第十六話:逃亡

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 翌日の夕刻、レイザークは聖救世使教会の敷地内にある病院に足を運んだ。ネフレテリに取り憑かれていたグウェンフィヴァハと、仮死状態だったレオンハルトが収容されており、つい先日のネフレテリの騒ぎで一時的にサーシェスが世話になった病院である。そして、彼の義姉であるファラエラ・フォリスター・イ・ワルトハイム将軍がいま現在も入院している。
 一連の騒動の中、賢者ヴィヴァーチェの側近であったエチエンヌの冤罪は晴れ、その名誉が回復されたことはレイザークの耳にも入っていた。ヴィヴァーチェ殺害未遂で捕らえられ、証言できないように喉を薬でつぶされた彼の治療もこの病院で行われていたが、彼は自分のことよりヴィヴァーチェの容態を気にしており、かいがいしく世話を焼いているのだという。そしてグウェンフィヴァハに至っては、やはり自分が聖賢五大守護神《ファイブ・ガーディアンズ》のグウェンフィヴァハであることは一生伏せておきたいようで、再びヴィヴァーチェという名で迷える魂を救っていきたいのだと言っている。さらに、自分に付きっきりのエチエンヌに頼り切っているようで、今回のことでふたりの絆はより深いものになったようだった。
 レイザークにとっては、けなげなものだと肩をすくめたくなるような、控えめで相思相愛のふたりであった。
 ラファエラへの見舞いの途中、レイザークはレオンハルトの集中治療室を訪れた。関係者以外立ち入り禁止であったが、ガラス張りの窓から、点滴や酸素吸入器をつなげられて今なお意識が回復しない聖騎士の姿がよく見えた。
 レイザークはレオンハルトが目を覚ましたときのセテの様子を想像し、そして次に自分が彼に対して何を言おうか、複雑な表情で考え込みながらため息をついた。十七年間蓄積されてきた自分のわだかまりが、今回のことですべて消えたというのは嘘になる。一緒に任務についていたときも、レイザークはレオンハルトに対して、正直ある種の羨望ややっかみを感じていたことがある。同じ聖騎士であっても、能力の差がはっきりした相手であるから仕方ないことではあるが、十七年前に比べて自分がどれだけ成長しても、姿形が変わらないままのレオンハルトには勝てないのではと思うのだった。
 それからレイザークは、義姉ラファエラの病室に足を運んだ。今日の本来の目的はラファエラの見舞いであった。術医による集中的な心霊治療のおかげで、ラファエラのけがはもうほとんどよくなっていた。
「レイザーク」
 血色のよくなった顔、あとは主治医からの退院の許しさえ出るのを待つばかりといった感じで、ラファエラは病室を訪れたレイザークを大喜びで迎えた。
「心霊治療ってのはすごいもんだな。あのけががここまで完治するとは思わなかった」
 レイザークは照れくさそうに義姉に声を掛けた。
「火傷のあとももうほとんど残っていませんよ。これでも一応女性ですからね、痕が残らないよう、ずいぶんと気を遣ってくださったものです。もっとも、もうこの年で傷だのなんだのが残って恥ずかしいというわけでありませんけど」
「なに言ってる。義姉さんに惚れてる男なんざ、死ぬほどいるだろうよ、再婚する相手のことも考えてやれ」
「再婚する気があったら将軍なんてやってませんよ」
 義姉弟は互いに軽口を交わし、しばらくとりとめのない世間話に花を咲かせた。
「それはそうと、いろいろ話は聞いています。あのお嬢さん、サーシェスさん? 彼女はやはり記憶調整の儀に?」
 ラファエラは将軍らしい表情でレイザークに尋ねる。まったく、入院しているときくらいはこうしたことなぞ忘れてしまえばいいのにとレイザークは思ったのだが。
