第八話:蜂起

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 市場は朝から賑やかだ。早朝から朝食の頃まで喧噪が続いたあとは、しばらくまばらに客足が続き、昼前から再びごった返す。そうして昼食の時間帯が過ぎると商人たちは仕事の手を休め、夕方から夕食前に訪れるその日最後の喧噪に備えて思い思いに休憩時間を取る。こうした市場の賑やかさは、アートハルクの占領下においても変わらないようだ。
 ロクランの人々はたくましい。戦など己の人生になんの影響ももたらさないのだと言わんばかりに、それぞれの役割をまっとうしている。
 ミハイル・チェレンコフ財務長官は久しぶりの視察で市場を訪れ、その喧噪の心地よさにしばし酔いながらそう思った。占領下にあり、孤立無援の状態など、もしかして悪い夢なのではとも思う。
 街のあちこちで、アートハルク兵士の姿が見受けられる。驚いたことに、一般市民たちと兵士たちが立ち話をしていたり、特に子どもたちが兵士と楽しそうに会話しているのを頻繁に目にする。さもあらん、と、チェレンコフ財務長官はそのでっぷりとした腹を隠すためにわざと長めに仕立ててもらった上着の裾を軽くあわせ直した。
 もともと、アートハルクの兵士たちは一般市民に対してまったくといっていいほど敵意を表すことはなかった。彼らが王宮を取り囲み、王や王女たちを人質にしてロクラン占領を見事なまでに成し遂げた二百年祭式典の忌まわしき日、若干の刃傷沙汰があった当初は、市民たちの恐怖や怒りは相当なものであった。投石や殴りかかるなどの暴力行為をもって、街のあちこちで歩哨に立つ兵士たちに抵抗する者も少なくなかったが、アートハルクの兵士たちは決して一般人に向けて攻撃をすることはなかった。もちろん、若干暴力的な事件があったこともあったが、兵士側が正当防衛のために手を挙げた程度で、そして決まって彼らは「火焔帝の名に誓って」と、一般人に対する敵対行為をすることはないと非礼を詫びるのだ。
 加えて、先日のレイアムラントにおける調印式でのガートルード女帝による会見の内容だ。中央の組織によるアートハルク帝国前皇帝ダフニスの一族に対する陰謀論やアートハルクが戦わねばならなかった理由など、さまざまな尾ひれがつき、アートハルクに同情的な報道がなされてから世論は変わった。占領下における平和など、国際政治学的にはありえない定義ではあるが、少なくともロクランの国民たちは今の状態を平和だと感じているらしい。むしろ、これまで貧民街にいた者たちに対するアートハルク帝国軍の献身的な福祉対策が功を奏したのか、ロクランの王政よりもよほど居心地がいいと感じる者が圧倒的に多いようだ。
 もちろん、アートハルク軍の物資だけでなく、ロクラン国政の予算の一部を過剰な福祉に費やすはめになる財務長官であるチェレンコフにとっては、少々頭の痛いことではある。だが、経済活動が占領によって停滞したかというとそんなことはなく、ロクラン周辺を取り囲むいくつかの検問所では、ロクランの国民が外へ出ることを禁じているものの、外からの商売人たちだけは行き来ができるようになっていること、そして、数多くの兵士がいることで儲け口が増えるだろうと睨んでやってくる、鼻のきく商人たちの数が以前の交易よりもずっと増えていることから、この市場の喧噪のように経済状態は若干よくもなっているようだ──占領下における現在では、財務庁でその実数値を検証することは困難を極めており、チェレンコフ自身がそう感じているだけであるが──。
「大きな政府」を望み、中央、あるいはロクラン王政を批判することに存在意義を求め続ける左翼連中だけでなく、世界中が、ロクランではなく侵略者であるアートハルクを支持し、ロクランの孤立をよしとしているのではないか。そんな妄想を財務長官はたまに感じるのであった。
