第一話:想いと思惑と

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 ここは滅びの後の、絶望的なほど長い長い時間の果てに約束された救いの地。
 神々の子孫たる偉大なる一族はここで生まれた。
 神々のではなく、人の手によって。

 そも、神とはなんぞや。
 この世を作り、それでいて破滅の道を説く、その真意とはなんぞや。
 己の映し身として人を造りたもうた神の見た夢とはなんぞや。

 私は問いたいのだ。
 なぜ人は、己と同じ姿をしているという神を、見たこともないのに崇拝できたのか。
 自身を美しくあれと望み、理想の似姿で人形を作り、愛でてきた人間。
 我々はそれとなんら変わりない理想論を神に求め続け、茶番を演じていたのではなかろうか。
 神とは人の心を理解できる魂を持たない、ただの偶像に過ぎないのではなかろうか──と。

 だが偶像の神々よ、我らを忘れ、見捨てた身勝手さに憤りながらも、
 こんなにもあなた方の記憶を愛おしく感じる人類を哀れみたまえ。
 そしてあなた方にもっとも近しい、美しき銀色の女神の心を我らの元へ返したまえ。

 ──願わくば暗闇の雲が世界を飲み込む前に、
 我が兄の愛した、死せる夢見の大地に輝きを──。








 禍々しい月が顔を出す、忌むべき夜であった。
 動く気配のなかった風がようやく動きだしたので、薄っすらと月光に照らされる帯状の雲が、遠慮がちに月を避けてたゆとう。晴天の闇夜の空に浮かぶ月は、いつもなら「見事な」と形容されてもいいはずなのに、今夜に限っては腫れ物のように赤く大きく見える。不気味なその様に、夜空の星たちもが恐れおののいて姿を消したかのようだった。星は、今夜はひとつも見えなかった。
 巨大な月を背にした針葉樹のような枝に、黒々とした濡れ羽を輝かせたカラスが羽を休めている。ねぐらを探してキョロキョロと頭を巡らしているが、困ったようにくちばしを動かして落ち着きがない。針葉樹の真下には彼らにとっては絶好の寝床があるのだが、気に入らないことがあるらしく、木の上から様子をうかがっているようだった。やがて、なにかの気配に驚いたようにつぶれた鳴き声を一声あげると、枝を蹴って中空に舞う。針葉樹の枝は、乾燥した音をたてながら静かに揺れた。
 木の根本には、張り出した岩場に守られた浅い洞窟のようなくぼみがあった。灌木に周りを囲まれているので、小動物にとっては外敵から身を隠して安全に休める絶好の場所でもある。固い岩盤と張り出した岩場の影のおかげで、出来損ないの洞窟には心地よい闇ができあがっていた。
 そのくぼみに、わずかに衣擦れの音がする。カラスが逃げたのは、この気配が気になっていたからであろう。見ればわずかに差し込む一筋の月光に、ゆるやかなドレープを作る服の裾。ドレスの裾らしいそれは、上等な絹で織られた仕立てのいいものだっただろうに泥や枯れ葉にまみれて汚れており、枝に引っかけたのかあちこちが裂けている状態であった。それが、押し殺した息づかいにわずかに揺れているのだ。
 金色の髪をした少女だった。膝を抱えて座っているため、あがる息と心臓の鼓動にドレスの裾が震える。たまに鼻をすするような音がするので、泣いているのかも知れなかった。暗闇にあっても輝きを忘れない、美しい黄金の髪は腰まで長い。毛先が地面を掃いてしまっているのもかまわないほど、少女は疲労困憊しているようだった。顔は見えないが、その上質のドレスをまとっていることから、育ちのいいハイ・ファミリーの娘だと一目で分かる。
 ガサリと枝にわずかに残る葉が音を立てたので、少女の身体はびくりと震えた。外の月明かりを背にした人影が入り口付近に現れたのだった。細身ではあるが長身で、片手には剣とおぼしき長い得物を手にしている。少女は小さく悲鳴をあげ、すぐに口元を両手で覆った。色の白い透き通るような肌、それに映えるエメラルドグリーンの瞳が印象的な目鼻立ちの整った美しい顔、そこに恐怖の色がありありと浮かんではいた。
「ガートルード」
 少し息が弾んではいたが、低く優しい青年の声がした。入り口の人影がゆっくりと少女に近づく。少女はじりじりと後ずさりをして人影から逃れようとしているようだった。
「ガートルード、私だ、安心しろ」
