第九話:混乱

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「伝令! 伝令です! ワルトハイム将軍にお目通りを!」
 鋭い声が晴天に響き渡る。
 早駆け獣に乗った男が、林の木陰で警邏《けいら》に立っていた兵士に叫んだ。警邏の兵たちは警戒して剣の柄に手を掛ける。
「何事だ。ここは中央諸世界連合軍の駐屯地である。伝令ならば身分を明らかにせよ」
 息せき切って走ってきた男はいったん早駆け獣の手綱を引き寄せ、そこで止まる。懐より書類を取り出し、伝令の男はそこに記されている紋章をふたりの兵士の目の前につきだした。その紋章が本物であることを兵士たちはしかと確認をする。
「至急、ワルトハイム将軍にお目通りの許可を」
「許可する。将軍のテントはこの奥だ」
 伝令の男は兵士に礼を言ってから早駆け獣を降り、転げるようにして林の奥を目指した。周りで控えていた他の兵士たちは、その男の急ぐさまに不安を隠せないようだった。
 ラファエラはテントの中でロクランの地図を睨みつけながら腕組みをしていた。黒い詰め襟に金糸の縁取りが目印の、中央特務執行庁特使が着る戦闘服を着用している。指揮をする立場にあるものが甲冑をつけないのは志気に影響が出るという者もいるが、ラファエラはこれまでの戦歴でも、めったに甲冑を身につけることはなく、前線で指揮に当たっていた。一般の歩兵たちより自分が重装備であることのほうがよほど志気に影響するという考え方に基づくものであった。
 地図を睨みながらラファエラは考える。ロクランの国境検問所をくぐり抜け、どのようにして石壁で守られ──逆に言えば石壁に阻まれ──、周囲をアートハルクの術者軍団の結界に拒まれている現状を打破すべきか。この軍隊に術者の割り当てはアートハルクを占領している術者軍団の数よりずっと少ない。ほとんどが歩兵と騎馬隊、つまり剣による戦闘が主となる。投石機で石壁を打ち破るとしても、こちらの物理障壁を解除されて遠くから術法でなぎ払われればおしまいだ。
 ロクランだけでなく、この世界でもっとも広いエルメネス大陸においては、巨大な城下町を持つ国家はすべて中央の拠点を中心に石壁で囲われている。重要拠点や城下町は通常、国境付近には存在せず、そのため城下町までたどり着くためには国境線沿いにあるいくつかの検問所を抜けてなお、長い道のりをかけて移動し、もう一度石壁の検問所を通らなければならない。
 ただし、国境付近では集落もまばらになり石壁の庇護を受けることができなくなる。国家間の移動が不便なのは二百年前の汎大陸戦争以降、新しい国家が点在することになり、互いの距離を保つためであったが、逆にそれを利用していったん国境を越え、国家の拠点のはるか遠方で軍隊を駐留させることは可能であった。ワルトハイム将軍率いる中央諸世界連合軍は、いまロクランの国境の手前で、見通しの悪い林の中に駐屯していた。
 過去の戦歴を思い出し、死傷者を最小限に食い止めた状態でロクラン解放を完遂するにはどう打って出るか。この駐屯地での数日間、彼女はずっとそれを側近たちとずっと議論をしてきたが、どれも敵に裏をかかれるか、死傷者を大量に出すか、いずれかの問題を抱えていた。
 ラファエラは時間稼ぎをするつもりもなかったが、だからといって闇雲に突入するつもりはさらさらなかった。元々この任務は極秘裏に行われるものであったし、失敗を承知でこの派兵を決めたのは、現長官である。自分の完全な失脚をねらったもの、あるいは戦死を願っているのは明らかだ。
「将軍。さきほど伝令の者が」
 テントの入り口付近で、警護に当たっていた兵が声をかけたので、ラファエラはいったん腕組みを解き、入ってくるように促した。
「中央特務執行庁特使、エトー中尉です」