「いや、それが本人が望んでいるだけのことで、上からは何も。聖救世使教会の管轄で術者専用の独房に入れられているのだがな、何も情報はおりてきていない。いずれにせよ、近々裁判で裁かれるだろう」
「レザレアの件で、ですね」
 レイザークは頷いた。
 レイザークは、サーシェスが救世主であることは伏せてある。これは、ラファエラに対してだけでなく、誰にも沙汰すつもりはなかった。
 裁判が始まり、結果、あの少女が記憶調整の儀にかけられるとしても、本人が自分を救世主であることが知られるのをいやがっている節がある。以前フライスと話をしたとき、彼にレオンハルトの真似事でもすればいいと言ったことがあったが、フライス自身もそれを拒否した。そういうものなのだろう。レオンハルトも、「英雄」だとか「伝説の聖騎士」だとか言って近寄ってくる人間を疎んじていた。後生に無理矢理つけられた肩書きは、本人にとっては重荷にしかならないのかもしれない。人の人生を軽々しく左右するのは、神々の気まぐれだけでいいとレイザークは思うようになっていた。
 とにかく、いまは何が起きるか分からない。どこから情報が漏れるのが分からないいまでは、誰にも言わないでおくほうが賢明だろう。
「私も、あの事件が解決することで気が晴れると思いましたが……。友人のトスキ特使やアスターシャ王女の気持ちを考えると。それに、彼女自身が黙秘を続けているというのも困ったものです。姿や性格まで変わってしまったというのも気になりますし」
 ラファエラはそう言ってため息をついた。
「賢者ヴィヴァーチェの件やロクラン出兵の件も、マクナマラ准将の残してくれた暗号文でいくらかはこちらに有利な情報を得られましたが、このあとロクランに対してアートハルクがどのような形で出てくるか、マクスウェル長官がどうするつもりなのか、気になって眠れやしませんよ」
「療養中なんだから、少しは仕事のことを考えるのはやめたらどうだ、義姉さん。それに、自分のことももう少し気遣ったほうがいい」
「私のことはいいです。これから先、いずれは左遷でしょう。とはいえ、転んでもただで起き上がるつもりはありませんから」
「さすが鉄の淑女だ。とにかく、退院までは少しいろいろ考えすぎる頭をなんとかしたほうがいいな」
 そう言ってレイザークは肩をすくめた。ラファエラは憤ったように鼻を鳴らすと、
「そうも言っていられませんよ。マクナマラ准将が行方不明になったこと、ヴィヴァーチェがネフレテリとかいうアートハルク側の巫女に取り憑かれていたこと、都合よく私を足止めできたこと、諸々考えるに、こちら側で情報をばらまいたり攪乱している人間がいるのは明白です。誰も信用できません、中立の立場であるべき祭司長とて油断はならない」
「ああ、ハドリアヌスはな……あいつはもとから信用していない。何を考えているのかさっぱり分からん」
 レイザークは自分に対するハドリアヌスの特命のことや、いまだ公式に発表されていないレオンハルトの件を思い出し、表情を険しくした。今度はセテに何をさせるつもりなのか、どうも気にかかる。
「案外、ハドリアヌスが中央を引っかき回したいといちばん願っている人物なのかもしれんと、時々思うわな」
 レイザークは頭をぼりぼりとかきながらそう言った。
 そんなとき、病室の明かりがちかちかと明滅する。
「ん? なんだ? 停電か?」
 レイザークが不思議そうに尋ねると、
「ああ、気にすることはないですよ。電気関連の定期点検で、よくこちらの病院内にも影響が出るんです。ちかちかするだけで停電するようなことはありませんし、いつものことですから気にしなくてもいいわ」