 男はなだめるように手を差し出し、押し殺してはいるがはっきり聞こえるようにゆっくりとそう言った。ガートルードと呼ばれた少女はその声に安心したのか、震える唇から安堵のため息を漏らした。人影はそんな彼女を気遣うためにすぐに駆け寄ると、彼女の傍らにしゃがみ、その細い肩を抱きしめた。
「兄さん……!」
 少女の声は震え、それはやがて嗚咽に変わった。乱れたガートルードの金髪を優しくなでながら、青年は彼女の耳元に唇を寄せた。
「大丈夫だ。もう心配ない。やつらはもうここまでは追ってこない」
 ガートルードの頬を、青年の柔らかい黄金の巻き毛がくすぐった。
 ガートルードはしばらく兄の胸で泣いた後、少し落ち着きを取り戻したようだった。小さな声で「だいじょうぶ」と言い聞かせるようにつぶやくと、兄を安心させるためにゆっくりと身体を離した。その際、兄の着ているシャツの胸がじっとりと濡れているのに気づいて目をこらした。どす黒いそれは、紛れもなく血糊であった。
「レオンハルト……! 怪我をしたの……!?」
 青年は静かに首を振ると、
「私はだいじょうぶだ。これは……ただの返り血だ」
 そう言って目を伏せた。肩くらいまでの黄金の巻き毛に縁取られた顔には、妹と同じエメラルドグリーンの瞳があった。旧世界《ロイギル》時代の彫刻を思わせるような彫りの深い端正なその顔には、失意の表情がありありと表れていた。
 足下に転がった彼の剣にはベッタリと血糊がついており、刃がところどころこぼれてしまっている。兄レオンハルトが何人もの人間を斬り殺してきたのは一目瞭然であった。
「私のために……人を……!」
 ガートルードは顔を覆い、絶望の中で首を振った。城を逃げ出す際、父の配下の者を何人も斬り、追っ手から逃れてきたのだ。自分を守るために。あの優しかった兄を、なんということに巻き込んでしまったのだろう。
「ガーティー、お前のせいではない。これは私の選んだ道だ」
「違うわ。どうして放っておいてくれなかったの? 私は死んでしまいたかったのに。父を殺して死んでしまうつもりだったのに。それなのに、兄さんを巻き込んで人殺しまでさせてしまったのは、私に生きることへの意地汚い執着があるからよ」
「……簡単に死ぬだなんてことを口にするな」
 静かだが、確実な怒りを含んだ声でレオンハルトはそう言った。だがガートルードは、
「本当のことよ。私なんか生まれてこなければよかった。このまま死なせてくれたらいいのに」
「馬鹿なことを言うな!」
 厳しい叱責の声だった。それからレオンハルトは妹を再び強く抱きしめた。彼女が息をするのを忘れてしまうほど強く。
「私がそばにいる。何があっても、私はお前を守り抜く。だから……」
 そう言いかけたときだった。遙か上空に警笛のような音がいくつも鳴り響く。それからすぐに閃光が激しく明滅したかと思うと轟音に変わり、兄妹のいる岩場のくぼみを激しく揺るがせたのだった。
 おびえるガートルードを優しくなだめ、レオンハルトははじかれるように入り口まで走った。立て続けに閃光が走り、闇夜を瞬時に赤々と照らすと、遅れて轟音が鳴り響く。見れば、小高い丘の上にかすかにそびえ立つ城が、燃えさかる炎に包まれ悲鳴をあげているところであった。その配下に立ち並ぶ街のあちこちにも、火の手が上がっているのが見える。
「父上の居城が……!」
 レオンハルトはうめくようにそう言った。二十年以上親しみ、つい先ほど永遠の決別をしてきたばかりの、悪夢を紡ぐ父の城の終焉であった。没落貴族だというのに体面ばかりを気にしていた父が異常なまでに固執し、大切にしてきた城。いつか消えてなくなってしまえばと望んだことはあったが、こうも簡単に最期を迎えるとは思いもしなかった。
 空を見上げれば、中距離ミサイルが火花を吹き出しながら不吉な奇跡を描いて飛行していくのが見えた。誤認爆撃でないのは明らかだ。
「始まったのか……!?」
 再びレオンハルトはうめいた。侵攻軍がいつ爆撃を開始してもおかしくない状況ではあったが、まさかこんなに早く戦争が始まるとは思ってもみなかったのだ。それとも発表された声明を、今回のゴタゴタで聞き逃していたのかも知れない。こんなときに……そんな思いが頭を駆けめぐった。