 伝令の男はワルトハイム将軍に敬礼し、階級を名乗った。
「エトー中尉、ご苦労」
 ラファエラも敬礼で返す。
「で、なにか動きが?」
「は。ロクランで暴動が発生した模様です」
「暴動……とは?」
「はい。今日はロクランで商人たちが仕入れのために大量に出国する日でもあったのですが、その混雑を利用して一部の者たちが煽ったのか、ロクラン側の人間たちが暴徒と化し、アートハルクの兵士たちを襲撃しているとのことです」
「アートハルク側の対応は」
「は。石壁の検問所が数カ所破られ、術者たちがひきずり降ろされたことで混乱したようですが、ようやく沈静化のための部隊を結成して対処に当たっているようです。暴徒たちの一部が取り押さえられてはいるようですが、なにぶん数カ所同時に一斉蜂起をしたため、対応は遅れている模様」
「ふむ」
 ラファエラは再び腕を組み、考える。検問所が破られた。同志による工作が功を奏したのか、住民たちの自発的なものかはこの際問題ではない。
「破られた検問所は?」
 ラファエラが尋ねると、特使の中尉は地図に向かい、いくつかの地名を指さしながら状況を的確に報告した。
「ご苦労。中尉、よく知らせてくれた。礼を言う。少し我が軍で休憩を取った後、すまぬがもう一度ロクランへの偵察を」
「はっ。了解いたしました」
 中尉はラファエラに向かって敬礼をしたあと、礼儀正しい特使らしい仕草で退出していった。
 すぐにラファエラは鉄の淑女らしい顔《かんばせ》で側近の軍師や各部隊長たちを呼びつけた。ラファエラの力強い声に、彼らは絶大な信頼を寄せている。即座にテントに駆け寄ってきた。
「打って出るぞ。これは我が軍のみならず、中央にとってもまたとない好機だ。目的はロクラン暴徒の沈静化、伝令を走らせてアートハルク帝国軍にそう打診しろ」
「暴徒の沈静化……ですか……?」
 側近たちはラファエラの言葉に顔を見合わせる。これではロクラン解放どころか、敵に塩を送ることになるのでは……と。
「この任務は極秘中の極秘だが……。中央特務執行庁の特使がどのような活動をしているか、貴殿らはお忘れではあるまいか」
 鉄の淑女はそこで意味ありげにニヤリと笑った。


 投石機が太陽の光を受けて不気味にそびえ立つ。数十台の投石機を馬に引かせ、その後ろに騎馬隊が隊列をなして進む。そしてその後ろに弓兵と歩兵が交互に並ぶ隊列が続いていた。ラファエラは黒い特使の軍服のまま、全軍の先頭に立って馬で進む。
 実に物々しく、実に壮大な光景でもあった。
 キュラキュラといやな音を立てる投石機のキャタピラが、草原に隠れていた小動物や小鳥たちを威圧し、道を切り開いていく。国境付近はロクランの兵士たちが守護に当たっているが、彼らは連合軍の陣形を見た瞬間、諸手を挙げて孤立無援でなかったことを喜んだのだった。おそらく他の検問所にも知らせは届いているはずだ。
 石壁まで数キロ、それまで暴動が完全に鎮圧されていなければ大義名分を盾にして戦闘に突入できる。いま暴動の発生した石壁周りにアートハルクの目は集中しているはずだ。手薄な検問所を目指し、やがて隊は三つに分けられ、それぞれの目指す方向へ散っていく。ラファエラと一部の騎馬隊だけが、まっすぐロクランの正門を目指していた。
「将軍!」
 突如空中から声がしたので、ラファエラは腰の剣に手を掛ける。中空が揺らめいたかと思うと、商人に身をやつしたエチエンヌの姿が現れた。
「エチエンヌ殿」
 ラファエラはほっとため息をついてエチエンヌを見やる。彼の、似合わない商人風の姿に吹き出しそうになるのをこらえ、「なかなか似合っていますよ」とまずは一言声をかけた。エチエンヌは不本意だとばかりに肩をすくめた。
 それからラファエラは、再び鉄の淑女らしい顔つきに戻ると、
「あなた方の工作ですね」
