情報レベルに分けられていますが、レベル4と5に関しては、おそらく中央で知り得る者はいないでしょうな。聖救世使教会祭司長によって、永遠に封印されているわけですから」
「祭司長が封印……か。ふん。大昔、どこぞの法王があまりの内容に失神し、以来外部に公開することをいっさい禁じたという、うさんくさい文書のような話だな」
「『ファティマの予言書』ですか。火焔帝は前時代の宗教についても博識でいらっしゃる。三つの予言からなるその予言の二つ目までは、後付けの解釈ながらも二十世紀後半に登場したさまざまな兵器や戦争について予言されたものだった。そして、件の最後まで封印されていた第三の予言に関してはさまざまな憶測が飛んだようですな。世界の終末を克明に書いたものだとかなんとか。ところがどっこい、二十一世紀についに発表されたその最後の予言は、法王自身の暗殺計画について予言されていたものだったというわけですから、まったく、人騒がせにもほどがある」
「宗教とはそういうものだ。ときに人に生きる力を与え、異教徒を平気で殺せる力も与える。そのために、戒律を守らねば滅亡が訪れるのだと、嘘でもなんでも利用して己が神を畏怖させ、信じさせなければならないわけだからな。よくできた話ではある」
「あなたがた偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》というのは、みなそのように皮肉屋なのですかな」
「もちろん、皮肉屋なのは私だけだと思うがな」
 珍しいガートルードの軽口に、ベルーゾーは大きく笑った。
「冗談はさておき、レベル3までのクズとはいえども、通常の二等級の研究者も一等級の研究者も存分に解析できてはおらんかったですからな。レベル4から5までにいったい何が記されているのか、憶測の域は出ませんな。もともと分割圧縮された三つの章、暗号化された三つがそろうことなくそれぞれを解答するには、足りない情報にダミーの情報を当てはめて解析する方法しかない。まったく、我らが偉大なる神々も、よくも分割して隠すなどという暴挙をしでかしたものです」
 そう言って、元中央の研究者は面倒くさそうに顔をしかめてみせた。ガートルードはしばし顎に手を当て、考えを巡らせていたのだったが、
「お前はどう考える? 我々の解釈と中央の解釈はどれほどの差があるのか。我々の、私の解釈は間違ってはいまいか」
 問われたベルーゾーはボタンに指を走らせ、最後にまるで鍵盤を演奏し終わった奏者のように指を大きく跳ねさせた。すると、彼のいじっていた板の脇に立てかけられた四角いパネルに、膨大な量の文章が映し出されたのだった。研究者はそれを指でたどりながら、
「天統べる神々とは、おそらく第一次入植者たちのことと考えられる。御姿を御隠す、とは文字どおり、何らかの原因で彼ら第一次入植者たちが全滅、あるいは絶滅寸前のところまで追い込まれたのではないかとも考えられる。我々の時代の『神々の黄昏』の伝承になぞらえて考えても妥当なところだろう。だが第一次入植者たちが全滅の危機に瀕したことで、我々の時代は文明をも失うこととなる。これが最初の黄昏の時代に相当するに違いない。フレイムタイラントを使った全面戦争といったところか。そうして惑星全土に暗黒の時代が訪れる。これは伝承にも伝わるとおり、『楽園の終焉』を意味するのだろう」
 そう棒読みでパネルに映し出された文書の内容を告げると、ベルーゾーはニヤリと笑い、
「ここまでは中央の研究チームの解釈によるものです。あなたの解釈とほとんど変わらない。だが、翼を広げた暗闇の雲とはなんなのか、外敵なのか、天災なのか。暗黒の時代に対する比喩とするにはあまりにも抽象的すぎるし、何億もの光とは距離なのか、それとも時間なのか。それを超えて復活する救世主とはいったい何者なのか。彼らはまだ解析できておりません」
「確かに、上っ面のクズデータだな。残りのレベル4と5もたかが知れている」
「銀嶺王がここまでしか発表しなかったことに感謝すべきでしょうな」