 突然、ガートルードは兄を突き飛ばし、その脇をすり抜けて岩場の外へ身体を躍らせた。すぐ後ろで爆発があったのでレオンハルトの身体が大きく傾いだのも、それを許した要因のひとつだ。
「ガーティー!?」
 レオンハルトは揺れる地面に難儀しながら身体を起こすと、妹の背に叫んだ。ガートルードは華奢な足で、だがしっかりとした足取りで森の中を駆けていく。爆撃は無差別なのかこの森の中にまで及んでおり、さらに悪いことには、ガートルードのその手にはレオンハルトが持っていた血まみれの長剣がしっかりと握られていた。近づく爆撃に身を躍らせるような妹を追って、レオンハルトも即座に駆けだした。
「戻れ! ガートルード!!」
「こないで!!」
 突然ガートルードが足を止め、くるりと振り返って叫んだ。レオンハルトの剣を突きつけ、数メートル後ろまで迫ってきていた兄を威嚇する。その剣の先からは斬り殺したばかりの人間の血が、わずかにしたたり落ちていた。小さくレオンハルトの身体が震えた。
「よせ、ガートルード。絨毯爆撃が始まった。ここは危ない」
「それこそ本望よ。お願いだからもう私にかまわないで。私を放っておいて。このまま死なせてほしいの」
「馬鹿なことを……!」
「馬鹿なことなんかじゃないわ。本気よ」
 ガートルードは花のような顔《かんばせ》に痛々しいまでの悲しみを浮かべて、小さく微笑んだ。
「どうして放っておいてくれなかったの。どうして自分のことをさしおいて、私のことばかり守ろうとするの。父が死んだいま、私も死ねば、レオンハルト、あなたが縛られるものは何もなくなる。あなたが夢見ていたとおり、理想の君主に仕えて栄光をいただくこともできる。私はもう二度と、誰の苦しみも見たくない。あれほどまでに憎んだ父の苦しみも、私のことで心を砕かれる兄さんの苦しみも……そして忌まわしいこの身体で生きていくことの私の苦しみも」
 ガートルードの背後の森が閃光に包まれた。続いて衝撃波が続く。揺らぐ大地のただ中、ガートルードの金色の髪が炎のように赤く輝いて見える。いとも簡単に地面をえぐり、人間を粉みじんにできるミサイルが、雨のように降り注ぐのが森の彼方から覗いている。無差別に虐殺を行う絨毯爆撃は、いまや人間の住む街だけでなく、人の気配さえ殺す森の中にまで迫っていた。
 レオンハルトは意を決してガートルードの元へ駆け寄った。か細い腕に握られた剣をたたき落とすと、妹の身体を強く抱きしめた。爆風で森の木々が悲鳴を上げているのが聞こえてきた。いまの自分の能力では、彼女はおろか自分の身体を爆発から守るだけの障壁を築くことはできないと悟ったレオンハルトの、悲壮な決意であった。
「お前だけを死なせはしない。ともに……」
 その先は続けることができなかった。爆風に晒され燃え広がった炎が、煽られて巨大な竜のように牙をむき、ふたりの身体を包もうとしていた。だが、レオンハルトの目の前でそれはまるで使い古された映写機のようにゆっくりと覆い被さってくるように見えた。そのすさまじい轟音さえもかき消され、静寂を招いているようだった。
 死を覚悟した人間の、最期の瞬間は静寂なのだとレオンハルトは思った。
 そして次の瞬間に、周りのすべてが一斉に動き出した。身を切るような衝撃波と熱量に身体がバラバラになるような感覚が、身体を通り過ぎていく。レオンハルトは妹の頭を自分の胸に押し当て、彼女の頭を抱えるように身をかがめた。そうすることで、炎の中の苦しみが少しでも和らぐのだというように。
 ──数秒の後のことであった。
 虫の羽音のような不思議な音が、頭上でうなりをあげる。その合間に、パチパチと炎に乾燥した木々がはぜる音が混じっている。自分の意識がまだしっかりと残っていることに軽い驚きを感じたレオンハルトは、妹の頭に押しつけた頬をゆっくりと上げ、閉じたまぶたも念入りにゆっくりとこじ開けた。自分の腕に伝わる暖かい妹の身体の感触と鼓動は、まぎれもなく自分が生きて五感を保っているのだという動かぬ証拠だ。
 それからレオンハルトは驚いて頭を巡らせた。自分たちを中心にした半径五メートルくらいは、きれいな円を描いて炎からまぬがれているのだ。そしてそれを確実なものとしているのは、自分たちの身体の回りに張り巡らされた、ときおり白い光をはぜる緑色の物理障壁。
 自分やガートルードにこれほどの能力はない。だとすれば──?
