第三十二話:戦士よ黄昏を恐るるなかれ

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 柔らかくなめした上等な革張りのソファに腰掛けた身体は、雲の上のような居心地のよさを実感していた。もう何時間もこうしてソファに寄りかかり古い書物を読んでいるのだったが、いっこうに座り直したい気分にはならないし、空いた手でソファの表面をなでれば、よりいっそう心が落ち着いてくるのが分かる。
 ラファエラ・フォリスター・イ・ワルトハイム将軍は、書物に目を走らせながらも自室のソファのすばらしさを堪能し、午後の茶を楽しんでいた。ふとテーブルの上のカップに手をやれば、薫り高い紅茶はすでに飲み干したあとだったので、ラファエラは茶器を取ろうと手を伸ばす。
「わたくしがお入れしますわ、ワルトハイム将軍。どうぞそのままおかけになっておいでくださいまし」
 執務机の上を丁寧に片づけていた小間使いの少女が、ラファエラが身体を伸ばしたのに即座に気づいてこちらにやってきた。黒い巻き毛のかわいらしい少女で、ラファエラが光都郊外のこの公邸に軟禁されるようになってから、身の回りの世話をするために寄越されたのだった。
 気だてのいい娘だとラファエラは思っていた。さまざまな疑惑で身柄を拘束されるようになった自分に対して、なんの偏見もなく、へつらうこともなく、ふつうに接してくれている。ハイファミリー出身で地位もある自分であったが、恭しくされるのは苦手であった。このコリンヌという小間使いの少女が気負うこともなく、屈託のない笑顔で自分に接してくれるのは、たいそううれしいものだった。
 軟禁状態から二週間が過ぎようとしていた。ありもしないガラハドとの手紙のやりとりから罠にはめられたことは想像に難くないのだったが、ラファエラは抵抗せずにおとなしく身柄を拘束されるに任せた。さて、自分の敵は果たして誰なのか。わずかに与えられる情報からそれを探り当て、勝機を見つけようと思ったのだった。
 ラファエラが中央特務執行庁長官の任を更迭された現在、彼女と同じハイファミリー出身で官僚出身でもあるマクスウェルという男が臨時に長官に就任してはいるが、ラファエラはこの男をたいそう気に入ってはいない。兵役を金で免除してもらったという古い疑惑を、これまた金で握りつぶしてきたという風評を信じているわけではないのだが、過去何度かの戦役で、この男が戦場に降り立つことはなかった。確かに、当時戦場での立ち位置は、金さえあればなんとでもなる世の中だった。多くの犠牲を払った戦闘の後、血で塗りたくられた地面を見ることなく、マクスウェルはうまく立ち回り、中央での発言権を手に入れた。そしてその後、先のバーンズ中央特務執行庁長官の子飼いとまで言われるほどにのし上がってきたのだった。
 四年前、史上最悪、腰抜けの後ろ向き外交と言われてきた先代の中央特務執行庁バーンズ長官の後任を決議する際には、バーンズを取り巻く派閥がマクスウェルを強く推し、ハイファミリー出身の官僚連中などもこぞって彼を推薦した。まだ正式に組織されてはいなかった現在の特使に当たる中央特務執行庁直下の騎士団と、その長であった故ペデルセン将軍ら中央特務執行庁のいわゆる「現役軍人」連中は、ラファエラを強く推薦していたのだったが。どちらの影響力が強いかは想像に難くない。おそらく四年前のアートハルク戦争での采配を披露することがなければ、現在の中央特務執行庁長官の椅子にはラファエラは座ることはなかったはずだ。
 アートハルク戦争での働きが評価されたラファエラに決議で大敗を喫したマクスウェルは、いまようやくラファエラに、四年前の怨恨を晴らすことができて愉快そうに見える。そう見れば、自分を陥れようと罠を仕掛けたのはマクスウェルとその派閥連中の仕業にも思えないこともなかったが、それはあまりにも短絡的だとラファエラは思っている。たかが自分が長官の地位に座りたいがためにこれだけの大芝居を打つ必要などないし、あの小手先だけの連中に、それだけの度胸も頭脳もあるとは思えなかった。
 彼らのような分かりやすい敵ではない何かが蠢く気配がする。自分の知らないところで、自分の手の及ばぬ大きな力が働いているような気がする──。光都を訪れる際に不意に感じた不安が、こんな形で実現するとはまさか彼女も思いもしなかったのだが、いままさにその恐怖を実感する。
 敵が動くのが先か、それとも自分が動くのが先か。だが軟禁されているこの状態で、自分の立場をこれ以上悪化させずに動くことなど事実上無理だ。