 ラファエラは話し疲れたのか、起こしていた身体をベッドに横たえながらそう言ったのだが、レイザークはなぜかいやな予感が胃を圧迫する感覚を覚えていた。





 セテは特使の制服を脱ぎ、普段着と腰に飛影《とびかげ》を結ぶ剣帯を下げた格好で廊下の壁に張り付いていた。聖救世使教会の主要な通路は一応頭に入れてある。あとは時間を待つばかりだ。
 週に一度、グレイブバリーの地下にある巨大発電所で定期点検があるのだが、その時期に合わせ、聖救世使教会の最上階に位置する術者専用通路の電気系統の定期点検が、月に一度、実施されるのだという。セテは階段を猫のように移動し、その時間をうかがっていた。
 五分間だけ、術者専用独房のすべての電気系統が寸断され、通路の明かりだけ非常用電源に切り替わる。その五分だけが勝負だ。
 セテはごくりと唾を飲み込み、冷や汗の流れる額をぬぐった。失敗は許されない。なにがあっても、この一度きりの機会のみだ。セテはブーツの底に隠していた丸いものを取り出し、深呼吸をした。アジェンタス騎士団が夜間の行軍に使用していた、発光エッグと呼ばれる自然発光装置だ。行軍のための装備なので照らす範囲は非常に小さいものの、夜目が利くセテにはこれで十分だ。手元と足下さえ見えれば問題ない。
 ピリピリと肌を刺し、特定の周波数でうねるような音を出している術者用の結界はまだ健在であったが、それももうまもなく解除されるはず。
「あと一分で定期点検が実施されます。繰り返します。あと一分で定期点検が実施されます」
 無機質な女性の声で術者専用階だけに放送が響き渡る。不快な電気音が消え、明かりが消えるのを待つばかりのセテは、発光エッグをいったんブーツの裏に戻し、もう一度額の汗をぬぐった。放送により、独房通路に歩哨が立つのが足音で聞こえたが、事前情報では今回の歩哨は入り口にひとり。頭の中で秒数を数えながら、セテは深呼吸をして気を落ち着かせた。
「まもなく定期点検の時間です。係員は所定の場所で待機。もうまもなく定期点検の時間です」
 放送の後、秒数をカウントする無機質な音が刻まれる。三十秒前……二十秒前……十秒前……。
 そして時間どおりに、独房通路の電気がいっせいに落ち、対術法用結界の気配が消えた。セテはそこで身体を踊らせた。
 一瞬の闇に乗じて歩哨に立つ係員に近づくと、問答無用に殴りかかり、よろめいたところへ腹部に蹴りを見舞う。係員は何が起きたのか分からないまま、そして侵入者に対して剣を抜く暇もないまま倒れ、そのまま意識を失ったようだった。そこでようやく非常用電源に切り替わり、視界が赤外線による非常灯で紅く染まる。
 セテはブーツの裏からすばやく発光エッグを取り出し、廊下を走った。目指すはサーシェスが拘束されている独房の入り口だ。
 入り口にたどり着くと、セテは尻のポケットに仕込んであったピッキングツールを握りしめ、入り口脇にある扉の制御装置にそれを突っ込む。発光エッグで照らしながら蓋をこじ開け、中にあるいくつかの装置をツールの先端でいじくり回した。これも事前情報によって、どこをいじればいいかは把握していた。
 数十秒で解除しなければならないところ、意外にもたついていることを実感していたセテは、額の汗をぬぐいながらも焦らないよう自分に言い聞かせ、教わったとおりの手順で解除装置をいじくり回す。「ピン」と軽い音がして、ようやく解除に成功した手応えを感じると、セテは今度は扉の隙間にピッキングツールを突っ込み、てこの原理を応用して扉をこじ開けにかかる。指が入りそうなくらいまで開くと、セテはピッキングツールと発光エッグを足下に投げ出し、渾身の力を込めて扉を開いた。ピッキングツールはぐにゃりと折れ曲がっていた。