「はい。首尾は上々です。国内でも守護神廟の解呪と称してアートハルクの兵力を分散しております。やはり先にメリフィス司令官に接触したのが功を奏したのかと」
「彼の愛国主義はたまに行きすぎますがね、非常事態に彼ほどの才覚を持つ者はロクランにはいないでしょう。それに、チェレンコフ財務長官も」
「最初は不安だったのですがね。事前調査では、あんなふざけた人物に何ができるのかと、正直思いましたから」
「そう、それが彼の処世術なのですよ。『能ある鷹は爪を隠す』、彼はあれでも元通信兵で情報戦に長けてますから、なかなかあなどれません」
「ベナワン殿もあなたも、イーシュ・ラミナでもないのによく人間の本質を見抜かれる。恐れ入りました」
「術者ってのはホントに、普通の人間に対してそう見下すところがありますものね、ま、あなたは違いますけど」
 皮肉混じりに聞こえたのか、エチエンヌは顔をしかめた。それから、
「アートハルクがようやく体制を立て直したようです。伝令であなた方軍隊が来ることも伝わったはずでしょうが、まだ指揮系統が混乱しているようです。群衆の中にはメリフィス殿や彼の部下がいらっしゃる。なんとか時間稼ぎはしているようですが、とにかく早く正門へ」
「あなたが我々全員を転移してくれるとありがたいんですけどね」
「まったく、あなた方普通の人間は、術者を買いかぶりすぎるところがあるんですよ、そんなことができたら、今頃私は世界征服でもしていることでしょう」
 今度はラファエラが顔をしかめる番だった。
 ラファエラはエチエンヌのために馬を一頭貸してやり、それから後ろの騎馬隊に声をかけた。
「突入の準備だ! 作戦の場所まで一気に走るぞ!」
 鉄の淑女の号令とともに、騎馬隊に緊張が走る。ラファエラは馬に軽くムチを当て、率先して駆けだした。その後をエチエンヌが、そして騎馬隊の面々が砂煙をあげる。
 ロクラン城下町を取り囲む石壁が見えてきた。あと少しで作戦の地点までだ。遠くてよく見えないが、正門の前で何人かのアートハルク兵士や術者たちが集結してきているようだった。
「術者は物理障壁を! 第一撃をしのぐことに専念しろ!」
 騎馬隊に混じる術者たちが、物理障壁を構築する呪文を詠唱し始める。エチエンヌは逆に物理攻撃の準備に入っているようだった。
 アートハルク兵たちはあわてていた。この暴動を制圧するために中央が協力を申し出たことになっていたはずなのに──そんな都合のよい申し出などあるわけもないことを、上層部の人間ならすぐに分かるはずだが──、こちらへ向かってくる騎馬隊は、明らかに敵意を持ち、防御と攻撃の構えで突進してくるのだから。
「剣を抜け! このまま突入する!」
 全員が腰の剣を抜き、鬨の声をあげた。そのすさまじさに、さすがのアートハルク兵たちもおじけづいたのか散り散りになって逃げてゆく。
「氷の刃よ! 行く手を阻むものすべてを貫き破壊せよ!」
 エチエンヌの水の攻撃術法が炸裂する。正面の閉ざされた扉が瞬時に凍り付き、無数の氷の矢に貫かれる。まるでガラスのように砕け散った正門がぽっかりと間抜けな口を開けていた。
 そこからバラバラとアートハルク兵と術法隊が駆けだしてくるのが見えた。騎馬隊の連中がさらに鬨の声をあげて剣を振り上げ、騎馬隊が戦闘を開始しようとしたそのときだった。
 ラファエラの馬が急に足を止め、いなないた。衝撃でラファエラは地面に投げ出され、呻く。左手が折れたかも知れない激痛よりもなによりも、西側に漂う不穏な気配を感じ、鉄の淑女の皮膚は即座に粟立った。
「ラファエラ将軍!!」
 同様にその気配を感じたらしいエチエンヌは馬を止めて飛び降り、ラファエラに駆け寄る。その背後で、晴天の空を突き破り、光の刃が一筋。