 ガートルードはその美しい黒髪を掻き上げて頭上の天蓋を見上げると、許しを請うかのように目を閉じた。白磁の肌に、苦しげな眉が歪む。
「暗闇の雲が我々を包み込むまで残された時間は少ない。そして我々がなぜ同じことを繰り返さなければならないのか……中央のアホウどもは知るよしもない……か」
 そう言ってガートルードは寝具に静かに身を横たえた。
「聖救世使教会の祭司長ハドリアヌスだけは知っているのでしょう。〈母星〉から飛来している星間弾道弾や無人殺戮戦艦《オート・ジェノサイダー》のことを。だからこそ、隠している。あるいは、わざと歯抜けの情報を混ぜて攪乱しているのが、ハドリアヌス本人なのかも知れませんよ。最後の利権にしがみつくためにね」
 ベルーゾーは火焔帝に細い線のついた絆創膏のようなものを二本差し出した。彼女は無言でそれを自分の両こめかみにはりつける。
「では、始めましょうか。今日は深層レベルを四十に設定して潜行《ダイブ》します。お気を楽に」
 ベルーゾーの指示で、ガートルードは静かに目を閉じた。ベルーゾーの指はその間もせわしなく無数のボタンを滑り、脇のパネルには次々と難解な数式が映し出され、映し出されては消えていく。
 しばらく緊張が見られたガートルードの脈拍であったが、そのうちに深い寝息を立て始めたようだった。黒地に緑色の文字でパネルに緩やかに映し出されていた数式がとたんに激しく明滅し、やがて緑色の光の輪を作りながら回転する数字に分解されて消えていく。パネルいっぱいに広がった数字の乱舞は、ガートルードの呼吸に比例しているようにも見えた。
 ベルーゾーはもうひとつボタンの並ぶ板を引っ張り出してきて、立てかけたパネルに映し出される緑色の数式が踊り狂うのを横目で見ながら、一心不乱にボタンに指を叩きつける。火焔帝の寝具を囲んでいた無粋な鉄の箱が、急にヒュイィィンといやな音を立てた。内部で何かが高速に回転しているような音であった。その不快な回転音に紛れて、ときたまカリカリとひっかくような音が聞こえる。それすらもかまわずに、初老の研究者は熱心にパネルとボタンと格闘していたのだったが。
「相変わらず熱心なことだな」
 背後からの憮然とした声に、ベルーゾーは仕方なく振り向く。火焔帝の寝室の、旧世界《ロイギル》風にしつらえられた豪勢な彫り物のある扉の脇に、真紅の竜騎兵《クリムゾン・ドラグーン》が腕を組んで立っていた。
「アトラス殿、いつからそちらに」
 軽く会釈を返しただけですぐにまたパネルに視線を戻しながら、ベルーゾーは言った。アトラスは肩をすくめながら、
「さきほどから何度かノックはしたつもりだったのだがな」
「そうですか、それは失礼を」
「まったく、寝食も忘れそうな勢いだな、お前は」
 アトラスは呆れたようにそう言いながらベルーゾーに近寄ってきた。襟のついたシャツとGパンというくだけた格好のアトラスは、裾の長い黒の戦闘服を着ているときのいかめしい雰囲気はなく、年相応の青年らしく見える。無造作にのばした赤茶色の髪を後ろに束ねているので、余計に若く見えるのだった。
「これも私の仕事ですからな。こうして火焔帝も理解を示してご協力くださる」
「『神の黙示録』第二章と三章の解読か」
「さようで。ときにアトラス殿、ガートルード様にご用だったのでは?」
「特に用はない。暇を持て余していたので立ち寄っただけだ」
 アトラスはそう言い、応接用の椅子を持ってきてベルーゾーの横に腰掛けた。長い足を横柄に組んで座るときにブーツの先が少し鉄の箱を蹴ったので、ベルーゾーはあわてる。だが、アトラスが申し訳なさそうに首を振ったのでよしとしたようだった。
「お察ししますよ。予定どおり我が軍のロクラン占領とアジェンタス騎士団領殲滅が華々しく新聞の一面を飾ったからには、待機せざるを得ませんからな。ハルタ将軍もずいぶん退屈してらっしゃるようで、先ほどから城内を意味もなくフラフラ歩き回っておられる」