 果たして中央諸世界連合は何をやっているのか。鉄の淑女がすぐに動くだろうと睨んでいた政府関係者たちは、彼女の背任行為と更迭が報道されたことに落胆し、ますます孤立無援の状態であることを実感していらだっている。
 もちろん、閣議ではひょうひょうとした性格のチェレンコフにも考えるところはあった。だが、極左といっても過言ではないスプリングフィールド司法長官や、逆に極右に近い国軍司令官メリフィスのどちらかと手を組むことは気分的にはばかりたいものであったし、その他各庁の長官、閣議に出席する要人たち、そして娘が行方知れずになったことを嘆き、すっかり意気消沈してしまったアンドレ・ルパート・ロクラン王など、見渡してもあまり頼りになる者がないというのが正直なところであった。
 そしてなによりチェレンコフ自身も含め、政府の要人たちには監視がつき、占領軍総司令官の役割を担うアートハルク巫女姫ネフレテリの許可がない状態では、最小限に行動が制限されている。
 手も足も出ないとはこのことだ。
 そうこうしているうちに、アートハルクは世論を味方につけ、やがて中央諸世界連合を本当に解体してしまうかもしれない。そしてロクランにある要石を見つけ出して解放し、アジェンタスのようにフレイムタイラントの欠伸だけで王国を壊滅させてしまうだろう。その前に彼らは……。
 そう、彼らアートハルク帝国は、三つに分かたれた『神の黙示録』の第二章を探しているのだ。
 見つかるわけがない。中央諸世界連合があれだけ血眼になって探しても見つからないのだ。大昔の聖杯探求のような話ではないか。
 だが、一部の日和見《ひよりみ》主義者たちの裏切り──アートハルクにとっては協力ともいう──によって、ロクラン中で『神の黙示録』捜索が行われているのも事実だ。旧世界《ロイギル》時代の面影を残す古い建造物、王宮、そしてラインハット寺院の各宝物殿などが、現在学者という名の侵入者たちによって蹂躙を受けている状況だ。
 チェレンコフはため息をついた。我が国にそんなものがあるならば、とうの昔に世界中を支配していたことよ……と。
 体を揺さぶられる衝撃で、チェレンコフは物思いから我に返った。人にぶつかられたのだ。ぶつかった人物は通りすがりに「ごめんよ!」と軽く手を挙げ、市場の喧噪に紛れていった。あわててチェレンコフは懐の財布を確かめた。ぼーっとしていたことでスリにあったかもしれない。
 だが財布は確かに懐にあった。なくなったものは何ひとつなかった代わりに、懐には紙切れのようなものが押し込められていた。
 長年の勘から、チェレンコフはそれがおおっぴらにここで広げて確かめる類の紙ではないことを感じ取った。おそらく数メートル離れて自分を見ている監視者に気づかれないよう、努めて平静を装い、チェレンコフは豊かな体を揺すりながら物見遊山を楽しんでいるふりをし続けた。
 それは特使が使う暗号で記されていた。特使はさまざまな暗号を使いこなすのだが、一般の人間にとっては難解な神聖語の文法よりもやっかいで、理解することを頭が生理的に拒絶して眠りを誘うものにほかならない。政局に携わる人間であっても一般人と変わらずの反応だ。
 だがチェレンコフは違った。
 彼の経歴を紐解けば、彼が易々といくつかの暗号を解けるのが分かるはずではあるが、その容姿や立ち居振る舞いから、誰も彼の過去をつぶさに調べようなどとは思わないはずだ。ミハイル・チェレンコフは、かつて若かりし頃、中央特務執行庁がまだなかった時代のロクラン王立騎士団で、通信兵として特殊通信を学んだのだ。通信兵という立場は戦時における重要な役割を担う。ラファエラの代になって中央特務執行庁が正式に組織されたが、さまざまな騎士団におけるさまざまな特殊通信、すなわち暗号化技術が、現在の特使の技能のひとつとして採用されていることからも見てとれる。