 そんなことを思いながら、ラファエラは連日、汎大陸戦争よりずっと以前から伝わる古い書物ばかりを扱う書店で取り寄せた酔狂な古典文学にいそしんでいる。旧世界《ロイギル》から伝わる文学には、たいそう考えさせられるとラファエラはいつも思う。彼女が好んで読むのは多くは戯曲の類だったが、因果応報であるとか、愛憎の泥沼劇であるとか、亡き父のための復讐劇であるとか、作中の政治的決断に稚拙な部分も多々見られることを差し引いて、政治家として、軍人として、女として、ひとりの人間として深く考えさせられることも多いと彼女は思っていた。
「ワルトハイム将軍、ベナワン議長がお見えですわ」
 コリンヌが鈴の鳴るようなかわいらしい声でそう告げたので、ラファエラは名残惜しそうに手にしていた書物にしおりを挟み、テーブルの脇のワゴンの下にそっと置いた。黒い詰め襟が特徴である中央特務執行庁の制服を脱いで部屋着でくつろぐラファエラは、深窓のハイファミリーの婦人のようであったが、少し服のしわを伸ばすために腰を上げると、隣にいるコリンヌ嬢より遙かに背が高い。短く借り上げた髪が余計に彼女を長身に見せているようであったし、ドレープの多いゆったりした部屋着であっても、彼女が鍛え上げられたしなやかな筋肉のついた女性らしからぬ強靱な肉体を持っていることは容易に見て取れた。
 ほどなくして部屋の大扉が恭しくノックされる。コリンヌが迎えに出ると、中央諸世界連合評議会議長のベナワン氏が笑顔で小間使いの少女とラファエラに会釈をした。
「ご機嫌よう、ラファエラ」
「ようこそアドニス・ベナワン。さ、どうぞおかけになって」
 ラファエラは旧知の友人を迎え、先ほどまで自分がくつろいでいたソファの奥に彼を案内した。ベナワンはコートを側で控えているコリンヌに渡すと、少しだけ襟元のタイをゆるめ、柔らかなソファに身体を沈めた。
 ベナワンとラファエラは、かつてガラハド提督と彼女がそうであったように、互いをラストネームではなくファーストネームで呼び合える古い友人同士であった。ベナワンは政治的な理想から、ラファエラは軍事的な理想から、それぞれの任務を全うする互いを尊敬し合っている。そしてベナワンはラファエラが言われなき疑惑で身柄を拘束されることになってから日に一度は、公務の合間を縫って会いに来てくれている。ベナワンはもちろん、ラファエラの嫌疑について否定的ではあったが、立場上彼女に対して同情的なそぶりを見せることはできない。その代わり、中央諸世界連合評議会すべてをあげて彼女に対する疑惑が事実無根のものであることを立証しようと尽力している。
 いつものようにラファエラとベナワンは軽い世間話に花を咲かせる。ラファエラは立場上、すべての情報を入手することはできない。ごく限られた新聞と文書に目を通すことが許されているだけなので、ベナワンもそれ以上のことについて話すことは決してなかった。だが、今日は違うようだった。
「マクナマラ准将が行方不明です」
 ベナワンは唐突にそう告げた。ラファエラの長年の片腕として副官を務めたマクナマラが最後の最後でラファエラを裏切ったのは、本当につい先日のことであった。
 ラファエラは驚愕に目を見開き、ベナワンを睨むように見つめた。
「あなたはずっとマクナマラ准将との面会を切望していたが、それがかなわなかったのは准将が二週間ほど前、あなたの身柄が拘束された直後に姿をくらましたからです。あなたにお伝えするのはあなたの疑惑がすべて事実無根であったことが証明されてからと思ったのですが」
 ベナワンが言いよどんだ先には、おそらく彼が不可解に思っている点があって独自にラファエラに告げるべきだと判断した何かがあるからだろうが、ラファエラにはそれがよく分かっていた。
「自ら失踪……というわけではないようですね」
 ラファエラは取り乱さぬよう、できるだけ落ち着いた声でそう尋ねるのがせいいっぱいであった。ベナワンは静かに首を振り、
「犯行声明も出ていないことから、誘拐でもないでしょう。あなたの罪状を告発する重要参考人だというのに、なぜやましいことをしていない参考人本人が姿を隠す必要があるのか……」
 そう告げたが、最後の言葉はためらいからか、彼の口から発せられることはなかった。口封じのために身柄を拘束されたか、あるいはもう生きてはいないのか。ラファエラはソファに身体を深く預け、顔を覆った。
「なんということ……!」
 漠然とした不安が、これほどまでに身を切るような悲しみをもたらすことになるとは。ラファエラはしばしの間顔を覆い、心の中で名も知れぬ神々にマクナマラの身の安全を祈り、彼をひとときでも憎んだ自分への許しを請うた。おそらく、彼は自分を裏切ってなどいないのだ。はじめから、これは用意された筋書きのひとつでしかなかったのだと彼女は確信する。