「俺もそうだが、軍人というのは戦っていないときは本当に役立たずだな。戦場で自分の軍隊を指揮してないと居心地が悪い。ハルタの気持ちは分かるが、あのジジイはどうにも好かん。戦闘に関する知識と能力は認めるがな、説教くさい」
 アトラスの言葉にベルーゾーはパネルから視線をはずさぬまま吹き出した。
「ジジイとはずいぶんな言い草ですな。ハルタ将軍は私とたいして年の違わぬ方ですぞ。私めをジジイ呼ばわりなさるおつもりですか」
「外見の話だ。ハルタは戦争ばかりやってきてるから、お前に比べてずいぶんくたびれて見える。そのくせ会えば俺に説教ばかりして、まるで親父を見ているようだ」
「なるほど、アルハーン大公に……ですか。確かに風貌も性格も亡きお父上によく似てらっしゃる」
 ベルーゾーは顔を上げ、隣にいるアトラスの顔をまじまじと見つめた。そこでアトラスは自分がしゃべりすぎたことに気づいて鼻を鳴らし、ふてくされたように顔をそらした。
「ハルタ将軍は、あなたのことをたいそう心配してらっしゃるのですよ。それこそ、ご子息のようにね」
「もういい。説教ばかりするのは、親父とハルタで十分だ」
 ぴしゃりとアトラスが強い口調でそう言ったので、ベルーゾーは再びパネルに視線を戻して作業を進めることにした。そっぽを向いていたアトラスも、しばらくするとベルーゾーの指が華麗に動き回るのと、パネルに映し出される文字列をのんびり眺めるようになった。
「それが『神の黙示録』に記されている情報なのか」
 アトラスはずいぶん興味を持っているようで、いつの間にかベルーゾーの横からのぞき込むようにして身体を乗り出していた。ベルーゾーは手を休めずに並んだボタンに指を滑らせたままチラリとアトラスを見やる。
「生データ、というわけではありませんがね。欠損した部分を補いつつ、解析されているものですよ。我々ただの人間にはすでにコンパイルされた文字列を読む能力はない。ましてや圧縮され暗号化されたうえに分断され、いくつものプロテクトがかかっている状態ではね。ところが偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》というのは、生まれながらにこうした数字の羅列を読み解く能力に長けている。中でも特に能力の強い、聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》ほどの能力者になれば、救世主《メシア》の施した強大な封印すらも解析できる。だからこそ」
「ガートルードに潜行してもらって解析をしている……というわけか」
 アトラスはシルクで覆われた女帝の寝具に横たわるガートルードを気遣わしげに見つめた。
「我々の術者数百人がかかっても解呪すらできないほど、厳重に封印された幻の文書ですからね。ご心配なく。ガートルード様のお身体に危険が及ぶようなことはありません」
 ベルーゾーが指さした別のパネルの中には、やはり黒地に緑色の折れ線グラフが常に明滅している状態だった。その線の動きが高ぶっていない様子から、ガートルードの精神状態はかなり安定していると見られた。
「もはやガートルード様のお身体は、おひとりだけのものではない。火焔帝の脳波をこちらできちんとモニターしていますし、無理な潜行《ダイブ》はさせませんよ」
 アトラスは鼻を鳴らして笑うと、
「『おひとりだけのものではない』なんてずいぶん年寄り臭い言い草だ。妊娠しているというなら別だがな」
「ご存じなかったのですか、アトラス殿」
「……なんのことだ」
「火焔帝のお身体のことです」
 アトラスはベルーゾーの顔を睨みつけるように見つめた。腹心のはずの自分が、火焔帝から聞かされていないことがあったことに対して憤っているようだった。
「……俺は何も聞いてない」
「あなたに心配をかけないようご配慮のうえのことでしょう。大事には至らないことです。もちろんご懐妊というわけでもありませんからご心配には及びません。ですが」
 ベルーゾーはいったんアトラスに向き直り、きまじめな顔をして大きく息を吸い込んだ。