「お前の能力などたかが知れている。安心しろ」
 あざけるような声が頭上から降り注ぐ。女の、いや、少女に近い若い娘の声だ。はじかれるように頭を巡らせると、焼け落ちんばかりの燃えさかる木の上に、白く輝く光の固まりがあった。目をこらすと、それは人の姿をしていて、中空に浮いたまま爆風にさらされる長い髪を悠々となびかせている。ふたりを守る物理障壁の主に違いないと認識するのに、そう時間はかからなかった。そして、その人物が相当な手練れであることも。
「誰だ!?」そう叫んだつもりだったが、しわがれた声しか出ないのか、あるいはか細くて轟音にかき消されてしまっていたか、レオンハルトはおびえるガートルードをかばうように立ちはだかり、その人影を睨みつけた。
「最期の瞬間に、恋人との熱き抱擁を選ぶとはたいしたものだな」
 またあざけるような口調で、人影はそう言った。光が薄れていくと、銀色の髪をたなびかせて横柄に腕を組んで中空に立つ──足場がないというのに、中空に立っているように見えるのだ──少女の姿が現れた。人を小馬鹿にするようなきつい瞳がじっとふたりを見据える。だが、目が離せない。目鼻立ちがくっきりとして整ったその顔の作りに加え、聡明な光をたたえる緑色の瞳は、ふたりの身体を縛り付けるようだった。古代の伝説に戦乙女や戦の女神といった登場人物がたびたび語られていたが、炎の中で輝きを放つこの少女の姿こそ、伝説から抜き取ったのではなく、そのものだと思わせるのだった。
「恋人ではない、妹だ」
 我ながら間の抜けた買い言葉だとレオンハルトは思ったが、いまは少女の姿に萎縮しているのか、そんなことしか思い浮かべることができなかった。
「妹? ほう……」
 銀髪の少女は興味深そうにそう言った。
 それから彼女は中空から舞うようにふわりとふたりの目の前に降り立った。同じ年頃の娘に比べれば背が高く、恐ろしく均整のとれた身体が十七、八くらいの娘には不釣り合いに見えた。上半身にぴったりとはりつくようなチュニックに、短いスカートから覗く足は、その身体の線をあえて誇示しているかのようだ。グリーンのチュニックは彼女の瞳の色と同じであったが、いまはどちらも炎に煽られて赤黒く輝きを放つ。好戦的な表情は、この少女が周囲の惨状を楽しんでいるのではとまで思わせるのだ。
 好戦的という低俗な表現を思いついたことに、レオンハルトは後悔する。顔を含めた姿形はすさまじいほどの美しさと強さを匂わせていて、内面にあふれる勇気を毅然とした態度とともに全身から漂わせているだけなのだ。地位ある将校のような恐れを知らぬ少女の出で立ちに、レオンハルトはすっかり困惑させられてしまっていた。
「お前がレオンハルトか。探したぞ」
 少女は睨むような瞳でレオンハルトを一瞥するとそう言った。その言葉にレオンハルトは後ずさり、さらにガートルードを自分の後ろに追いやった。ブスブスといぶられて煙をあげる枯れ葉が、足下で不粋な不協和音を奏でる。
「私を……!? なぜ……」
 追っ手だとは思わなかったが、少女の不可解な言葉にレオンハルトは恐怖を感じたのだ。少女は答えるかわりに、青年の後ろにかばわれている彼の妹をも値踏みするかのようにしげしげと眺めた。ガートルードは少女の鋭い視線に少しだけ身体を震わせた。
「私とともに来い」
 突然そう言うと銀髪の少女は、レオンハルトの目の前に左腕を差し出し、手のひらを上に向けた。招いているのだと理解するのに少し時間を要するほど、少女の仕草は遠慮がなかった。その手のひらの真ん中に、古い傷跡が真一文字に走っている。華奢な腕、細く長い指、どこからどう見てもかよわき少女の手のひらであったが、その手に強い意志と力がみなぎっているように見えた。
「この馬鹿げた茶番劇を終わらせねばなるまい。捨てるつもりの命なら私に預けろ」
 少女は凛とした声でそう言い、手をさしのべたまま、レオンハルトの顔を挑むような表情でじっと見つめていた。魔法のように人を引きつける、魅力的な声だった。遙かに轟く爆音と、少し遅れて到着するわずかな振動、それから炎を巻き上げる風が、彼女の長く柔らかい銀の髪を揺るがせた。少女の手のひらに残る古傷は、炎に照らされているためか、わずかに銀色に光って見えた。
「私とともに来い。この世界をあるべき姿に戻すために、お前たちの力が必要なのだ」






「皇帝陛下」
 側近の耳打ちで、ガートルードは我に返った。
 目の前には差し出された手のひらが待っていた。だが少女の白魚のような手ではなく、年を経た少し無骨な男の手である。
 顔を少し上げれば、その手を差し出しているのは確かに初老の男で、少し驚いたような、困惑したような表情が口ひげのある無骨な造りの顔から読めた。
「失礼」
 ガートルードは辺境の言葉で小さく詫びると、差し出された手に自分の手を重ね、固く握手を交わした。同時に、周囲から割れんばかりの拍手が巻き起こる。