「サーシェス!」
 セテは独房の中に身を躍らせ、中で囚われているサーシェスの名を呼んだ。サーシェスはいまだ粗末な椅子に腰掛けたままだったが、セテの声を聞きつけると、驚いて顔を上げた。
 セテは独房の手前にある、人工結界を作り出す装置の制御ボタンを拳でたたきつけるように押した。結界はすぐに消えたが、定期点検の前の常で、中で囚われている囚人は、手かせと足かせがつけられている。
「セ、セテ……! なんで……!?」
 サーシェスは小声で尋ねるが、セテはサーシェスに近寄り、
「助けにきた。ここから出るんだ」
「なにを言って……」
「ごめん、時間がない。両手両足を前に伸ばして」
 サーシェスが言われたとおりに両手両足を伸ばす。かせの鎖が重々しい音を立てた。セテは腰の飛影を抜くと、それを頭上に構え、一気に振り下ろす。固い金属音がしたかと思うと、サーシェスの両手と両足を縛めていたかせの鎖が、飛影の鋭い硬質の刃によって瞬断されていた。
「俺に掴まって! とにかくここから出るんだ!」
「待って! 私は……」
 サーシェスが言い終わらないうちに、セテは小さな彼女の身体を小脇に抱えるようにして部屋を飛び出した。
 元来た道を戻るため走り、ようやく独房通路にさしかかった。まだ時間に余裕があるらしかったことにセテはほっとするのだが、そのとき、セテとサーシェスの身体が大きく揺れる。先ほど気絶させたはずの係員が、セテの足首を掴んでいたのだ。
「くそっ! 離しやがれ!」
 セテは係員にもう一度盛大な蹴りを見舞う。係員の男はもんどり打って仰向けに倒れた。再びセテはサーシェスを抱き上げ、階段を滑り降りるように走って行く。
「し……侵入者め……!」
 係員の男は忌々しげにつぶやくと、痛みをこらえ、非常警報のボタンに手を伸ばした。だが男の意識はそこで途切れ、そしてそのあとすぐ、術者専用通路の電源と結界が復活したのだった。





 突然、聖救世使教会全体に激しい警報が鳴り響いた。ラファエラとレイザークの病室にまで響くので、ふたりは飛び上がらんばかりに驚いたのだった。
「なんでしょう、いったい……まさかアートハルクでも攻めてきたとか……!?」
 ラファエラは身体を起こし、レイザークに険しい表情で尋ねる。レイザークも同様に険しい表情で警報を聞いているのだが、
「いや、それなら俺たちに招集命令が下るはずだ。これは……」
 レイザークは椅子から立ち上がり、廊下の音に耳を澄ます。病院内は騒然としてはいたが、敵襲のときのように、看護士たちがあわただしく走り回る様子がない。窓を見やれば、聖救世使教会のほうへ武装した兵士たちが何人か駆けて行くのが見えた。
「まさか……!」
 レイザークは呻く。
「義姉さん、悪い。またあとで来る」
「気をつけて」
 レイザークはいやな予感が当たっていないことを祈りながら、その巨体を揺らしながら病室を走り去っていった。
「セテ! おいセテ! いるか!」
 レイザークは客室の階に来て、まだ廊下にさしかかったあたりだというのに大声でセテを呼ぶ。もちろん返事はない。自分たちの部屋の扉を乱暴に開けて、そこにセテがいないこと、そして彼の愛刀である飛影が見あたらないことから、レイザークの予感はさらに確実なものとなったようだった。
 大げさに舌打ちをしてもう一度セテの名を呼ぶ。そこで隣の部屋のドアが開き、ジョーイとベゼルがひょっこりと顔を出した。ふたりは無言のまま、レイザークにちょいちょいと手招きをし、こちらの部屋に入るよう促している。レイザークは険しい表情でドアをひっつかみ、ジョーイは廊下を探るような仕草で辺りを見回してから、慎重に、静かにドアを閉めた。
「お、おまっ……!」