「あのお方がご自分でお話になるのを待つがよろしいでしょう。ただ、皇帝陛下はもうひとりとても大切なお方の魂をその身に宿しておられるのです。我々研究者と医療班は、そのことを十分考慮して皇帝陛下をお守りせねばならない」
「……そうか……」
 アトラスは小さく安堵のため息をつき、もう一度ガートルードを見やった。
 アトラスは、ガートルードの素性についてはほとんどといっていいほど知らない。聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》のひとりで、聖騎士の始祖レオンハルトの実の妹であり、ともにアートハルク帝国の銀嶺王ダフニスに仕えていたという公式の情報くらいのものは誰でも知っている程度のものだ。だがそれ以上のことは、祖国グレナダ公国が崩壊したあの夏の日、死にかけていた自分を救い、自分の腹心として側に置くようになってからも、彼女の口から語られる機会はなかった。
 もちろんガートルード本人も、グレナダの第二王位継承者であったこと以外のことについて根ほり葉ほり聞くようなマネはしなかった。互いを尊敬しあい、信頼しあっていれば何も知らなくても問題はないと思っていた。
 ──自分には知らされていないことがまだあるのではないか。そんな不安がアトラスをいらだたせる。
 アトラスはガタンと音を立てて立ち上がった。握った拳が震えていた。
「部屋に戻る」
 真紅の竜騎兵はそう言い残して背を向け、見事な彫刻を施した扉に手を掛けた。
「相手への無知と信頼の度合いというのは必ずしも比例するものではありませんよ、アトラス殿。相手のことを知らないから信用できない、なんてのは子どもの幻想だと思いますが」
 ベルーゾーがそう声をかけたので、アトラスは少しだけ振り向いた。苦々しげな表情は崩さないままであった。
「ではお前はどうなんだ? 俺よりも火焔帝のことはよほど詳しいようだが」
「私だって皇帝陛下の個人的な事情については、何も存じ上げませんよ。仕事で必要な事項について、理解し把握しているだけのことです。それ以上でもそれ以下でもない。ですが、私は私の仕事を完遂するためにあの方を存分に信用している。信用していなければできないこともある。なにしろ、我々に残された時間はあとわずかですからね」
 ベルーゾーが肩をすくめながらおどけた口調でそう言ったので、アトラスはあざけるように鼻を鳴らして笑った。
「ふん、お前の目的は『神の黙示録』すべての解読だろう。研究者としての研究欲を、ガートルードの元で充足させようとしているだけだ」
「否定はしませんがね」
「俺も否定はしない。俺たちに時間がないというのも俺には関係ない。彼女がこの世界を解き放つために何をしようと、何かを隠していようと、目的のついでにこの世界を根こそぎひっくり返してくれるだけで十分だ」
 そう言うと、アトラスは乱暴に扉を閉め、足早に廊下を歩いていった。固いブーツが廊下を素早く蹴る音は、アトラスのいらついた心を表現するのに十分だった。
 初老の研究者は大きな大きなため息をつくと再びパネルに向き直り、作業を続行することにした。その際に、ちらりと懐中時計を見やる。
「ふむ、無駄話が過ぎたようだ。まったく、アトラス殿もまだまだお若い。ハルタ将軍が我が息子のことのようにやきもきなさるのも無理はあるまい」
 眠っているガートルードの側に行き、彼女のこめかみに貼られた細長い線付きの絆創膏がはがれていないかを確かめると、ベルーゾーは椅子に腰掛け直し、素早くボタンに指を叩きつけた。脇にしつらえられた鉄の箱が、再び大きなうねりをあげる。
「そろそろ、我らが巫女姫が祭司長と接触する頃か。こちらも作業を急がねば」
 ボタンの並んだ板の脇にある少し大きめのツマミを回すと、鉄の箱の回転音がさらに大きく叫び声をあげた。それを見計らってベルーゾーは二、三のボタンに指を走らせる。すると、さまざまなチューブ状の線に接続された台座に恭しく載せられたキューブ型の個体が、急に光を放つ。それこそが、銀嶺王ダフニスが発掘した『神の黙示録』第三章と、先日彼らがアジェンタス騎士団領で奪った第二章であった。