「ラファエラ、これがあなたに対する罠であることは明白です。私の調査では、マクナマラ准将が提出したというあなたの筆跡の手紙とガラハド提督との手紙の写し、あれは筆跡を極限まで似せた偽物であることは分かっています。また、アジェンタスと光都を行ったり来たりしていたあなたに、ガラハド提督とそのような手紙をやりとりする時間がなかったことも明白です。こんな子どもだましで完全にあなたを失脚させれらるわけはない。残念ながらマクナマラ准将の失踪に関する資料をあなたにお渡しすることはできませんが、これを」
 ベナワン議長は、ラファエラに小さな紙片を差し出した。ラファエラは怪訝そうな顔で受け取り、二つに折られたそれを開く。そこにはびっしりと細かい文字で、数字とアルファベットが乱数のように書き込まれていた。文字列自体にはなんの意味もないように見えた。
「これは……! 特使の間で用いられる、アナグラムを利用した古い暗号です。アドニス、あなたこれをどこで?」
 ラファエラはうめくようにつぶやき、ベナワンの顔色をうかがった。ベナワンが静かに頷く。
「マクナマラ准将が、ある書類の間に紛れ込ませて自室から持ち出していたものです。中央特務執行庁のあなたの執務室に届けられた書類の中から見つかったものを、協力的な特使が密かに持ち出し、私に託したものです」
 手元にこれを読み解く解読書がないのが悔やまれる。だが、これほどの小さな文字でびっしりとこんな小さな紙片に書いたからには、よほど重要な事柄で、急を要していたに違いない。
「彼があなたの拘束後に行方不明になったのは、彼に証言をさせたくない何者かが存在するからでしょう。今回の件で証言されて困るのはあなたとガラハド提督ですが、あなたはすでに身柄を拘束され、ガラハド提督はもうこの世にいない。とすれば、その告発そのものが偽証であると考えたほうが自然です。身に覚えのない告発について准将が証言することなどあるわけがないし、薬漬けにして証言させたとしても、そんな子どもだましの証言がばれるのに時間はかからない。少しの間だけでもマクナマラ准将の口を封じておき、あなたをも封じる一石二鳥の時間稼ぎをしていたと考えるのが筋でしょう」
「私もそう思います、ベナワン議長。では、時間稼ぎの目的とは? いま、中央評議会ではなにが起こっているのですか」
 問われたベナワンは気まずそうに顎に手を当て、一呼吸おいてから、
「マクスウェル長官が特使と聖騎士団の一部を、ロクランに向けて派兵することを提案しています」
「なんですって!? ロクランへ派兵!?」
「ロクランを占領しているアートハルク帝国軍との全面戦争です」
 やはりそうきたか。ラファエラは固く唇をかみしめ、腕を組んだ。これを待っていたに違いない。自分が長官の地位にいる限り、ロクランを占領しているアートハルクとの軍事的接触は絶対に否決される。戦争に持ち込んで得をするのは、アートハルクか、中央と癒着している軍需産業か、それとも──!?
「正直に申し上げると、ワルトハイム将軍、私にもいったい誰が得をするのかが見えないのです。一般的に見れば、ロクランという要石《かなめいし》を持つ大国が盾にされている以上、直接対決は避けるべきと考えるのが普通でしょう。なんらかの要因で要石が開放されることになれば、あっという間に汎大陸戦争の二の舞です。もちろん、マクスウェルが戦争をしたがっている理由に、かつてのように中央の軍事力を誇示することと戦争特需を狙った景気回復もあげられますが、アートハルクの提出してきた『三つの要求』のうちのひとつ、要石解放の機会を狙っているような臭いがプンプンします」
「それはつまり、我々の側にアートハルク帝国に通じている者がいると?」
「考えたくはありませんが。中央を内側から操って大混乱に陥らせるための工作員が存在するのでしょう。そう考えなければ、この時期の武力解決の提案の意図が読めません」
 だが、ラファエラはもうひとつの可能性を思い描いていた。中央諸世界連合自身が、あの炎の化け物フレイムタイラントを欲していることがないとは絶対に言い切れないのだ。中央の研究者たち智恵院の連中なら、どうにかしてあれを手に入れたいと公言もはばからないはずだ。アートハルク、マクスウェル、智恵院──。智恵院と言えば、司祭長直属の研究機関だ。
「そう言えばこの件に関して、ハドリアヌス司祭長はなんと?」
「彼は沈黙を守っています。いつものように中立の姿勢を取るでしょう。聖騎士団の派遣についてはほぼ同意をしているようですがね」
 中立か──。ラファエラは心の中で舌打ちをした。あの平和主義者がいちばん腹黒く感じられると、ラファエラは常々思っていたからだ。
「我らの真の敵は我らの目に見えない。誰が何のために、どのように動いているのか分からない以上、下手な抵抗はマクナマラ准将の二の舞です。今日はこれをあなたにお伝えしようと思ったのです」
「お気持ちはうれしく思います。ですが、私はいまだ解放されぬ身。そしてあなたの身にも危険が及ぶのでは?」