 レイザークが叫びそうになったので、そこでジョーイがあわててレイザークの口を塞ぐ。むがむがとまだ何事かを言おうとしているレイザークに、ジョーイは自分の口に人差し指を当て、
「旦那! いいから黙れって!」
と小声で注意を促した。
 レイザークが驚くのも無理はない。そこには、鎖のない手かせ足かせをはめられた少女とセテのふたりがいたのだから。
「お前らいったいなにやってんだ!!!!」
 レイザークの大声が雷のごとく部屋に響き渡る。ベゼルがあわてて「うるさい!」と言いながらレイザークの脇腹をこづいた。
「さっきの警報! お前らの仕業なのか!? ああ!?」
 レイザークはベゼルの仕打ちにもめげずに叫んだ。
「違う。これは……俺の独断でやったことだ。ジョーイもベゼルも関係ない」
 セテは落ち着いた様子でレイザークを見上げ、そう言った。すかさず、レイザークはセテの胸ぐらを掴み、その横っ面に拳をたたきつけた。ベゼルとサーシェスは小さな悲鳴を上げ、セテは壁に激突する。久しぶりのレイザークの暴挙であったが、顎がはずれるようなことがなかったので、セテは小さく呻いたあと小さくため息をついた。
「お前、これがどういうことかわかってんのか!? 立派な犯罪だぞ!? しかも、中央に所属しておきながら、反旗を翻したのと同じだ! 反逆罪になるんだぞ!!」
「うへ、反逆罪だって!?」
 ジョーイとベゼルが同時にすくみあがった。
「ちょ、ちょっと、セテ、やっぱ自首したほうがいいよ。やばいってまじで!」
 ジョーイが小声でセテを説得すべく声をかける。
「反逆罪って、なに? どうなんのオレたち!?」
 ベゼルも心配そうにセテに問いかける。
「これは俺が独断でしでかしたことだから、あんたたちには関係ない。とにかく俺はサーシェスを助けたかっただけだ。気がついたら身体が勝手に行動してた。だから、悪いけどあんたたちとはここからは別行動だ。いま見たこと聞いたことも忘れてくれていい」
 セテは妙に落ち着き払った声でそう言った。それがレイザークの癪に障ったらしい。再びレイザークはセテの胸ぐらを掴み、壁に乱暴に押しつけた。
「お前。本当にお前ひとりでやったのか。この警報はこのお嬢ちゃんを脱走させたのが原因か」
「ああ、そうだよ」
「本当だな。誰かに変なこと吹き込まれてやしねえだろうな」
 一瞬の間。セテはその後、小さく頷き、
「……してねえよ。なんだってんだよ。俺が勝手にやったことだろ」
 そう言って、セテはそっぽを向いた。
「人は斬ったのか」
「斬ってない。歩哨の人間を殴り倒しただけだ」
「この……馬鹿がッ!」
 レイザークは乱暴にセテの胸ぐらから手を離し、セテを突き飛ばす。
「だから! もういいだろ! 俺のことはもう放っておいてくれっての! あんたたちには迷惑かけないって約束するから! とにかく、俺はサーシェスを連れて逃げる。あんたたちは適当に理由作って知らんふりしててくれればそれでいい!」
「あほか! 聖救世使教会はもう入り口を包囲されてるんだぞ! お前みたいな半人前がどうやってそれを突破するつもりだ!」
「それは……」
 セテは言いよどむ。確かに、包囲されている中をサーシェスを抱えて逃げるのは難しい。
「ねえ、さっきの警報はなに? なにが起こってるの?」
 そこへ、アスターシャがあわてて飛び込んでくる。一同はアスターシャの姿を一斉に見やり、そこで今度はベゼルがアスターシャの口を塞がなければならなかった。
「えっ! ちょ……ッ! なんでサーシェスが!?」
 レイザークは手早くアスターシャに事情を説明するが、アスターシャはとにかく口をパクパクさせるだけで声も出ないようだった。