「やれやれ、こんな古い暗号を知っているなんて、よほどの物好きか……」
 ──もしくは罠か。
 さてどうしたものか。
 私邸に帰ってからも考えあぐね、妻と子どもたちが楽しく談笑している傍ら、珍しく二杯目の酒をひと口なめた。
 暗号は昔の知識だけで簡単に解けた。こんな古い暗号を知っている人間といえば、自分の騎士団時代の同期か、あるいは同様に軍事に携わる者。罠にしてもずいぶんと手が込んだものだ。
 内容は、今晩ロクラン城下町にある財務庁の執務室に、何食わぬ顔で執務をするふりをして訪れてくれというものであった。差出人の名はない。暗号から足がつくことをおそれているからと仮定しないのであれば、なにかの罠だと疑うのが当然だ。よからぬ嫌疑を掛け──先日のラファエラのように──自分を陥れようと画策している輩がいるかもしれない。だが、チェレンコフは確信していた。この暗号の書かれた紙がロクラン王家を表す紋章を透かしにした、政府高官の使う文書の切れ端であること、そして罠にかけるのであれば堂々と正規文書で自分を招けばよいだけのこと、それをせずに見知らぬ男に忍ばせるとは、よほど重要ななにかを自分に伝えようとしているに違いない、と。
 妻や子どもたちになにか危険が及ぶようなことがなければよいが。それだけが、ミハイルの心を決めかねさせている。
 カランと氷の回転する音がして、ずいぶん長い時間思案していたことに気づく。
 チェレンコフ財務長官はようやく重い腰をあげ、妻に外套を持ってくるように声を掛けた。彼の妻は「こんな遅くに仕事だなんて」といぶかしげに尋ねたのだが、緊急の用事を思い出したがすぐ帰ることを伝え、私邸を後にした。





 私邸の前を警備と称して歩哨に立つアートハルクの兵士を横目に馬車に乗り、ロクラン城下町の執務室を目指す。
 昼間の喧噪とは打って変わって、夜のとばりの降りた城下町は、着飾った女たちの嬌声や居酒屋の呼び込みをする男たち、酔っぱらって大声で下品に笑う人々の声に満ちあふれていた。ロクラン占領前はいつでもこれくらいの時間までは執務室にこもり、店じまいの頃にようやく帰って来られるような状態だった。不法な占領下に置かれてからは、仕事が早く終わってしまい、ある意味ガートルードに感謝しているわと、妻が不謹慎なことを言ったのを思い出す。
 まったくだ、と、チェレンコフは馬車の中でひとり思い出し笑いをした。
 馬車が財務庁の門に到着すると、またしても歩哨に立つアートハルク兵士が近寄ってきた。馬車の中の人物がミハイル・チェレンコフ財務長官であることを確認し、なんのために来たのかを辺境なまりの標準語で尋ねるのだが、チェレンコフは平静を装い、やり残した仕事と忘れ物をしたことを告げると、兵士たちはなんなく納得し、彼を護衛するかのように入り口へと向かわせた。
 チェレンコフは外套を脱がず、そのまま執務室のドアを開ける。明かりはすでに落とされていたので、チェレンコフは巨体を揺すりながら部屋の明かりを手探りで探し当て、火をともす。
 その瞬間だった。
「ひッ!」
 巨体に似合わない悲鳴がチェレンコフの口から漏れた。陽炎のようにゆらめく明かりの向こうに、資料棚に同化するかのような人影がひとつ。
「何者だ」
 チェレンコフは護身用のナイフに手を掛けながら尋ねた。陽炎が大きく揺らめいて、最初は化け物のように見えたが、よくよく見ればちゃんと人の姿をしている。しかも少年のようだった。
「ご安心を。主《あるじ》の命でお迎えにあがりました」
 鈴の鳴るような声で少年は言った。
「主《あるじ》だって? それに、迎えにとは……」