「ご心配なく。私はただのしがない議長ですし、ずっと私についていた監視はとぎれたようです。中央の監視はもとより、ほかにも違う方面から私を密かに監視していたようですがね。おそらくこれを計画した者にとっては、あなたにいまの情報をお伝えする役目を私が担っていて、ようやく時間稼ぎを終えて伝聞を届けさせる時期となったと見たのでしょう」
 いやな情報戦だとラファエラは思った。ベナワンの身に危険が及ぶことは今後ないだろうということだけが救いだ。姿の見えない敵による情報操作と攪乱、戦時にはよくあることであったが、平和に慣らされた中央諸世界連合ならいともたやすく踊らされてしまうはずだ。なんとかして阻止する方法はないものだろうか。
「私の潔白が証明されるのはいつ頃でしょうか。ここで指をくわえて事態を眺めているわけにはいきません」
 ラファエラは強い口調で、だが静かな低い声でベナワンに尋ねた。体が震えるのは恐怖ではなく、物理的な戦争ではない別の戦いの予感による武者震いであった。
「少しお待ちください。あなたの身を危険に晒さぬよう、現在材料を集めている最中です」
「悠長なことを言っているわけにはいきませんよアドニス、私は……」
 先を急くラファエラを制し、アドニス・ベナワンは小間使いの少女に、ラファエラのカップに温かい紅茶を注ぐよう仕草で示す。
「相変わらず武闘派ですね、ラファエラ・フォリスター・イ・ワルトハイム」
 ベナワン議長は鉄の淑女をからかうように笑った。ラファエラは少し不愉快そうに鼻を鳴らすが、仕方なく熱い紅茶に口をつけ、心を落ち着かせた。
「あなたの義弟《おとうと》ぎみに救援を頼みました。もうまもなくこちらに見える頃でしょう」
「レイザークに!? あの唐変木がわざわざくるものですか。それに、聖騎士団の一部はロクランに派遣される予定では?」
 義弟の名を出され思い切り顔をしかめたラファエラに、ベナワンは再び笑う。
「あなたの義弟殿が本業以外に何をなさっていたのか、あなたはとっくの昔にご存知だと思いましたが」
「ええ、もちろんですわ。有志の騎士を集めて特使みたいに酔狂なマネをさせようと……」
 そこでラファエラは何かに気付いたように言葉をつぐんだ。レイザークが自分で優秀な騎士を集めようと躍起になっていた理由が、今やっと理解できたのだった。
「あなたなら理解してくださるはずですよラファエラ。そう、彼は聖救世使教会でも中央特務執行庁でもない、まったく自由な思想を持つ自発的な組織を作ろうとしていたのです」
 ラファエラはその先を促すように大きく頷いた。それを受けて、ベナワンは満足そうに微笑む。
「その組織の名を、〈黄昏の戦士〉といいます。もちろん、私も陰ながら協力を申し出たひとりです」
 なんという奇跡の瞬間だろうとラファエラは思った。組織の中でがんじがらめにされた自分にはなしえなかった自由な発想の騎士団を、あのレイザークがこれほどまでに大きく形作ることに成功していたとは。
 姿かたちも霊験もない、名も知れぬ神々よりも、自分を取り巻くすべての良識ある人々の勇気に、ラファエラは感謝するとともに深く感銘を受けたのだった。そんな折のことだった。
「なにやら外が騒がしいようですが……」
 ベナワンが不思議そうに部屋の外の気配に耳を澄ます。確かにこの公邸の警護をしている連中がなにやら騒然としているのが伝わってきた。
「失礼、ちょっと様子を……」
 ラファエラは立ち上がり、自室の窓を開け放って外の様子をうかがおうとした。そのときだった。
 窓を開けたその瞬間、黒い人影がラファエラを押しやるように部屋の中に転がりこんできた。コリンヌ嬢が小さく悲鳴をあげ、ベナワンはガタンと席を立ち上がる。再びコリンヌが悲鳴をあげた。なぜなら、窓から侵入し、ラファエラに覆い被さっている人物は、顔中擦り傷だらけのほか、肩やわき腹にひと目で剣によるものと分かる傷を受け、血を流しているのだ。
 ラファエラはとっさに執務机の上にあったペーパーナイフを掴んで覆い被さってきた人影に向け、その首筋に正確に切っ先をあてがって動きを封じた。首筋に術者の術を封じる金色の首飾りがあるのに気付いたラファエラは、ためらうことなくグイとその首筋にナイフを押し付ける。刺客にしてはずいぶんくたびれていると不思議に思ったが、この公邸周辺の警護をくぐり抜けてきたからには相当の手練れだ。油断はならない。
「何者です。顔を」
 力なくうめき、うなだれる侵入者の黒髪を乱暴に掴んでぐいと顔を持ち上げたラファエラは、そこで息を飲んだ。傷だらけで憔悴しきってはいたが、二十代も半ばのこの青年の顔に確かに見覚えがあった。ラファエラがその名を呼ぶよりも早く、後ろで様子をうかがっていたベナワン議長が声をあげた。