 聖救世使教会は、光都オレリア・ルアーノ内中央諸世界連合の灰色の建物群の中にあって、奇跡的なまでの美しさを誇る建造物のひとつであった。旧世界《ロイギル》時代の格式高い装飾を取り入れた建築様式に、ふんだんに翡翠を使った外観は、ほかの中央の建造物に引けを取らないほど高くそびえ、塔のような先端に太陽の光を燦々と浴びている。翡翠の混じった大理石は、そのたびにまばゆいばかりの輝きを放つ。術法と術者を統括し、人々を導く聖騎士団を従えるにふさわしい威風堂々としたたたずまいに敬意を表してか、聖救世使教会は〈翡翠の大聖堂〉と呼ばれ、大陸全土から集まる観光客に親しまれているのであった。
 聖救世使教会の最上階には、教会すべてを統べる祭司長の執務室がある。〈翡翠の大聖堂〉自慢の庭園が臨める、絶景の部屋のひとつであった。祭司長ハドリアヌスは、もうまもなく訪れる来客を待ちながら、暗い執務室の大きな窓を少しだけ開けて、下に広がる見事なまでの庭園を眺めていた。
 季節はもうすぐ秋の終わりを告げようとしていた。春から夏にかけては翡翠に劣らぬ緑色の楽園が広がり、秋になれば赤く燃える木々の移ろいが楽しめるのだが、冬が近づく今となっては、徐々に葉も枯れ始め、見る者にむなしさを与える。彼はそれを憂えているのか、微動だにせぬままじっと庭園の枯れ木を見つめていた。
 ハドリアヌスは、白い裾の長いローブを羽織っていた。裾の下半分には、金の糸で丁寧に彩られた鳳凰の刺繍がまんべんなく縫いつけられている。聖救世使教会を表す黄金の鳳凰の入ったローブは、教会の頂点に立つ祭司長のみに許された正装であった。低く、弱くなってきた太陽の光にも、黄金の鳳凰は炎をまとう高貴な鳥さながらに身を焦がすような輝きを放っていた。
 祭司長は常に顔半分を隠すケープを頭からかぶっていた。人と話をするときに重要な手段のひとつとも言える眼を隠し、唇と顎だけが顔を覗かせているため、彼と話をしたことのある人物は、瞳で情状酌量を訴えることがかの人物に対していかに無意味なことであるかを悟るのだった。
「祭司長様。賢者ヴィヴァーチェ様のおなりでございます」
 恭しく来客を告げる小姓の声が、きめ細かい細工の施された重厚な扉の向こうから聞こえてきた。ハドリアヌスは窓から身体を離し、応接用の椅子とテーブルに近寄りながら、小姓に客を招き入れるように伝えた。
 大扉が蝶つがいのきしむ音をたてながらもったいぶったように開く。扉を開けた小姓が頭を下げたまま、後ろに控えていた来客を部屋の中に案内した。上等なシルクで織られた贅沢なドレスを身にまとい、茶褐色の巻き毛を高貴なハイ・ファミリーの女性のように結い上げた美しき賢者が、部屋の中で待ちかまえていた祭司長ハドリアヌスに恭しく頭を下げた。
「ご機嫌よろしゅう、祭司長ハドリアヌス様」
「これはこれはヴィヴァーチェ殿。今日はいつにも増してお美しい」
「お褒めにあずかり、光栄ですわ。本日祭司長様への謁見がかなった折り、あなた様の使いの者がご用意くださったものでございましてよ。お気遣いに感謝いたします」
 そこでまたヴィヴァーチェは優雅に礼をし、花のように笑って見せた。
「よくお似合いだ。あなたのような美しい女性に服を贈るのは、失礼ではなかったか私も悩んだのだがね」
 ハドリアヌスはローブの下から覗く唇で笑った。とはいえ、覗かせている顎からは祭司長の年齢や顔立ちを想像することはできない。がっしりとした顎のラインを見れば、まだ二、三十くらいの青年とは思えないのだが、五十や六十を超した老人とも思えない生気にあふれる声がかの人物をいっそう謎めかせるのだった。
 公式に発表されている司祭長の生年月日も、外見年齢を予測するための指標にはならない。なにしろかの人物は、汎大陸戦争終結より以前に生まれ、偉大なる一族《イーシュ・ラミナ》と同様に長い生を歩んでいることになっているのだ。ローブに隠された頭の両側には、おそらくイーシュ・ラミナを象徴するとがった耳があるに違いなかった。