「ほら見ろ。言わんこっちゃない。セテのあんちゃん、やっぱ自首したほうがいいって! 騒ぎがでかくなっちまったらおしまいだぞ」
 ジョーイがセテに言うが、セテはかたくなに首を振る。
 レイザークはいったん座り込んで、長い長いため息をついた。そうして、頭をくしゃくしゃとやったり顔をこすったりして何かを考えている。派手な傷跡の残る顔は、ますます険悪になっていた。
「セテ。もう一度聞く。本当に、誰にも入れ知恵されてねえんだな?」
 セテの身体が少しぴくりと反応したが、
「しつこいな。されてなんかねえって」
 レイザークはその答えを待たないうちに、術法でサーシェスの両手両足にはめられた手かせ足かせを破壊して自由にしてやる。サーシェスがほっと息をついたのだが、
「サーシェスの嬢ちゃん、あんたはいいのか。これで」
 睨むようにサーシェスを振り返り、その顔をじっと見つめるレイザークに、サーシェスは少し身体を固くしたようだった。だが、
「……もちろん、自分がこれまで犯した罪を償いたいとは思っている。だがしかし……こうなった以上は仕方あるまい。ことが終わったあかつきに、きちんと償いとけじめをつけたい。それに、〈青き若獅子〉は私の半身だ。セテの行動は私の行動、私の行動はセテの行動、それだけだ」
 レイザークは再びため息をついた。それからジョーイを睨みつけると、
「ジョーイ、馬車をなんとか回せるか」
 名前を呼ばれたジョーイはびくりとすくみあがったが、
「ああ、馬車まではなんとか」
「結構」
 レイザークは壁に立てかけてあったデュランダルを担ぎ上げた。そして、そこにいる全員の顔を順番に見渡す。
「しかたねえもんはしかたねえ。こいつの馬鹿に付き合うのもこれが最後だ。いいか、全員、俺とセテの後ろからついてこい。正面突破だ」
「ええええええええええええええ!!」
 抗議の声をあげたのはジョーイとベゼルだった。まさにとばっちりだ。
「馬鹿! レイザーク、俺のことはほっとけって! あんた聖騎士だろが!!」
「お前だって特使だろうが! 半人前の剣士ひとりでなにができる! いいから俺についてこい! こうなったら一蓮托生だ!」
 レイザークはデュランダルを引き抜き、鈍い光を放つ剣を握りしめながら力強くそう言い放った。

 セテを先頭に、レイザークがサーシェスを抱き、その後ろからベゼルとアスターシャがついていく。ジョーイは単独で、自分たちが乗ってきた改造馬車へと走り、出発の準備をすることになった。
 とるものもとりあえず、全員が聖救世使教会の階段を転げるように下りていく。途中、出くわした兵士たちを殴り倒しながら、一行は出入り口を目指して走り続けた。
 そして正面玄関にたどり着いたときには、すでにその周囲を一個中隊ほどの人数の兵士に取り囲まれていたので、セテとレイザークは同時に舌打ちをした。
「おい」
 レイザークがデュランダルの刃でセテの背中をつつく。「イテッ」とセテが悲鳴をあげて抗議しようと口を開くのだが、
「お前が単独でやらかしたんだろ。とにかくここでなんか口上でも一発決めてみろ」
「はぁ? 口上って……」
「気合いだ気合い! いいからやれ。お前の名前を売るいい機会だ」
 セテはため息をついたが、実は悪い気はしない。こちらを見据えて剣を構えている兵士たちの前へ一歩、また一歩近づくと、兵士たちは間合いを取るために一歩ずつ後退していく。そして、それに気をよくしたセテはにやりと笑った。
「お前ら! 道を空けやがれ! セテ・トスキ様と愉快な仲間たちのお通りだ!!」
 セテは景気よく叫び、飛影を抜いて頭上にかざしながら兵士たちを威嚇した。後ろでベゼルが「馬鹿だ。こいつ本当に馬鹿野郎だ」と悪態をついているのも気にせず、セテは鬨の声をあげ、周囲の兵士に斬りかかるマネをしてみせた。