「……エチエンヌ……!?」
 呼ばれて、青年はラファエラの顔と、不安そうに見つめるベナワンのふたりを細目で確認し、安堵のため息をもらした。光都の女賢者ヴィヴァーチェの側近として常に彼女に影のように寄り添っていた青年術者の、見るも無残な姿がそこにあった。
「どうしたのです、いったいその姿は」
 ラファエラがエチエンヌと呼ばれた青年を抱え起こし、その顔を覗き込むように尋ねる。だが青年は息を弾ませたまま、答えることができない。そこへベナワン議長の鋭い声がラファエラを制する。
「ラファエラ、あなたはご存知ないと思うが、彼はヴィヴァーチェ殿殺害未遂の件で身柄を拘束されていたはず。彼から離れなさい」
「殺害未遂ですって? そんな」
「私はヴィヴァーチェ様を殺そうとなどしていない!」
 青年の口から発せられた声はかすれてアヒルのような醜いものだったが、空気に混じって発せられたその言葉は、しっかりとラファエラとベナワンの耳に届いていた。青年はそう叫んだあと、喉を押さえて激しく咳き込み、ヒューヒューとすきま風が風穴を通るような音を立てて激しく呼吸をした。その様子が尋常でないことはすぐに見てとれた。
「その声……まさか喉を?」
 すぐにベナワンが駆け寄り、青年の顔をのぞき込むように座り込んだ。青年は苦しい喉を押さえながら小さく頷き、ふたりをしっかりと見やる。その瞳に嘘偽りがないことなど、誰の目にも明かであった。
「公式には、君が錯乱の挙げ句にヴィヴァーチェ殿を殺そうとし、その際に彼女を守っていた術者たちを皆殺しにしたと発表されていたのだぞ。君が近々前頭葉手術を受けさせられるために幽閉されていることも聞いた。死んだ術者たちの身体はまるでミイラのように干からびていたとも風の噂で聞いている。いったいグレイブバリーで何があったのか、話してはくれまいか」
 ベナワンが尋ねるが、青年は喉を押さえ、激しく咳き込んだままだ。そこでラファエラはそばでおびえていた少女を叱咤し、すぐに水と筆記用具を持ってこさせた。エチエンヌは差し出された水を二杯ほど飲み干したが、筆記用具は力強く押し戻した。
「私が……私がお守りしていながらこんなことになったのはたいへん不覚でした。ヴィヴァーチェ様はもう、以前のヴィヴァーチェ様ではない。まったくの別人といっても過言ではないでしょう。以前から執拗にヴィヴァーチェ様の精神を我が者にしようと攻撃をしかけていた強力な術者が、いまは彼女の身体を完全に支配しています」
 出づらい声でエチエンヌは言った。ヴィヴァーチェの元側近の言葉に、ベナワンとラファエラは互いの顔を見合わす。ラファエラが光都に戻ってきた際、美しき女賢者に不吉な影を見たのは気のせいではなかったのだ。俗世を嫌い、中央からの召喚もことごとく断ってきた隠者が、急に評議会に接近し、協力的な姿勢を見せることなどあるわけがないのだ。ましてや政治的軍事的な案件に積極的に首を突っ込むことなど。
「アドニス・ベナワン。私は決めました」
 ラファエラは力強い瞳で旧知の友人を振り返り、不敵にニヤリと笑ってみせた。
「中央がアートハルクとの全面対決に出るのなら、私は別の形で中央と対決しましょう。これは私の戦争です」
 女将軍は、戦場の最前線で見せてきた大胆不敵な〈鉄の淑女〉の顔《かんばせ》で強く唇を引き締め、旧友に手を差し出した。
「その〈黄昏の戦士〉とやらについて、私にも詳しくお聞かせ願えませんか。私にも軍隊が必要です」






 アスターシャ王女の容態はずいぶんと回復してきており、最近では笑みをこぼすことも多くなってきた。会話もよくはずむし、彼女がハイファミリーのようにお高くとまっているわけではなく、屈託のない振る舞いを見せるので、ベゼルはたいそう彼女を気に入っているようだった。少し身体を動かせるようになると、アスターシャ王女はレイザーク宅の家事を進んでやりたがった。王族の姫がそんなことに手を出したがるとは思ってもみなかったので、ベゼルはたいそう驚いたのだった。
「こういうの、一度やってみたかったの」
 そんなふうに笑いながら、王女は身体に無理のない範囲で洗い物をしたり掃除をしたがった。驚異的な汚さで定評のあるセテの部屋までも、喜んで掃除をしているくらいだった。
 そんな彼女の言動の中でただひとつ、ベゼルとしては気に入らないことがあった。
 また見てる──。
 ベゼルは掃除の手を少しだけ休め、窓の外にいる二人の大男の様子を眺めているアスターシャ王女の姿を見て小さくため息をついた。