 辺境の小国のひとつであるレイアムラント首脳と、アートハルク帝国との同盟を結ぶ調印式の真っ最中であった。ガートルードをはじめとするアートハルクとレイアムラントの首脳陣に加え、今日は報道陣を招いた大々的な同盟締結と記者発表が行われることになっていた。
 レイアムラントとデリフィウスというふたつの辺境に位置する国家が中央諸世界連合より離反することは大きく伝えられ、世界的に緊張をもたらしたのは今年の春のことだった。アートハルク帝国が復活し、ロクラン王国を事実上の占領下に置いたときに、両国がすでにアートハルクと手を組み、多国籍軍としてアートハルクとともに占領に加わっていたことはまことしやかに噂されていた。これまで沈黙を守っていたレイアムラントであったが、今日のこの調印式と記者会見の日程が発表されたのは、まさにロクランが占領された直後のことであった。レイアムラントがアートハルクの陰謀に暗躍していたことが白日のもとに晒されるのを期待した記者団が、我先にと押し寄せたのは言うまでもない。
「失礼、まずは新生アートハルク帝国皇帝ガートルード陛下にひと言」
 調印が終わった後すぐに、前に陣取っていた若い記者が挙手をし、そう発言した。本来ならレイアムラント首相の演説が予定されていたのだが、彼の隣で一歩引いた形でたたずむ美しい黒髪の女帝の姿に、招かれた首脳陣ばかりか、百戦錬磨の記者たちまでもが目を奪われていたようであった。困惑した首相はガートルードを振り返り、目で確認をするが、女皇帝は臆することなく軽くうなずくとしずしずと一歩歩み出てきた。
 今日のガートルードは、黒いシルクのドレスと、同じように黒く羽毛で縁取られた豪奢なマントという、正装のいでたちであった。かつてのアートハルク戦争の直前までアートハルクの紋章は双頭のドラゴンであったが、戦争勃発後から今日この日、ガートルードのマントには炎をかたどった新生アートハルクの紋章が煌めいていた。隣に立つレイアムラント首相に負けないほどの長身と、全身黒で引き立たされた氷のような美貌が見る者の魂を奪うようであった。
「今回のロクラン占領は、完全に中央諸世界連合にとっては宣戦布告と受け取られています。世論からしてもなぜそのような愚かな真似をというのが一般的な見方ですが?」
 若い記者は侵略者である美しき女王の前でも臆することなく、ずけずけと、だが記者らしい物言いでそう尋ねた。多くの者が尋ねようと思ってもかなわなかったことでもある。アートハルクの女皇帝は気分を害した様子もなく、静かに頷くと、
「それに答えるにはまず、先代のダフニスの時代に遡って話す必要があるが……」
 レイアムラント首相と周囲に少し気を遣ったような視線で仰ぐと、ガートルードはもう一歩前に歩み出て、前を陣取っている記者たちの顔をしっかりと眺めた。
「ダフニス前皇帝が先代の残虐王サーディックの悪政を終わらせ、当時のアートハルク帝国を中央諸世界連合へ加盟させて先進国の仲間入りをさせたのは周知のとおりだ。国内の先進化を計るとともに、同じように辺境で悪しき因習に囚われていた国々への援助も積極的に行ってきた。当時の中央諸世界連合がなしえなかった、そして現在もなお実現できていない『平等化』を真に推し進めようとしていたのは中央にもつぶさに記録されている。そんななかでダフニス前皇帝が進めていたのは、失われた英知、すなわち旧世界《ロイギル》が残した数々の遺産の研究だ」
 効果的なしゃべり口であった。ガートルードはいったんそこで言葉を切り、周囲に同意を求めるかのように頭を巡らせた。聴衆の顔は、ここから彼女の口から、五年前のアートハルク戦争の動機やら事の真実やらが語られるのを心待ちにしている以外の表情はうかがうことができなかった。
「それらが結果的に戦闘手段として使われたことは認めるが、元々の研究目的は、大陸を分断して辺境を作り出した汎大陸戦争以前の英知を使って、辺境の国々の支援をすること。失われた文明の中に、なにかしらの知恵が隠されているのではとダフニスは思った。そして、偶然にも彼は見つけたのだ。神々の英知を詰め込んだとされる伝説の書物、『神の黙示録』第三章を」
 アートハルク帝国を囲む雪山の一角に、万年氷にも似た厚い氷や雪に閉ざされ、ほぼ完璧な姿を残す旧世界の研究施設があった。そのすぐ近くで三つに分断された『神の黙示録』が発見された。ダフニスはそれが幻の書物であることを知ると、すぐに中央に打診し、これを自国内にて研究できるように評議会にかけあったのだった。
「中央は渋った。銀嶺王がいくら聡明で辺境支援に精を出している聖人だとしても、あの残虐王の血を紛れもなく引いているアートハルクの若造に、お株を奪われることを快く思わなかった重鎮がいたかもしれない。もしかしたら中央に刃向かう戦力を与えてしまうのではないか──と疑心暗鬼に陥るご老体もいたのかもしれない。さて、その直後に実に不可思議な不幸が起きた。ダフニス・デラ・アートハルクの血縁関係にあったハイ・ファミリーが、遠縁に当たる者までもがことごとく事故死や病死など変死を遂げたのだ」