 おもしろいように兵士たちがすくんでいるので、ますますセテは絶好調だ。元来のお祭り騒ぎならぬケンカ騒ぎを得意とするセテの血がはやる。後ろにレイザークの強面があるからということに気づかないでいるのは、いまのところは幸いといったところか。
「何をしている! ひっとらえんか!」
 包囲している兵士たちの団長らしき男が叫んだ。それを合図に、一人、また一人と剣を振り上げて一行に迫ってくる。セテは飛影を鞘にしまうと、斬りかかってくる兵士との大立ち回りにいそしんだ。久々の立ち回り、いつもの挑発的な目で楽しげに相手を殴り倒していく。拳を握りしめ、顎や横っ面にそれをお見舞いしたり、返す腕のひじで相手のこめかみに当てたり、見事なかかと落としを決めたりと、それはそれは楽しそうに相手を殴り倒していくのだった。道は確実に空いていき、一行は徐々に前方へと進んでいくのだったが、セテの立ち回りの様子を見ながら、ベゼルとアスターシャは悲鳴をあげながら目をつぶったり耳を塞いだりと大騒ぎだ。
「弾幕だ。使え」
 レイザークはやる気満々のセテに向かって発煙筒を投げてよこした。セテは紐を思い切り引き抜き、そしてそれを兵士たちの一群にめがけて投げつけてやる。軽い爆発音に対してあまりにも大量なほどの煙があがり、途端に兵士たちはゲホゲホとむせながら苦しんでいる。中には涙を流していたり喉を押さえたりしているので、セテは恐ろしくなってレイザークを振り返った。レイザークは肩をすくめてベゼルを指さすと、
「ああ、それ、さっき唐辛子入れといたから、吸わないようにみんな気をつけてね」
 ベゼルがさらっと言いのける。
 敵が攻撃できずにいる中を、煙を吸い込まないようにしてセテを筆頭に一行は走り出す。途中でアスターシャやベゼルが捕らえられそうになるが、すかさずセテの拳が兵士たちを殴り倒し、何度か無事に切り抜けることができた。
「おーい! こっちこっち!!」
 まるでピクニックにでも行くかのような間延びした声が聞こえた。ジョーイが正門前に改造馬車を回しており、その御者台で呑気に手を振っている。
「よし、全速力で走れ!」
 弾幕の中、一行は全速で走り、おのおの馬車に飛び乗る。レイザークはサーシェスをアスターシャとベゼルに預け、アスターシャたちは改造馬車の荷台の中へ、レイザークとセテはジョーイの隣の御者台に飛び移った。
「いやっほう!!」
 ジョーイは元気な掛け声とともに馬にムチを当て、馬車が勢いよく走り出した。追っ手は弾幕の唐辛子のおかげで鼻や喉、目などの粘膜をやられてのたうち回っているおかげで、こちらに追いつくこともできないようだった。
「よーし、よくやったジョーイ」
 レイザークは後方を見ながらそう言った。ジョーイはまんざらでもなさそうに「へへん」と鼻を鳴らした。
「ごめん、レイザーク。あんたたちまで巻き込んじまって……お尋ね者なら俺ひとりで十分だったのに」
 セテが殊勝にもレイザークに詫びる。レイザークはフンと鼻を鳴らすだけで何も言わなかった。しかし隠し扉からベゼルが顔を出し、
「そうだよ! なんでオレらが巻き添え食わなきゃなんねーんだよ! 信じらんね!」
 そう悪態をつくのだったが、
「まあそう言うな。人生の香辛料みたいなもんだ、ベゼル。お前の仕込んだ唐辛子入り発煙筒、なかなか効いてたぞ」
 レイザークがにやにやしながらそう言うと、ベゼルは複雑な表情をしながら顔を引っ込めた。
「こんなにあっさり行くとは思わなかったけど……聖救世使教会ってあんなに弱っちくてだいじょうぶなのかね」
 ジョーイが手綱を握りながらそう言った。セテも同様に頷くのだったが、レイザークは何か思い当たる節でもあるのだろう、しかしやはり何も言わなかった。