 手入れもほとんどされていないレイザーク邸の貧相な庭では、酔狂な筋肉ダルマが、顔だけが取り柄の超絶性格ワル男に剣の稽古をつけてやっているところだった。最近のレイザークは、日頃の鬱憤晴らしだかなんだか知らないがボロクソにセテをけなしたりしごきまくり、その鼻っ柱を折ってやるのを楽しんでいるのだ。そんなふたりの様子を、アスターシャ王女は幸せそうな笑みを浮かべてぼんやりと眺めることがよくある。もちろんその視線の先には筋肉ダルマなどいるわけがなく、見た目だけは人並み以上の金髪の青年がいる。
 あんなののどこがいいんだろう。そうは思ってみるも、ベゼルは王女がセテをときたまこうして見守っているのが気に入らない。そしてあの金髪の朴念仁は、自分が王女に見つめられていることなどまったく気がつかないのだから腹が立つ。
 レイザークはここしばらくはずっと家にいて、何かを待っているようだった。そうでもなければすぐに悪態をついて当たり散らすセテに、根気よく剣の稽古をつけてやることなどあるわけがないともベゼルは思っていた。
 どうやら先日のモンスター騒ぎの一件以来、セテはレイザークに本気で剣を教えてもらいたいと思うようになったらしいが、それでも負けたときには口汚くレイザークを罵っては庭の柵に当たり散らしているので、ベゼルはあきれ果てている。稽古に疲れて食事もせずに部屋で眠りこけてしまうセテを心配して見に行けば、勝手に部屋に入るなと怒鳴られることもままあるので腹立たしいことこのうえない。あいつには生理があるんだと、レイザークは品性のない冗談をよく言うのだったが、さもありなんとベゼルは思う。そのくせ、料理をやらせればこの家では右に出る者はいないし、寝ているときのセテの顔といったら、そりゃもう目の保養以上のものである。たまにベゼルをからかったり気遣ったりする人なつこさも見せるものだから、たちが悪い。
「あー! もう! なんで俺があんなやつのことでこんなに腹立たしい気分にならなきゃなんねーんだよ!!」
 ベゼルはほうきを振り回して叫んだ。驚いたアスターシャが振り返ったので、ベゼルはあわてて取り繕い、庭に飛び出した。飛び出した先では、レイザークの太い剣の切っ先を首筋に当てられ動きを完全に封じられたセテが、悔し紛れに両手をあげて戦意喪失したのを示しているところだった。
「ふん。今ので確実にお前の頭は吹っ飛んでたな。俺の寸止めの美学ってやつに感謝しろ」
 レイザークが派手な傷のある強面に意地悪そうな笑みを浮かべて、セテのプライドをズタズタにしてやった喜びを表現している。ベゼルは心の中で「ざまみろ」とほくそ笑んだのだが、それが通じたのかセテに思い切り睨まれたので、ベゼルは他意がないことをあわてて証明しなければならなかった。
「さあて、今日はこのくらいにしておくか。俺も今日は張り切りすぎて肩があがらん」
 レイザークは愛剣デュランダルをクルクルと振り回しながら肩の関節も一緒に回し、コキコキと鳴らす。
「四十肩だろ、無理すんなよオッサンのくせに」
 セテが小声で悪態ついたのを聞きつけたレイザークは、背中をボリボリかきながら空いたほうの手でセテの頭を思い切りはたき返した。セテがますます憤って悪口雑言をまくしたてるのもお構いなしだった。
 そんなやりとりを横目で見ながら、ふとベゼルが庭先の粗末な柵の向こう側に目をやると、長身の浅黒い男がこちらを見てニヤニヤしながら立っているのが見えたので、ベゼルは小声でレイザークを呼び止める。大柄な聖騎士が険しい顔で振り返ったのだが、庭先の男はのんきに彼らに向かって手を振っている。人の家の庭先でニヤニヤして気味の悪い男だとベゼルは思ったのだが。
「よう、大将。久しぶり。相変わらず張り切ってんなぁ」
 庭先の男は人なつこい口調でそう言った。
「ジョーイか、なんだ、いつからそこにいたんだ。ニヤニヤ突っ立ってねえで入ってくればいいだろう」
 レイザークが親しげに会話を始めたので、ベゼルはほっとため息をつく。正直言うと、この家にくるレイザークの知人たちとやらは、どうもうさんくさい連中が多くて気が乗らない。今度の男は浅黒い肌にごわごわした黒髪を無造作に束ねていて、なんだか辺境の海沿いに住むと聞いた野蛮人《バルバロイ》みたいな風貌をしているのだが、まだ二十代で人なつこそうに見えるのがせめてもの救いだ。
「いや〜そっちのお嬢ちゃんに怖い顔で睨まれちゃったからさ、あんたが気づいて声かけてくれるの待ってたんだけど。俺ってこう見えても人見知り激しいし」
 黒髪の青年が肩をすくめてそんな軽口を叩いたので、レイザークは「バカか」と苦笑混じりに悪態をついた。ベゼルは小さな声で「よく女だって分かったな」とつぶやいたのだったが、青年は「こう見えても人の本質を見抜く才能にあふれてんの、俺」とまたおどけてみせた。
「能書きはいいからこっちへ来い。ずいぶん待ってたんだぞ」
 レイザークは渋い顔をして青年を顎で招き入れる。のしのしと歩く大柄な聖騎士の後に続いて、黒髪の青年はひょうひょうとした表情で部屋の中に入っていった。