 白く輝いたかと思うと、数秒後れて轟音と衝撃波がやってくる。倒れたラファエラをかばうように抱きしめ、エチエンヌは物理障壁を構築してふたりの体を防御した。
「な、なにごと……だ……!?」
 痛みに顔をしかめながらラファエラがつぶやく。もうもうと煙をあげるのは、手薄になっていたはずの三カ所のうち、もっとも西側の検問所付近だ。術法でないことはエチエンヌにもよく分かっていた。
 そして再び閃光が走る。
 西側に詰めていた投石機や騎馬隊をなぎ払うかのように、天から振ってくる一筋の光が地面を掘削している。光に触れたものは、即座に炎上し蒸発するか、衝撃波でなぎ倒されていくのが見えた。
「退却! 退却しろ!! 全軍撤退!!!」
 ラファエラは激痛の中、腹に力を込めて後ろの騎馬隊に号令をかけた。そのすぐ後、彼女の意識は遠のいていった。
「まさか……! 伝説の具現か……これが……」
 ラファエラを抱きかかえ、エチエンヌがつぶやく。掘削する天からの光の刃は、眼前に迫っていた。
「……ロイギルの〈裁きの光〉……!?」






 ミハイル・チェレンコフが意識を取り戻したのは、遠方から聞こえる断続的な轟音が鳴り響く中であった。
 自分の身を守るために物理障壁を構築してくれたラインハット寺院の若き僧侶たちは、いまだ全員気を失っているようだった。ただし、アートハルク側の人間は、逃げ出したのかそれとも跡形もなく蒸発したのか、どこにも姿は見えなかった。
 チェレンコフ財務長官は痛む頭と耳鳴りに悩まされながらその巨体を起こすことに専念した。やっと立ち上がってことの顛末を思い返す。
 確か守護神廟の解呪の儀があって結界の解除には成功したはずだ。そのあと。
 チェレンコフは守護神廟の正面に回り、様子を確かめたかった。
 もともと、守護神廟の解呪を行うといったのも、今日の検問所での暴動騒ぎに対処するアートハルク兵や術者をこちらに引きつける目的だった。こうすることで少しは暴動の制圧までの時間が稼げるだろうというものだったが、ともすれば重要な文化財を蹂躙されてしまう危険性だってあったはずだ。
 なぜメリフィスやエチエンヌは、この場所を選んだのか。
 そう、解呪に成功し、中を蹂躙されなかったのは奇跡に近い。なぜならあの直後、レオンハルトらしき人物による攻撃術法が展開され、ここにいる全員がそれに巻き込まれたのだから。
 守護神廟の開かれていた扉は、術法の影響か溶けてひどく変形している。中は相変わらず薄暗く、救世主《メシア》の魂を祀っているというだけで入るのも躊躇してしまう。
 チェレンコフは生唾を飲み込み、腹をくくった。見てみたい。あれは本当にレオンハルトなのか、それとも死してなお救世主の魂を守るために装備された、レオンハルトの形をした術法罠《トラップ》だったのか、そして、守護神廟の中が本当はどんな姿をしているのか。
 二百年にわたり誰も寄せ付けなかった、設計図もなにもない謎に包まれた守護神廟。その秘密を見ることができるのはいまだけかもしれない。
 チェレンコフは静かに守護神廟に足を踏み入れた。レオンハルトの姿はもうないようだったが、ミハイルは慎重に、足音を立てずに誰も入ったことのない建造物に挑むことを決意した。
「……誰か……いるのか……」
 我ながら情けない声だとは思ったが、念のため申し訳なさげにそう尋ねた。もちろん返事はない。中はいっそう暗く、ろうそくの明かりもない。もう一度、レオンハルトの姿をした術法罠にやられたらひとたまりもないとは思ってはいるものの、好奇心がそれを制する。
 わずかな靴音が静謐なる神殿の空気を揺らし、壁がそれに呼応するようにうなり声をあげている。巨大な建物と思ってはいたが、中はなんの装飾も施されていない質素な天井、壁、廊下が続く。オレリア・ルアーノにある聖救世使教会の翡翠でできた豪奢な造りを想像していたミハイルにとっては、たいへん意外なものである。