「追々お話しいたします。まずはお召し物をこちらにお着替えください」
 少年はチェレンコフに下男の着るような貧しいチュニックとマントを差し出した。
「ま、待ちなさい。私をどこに連れて行く気だね。それに、私は常に監視されている身。ここから出るのに変装したといえど、アートハルク兵の目をごまかせるものではない」
「それについてもご安心を。身代わりを連れて参りました」
 少年がいたずらっぽく笑うと、執務室の机から、のっそりとなにかが体を起こした。再びチェレンコフは身を縮ませる。
 見れば、自分と同じかそれ以上の体格をした中年男がにやにやと笑っている。
「この男にあなたの服を着せ、しばらくあなた様の身代わりとして執務をしているふりをしてもらいます。その間、あなた様はこれに着替え、わたくしのあとについてきてくださればよろしい。身代わりだと気づかれぬうちに戻ってこられましょう」
「お前が誰かは知らぬし、お前の主が何者かも知らぬというのに、私が黙ってついていくとでも?」
「ついてこられますでしょうとも。ロクランのためを思えば」
 少年はいたずらっぽく笑い、隣の男も意味ありげににやりと笑った。
 気に入らなかったがチェレンコフは言うとおりにするしかない。いまここで曲者ありと騒げば、厄介なことになるのは目に見えている。
 そそくさと服を脱ぐと、さきほど少年から手渡されたチュニックとマントを着込み、自分の外套やシャツなどを恰幅のいい男に手渡す。男は無言でシャツとジャケットをはおり、執務室に座った。暗めの室内で見れば、まるで自分が座っているように見えると、チェレンコフは呑気に思ったのだった。
「こちらへ。あまり時間はありませぬ」
 少年にせかされ、チェレンコフはドアを開けた。
「それでは財務長官、明日午前中の資料についてはお伝えいたしましたとおりです。失礼いたします」
 少年はドアを出ながら身代わりの男に、わざと聞こえよがしに声をはりあげてそう言った。男も板についたもので、「うむ」とだけ一言返した。
 執務室の廊下の先でアートハルク兵がこちらを見ていたが、きれいな身なりの少年と小汚い格好のチェレンコフを一瞥しただけで、とくに警戒した様子はなかった。どう見ても、政府高官の助手とその供の者にしか見えないのだろう。チェレンコフは複雑な表情でため息をついた。
 少年大胆にも財務庁の正面から堂々と出て行く。チェレンコフは動揺を隠せずいるのだが、少年が小声で「あくまでふつうに振る舞ってください。だいじょうぶ、絶対にばれませんから」と言うので、不安ながらもそれに従った。不思議なことにアートハルク兵はまったく彼に注意を払わず、ふつうに出て行こうとする怪しい二人組はまんまと財務庁の門をなんなくくぐり抜けることに成功したのだった。
「ど、どういうことだ」
「少し、あの者たちの眼に術法をかけさせていただきました」
「なんと。アートハルクの術者に気取られたら……」
「ご心配なく。彼らの使う術法のチャネルに合わせれば、少しの間ならば気づかれることもありません」
「チャ、チャネル……?」
 少年はいたずらっぽく笑うだけで答えようとはしなかった。そんな便利な方法があればいつだってロクラン国境を越えることだってできるだろうに。チェレンコフはため息をついた。
 少年はチェレンコフに先だって歩き、繁華街へ向かっていく。商売女たちが少年とチェレンコフにからかうようなそぶりで声を掛けてくるのには、さすがにチェレンコフも気が引ける。時間が時間だけに、恰幅がよくて金回りのいい男を捕まえた、年若い男娼にしか見えないだろう。煩わしげに沿道にはびこる女たちを避けながら少年の後を無言でついていく。