 その青年が通り過ぎ部屋に入っていくのを、セテが脇で不思議そうな顔をして見送っている。ベゼルはセテの脇腹を指でつつくと、金髪の青年が我に返ったようにベゼルを見下ろし、バツ悪そうに顔をしかめてみせた。
「なに? 知ってる人?」
「いや……」セテは小さく肩をすくめて否定した。だが、その視線は再び部屋の中の黒髪の青年に戻っていく。
「ちょっとびっくりした。レトに……死んだ幼なじみに雰囲気が似てるなぁと思って」
「ふーん」
 ベゼルはできるだけ気のないそぶりで相づちを打ったつもりだった。彼女は、セテを守るために命を絶ったという彼の親友の話を、セテがグデングデンに酔っぱらったときに何度か聞いたことがあった。本人は覚えてないようだし、名誉のために忘れようと努力はしたのだったが、セテはその親友とやらと過ごしてきたこれまでの人生を語って聞かせ、そして最後に彼が死んだときの場面にさしかかると、決まって鼻をすすり、愚痴愚痴と自分の至らなさを責めそのまま酔いつぶれて寝てしまうのだ。セテの悪い癖が出ないか、ベゼルは少し心配ではあった。
「おい、お前ら。客が来たってのに何突っ立ってやがる。セテ、なんかツマミでも作ってやれ」
 居間から思いやりのないレイザークの怒鳴り声が聞こえてきたので、セテはまた不機嫌そうな顔で渋々部屋に戻っていった。その後ろから、小さなベゼルは小さなため息をついて追いかけていった。



「紹介しよう。こいつはジョーイ、俺の古い知り合いのひとりで、あちこちいろんなあこぎな商売をして回ってる男だ」
 レイザークは余計なひとことつきで黒髪の青年を居候たちに紹介してやった。ジョーイと呼ばれた青年はレイザークの言葉など全然気にも掛けないで、ニコニコしながらベゼルとセテに握手を求めた。
「あー、それからこのちっこいのがベゼルで、そっちの唐変木がセテだ。ちなみにこいつは元特使なんで、気を遣う必要はない」
「『元』じゃない、『現役』だ」
 セテはやる気なさそうに反論をした。
 奥の部屋から突然の来客を不思議に思ったらしい王女が顔を出しているのが視界に入ったので、レイザークは王女をジョーイになんと紹介していいか一瞬考えあぐねているようだった。ところが。
「あ!!!」
 ジョーイと王女が、互いを指さして同時に声を発したので、セテとベゼルは飛び上がらんばかりに驚いた。ジョーイは王女に駆け寄ると、
「ねえねえ、俺のこと覚えてる!? うわぁ、奇遇だなぁ。いつだっけ、ロクランの俺の店に来てくれたことあったよねぇ!? えーっと、あれは確か二百年祭のときだから、かれこれ……」
 と、王女やレイザークたちが困惑するのもお構いなしにまくしたてた。
「そうそう、あの銀髪の女の子、元気にしてる? いやぁ、どっかで会ったことあると思ってたら、君、レイザークの知り合いだったんだねぇ。俺もずっと気になっててさ、どこで会ったんだろうってあのあと二晩は思い出そうと必死になったんだけど、結局思い出せず仕舞いでさぁ」
「おい、ジョーイ、いいから少しは人の話を聞け」
 横からレイザークが水を差したので、ジョーイは不思議そうな顔をして大男と金髪の少女の顔を見比べた。
「こいつと面識があったんですか?」
 渋面でレイザークが尋ねるので、王女は少し申し訳なさそうに
「ええ、ロクランの二百年祭のとき、サーシェスと城下町の骨董品のテントで」
「あ! そうそう! サーシェスちゃん! あの子もかわいかったけど、君もかわいいよねぇ。こんな筋肉ダルマとどんな接点があるのか、俺すっごく不思議」
「ジョーイ、少し黙れ、鬱陶しい」
 レイザークにぴしゃりと言われ、ジョーイの健康的に日焼けした顔は不満そうにむくれた。年は二十六、七なのだろうに、まるで少年のような仕草がセテの笑いを誘う。
「揃いも揃って要人の顔も分からんようじゃ、この先が思いやられるぞ、お前ら。紹介しておく。ロクラン王国のアスターシャ・レネ・ロクラン王女だ」
「えええっ!! マジで!? 王女様って、俺冗談抜きで有名な歌姫さんか女優さんだとばっかり思ってたのに!!」
 予想以上の反応に、思わずアスターシャもセテも吹き出した。セテはといえば人のことは言えないのだったが。
「というわけでだ。ジョーイ、だからお前が来るのを百年は待ってたんだぞ。いいからとっとと本題に入れ」
 呆れたように額に手をやるレイザークに促され、ジョーイはここへ来て初めてのまじめな表情になって、担いできた鞄の中から筒に入った書簡を取りだし、レイザークに手渡した。レイザークはそれを慣れた手つきで広げると、すばやく目を通し、ジョーイとセテの顔を交互に睨みつけた。
「セテ。これから我々は光都オレリア・ルアーノに向かうことになりそうだ」
「光都へ?」