「当時小さくではありましたが私がその記事を書いたことがあります。彼らが近親婚によって早死にすることは古くから知られていたことですが、それらが中央の暗殺計画であったと?」
 別の記者がすかさず尋ねた。ガートルードは小さく首を振ると、
「証拠はない。だが、ダフニスは直感したのだ。当時発足したばかりの特使チームの暗躍ではないかとね。前皇帝は激しく憤り、『神の黙示録』第三章の解読に力を入れた。中央に自分が消される前に……とね」
「ではアートハルク戦争は中央に対する復讐であったと、そういうわけですか。それでは中央から派遣されていたパラディン・レオンハルトの立場は? なぜ彼は中央の人間でありながら侵略戦争を容認したのです? そしてあなたも聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》のひとりとして平和を遵守する義務がおありだったでしょう。なぜ……」
 若い記者の矢継ぎ早な質問を手で遮ると、ガートルードは胸を張り、聴衆を見渡した。効果的な演説を前に、各国首脳が自信満々に呼吸をするその姿勢によく似ていた。
「これは聖戦である!」
 力強くガートルードの声が会場に響き渡った。周囲の者はその迫力に、びくりと身体を震わせ、魔法にかかったかのように動けなくなった。
「中央諸世界連合が設立されて二百余年、だが実質的な拘束力を持たないこの巨体だけが自慢の空虚な組織が辺境の国々で苦しむ人間を救えたことは決してない。自らを構成する国々にはびこる腐敗を棚に上げて数々の横暴を繰り返し、結果、辺境の小競り合いを拡大してきたことは紛れもない事実だ。我らアートハルクは前皇帝ダフニスの遺志を継ぎ、レイアムラントをはじめとする辺境の国々に本当の平和と平等をもたらすまで、戦い続けることをここに宣言する!」
 中央から来ていた記者たちは困惑を隠しきれずにいたが、レイアムラントや他の辺境の国々の貴賓席から割れるような拍手と歓声があがったことで、自分たちがいままさに戦争を始めようとする狂戦士《ベルセルク》の館に招かれていたことをやっと悟るのであった。





「『聖戦』とはうまい言葉を使いやがる。新聞屋たちの心を掴むのにこれ以上に適切な言葉はない」
 熊のような聖騎士は憤慨したように大きなため息をつくと、新聞の束をテーブルの上に乱暴に叩きつけた。各紙が口を揃えてガートルードの聖戦宣言を取り上げていたが、おおむねアートハルクに、特に亡くなったダフニス前皇帝に対して同情的なのがレイザークのお気に召さなかったらしい。
「でしょ? そりゃもうあのときの異様な雰囲気といったら。中央のブンヤさんたちはあの宣言の後、まず最初に自分たちが血祭りに上げられるんじゃないかと胆つぶしてたんだわ」
 ばさばさの黒髪を無造作に束ねたジョーイが肩をすくめながら、さも愉快そうにそう言った。ここ数日間のレイザークの待ち人は、この不可思議な青年であった。レイザークによれば、このジョーイという男は辺境の海のそばにある小さな村落の出身だというのだが、辺境から中央までやってきてはあやしげなものを売りつける行商をやっている傍らで、さまざまな諜報活動に手を染めているのだという。先日のガートルードの聖戦宣言の際にもどうやってかその会場に新聞屋の顔をして入り込み、その様子をつぶさにレイザークに語って聞かせたのだった。
「なーにが復讐だ。都合のいい言葉ばかり使いやがって。そんな陳腐な動機で戦争なんぞ起こされたんじゃたまったもんじゃねえ」
 レイザークはぶつくさ言いながら傍らのジョッキを引き寄せ、ゴクゴクと喉を鳴らしながらうまそうにビールを飲む。まるで居酒屋で愚痴をたれる商人のオヤジそっくりだったので、隣のセテが吹き出したのを、レイザークはギロリと睨んでやった。
「あ、でも……特使が暗殺って……本当かもしれないじゃないか。現に俺たち特使には殺人許可証なるものが配られていて、任務を遂行する過程で容疑者を殺害しても何のおとがめもない。俺は経験ないけど、いろいろえげつない任務も命令とあれば必ず遂行しなければならないし」
 特使に関するガートルードの言葉で少し居心地の悪い思いをしていたセテが弱々しく口を開いた。実際、例のコルネリオの事件の際にガラハドから手渡されたラファエラからの命令書には、明言されてはいなかったものの、コルネリオを確実に葬ることが前提とされている一文が書いてあったのだ。そうでなくても、自分の復讐のために殺人許可証を免罪符にしたことを、セテはいまだに忘れることができないのだ。