 明かりもない内部の暗さに慣れてきたころ、最奥になにか光のようなものを見つけたミハイルは足を速めた。失われた救世主の遺体が、本当はやはりここに安置されているのではないか。死体を見て喜ぶ趣味は持ち合わせてはいないが、世界を救ったといわれる女性の姿を書物でなく、この目で本当に見ることができるのなら誰もが心はやらせるはずだ。
 それは確かにあった。ミハイルの期待を裏切る形で。
 淡く緑色の光を放つ、大人の腰あたりの高さの円柱であった。そして不思議なことに、その円柱の面からおよそ三十センチほどの高さに、緑色の光に煽られて光る奇妙なサイコロ型の物体。そのサイコロは明滅する光を受けながら、静かにふわふわと中空を上下していた。
「なんだ、これは?」
 ミハイルは質の悪い手品でも見るような表情でそれをまじまじと見つめ、物体の上下に糸のような仕掛けがないことを大げさに手を動かして確かめてみる。確かにそれが中空をゆらゆらと、自発的に揺らめいているのを確認したミハイルは、何か見てはいけないようなものを見た気分になり、二、三歩足を引いた。
 旧世界《ロイギル》の魔法──か? こんなものをなぜ守護神廟に大事そうに隠していたのだ?
「チェレンコフ財務長官!」
 突然背後から声を掛けられ、チェレンコフはその巨体を驚愕に震わせた。振り返ると、ラインハット寺院の紋章が入ったローブをまとった若い修行僧が駆け寄ってきたところだった。
「探しました。まさかこちらにいらしているとは。ご無事でしたか」
 修行僧は息を切らせてチェレンコフの安否を尋ねる。
「あ、ああ、私はどこもケガはしていない。それよりいったいなにがどうなったのか」
「おそらく、聖騎士《パラディン》レオンハルトの構築した術法罠でしょう。ロクランの高官の方々や我々には被害は及んでおりませんが、アートハルクがたはおそらく術法に飲まれて……」
 やはりそうだったか。汎大陸戦争後、レオンハルトは各地に点在する門《ゲート》など、重要な拠点を封鎖していた。ここもなにか重要な意味を持っていたのだろう。
「ああ、やっぱりここにあったんですね」
 修行僧はミハイルの背後で上下する、不思議な立方体を見つけて顔を輝かせた。
「これはいったいなんだ?」
「わたくしにも分かりかねます。ただ、メリフィス最高司令官殿より、もし解呪が成功した際には、力ずくでもこれを回収せよと言付かっておりました」
「メリフィスが……これを……?」
 では最初からメリフィスはここにこれがあることを知っていたのか。いやそれよりも、メリフィスがこれを回収せよと命じたのならば、相当に意味があるものに違いない。
「では、わたくしがそれを預からせていただきます。チェレンコフ長官殿は、すぐに王宮に赴きください。暴動に応じて中央諸世界連合軍がきたのですが、いま石壁周囲がたいへんなことに」
「あ、ああ、そうだな。そうか、ラファエラ将軍が動いたのか、それなら安心だ」
 ミハイルはほんの少し感じた違和感に不安を感じながら、年若い修行僧にそう言った。なぜだか修行僧の口元がゆがんだように見えた。
 修行僧は立方体をわしづかみにすると、チェレンコフに一礼をしてきびすを返した。ふと、チェレンコフはその背に声をかけなければいけない気になった。
「あ、ああ、待ちたまえ、君。その立方体のようなものはいったい……」
 修行僧の足が止まる。
「あなたには関係のないことですよ、ミハイル・チェレンコフ財務長官」
 修行僧は振り返りもせずに素っ気なくそう答えた。
「か、関係ないとは……。私はメリフィスと協力して今回の件で奔走したのだ。聞く権利ぐらいは」
 そう言いかけた瞬間、修行僧は急に振り向き、ミハイルの目の前に手のひらを差し出した。