 司祭長は女賢者に革張りの応接椅子に掛けるよう仕草で案内をし、ヴィヴァーチェは恐縮しながらもこれまた優雅に椅子に腰を下ろした。それを見届けると、祭司長自身も向かいの椅子に腰掛け、脇で控えていた小姓に上等の紅茶を用意するよう指示をした。
「あなたが中央諸世界連合のさまざまな活動に全面的に協力してくださるとは、たいへん心強い」
 ハドリアヌスはヴィヴァーチェに紅茶を勧めながらそう切り出した。
「これも賢者としての務め、当然のことですわ」
 勧められた紅茶の香りを楽しみながら、ヴィヴァーチェはそう答えた。
「中央諸世界連合が結成されてからこれまでずっと我々の協力要請を断ってきたのに、なぜいまになって? そう聞くのは不躾ですかな」
 ハドリアヌスの唇の端が少しだけ歪み、笑みを作る。
「アートハルク帝国の元同盟国が次々と中央諸世界連合を離反し、アートハルクの本隊が復活、ロクランを占領し、アジェンタスとヘルディヴァに進攻したとあっては、連鎖反応もございましょう。ましてやフレイムタイラントの復活を彼らが望んでいるとなれば、汎大陸戦争の二の舞も考えられます。いまこそ、未来を知るわたくしの能力をお役に立てるときと思ったからですわ」
「それならよかった。ここだけの話、私は賢者殿に個人的に嫌われているのではと思っておりましたのでね」
 そう言って、ハドリアヌスは紅茶に口をつけた。ヴィヴァーチェは否定を表すように眉を大きく動かして見せ、そして意味ありげに笑う。
「そう言えば先日……」ヴィヴァーチェはカップをソーサーに戻しながら切り返した。
「フォリスター・イ・ワルトハイム将軍が身柄を拘束されましたが、なぜお救いになりませんの?」
「あれだけの資料を揃え、議事堂にまで乗り込んで本人に突きつけた張本人が異なことをおっしゃる」
 祭司長の口調は意外だといわんばかりであった。
「わたくしは不正を正す目的で当然のことを行なったまでですわ。ですが、〈鉄の淑女〉は中央の守り刀。いま失脚させたのではあなたの足元も危ういのではございませんか? それともその実、目の上のコブが取れてホッとしてらっしゃる?」
 ヴィヴァーチェは目配せを含んだような意味ありげな視線でハドリアヌスを見つめる。そこで祭司長は身体を揺すり、喉を鳴らしながら笑った。
「何をおっしゃりたいのか分かりかねる。あなたのほうこそ、懇意にしていた〈鉄の淑女〉を陥れて何を考えていらっしゃるのか」
「おそらくあなたと同じことですわ、祭司長ハドリアヌス様。恐ろしく頭の切れる長官を引き摺り下ろし、子飼いをあてがって傀儡とする。ここまではあなたの思惑通りに話が進んだのではございませんこと? わたくしはあなたのためにうまく立ち回ったと自負しておりますのよ」
 ヴィヴァーチェは再びカップに口をつけ、胸いっぱいに香りを吸い込むように紅茶を飲み下した。続いて、祭司長も紅茶を飲み干す。何事もなかったようにカップをソーサーに戻すと、ハドリアヌスは顔を上げ、ローブに隠された瞳でじっと女賢者の顔を見つめるような仕草をした。ローブで視界をさえぎられていても、その向こうにあるものすべてを見透かし、ヴィヴァーチェの心の底に隠されているものまでも見透かそうというように。聞こえぬほどの小さな吐息を漏らした後、
「……本日いらした目的はなんですかな」
「祭司長様と本音で語り合いたいと思ったまでですわ」
 そう言うと、ヴィヴァーチェは優雅に立ち上がり、執務室の大窓に滑るように近づいて、窓の下に広がる庭園を眺めた。
「中央諸世界連合は必死になって『神の黙示録』のありかを捜し求めている。その伝説の書物について、祭司長様の見解をうかがいたいのですわ。あくまで個人的に」
 祭司長は頭だけを巡らせて、憂えた表情で晩秋の木々を眺める女賢者を振り返った。期待をするような、どこか物欲しげな女賢者の唇に再び笑みがこぼれた。