 少年は古い居酒屋らしき建物の扉で足を止めた。チェレンコフの記憶が正しければ、もう何年も前に店主が死に、跡継ぎもなく閉店することになった居酒屋であった。若かりし頃はよく足を運んだものだがと、チェレンコフは少し気落ちした様子で少年が扉を開けるのをながめる。なぜ廃業したはずの店舗の扉を、少年がやすやすと開けられたのかに気づくこともなく。
「お入りください」
 少年は小声でチェレンコフに声を掛け、あごで中へ誘う。待っているのは刺客か悪魔か、それとも窮地を救う大天使か。
 扉の閉まる音ととともに暗闇が視界を支配する。チェレンコフは目が慣れるまでの間、念のため腰のナイフに手を掛けたままだった。
「こちらへ」
 少年の声がする方向へ体を向けると、不意に明かりがつく。そこでチェレンコフはわずかに呻いた。
 明かりの中で彼を待ちかまえていたのは、アーノルド・メリフィス ロクラン国軍司令官であった。
「メリフィス司令官……!」
 チェレンコフは絞り出すようにその名を呼んだ。まさか彼がこの少年の主であると? このガチガチの愛国主義者が、本当はすべての黒幕なのではないかと思ったそのときであった。
「ミハイル、よく来てくれた。まずは礼を言おう」
 ファーストネームで呼ばれるのはしばらくぶりのことであった。彼がそう呼ぶときは、彼が真に相談や不安を打ち明けるときだけであったと、ミハイル・チェレンコフは即座に思い出した。
「いろいろ聞きたいことも多かろうが、まずはこちらの彼を紹介しておこう」
 メリフィスは先ほどまでチェレンコフを案内してきた少年を仰ぎ見る。少年は胸に手を当て、何かを小言でつぶやいた。少し目がくらんだような気がしたのでメリフィスは眼をこすったのだったが、その直後、少年の姿は見覚えのある青年の姿に成り代わっていた。
「まさか……!」
 チェレンコフはそこで唾を飲み込み、己の驚愕をなるべく見せないように心がけたつもりだったが、事実、そこから先は言葉にならなかった。
 少年の姿を借り自分を案内してきた者が、主に謀反を企て、亡き者にしようとして幽閉されていたはずの預言者ヴィヴァーチェが従者、エチエンヌであったとは。
 すでに処刑がなされていたはずだが──。チェレンコフがエチエンヌを、まるで幽霊でも見るかのような表情で見ているので、エチエンヌは苦笑する。
「驚きはごもっともです、チェレンコフ財務長官。まずはあなたの目までもあざむいたことをお詫び申し上げます」
 以前に話したときよりも少し声がかすれており、聞きづらかったが、その声はまぎれもなく、礼儀正しくヴィヴァーチェのそばで控えていたあの青年であることを証明していた。
「わずかの間だけなら、こうしてやつらの目をくらます程度の術法なら問題ありません。光の屈折加減を調整し、姿を変えることなど造作もございませんゆえ」
 エチエンヌは控えめにそう言ったのであるが、チェレンコフにしてみればそれがどれほど高度な術法であるか想像に難くない。
「さて」
 メリフィスが切り出す。
「知ってのとおり、現在我が国はアートハルクの占領下にあるが、そのほかにも中央諸世界連合内でさまざまな問題が頻発している」
「珍しいな。愛国屋の君が自国以外のことに気を病むとは」
 チェレンコフはいつものくせでつい揶揄したのだが、すぐに「冗談だ」と詫び混じりに頷いてみせた。
「ミハイル、君も思っているはずだ。すでにロクランは孤立無援状態。ルパート・ロクラン王があんな状態では、アートハルクの占領下にある今、反撃どころか国政もままならん」
「まさか」
 ミハイル・チェレンコフはごくりと喉を鳴らした。
「アートハルクに与する……そう言いたいのか、アーノルド」
 生粋の愛国主義者の彼のことだ。国を立て直すために敵と手を組むと言わぬとも限らない。
「その逆ですよ、チェレンコフ財務長官」