「だから言ったでしょう。あなたには関係のないことだって。あなたは、いまここで見聞きしたことはすべて忘れるんだ。そうして、ロクランの混乱を沈静化させるため、このまま王宮に向かうんです。いいですね」
 ミハイルの体は金縛りのように動かなくなっていた。ぶしつけに眼前に突きつけられた手のひらに激昂することなく、静かに、夢見心地のまま頷いた。そうして、ゆったりと、ふらふらとおぼつかない足取りで修行僧の脇を通り過ぎていく。
「そう、それでいい。これはロクラン側にもアートハルク側にも、誰にも渡すわけにはいかないものですから」
 修行僧の青年はにやりと笑うと、小さく呪文を詠唱した。霞のように消えた修行僧の姿に気づくこともなく、ミハイルは守護神廟を夢遊病者のように歩きながら後にした。





 二台の馬車が〈光都〉へ続く道のりをひたすらに滑っていく。セテとレイザークたちの改造馬車を先導に、その後ろにサーシェスとフライス、アスターシャとベゼルを乗せた馬車が着いていく形で。
 セテは目が良いことを理由に、周囲の見張り番をさせられていた。御者台から後ろ向きになって改造馬車の天井に肘をつき、後ろからついてくるサーシェスたちの馬車やその周辺を退屈そうに眺めている。
 改造馬車の中では、二日酔いのジョーイがうんうん唸りながら寝込んでいる。御者台がセテとレイザークのふたりになったため、少しは幅に余裕がでてきたので、セテはときに後ろを見たり前方に注意を払ったりと、体を動かしてもぶつからないのが幸いだと思っていたが、乗り心地はやはり最悪であった。
「あ〜あ。俺も後ろの座り心地のいい馬車に乗りてえなあ」
 聞こえよがしにセテがそう言うので、レイザークが「うるせえ」と一喝する。
「それにしても、さっきの雷みたいなの? すごかったなアレ。落雷なんて子どものとき以来あんまり見てなかったけどさ。雷ってホントすごいな。こんな遠くからでも見えるんだもんな。まさに自然の驚異ってやつだ」
「落雷の被害も相当だったろうよ。知ってるか。雷に打たれると、人間なんて真っ黒こげになるんだぜ」
「うへ、あんた相当のグロ好きだよな。もういいって、そういう話は。メシが食えなくなるだろ」
「何言ってやがんだ。アジェンタスにいた頃は、しょっちゅう死体なんぞ見てただろうが」
「まあね、いちばんひどかったのは腐乱死体の処理かな。二度とあんな任務はご免だけど、復職したらそうもいかなくなるだろうしなぁ、正直滅入るわ」
 フン、とレイザークは鼻で笑った。
「あれ?」
 セテは後方から砂煙を上げてくる早駆け獣の姿を見つけて声をあげた。
「なんだろ、馬がものすごい勢いでこっちにやってくる。そのずっと後ろに、なんだか隊列みたいなのが続いてて……」
「敵か」
「いや、なんか急いでるらしいけど……念のため用心したほうがいいかな」
「アートハルクの兵が〈光都〉に向かうとは思えないけどな。用心に超したことはない」
 レイザークは御者席にたてかけてあった愛剣デュランダルをかつぎ、同時にセテも腰の鞘に手を掛けた。そうこうしている間に早駆け獣は二台目の馬車のすぐ後ろまでたどり着いていた。伝令を目的とする馬は、それなりに改良されており、通常の馬よりずっと速い。後ろの馬車のフライスも気づいたのか、扉をあけていつでも術法を展開できる状態で待機しているようだった。
「待ってくれ! 敵意はない! こちらは中央特務執行庁特使、エトー中尉だ!」
 馬に乗った男は、二台の馬車にそう声を掛けた。特使と聞いて、セテとレイザークは顔を見合わせる。
「この隊商の責任者はどなたか!? 緊急事態だ、申し訳ないが我が軍が撤退するまで道を空けてはくれまいか!?」
「軍? だって!?」
 レイザークは手綱を引き、馬をいったん止まらせた。息せき切って走ってくる特使が追いつくまで、そう時間はかからなかった。