「くだらない。あなたのような方が『伝説の書物』などという陳腐な言葉を好んで使われるとは。信じていらっしゃるのですか。本当に神々が我々に残した大いなる遺産だと」
 肩をすくめてハドリアヌスは言った。まるで俗世の噂話には取り合えないといった風情だ。
「大いなる遺産かどうかはわたくしには分かりかねますわ。すでにお聞きになりましたでしょう? 特使のひとりがアジェンタスで手に入れ、ガラハド提督に預けていた第二章らしきものが、先日アートハルク帝国に奪われたこと。アートハルク帝国はすでにダフニスの時代に第三章を入手しています。残るは第一章のみ。果たして最後のひとつを手に入れるのはアートハルクなのか、中央諸世界連合なのか、興味のあるところですわね」
「あれを手に入れれば失われた神々への道が開けるとか、世界を滅亡させるほどの偉大な力を手に入れるとか、数多くの流言飛語が飛び交ってはいますが……。聖救世使教会の預かり知らぬところ。文化的価値の高いものだとは思いますがね、私個人の見解をお求めなら、尋ねる人間を間違えてらっしゃいますよ。もちろん、興味がないとは言いませんがね」
 ハドリアヌスはまた肩をすくめ、ティーポットに手を伸ばしてヴィヴァーチェと自分のカップに紅茶を注いだ。
「本当はご存知なのではございませんこと? 残りのひとつがどこにあるのか」
「ほう、私が? 逆に伺いたいところですな。賢者殿は残りのひとつがどこにあるとお思いなのか。深海に沈む古来の空を翔ける船の中か、それとも月に届く黄昏の塔の頂上か」
「お戯れを」
 ヴィヴァーチェの面長な顔の輪郭を柔らかに縁取る、茶褐色の巻き毛が揺れた。エメラルドグリーンの瞳を妖艶に輝やかせ、まるで猫のように目を細める女賢者は、子どもっぽい仕草で口を覆い、ころころと笑った。
「聖騎士レオンハルト殿が持っていたのではと、もっぱらの評判ですわね。あの美しい聖騎士が『神の黙示録』とともに救世主の亡骸を隠したのだとしたら、それはどこなのか、ロマンティックな興味をそそられますわ」
「誠に女性らしい発想だと思いますよ、ヴィヴァーチェ殿。ですが」
 ハドリアヌスは静かに立ち上がり、窓を背にして立つヴィヴァーチェにまるで幽霊のように近寄る。そして、彼女のとがった耳の脇にからまる巻き毛の一房を手に取ると、
「そろそろ本題に入っていただきたい。私もこの後の予定がつかえているのでね」
 まるで恋人に語りかけるかのように、低く、だがはっきりと囁いた。それを受けてヴィヴァーチェがまた妖艶に微笑んだ。すべてを見通していたような瞳だ。
「あなたが望んでいることと、わたくしが望んでいることは同じということですわ。聖救世使教会祭司長ハドリアヌス様。あなたの持っていらっしゃる秘密と、わたくし『たち』が持っている秘密とを合わせれば、この世界を元に戻せるのではなくて?」
 ヴィヴァーチェは司祭長からするりと身体をかわし、幼女のように微笑んだ。高く結い上げた巻き毛が一房ほつれ、ふわりと舞った。
「それでは、ご機嫌よう、司祭長殿。高価なお紅茶をいただけて満足ですわ」
 そう言うなり、ヴィヴァーチェは現れたときと同じように優雅に礼をし、鈍重な大扉を女優のような仕草で両手で開け放った。舞うような靴音が廊下に響いていた。
 恐縮した様子の小姓が近寄ってきたが、ハドリアヌスは冷めた紅茶を下げるよう指示をし、しばらく彼に暇を与えた。そして大きなため息をつき、女賢者が開いた窓を難儀そうに締める。そのついでに、彼はこれまでのやりとりを思い返していたのか、唐突に笑い出したのだった。
「これまで世俗を裁ち切り、隠者のように生活してきた人間が、二百年も前から毛嫌いしていた男にそう簡単に寝返るはずもあるまいに。ガートルードの小娘も浅はかな」
 そう言って、司祭長は肩を揺すって笑う。その際に頭を覆っていたローブがはだけ、見事な銀色の髪が顔を覗かせた。それを嫌うように、祭司長はすぐに髪をローブの中に隠し、再び顔半分を覆う。
「『神の黙示録』……か」