 かすれた声でエチエンヌが割って入ったことで、ミハイルは我に返る。アーノルド・メリフィスの瞳がいつになく輝いているように、チェレンコフには見えた。
「我々は孤立無援などではない。ここにいるエチエンヌが唯一の援軍の使者でもある。反撃開始だ」
 珍しくもったいぶった口調で、メリフィスがニヤリと笑った。






 その日、ロクラン王国をぐるりと囲む石壁にある、いくつかの検問所は、朝から混雑を極めていた。ロクランへ商売にやってくる商人たちが、交代で仕入れなどで引き上げることの多い月の中日であった。
 占領下のいま、ロクランを自由に出入りできるのはこうした商売人たちのみ。彼らにはそれぞれの地域が発行する割り符が与えられており、それと照合することでロクランの国境を自由に行き来することができるのだが、ロクランの国民たちが外に出ることは許されてはいない。
 たまに、行商人たちの中に混じって割り符を偽造し、国を抜け出そうとする家族連れなどがすぐに見破られ、努力の甲斐なく国内に引きずり戻される光景が見られるものだった。もちろん、仲間うちでの密告も問題になり始めたところであった。アートハルクに占領されているいまのほうが暮らしが楽だとする輩や、自分たちの国を見捨てて逃げる連中を毛嫌いする国粋主義者たちのような輩が、なかば自警団のようにして検問所に詰めていることがあるためだ。
 きわめて異常な状態であった。
 それにしても今日はとにかく人が多い。検問所に詰めかけてきている行商人たちは、対応の遅さに文句を言ったり、ときには言い争いなども見受けられた。ますます膨れあがる人数に、さすがのアートハルクの帝国兵たちも対応に困っているようだった。
 そして同じ頃、ロクランのラインハット寺院から少し離れた森の中にある、救世主の魂を祀った守護神廟でも、異常な事態が発生しようとしていた。
 対術法戦用に武装したアートハルクの兵士たちが守護神廟の周囲を取り囲んでいる。そして救世主《メシア》をかたどった像を横目に、同じく対術法専用の戦陣を組む術者軍団が並ぶ。後ろには、まだ年若く、そこそこ術法の使えるラインハット寺院の僧侶たちが、防御の姿勢で待機をしている。その脇で、何人かのロクランの高官たちが雁首を揃えており、チェレンコフもその中にいた。
 ロクランの国中の重要な文化財が、アートハルクの兵士たちや国内の研究者たちに蹂躙されつくしていたが、これら文化財を担当するのも、ミハイル・チェレンコフが長として立つ財務庁の管轄であるためだった。
 ──本当にうまくいくのだろうか。これは勝率のない賭けでしかないのだ。
 チェレンコフは周囲に気取られないように、でっぷりとした腹をさするふりをして心臓の高鳴りを抑えた。
 守護神廟の解呪──。今日のものものしさはこれを目的とする。
 アートハルクの目的は、「神の黙示録」の探索をすることであった。これまでにあちらこちらの古い建物を調査してきたが、いっこうに見つからないということで、最高司令官であるネフレテリはずいぶんといらだっているようであった。そこへ、ロクラン軍最高指揮者であるメリフィスが進言したのだ。守護神廟の調査を。
 しばらくの協議の末、ネフレテリはメリフィスを信用したのか、すぐに守護神廟の調査を命じた。その知らせがラインハット寺院に届いたときには、長老たちの怒りは頂点に達し、一時はアートハルク帝国軍との小競り合いにまで発展しそうであった。彼らのみならず、庶民の心のよりどころでもある建造物だ。だが、そこでチェレンコフがうまく立ち回り、彼らをなだめ、手はずを整えたのであった。国王であるアンドレ・ルパート・ロクランは心労のためにしばらく伏せっていたが、側近から報告を受けたときには、何も言わず、ただ書類に調印しただけだったという。