「こちらは聖騎士団パラディン・レイザークだ。エトー中尉。いったい何事だ」
「れ、レイザーク殿!?」
 エトー中尉は聖騎士であるレイザークを間近で見ることにたいへん驚いたのか、馬上で背筋をピンと伸ばし、敬礼をした。
「中央特務執行庁の機密事項にありますが、レイザーク殿でしたらお話しできます。ロクランへ秘密裏に派兵した中央諸世界連合軍が、原因不明の新兵器で壊滅状態に陥り、現在生存者を引き連れて退却中であります。ですので、この公道を空けていただきたく」
「退却中!? まさか、義姉さんの軍か!? ラファエラがいるのか!? 無事なのか!?」
「はっ。負傷されておりますが命に別状はございません。しかし」
「会わせてくれ。義姉さんはどこだ」
 珍しく動揺を隠せないレイザークであった。
 一行は馬車を公道からはずして草原に移動させた。ほどなくして騎馬隊たちが隊列をなしてやってくる。その中に、投石機の破片で急ごしらえに造ったと思われる幌馬車を見つけたレイザークは、馬車から馬を一頭引き離し、それにまたがった。セテもその後を追う。
「義姉さん!!」
 天幕を破るかの勢いで、レイザークは負傷者の馬車に飛び込んだ。中には数人の医師と幹部が控えていた。
「お静かに。将軍には鎮静剤を与えたところです。ご身分を」
 厳しい口調で術医がレイザークを睨みつける。
「パラディン・レイザークだ。こっちは、休職中だがトスキ特使。特別任務で移動中だった」
「レイザーク殿。トスキ特使。ではこちらへ」
 軍人ではなくとも命を預かる職業だ。ぶしつけなのは仕方ない。ふたりは術医に伴われて奥に通された。
 ラファエラは確かに命に別状はないものの、満身創痍という状態で簡易ベッドに横たわっていた。火傷のあとが残る顔に左目の眼帯、そして左腕は包帯でぐるぐる巻きにされ、首からつるされている。おそらく寝間着の中も、左半身は相当の火傷を負っているのだろう。
「義姉さん……」
 できるだけ静かな口調でレイザークが義姉の名を呼ぶと、わずかにラファエラが反応し、目を開いた。
「レイザーク……。間に合いましたね、ようやく……」
「余計なことは言わなくていい。ロクランへ派兵するなんて、そんな作戦聞いた覚えがないぞ。しかもこれほどの壊滅状態とは……いったい」
「失敗……しました。ロクランの同志の工作に乗じて突入する手はずだったのですが……」
 ラファエラが苦しそうにうめき、言葉が中断される。そこで、そばにいた青年が割って入った。
「わたくしがご説明を。エチエンヌと申します。以前はグレイブバリーで賢者ヴィヴァーチェ様に仕えておりました。いまはあなたがた〈黄昏の戦士〉の一員としてラファエラ殿と行動をともにしております」
 少しかすれて聞きづらい声ではあったが、青年は滑舌のよい口調でそう言い、レイザークとセテに軽く一礼をした。レイザークも顔だけは見知っていたのか、わずかに頷いた。
「ロクランで同志が暴動を煽り、アートハルク兵の混乱を誘いました。そこへ先ほどのエトー中尉の報告により、三方に隊を分割して手薄になった検問所を突破して石壁内に突入するという作戦で進軍したのですが……」
 そこでいったんエチエンヌは言葉を切り、ラファエラの様子をうかがう。ラファエラは先を促すようにわずかに顎を動かした。
「まさにその瞬間です。天から雷が降ってきたのは。アートハルクもロクランも中央も関係なく、石壁の周りを容赦なく掘削し、我が軍は窮地に追い込まれたというわけです。将軍はその際、落馬して左腕を骨折、わたくしも物理障壁と転移で間一髪脱出したのですが、その際、あの光に巻き込まれてこのざまです」
 よく見ればエチエンヌも、体のあちこちにかなりの火傷を負っているようだった。
「雷……それって、もしかしてさっきの」