 ハドリアヌスはそうつぶやくと、窓を縁取るカーテンのタッセルを解き、その下にあるわずかなくぼみに手をやった。ガクンと何か扉のようなものが開く音がした。見れば執務机の脇の床にぽっかりと、人ひとりの肩幅が入るくらいの丸い穴が姿を現す。司祭長は静かにその穴に足を踏み入れ、直立不動のまま小声でなにごとかをつぶやいた。丸い穴の円周がほのかに緑色に光ると、すぐにそれは司祭長の身体を降下させていく。
 司祭長を載せた丸い床は、そのまま執務室の下の暗闇を降下していく。無機質な気配しかしない暗黒の縦穴をゆっくりと降下していくと、湿気を含んだ空気の流れが、人間がせわしなく動き回る気配と鉄のような匂い、それからそれらに混じって聞こえる水音をしだいに運んでくる。司祭長の身体はやがて光の中に吸い込まれていき、移動する床がたどり着いたそこでは。
 白衣を着た何人もの学者風の男たちが、同じく白い壁に埋め込まれた鉄の箱の前を、あわただしく、ときには考えあぐねているように動き回っていた。硬質な部屋の周囲には、緑色の液体が流れるチューブのようなものが張り巡らされている。白い壁に液体が反射して、水底のような不気味さを放っている研究室のようであった。白い壁に沿って並ぶ鉄の箱の群れは、チューブの中の液体がゴボリといやな音を立てて動くのに呼応して、泣き叫ぶような回転音をたてていた。
「これは祭司長猊下」
 学者風の男が、ハドリアヌスの姿に気づいて軽く会釈をしながら近づいてくる。祭司長は男の会釈に満足そうに頷いた。
「その後の経緯は」
 冷たい声で尋ねると、学者は脇にかかえていたカルテのような書類の束を取り出す。
「変化はありません。心臓は完全に停止しているのに細胞が壊死していく様子も見られず、脳波も停止したまま。以前と同様、『完全な仮死』状態です。
「やはり『青き若獅子』の影響か……」
 ハドリアヌスは若者のように忌々しげな舌打ちをし、部屋の中央を見やる。ステージのように張り出した台座の上に、氷なのかクリスタルなのか、緑色の光を受けてきらきらと反射する不格好な柱が据え付けられていた。ちょうど岩盤からくりぬいた巨大岩石のようにごつごつした、だが極めて水の色に近い透明度を誇った鉱石にも見える。
 そしてその中央に、深々と棒が刺さっている。いや、棒ではない。鉱石に食い込んだ棒状のそれは、部屋の強い光を浴びて燦然と輝く、贅沢な宝石と細工を施された刀剣の柄であった。
 祭司長は巨大なクリスタルの柱の前に立ち、忌々しげに小さく唸りながらその剣の柄に手を掛けた。
「宿主と自分を守り抜くための防御能力というわけか。救世主《メシア》もなんと厄介な生体兵器を開発したものよ」
 力を込めてぐいと引っ張るが、クリスタルにがっちりと食い込んだ剣はびくともしなかった。ハドリアヌスはあきらめたようなため息をついて腕を組み、鈍い光を受けてテラテラと光る巨大な水晶の結晶を見上げた。
 クリスタルの結晶の中で、何者かの金色の巻き毛が揺れる。いや、水の色をしたその中で、揺れたように見えただけではあったが。顔を出した剣の柄の先は、水晶の中でがっしりと囚われた男の胸に深々と突き刺さっていた。さきほどの黄金色をした巻き毛の持ち主でもあった。中の男は少し血液の染みついた白いシャツを羽織っており、はだけたその胸に剣の一撃を受けたようだった。切っ先は男の心臓の真上を正確に捉えてはいたが、血糊が吹き出した様子はなく、男の表情には苦悶のかけらすら見えない。むしろ、穏やかに目覚めの刻を待つ隠者のように優しくまぶたを閉じ、眠っている。古代の彫刻のような彫りの深い、整ったその表情は、おとぎ話の魔王に囚われた勇者を彷彿させるものであった。
 祭司長は恨みがましそうに水晶の中の金髪の男を睨みつける。祭司長には、クリスタルに埋め込まれたその端正な顔立ちが、自分をあざ笑っているようにも見えたようだった。
「どこまで私を拒絶するつもりだ。聖剣エクスカリバー、いや、聖騎士レオンハルトよ」

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