 チェレンコフは王の気持ちがよく分かる。自分がどれだけ無力かを知らされた人間が、自暴自棄になり人のいうままに動くのを何度も見てきたからだった。
 守護神廟は非常に強力な結界が張ってあり、中に人間が入ることは許されていない。その結界を解除するために、今日のように対術法戦の専門家たちがそろって守護神廟と対峙していた。
 何が起こるか分からない。これは、アートハルク側だけでなくロクラン側にもいえる。
 汎大陸戦争から二百年、その戦闘で命を落とした救世主の亡骸をまつろうと建造されたものだ。聖騎士レオンハルトの強い反対にあってそれはなされなかったが、いまなおもって魂だけを祀り、強力な結界で何者であろうと侵入をこばんでいる、神世代最古に分類される建造物だ。どんな旧世界《ロイギル》時代の魔法がかけられているかも分からない。
「それではこれより、解呪の儀に入る。鍵をこれへ」
 アートハルクの兵士長らしき男が声をあげたので、部下がふたり恭しく敬礼をしたあと、巨大な金棒のような鍵をかついで守護神廟の扉の前に立った。
 守護神廟はアートハルク占領後、固く扉を閉ざされていた。たったひとりの少女の霊を祀るためだけに作られた巨大な建造物に似つかわしい、巨大な観音開きの鋼鉄の扉は、度重なる風雨にさらされてややサビと摩耗ででこぼこと醜く膨れている。さびてはいるものの、救世主そのものを記すM字とV字を組み合わせたような魔法陣だけは、不思議なことに緑色の光をわずかに放っていた。その中央に巨大な鍵穴があり、毎朝ラインハット寺院の若者たちが、礼拝にくる人のためにふうふう言いながら鍵を刺して扉を開けていたのだ。
 アートハルクの兵士も、巨大な鍵をかつぎ、やはり息を切らせながら鍵穴にそれを差し込む。端から見ていれば、城壁を打ち破るためのくいを打ち付けるようにしか見えないのだが、守護神廟の大きさからすればさもありなんとチェレンコフは思った。
 金属のこすれる音とともにガチリと何かが引っかかる音。兵士たちが声をかけあって鍵を回す。鍵が開くというにはあまりにも重厚な音が響き、救世主の紋章を描いた鉄扉がじらすように内側に開いていった。
 見ている者が口々に感嘆の声をもらす。薄暗い守護神廟がその閉ざされた神秘の扉を開き、彼らを迎え入れようとしている。いや、まだこの先には目に見えない障壁が待ちかまえているのだ。
 アートハルクの兵士長の指示で、部下のひとりが装備の中から四角い板のようなものを取り出し、その板に取り付けられた無数のボタンに指を走らせた。しばらくして兵士は顔をしかめ、小声で兵士長に耳打ちをする。兵士長もそれを聞いて、面倒くさそうに舌打ちをした。
「術法隊、前へ!」
 兵士長の号令で、アートハルクの術者軍団が戦陣を崩さぬまま守護神廟の前に進み出た。
「結界は積層型立体魔法陣が三重に重ねられたものと見られる。解呪の準備を!」
 チェレンコフは、術者が術法をふるう際に魔法陣を見たことはあったが、積層型の立体的なものは見たことがなかった。それが、アートハルクの連中をいらだたせているのだと気づくのに、さほど時間は必要ない。
 術者連中は長い呪文を一斉に詠唱し始めた。さすがに強固な防壁と見えて、念入りにもっとも長い呪文を圧縮せずに詠唱しているのだろう。歌うような音階にあわせ、術者たちの詠唱がうねる。ふだんなら荘厳な儀式と見るのだが、この世界でのもっとも重い禁忌に触れるということで、術者たちも周りのものも、不安に取り憑かれたまま金縛りのようであった。
「聖なる御方の御名において、結界よ、退け!!」