 セテはレイザークの顔をのぞき込んでそう言った。レイザークは怒っているのか、黙ったままだった。
「おそらくアートハルクの新兵器でしょう。ロイギル時代の兵器で〈裁きの光〉と呼ばれたものがありましたが、まさに神々の裁きのように、敵も味方もすべてを焼き尽くしていくのが見えました」
 エチエンヌは、ラファエラを守りきれなかったことを後悔しているのか、それともそのような虐殺兵器を使うアートハルク帝国に憤っているのか、わずかに震えていた。
「レイザーク」
「義姉さん?」
「私は〈光都〉に戻ればおそらく罷免か左遷か、いずれかの処罰を受けるでしょう。お願いがあります。そこのエチエンヌ殿と協力して、〈光都〉を……」
 そう言いかけて、ラファエラは気を失った。レイザークがラファエラを揺り起こそうとしたが、先ほどの厳しい顔つきをした術医に止められ、仕方なく引き下がった。
 馬車を降りたレイザークは、怒りに身を任せて悪態をつき続けた。呪いの言葉を何度もはき、草むらに向かって何度も足を蹴り上げる。セテは、レイザークがこれほどまでに激昂するのを見るのは初めてだと思った。
「上等じゃねえか……!」
 レイザークは押し殺した声でそう言い、後ろにいたセテを振り返った。
「わかるか。これが現実だ。俺たちは中央諸世界連合内部の敵とも戦わなければならん。大義名分はこれでそろった。今度こそ反撃開始だ」
 レイザークはそう言って、握りしめていた魔剣デュランダルを背中に担いだ。





 薄暗い空間に浮かぶ〈スクリーン〉の前で、艶やかなつやを持つ黒髪が揺れた。
〈火焔帝〉ガートルードは、その美しい顔に苦々しい表情を貼り付けたまま、〈スクリーン〉で一部始終を見つめていた。ロクランの暴動騒ぎと、駆けつけた中央諸世界連合軍、そして、天からの刃がアートハルク兵をも巻き込んで石壁の周囲をえぐっていくのを。
「たいした威力だな。敵も味方もなぎ払うなんて、まるでフレイムタイラントだ」
 燃えるような赤茶色の髪の男が、ガートルードの傍らでつぶやいた。からかうような口調ではあったが、決して軽口などではなく、その表情はガートルードと同じく凍り付いている。真紅の竜騎兵《クリムゾン・ドラグーン》アトラスであった。
「さて、中央の連中は、アートハルクの新兵器とでも騒ぎたてるか。それとも中央の新兵器だと捏造された情報でみなを欺くか」
 アトラスはそう言って肩をすくめた。
「中央のものでもアートハルクのものでも、ましてやロクランのものでもない。あれは……旧世界《ロイギル》時代の古き虐殺兵器〈裁きの光〉。その昔、コードネーム〈ヴァジュラ〉と呼ばれていた超粒子ビーム砲だ」
「二百年も前のポンコツがあれほどの威力を発揮するなんてことがあるとは思えないがな」
「そう、お前のいうとおりポンコツだ。ポンコツのはずだった。あれは浮遊大陸衛星で実際に使われていた兵器だったが、いまこの世界の地上からは浮遊大陸への門《ゲート》はすべて封鎖されているし、こちら側から干渉しない限り、あれを動かすことはできない。厳重に、積層型立体魔法陣によって封鎖されているからな。だが、あれを管理し、再開発できる権限を持った男が、この世にもうひとりいる」
 ガートルードは苦々しい表情でスクリーンのスイッチを切った。
「智恵院の連中をうまく使いこなして、さらに改良まで加える──そんなことができるのは、あの男しかいない」
 ガートルードはそう言ってきびすを返した。美しい黒髪が、ガートルードの怒りを反映するかのように炎のように揺らめいた。
「聖救世使教会祭司長ハドリアヌス。まだ過去の亡霊をもってして我々の行く手を阻む気か……!」

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