「中央特使がいまの形になったのは、四年前、義姉さんが長官に就任してからのことだ。確かにまだ副官だった頃、ラファエラは何度となくバーンズ前長官に特使のような組織を承認してもらえるよう要請していたし、独自に特使を使って隠密行動をさせていたりはしていたがな。アートハルクに特使を派遣するという話は幾度もあがったが、それもサーディックの時代までのことだ。ダフニスに代替わりしてからは中央へのアートハルクの献身度といったらなかったし、なによりレオンハルトが先にアートハルク入りしてたしな」
 レイザークが腕を組みながらそう言うと、セテの表情が曇る。アートハルクの話題で、レオンハルトの名が聞かれないことはないと分かってはいても、レイザークがレオンハルトをあまり好ましく思っていないというのは事実だし、なにより、彼の当時の行動は謎なままなのだ。
「勘違いするな馬鹿が。確かに当初レオンハルトがサーディックを表敬訪問するってときは、レオンハルトを使った暗殺計画が動いているんじゃないかとまことしやかに噂されてたがな。だがすぐにサーディックの野郎はくたばっちまってダフニスが跡を継ぎ、あっという間にレオンハルトが守護剣士になっちまったんだから、あの黄金の聖騎士様が刺客として送り込まれたなんてこともなかろうよ」
 気遣いなのか、それともレオンハルトのことですぐにぐずるセテに嫌気がさしていたのか、レイザークがそう言った。
「だが……」
 レイザークはジョッキに口をつけながら横目でセテをじろりと見やる。
「クサイのは聖救世使教会だな。俺たちは聖救世使教会の承認なくしては中央評議会からの要請だけじゃ動けん。直々にレオンハルトをアートハルクに送ったってのも匂うし、なによりハドリアヌス祭司長が帰還要請を出したってのにレオンハルトがそれを無視してダフニスの守護剣士になりたがったってのもな。『神の黙示録』を喉から手が出るほど欲しているとはいえ、中央評議会がわざとあけすけにダフニスの親族を暗殺しまくって警告を与えるような馬鹿な真似をするわけがなかろう。ハドリアヌスが『熱いじゃがいも』好きなら、あの当時いくらでも引っかき回すことができただろうしな。死人に口なし。生きてるヤツが言った言葉のほうが大衆は信じるもんだ」
「あんたの言ってることはいつもわけが分かんないんだよ。あんたが言ってるのは、自分らのボスがアートハルク戦争に関与してる怪しいヤツだってことだぞ」
「お前も聖騎士になってみりゃ分かる。一度ハドリアヌスと話してみたら、あんなに陰険でイヤラシイ男はいないといやでも分かるってこった。聖騎士は馬鹿だからこうやって噂話で憂さ晴らしするしかねえんだよ」
 自虐的にレイザークはゲラゲラ笑い、それから残りのビールを威勢よくあおった。セテは内心肩をすくめた。これから光都へ移動するというのに、こんなにガバガバと呑気にビールを煽っていられる馬鹿な聖騎士など見たことがない。
「そういや、ベゼルのヤツどうした。荷造りするって言ってから随分と暇がかかるじゃねえか。なんだセテ、お前の部屋が相変わらず汚いので手間取ってんじゃねえのか」
 突然思い出したようにレイザークがあの小さな銀髪の少女に言及したので、セテはこれまでの会話ででてきた事柄を反芻する時間から一気に現実に引き戻された。そう言えば確かに一時間ほど前、光都へ向かう自分たちのために荷造りをレイザークに命じられて苦戦していたようだったが、一度も部屋から出てくる気配はないし、物音ひとつしない。
「見てくるよ。途中で居眠りこいてるかもしれないし」
 セテはそう言って席を立ち、自室に向かった。
「ベゼル? おい。大丈夫か? 寝てやしないだろうな。ずいぶん……」
 扉を開けると、部屋はランプの明かりもなく、暗いままだった。人の気配はするのでベゼルは確かにこの部屋にいるのだろうが、身動きひとつしないことから、本当に寝ているのかもしれなかった。
「おい、ホントに寝てるのか。俺たちの荷物どうしろって……」
 セテは入り口そばにあるランプに手を掛けようとしたが、そのとき。
「つけないで!」
 か細いがキンと通るベゼルの声がした。窓際のベッドのそばで、ベゼルがうずくまっているような気配がした。目が慣れてくれば、外の月明かりにベゼルの銀色の髪が光っているのが見えた。
「なんだ、起きてたのか。明かりもつけないでボーッとしてるなよ。心臓に悪いし、隣でアスターシャ王女が寝てるんだぞ。大きな声出すなよ」
 セテは小さくため息をつき、ベゼルに見えないと分かってはいたが肩をすくめてみせた。
「ごめん……分かってるよ……」
 声が少し震えている。それから鼻をすする音が聞こえる。
「どうしたんだよ。泣いてるのか?」
 ベゼルは答えない。セテは心配になって窓際のベゼルに近寄り、その肩を優しく叩いた。ベゼルが観念してこちらを振り向く気配がした。
「なあセテ、どうしても、オレはついてっちゃいけないのかよ」