「畜生めが。何もかも後手に回るとはな。まず、義姉さんが身柄を拘束された」
「ワルトハイム将軍が!?」
「何でも自分の不手際を隠すために、裏取引をしていただの公文書偽造をしただの虚偽の報告をしただの、うさんくさそうな罪状がずらりと並んでいる。それから」
 いったんレイザークは舌打ちをし、手にしていた書簡をテーブルに放り投げた。
「中央諸世界連合はロクランを占領しているアートハルク帝国駐留軍を包囲すべく、特使と聖騎士団、それから評議会常任理事国のいくつかからの多国籍軍を派兵するつもりだ」
 セテとアスターシャ、そしてベゼルまでもが息を飲み、身を固くした。
「つまり、戦争だ」
 レイザークの言葉に、セテはぐっと拳を握りしめた。その関節が白くなっている。わずかに震えているようでもあった。
「さて、我らが頼もしいベナワン議長からの救援だ。これから忙しくなるぞ。とっとと支度をして、明日の朝には出発だ」
「ちょっと待てって。俺は特使だけど、なんだってあんたと一緒に光都へ行かなきゃいけないんだ。それに、戦争っつったって俺は」
 アートハルク戦争を経験しているとはいえ、大勢の人間が入り交じって戦闘をする機会に幸いにも遭遇したことのないセテにとって、いまこの場で聞く「戦争」という言葉が、まるで芝居の中の絵空事にように感じられた。モンスター相手ではない、生身の人間がぶつかり合う大きな流れに、飲み込まれてはい上がれないような息苦しい不安と恐怖がどっと押し寄せてくるような感覚であった。
「教えておいてやる。戦争ってのは人間が動き、金が動き、歴史が動く。世界が動き出すんだ。俺たちはもうすでに、その流れに囚われちまってるんだよ」
 レイザークは皮肉混じりにそう言い、ニヤリと笑った。その顔が、戦闘を前に高揚しているぎらついた戦士のものに見えて、セテはわずかに身震いをした。
「お前は無期休職中だから今回の招集にはかすりもしない。安心しろ。だがその代わり」
 レイザークは太い腕を横柄に組み、セテを睨みつけるように見下ろした。心なしかセテの背筋がしゃんと伸びる。それを見たレイザークは、満足そうに再びニヤリと不敵な笑みを見せた。
「言い忘れてたな。俺がお前に剣を教えてやる代償だ。お前はこれから、俺と一緒に仕事をするんだ。俺だけじゃない、このジョーイや他の勇士たちと一緒に。特使としてではなく、〈黄昏の戦士〉の一員としてな」






 青紫の雲が遙かに顔を出した太陽の光をテラテラと鈍く反射する様を、ガートルードは満足そうに目を細めて眺めている。雲の切れ目から時たま顔を出すエルメネス大陸やその周りを包囲する藍色の海は、いまだ夜の眠りについているが、彼女の居城である紫禁城《しきんじょう》はその上空で、常に太陽の光に照らされていた。
 そして彼女のお気に入りのバルコニーは、常に強い風に包まれている。ガートルードの濡れ羽色のような見事な黒髪を容赦なくさらっていくのだったが、火炎帝はその風の感触がたいそう気に入っていた。
「皇帝陛下。ランデール隊より心話が入りました」
 側で影のように控えていた従者が、ガートルードに静かに声をかける。火炎帝は振り返らず、その細く長い指で報告を促した。
「先ほど中央諸世界連合はロクランに向けて派兵することを正式に決議した模様です。また、ターゲット二人は合流した後、光都へ向かっているとのことです」
「ご苦労。さがってよろしい」
 ガートルードからのねぎらいの言葉を受けた従者は恭しく頭を下げると、音もなく姿を消した。火炎帝は何事もなかったように、バルコニーを暴れ回る強風の感触を存分に楽しむかのように、長い黒髪をかきあげた。
「運命の輪は回る。『神の黙示録』のとおりに、誰がどうあがこうともな」
 そうひとりごちたあと、ガートルードは自虐的に鼻を鳴らし、その白い肌によく映える形のよい赤い唇で不敵な笑みを作ってみせた。
「さて、サーシェスよ。そしてラインハット寺院の若き修行僧よ。私はすべてが終わり、すべてが始まった場所でいつまでもお前たちふたりを待っていようぞ」
 ガートルードは白い腕を伸ばし、天にわずかに輝く星を目がけて指を指した。その星が有史以来その場所にあり続けることを、ガートルードは解読した『神の黙示録』の一部ですでに知っていた。その正体が何であるかも。
「戦士たちよ。黄昏の終焉を恐れることなかれ」
 ガートルードの部屋の中では、すでに半分以上解読が終了した『神の黙示録』の一部が、緑色の光を放つ小さな台座の数センチ上でふわふわと浮遊しながらうなり声をあげていた。
 火炎帝が知る光都での舞台の幕開けは、登場人物すべてが揃うのを待つばかりであった。

【第二章:黄昏の戦士 完】

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