 そう。こんなに易々と逃亡しおおせるなんてことは、一般の騎士団ではありえないことだ。
「これからどうすればいい? レイザーク」
 セテは後先考えずに出てきた自分を呪っているのか、レイザークの顔を見ずに尋ねた。レイザークも腕を組んで考える。陸路は危険だ。すぐに追っ手がかかるし、どこに行ってもお尋ね者にしかならない。
「あのさ」
 ジョーイがすまなそうにふたりの間に入る。
「陸がだめなら海ってのはどう?」
 レイザークがぽんと膝を打った。
「よし! それだ!」
「え、ちょっと待ってよ。海って……」
 セテは困惑したようにジョーイとレイザークの顔を交互に見やる。ジョーイが得意そうに片方の眉毛をあげてみせた。
「俺の行動範囲、セテは覚えてないだろうけどさ。このまま馬を走らせて、海岸線へ向かおう。まさかあいつらも、俺らがそういう行動に出るとは思わないだろうし」
 セテはまだ理解できずにいる。じれたジョーイがため息をつきながら、
「海だよ、海! 俺の生まれ故郷! 海を越えて、辺境まで逃げるんだ。そこでいったん、この先のことを考えよう」
「海……」
 その懐かしい響きに、セテの心ははやる。本でしか読んだことのない海。軍はなにかの折りに海路を利用するが、一般人は海に近づくことは厳密には禁止されている。かつて数々の大陸を沈め、エルメネス大陸と辺境の国々を隔てている忌まわしい水の防壁。だが、無性に恋しいのはどういうわけだろうか。
「海……か……」
 もう一度、セテはそうつぶやいた。
 後ろを振り返れば、翡翠の大聖堂と呼ばれる聖救世使教会がどんどん遠ざかっていく。
「レオンハルト……」
 セテは集中治療を受けているレオンハルトの名を呼び、胸に手を当てた。レオンハルトはまだあそこにいる。レオンハルトのことだけではない、なぜだかあそこから遠のいてはいけないような気になりながら、セテはまだ見ぬ海に思いをはせるのだった。





 漆黒の闇に包まれた中で、ビロードのカーテンが淡い光を受けてときたま身をよじる。
 聖救世使教会の祭司長の間では、祭司長ハドリアヌスが居心地のよいソファに身を沈めながら物思いにふけっていた。
「よい働きをしてくれたな、トスキ特使。予定どおりだ」
 誰に言うともなしに、ハドリアヌスはそうつぶやいた。その手には、ほのかに光を放つ立方体が握られており、ときたま、ハドリアヌスはそれを手のひらで転がして弄ぶ。
「ここから離れてはいけない、そんな気持ちでいることだろう。だが、君は必ずここへ帰ってくることになる。そして、今度こそ最後の真実を知ってもらうとしよう。それまでは、辺境で力をつけておくがいい」
 ハドリアヌスは、ぬるくなった紅茶のカップに口をつけ、一気にそれを飲み干した。
「あとは……ガートルードがどう出てくるか。そして、レオンハルトの意識が戻るのを待つばかり……というわけだ」
 ハドリアヌスはそう言うと、テーブルの脇の台に立方体を置いた。すぐさま置いた場所が開き、立方体は台の中に吸い込まれるようにして沈んでいった。
「ガートルードが持つ『神の黙示録』第二、第三の章、そして私の持つこの第一の章、さて、最終的にどちらが早くこの三つを完成させることができるかな」
 ハドリアヌスはそう言うと、不気味に笑った。ローブがはだけ、銀色の長い髪が姿を現した。サーシェスと同じ銀の髪。とがった耳。四十代半ばくらいだろう、精悍な顔つきにエメラルドグリーンの瞳。
 ハドリアヌスの素性を知る者は、いまは誰もいない。

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