 小さなベゼルは、小さな鼻を手の甲でグシグシとこすりながら消え入りそうな声でそう尋ねた。なるほどとセテは思う。セテやレイザークがアスターシャ王女とジョーイを伴って光都に行くことが決まってから、レイザークのはからいでベゼルは近くの老夫婦に預けられることになっていた。気のいい夫婦で、これまでもレイザークやベゼルとは家族のように親しくつきあいを交わしていたのだ。光都に行く途中、それから光都に行ってからも、いつどんな危険が降りかかってくるとも知れない。特に剣士としての手ほどきを受けたこともなく、年端もいかないベゼルを連れて行くことに、レイザークはとことん反対したのだ。ベゼルには血を見せたくない、レイザークはそう言って少し寂しそうな顔をしたものだった。
「もちろんだ。お前を危険な目に遭わせるような真似はできない。これは俺たち剣士の仕事だぞ。子どものお前には関係のないことだろ」
 セテは大人ぶってそう答えた。だがベゼルは激しく首を振り、
「足手まといになるようなことはしないよ! 料理はできないけど掃除だってできるし、身の回りの世話もやってあげられるし!」
「だめだ。何度言ったら分かるんだよ。これは遊びじゃないんだぞ。道中いつ命を落とすか分からないし、それにお前に血を見せるようなことはしたくないんだ。分かるだろ? そりゃ俺もお前の気持ちは分かるよ。たとえ家族のように親しくしてきたからって、おじさんおばさんの家でうまくやっていけるかどうか不安なのは……」
「そんなんじゃないよ!!」
 ベゼルは再び声を荒げて首を振った。セテは困ったようにため息をつき、ベゼルの視線に合わせてかがみ込むが、ベゼルはセテの腕を乱暴に振り払った。
「支度、もうできてるからってレイザークにも伝えて。オレ、気分が悪いからもう寝るよ」
「ベゼル」
 セテが心配そうに少女の名を呼び、その腕をもう一度掴んで振り向かせる。月明かりに照らされ、涙に濡れたベゼルの瞳までもが銀色に見えた。少年のようにかりあげた短い髪ではあったが、少しだけ彼女が年頃の少女のように見えたのは気のせいだったか。
 突然、ベゼルが抱きつき、腕の回りきらない背中にぎゅっとしがみついてきたので、セテは驚いて少しよろけた。ちょうど中腰になってベゼルの視線に合わせようと腰をかがめていたところだったので、軽く尻餅をつくハメになった。悪態をつこうとしたのだが、それは不可能であった。ベゼルの小さな唇が、しっかりとセテの唇をふさいでいたのだった。
「ごめん! お休み!」
 途方に暮れるセテを突き放すと、銀髪の少女は不作法に扉を開け放ち、飛び出していった。
「おい! ちょっと、待てよベゼル!!」
 セテはあたふたと床を這うようにその後ろ姿を追うのだが、足がもつれてうまく立ち上がれず、結局廊下にはい出る頃には問題の少女はすでに自室に引っ込んでしまった後であった。
「くそ、なんなんだよ、あいつ……!」
 小声で悪態をつくが、セテは正気に返ったように自分の唇に手を触れ、息を飲む。小さくて柔らかな、少女のふくよかな唇の感触が確かに残っていた。
 気のせいなんかじゃない。あいつ、確かに俺の……!?
「いろいろタイヘンだねぇ、お兄さんも」
 頭上から声がしたので、セテはぎょっとなって顔を上げる。見れば、あの怪しげなジョーイという青年が自分を見下ろしている。セテはあわてて立ち上がり、ごまかしついでに自分のGパンの膝をぱたぱたとはたいて見せた。扉は閉まっていたから見られているわけがない。見られていたら、俺は完全に少女趣味のヘンタイだ。そんな余計なことをセテはあれこれと、もちろんジョーイの前では平静を装いながら考えていたわけだが。
「初恋ってヤツじゃないの? あれくらいの女の子だったら当たり前でしょ」
 ジョーイはニコニコしながらそう言った。人なつこい表情がレトを思わせるので、セテはこの青年の登場当時から少し距離を置いていたのだったが。向こうはそんなことにはおかまいなしらしい。
「しらねえよ。あいつ、すごく気分屋だし、明日からまた知らない人間との共同生活が始まるので神経質になってるだけだろ」
 気分屋なのは自分のほうだったが、セテはあえてそうつっけんどんに言ってみた。知らずに、レトに話しかけるような口調になっていたことにセテは驚いた。
「なんかあんまり俺と話してくれないから嫌われてるかと思ったけど、安心したよ。えーっと、セナくんだっけ」
「セテ、だ」
「あーごめんごめん、人の顔を覚えるのは得意なんだけど、名前を覚えるのって不得意でさぁ、聞いても忘れちゃうんだよね。光都まで同行だけど、仲良くよろしく頼むわ」
 ジョーイのおどけた表情に、セテは初めてクスリと笑った。アスターシャとサーシェスのふたりを、なぜか知っているこの不思議な青年。なんとなく、道中うまくやっていけるような、そんな気がした。
 銀色の月が秋空に燦然と輝く夜。あと数時間すれば光都への過酷な旅が始まる。包み隠していたさまざまな想いと思惑を月の光が暴こうとしている不思議な夜であった。

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