 術者たちは一斉に結んでいた印を解き放ち、詠唱の最後の呪文を完結させた。叫ぶような声が守護神廟の中に響き渡る。その直後、轟音と化した解呪の術法が、雷撃のように目に見えない結界に向かって突き進む。術法と結界の衝突は、真昼のラインハットの森を明るく照らすほどの光を生み、全員が目を伏せた。後れて轟音が耳をつんざく。光と衝撃波が森の木々を揺らし、人々の体をなぎ倒そうとする。チェレンコフも衝撃波をよけるために体をひねり、顔をかばう。あまりの光に目がつぶれてしまうのではないかというすさまじい衝突であった。
 やがて光と衝撃がやむと、アートハルク兵と術者軍団は体制を立て直し、結果に目をこらす。もちろん、チェレンコフもその様を見届けたいと守護神廟の中をのぞき込んだ。
 そこで全員が息を呑んだ。
 パリパリと静電気を帯びた結界は、吹き飛んだのかそうでないのか定かではないが、静電気が穴のようにちりちりとわずかな緑色の光をはしている様は、アートハルクの術者たちの解呪の呪文により、結界に大穴を開けたのだと思わせる。だが。
 霞に包まれたような人影に、みなが息を呑んでいたのだ。生身の人間に対して強力な解呪を浴びせたのであれば攻撃術法に等しく、姿形も残らないはずだ。
 人影は膝をついてうつむいているようだった。いまの衝撃を切り抜けたのか、それとも。
 ゆっくりと人影が体を起こす。黒い甲冑が、薄暗い守護神廟の中にあって黒光りしているのが見えた。
 まさか。
 チェレンコフは任期中もその前も、直接会ったことはなかったが、その顔だけは見知っていた。そして、そのような人間が他にもたくさんいるようで、周囲が少しざわめき始めたのにも気づいていた。
 霞は完全に消えていた。ただ、光輝くような黄金の巻き毛とその黒い甲冑、そして、誰をも虜にしてやまないエメラルドグリーンの瞳がこちらを見据えていた。
「我が聖域を侵す者たちよ」
 漆黒の闇にふさわしい甲冑とその声が響き渡る。そしてその声の主こそ、五年前に死んだはずの聖騎士の始祖、レオンハルトの姿にほかならなかった。
「救世主の魂を侵す者たちよ。その身をもって浄罪するがよい」
 静かだが確実な憎悪を含んだその声に、チェレンコフは身震いをする。これほどの悪意にさらされたことなど、これまでに一度もなかった。
 レオンハルトの姿をした〈それ〉は恐ろしい声でそう断罪すると、右手を差し出し、高速呪文を唱え始めた。圧縮はしていないが、神聖語らしき口調から最大級の攻撃術法が放たれることは容易に想像ができる。ロクラン側の術者たちが水の陣形で結界を張り、チェレンコフや政府高官たちを守ろうとしたのと同時にレオンハルトの姿が輝き、そして守護神廟全体を覆う巨大な光が膨れあがった。





 ラインハットの森からすさまじい光と轟音が町中に響き渡る。真昼だというのにそれは太陽の光を凌駕するほどのまばゆさであった。
「始まったか。よし、行け!」
 行商人たちに混じっていたエチエンヌが、周囲の者たちに声をかける。すると、前のほうの検問所にいた者たちを押し出すように人々が一斉に検問所に押しかけた。
 検問所を守るアートハルク兵士が何事か叫ぶ前に、群衆たちはいつのまにか暴徒と化し、検問所を突破していた。何カ所もある検問所で一斉に、同時に蜂起を開始したのだ。
 なだれ込む行商人の姿に身をやつした人間たちが先導していることなど知るよしもなく、検問所にいた兵士たちは人々の力に圧倒され、巻き込まれ、そして踏みつぶされていく。
 検問所を通過した人々は、石壁を回り、結界を築いていたアートハルクの術者たちを高台から引きずり下ろし、気絶するまで暴行を加え、次の獲物を探す。集団心理が味方して、少し煽っただけでロクランの人々は狂ったようにアートハルク兵たちに襲いかかっていった。
 秘密裏に組織されたラファエラ・フォリスター・イ・ワルトハイム将軍率いる中央の軍隊が到着する、もうまもなくの出来事であった。

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